<?xml version="1.0" encoding="utf-8"?>

<rdf:RDF
  xmlns:rdf="http://www.w3.org/1999/02/22-rdf-syntax-ns#"
  xmlns:dc="http://purl.org/dc/elements/1.1/"
  xmlns:sy="http://purl.org/rss/1.0/modules/syndication/"
  xmlns:admin="http://webns.net/mvcb/"
  xmlns:content="http://purl.org/rss/1.0/modules/content/"
  xmlns:cc="http://web.resource.org/cc/"
  xmlns="http://purl.org/rss/1.0/">

<channel rdf:about="http://neyahs31-5.cocolog-nifty.com/blog/">
<title>寝高31期3-5</title>
<link>http://neyahs31-5.cocolog-nifty.com/blog/</link>
<description>寝屋川高校31期生3年5組</description>
<dc:language>ja-JP</dc:language>
<dc:creator></dc:creator>
<dc:date>2009-12-25T05:00:00+09:00</dc:date>
<admin:generatorAgent rdf:resource="http://www.typepad.com/" />


<items>
<rdf:Seq><rdf:li rdf:resource="http://neyahs31-5.cocolog-nifty.com/blog/2009/12/post-e558.html" />
<rdf:li rdf:resource="http://neyahs31-5.cocolog-nifty.com/blog/2009/12/post-fbed.html" />
<rdf:li rdf:resource="http://neyahs31-5.cocolog-nifty.com/blog/2009/12/post-0227.html" />
<rdf:li rdf:resource="http://neyahs31-5.cocolog-nifty.com/blog/2009/12/post-960b.html" />
<rdf:li rdf:resource="http://neyahs31-5.cocolog-nifty.com/blog/2009/12/post-4c3e.html" />
<rdf:li rdf:resource="http://neyahs31-5.cocolog-nifty.com/blog/2009/12/post-d674.html" />
<rdf:li rdf:resource="http://neyahs31-5.cocolog-nifty.com/blog/2009/12/post-52e7.html" />
<rdf:li rdf:resource="http://neyahs31-5.cocolog-nifty.com/blog/2009/12/post-8037.html" />
<rdf:li rdf:resource="http://neyahs31-5.cocolog-nifty.com/blog/2009/12/post-c502.html" />
<rdf:li rdf:resource="http://neyahs31-5.cocolog-nifty.com/blog/2009/12/post-0050.html" />
</rdf:Seq>
</items>

</channel>

<item rdf:about="http://neyahs31-5.cocolog-nifty.com/blog/2009/12/post-e558.html">
<title>昭和天皇陛下（こーじ）</title>
<link>http://neyahs31-5.cocolog-nifty.com/blog/2009/12/post-e558.html</link>
<description>　12月25日は、クリスマスです。それと、昭和の日、スケートの日です。 　昭和天...</description>
<content:encoded>&lt;p&gt;　12月25日は、クリスマスです。それと、昭和の日、スケートの日です。&lt;br /&gt;　昭和天皇は、第124代に数えられる天皇陛下です。名前は裕仁、幼称は迪宮とおっしゃいます。1908年(明治41)学習院初等科に入学され、その間12年7月明治天皇の死去にともない皇太子となられました。14年(大正3)初等科卒業とともに、特設された東宮御学問所で学ばれ、21年2月御学問所修了とともに6ヵ月間イギリスほかヨーロッパ5ヵ国に外遊され、大きな感銘を受けられた。とくにイギリスで時の国王ジョージ5世にお会いになるなどして立憲君主としての態度を学んだことは大きかったそうです。帰国後、21年11月25日、大正天皇の病状悪化にともない摂政に就任され、24年には久邇宮邦彦王の長女良子様と結婚されました。ちなみに、良子の皇太子妃内定後、その家系に色盲の遺伝があるとして宮中某重大事件が起こっています。&lt;br /&gt;［政治的立場の二つの特徴］&lt;br /&gt;　26年(昭和1)12月25日、大正天皇の死去にともない皇位を継承しました。昭和天皇の政治的立場は、独特の立憲君主制観と外交面における英米協調主義・対ソ連警戒という二つの特徴をもっており、この立場は、その強い信念に裏打ちされて、戦前から戦後にかけての天皇の地位の大きな変化にもかかわらず終始一貫変わらりませんでした。&lt;br /&gt;　昭和天皇のもっていた立憲君主像とは、いったん輔弼(ほひつ)機関が決めたことには介入しないというものであり、この立場は皇太子時代の教育やヨーロッパ外遊から培われたのですが、とりわけ29年、前年に起こった張作霖爆殺事件の首謀者に関する首相田中義一の説明が陸軍をかばって矛盾していたことを天皇が叱責したために、田中内閣が総辞職を余儀なくされた事件以来、いっそう強いものとなりました。しかしこの不介入の態度はけっして絶対的なものでなく、輔弼機関そのものが破壊されたり輔弼機関が決定をなしえない場合には天皇がみずから判断を下すとされました。二・二六事件に際し岡田啓介首相の生死不明のとき、終始蘭乱軍の討伐を主張したのは前者の例であり、太平洋戦争終結へ向けて45年8月のポツダム宣言受諾に積極的にイニシアティブを発揮したのは後者の例である、と天皇みずからは説明しています。こうした立憲君主制観はしかし、明治憲法体系下の独特のものであり、そこでは例えば、国務についての国務大臣の輔弼と軍事についての参謀部の輔翼とは同列のものと考えられていました。だが、近代立憲制の原理は、君主が単に輔弼機関の意思に従うべしということを意味するのではなく、国民代表議会の意思に従うということである点からみると、この二つを同列に置いた天皇の立憲制観はきわめて限界のあるものでした。&lt;br /&gt;　天皇の第2の特徴である英米協調主義・対ソ警戒もまた一貫したものであり、1937年7月に勃発した日中戦争の拡大に消極的であったのも、また40年ドイツの西部戦線への進出に呼応して台頭した南進論に対してきわめて強い懸念を表明したのも、こうした立場からでした。天皇はまた対米開戦にもきわめて消極的であり、対米開戦の方針の決まる41年9月には再三にわたり、この方針を牽制したことはよく知られています。しかし、この英米協調主義･対ソ警戒もあくまでそれによって日本の国益が守られるという見地からのそれであり、中国に進攻してもソ連の介入がないことが確実であったり、英米に対しても〈絶対に勝てる〉ことが納得できれば、問題は別でした。この点に確信をもったからこそ、天皇は41年12月8日の対英米開戦時から緒戦における日本軍の勝利に対して大いに喜び、戦局が不利になったのちも、たとえばミッドウェーの敗北の後〈戦いのことなればこれくらいは当然〉と統帥部を鼓舞し、また、ガダルカナル奪回、サイパン死守への執着にみられるように戦局の巻返しのために軍を督励し続けたのです。同じ見地から、天皇は戦争末期にも、英米との早期講和を主張した近衛文麿らと異なり、軍事的に英米に一撃を加えてからの講和ということに固執し、講和論に消極的でした。&lt;br /&gt;　しかし、戦局が末期的となり、もはや日本軍の恐回が不可能と確信して以後、天皇は講和に向けて積極的に動きはじめ、和戦両派の対立を収拾してポツダム宣言受諾にもちこんだのです。戦後は、連合国の天皇制への強い非難と天皇の戦争責任追及の声が起こるなかで、“戦争責任を認めるような形で退位すると天皇制そのものが危うくなる”という〈国体護持〉の観点から退位を拒み、天皇制維持に全力を傾倒しました。45年9月27日のマッカーサーとの会見、46年1月1日のいわゆる〈天皇人間宣言〉、明治憲法を根本的に否定するいわゆるマッカーサー草案を日本政府の憲法改正案として承認したことなどは、いずれも、こうした天皇制維持の目的のために余儀なくされたものでした。46年2月の神奈川県を手はじめに、51年秋までに北海道を除いて全国を一巡した天皇の地方巡幸も、こういう天皇の強い意思の下に行われました。&lt;br /&gt;［〈象徴〉としての新しい役割］&lt;br /&gt;　〈統治権総攬者〉としての天皇の地位を否定した新憲法制定後も、天皇は明治憲法下と同じ〈立憲君主〉としての自覚から依然政治に強い関心を示し、議会における共産党の進出に強い懸念をもらしたり、宮内府御用掛の寺崎英成を通じてアメリカ政府に、講和後もアメリカが必要とするなら沖縄を長期に軍事占領してもかまわないこと、しかもその形式は〈貸与〉の格好がありうることを提案するなど、しばしば政治への介入を試みました。しかし、新憲法が定着するにともない、しだいに天皇を訪れる歴代総理大臣の足も間遠となり、天皇はその意に反して政治から遠ざけられていきました。&lt;br /&gt;　とくに、60年代に入り、自民党政府が憲法改正による明治憲法的体制への復古を断念し、憲法に従って経済成長優先の政治を展開するようになるにつれ、天皇は〈象徴〉としての新しい役割を期待されることとなりました。その役割とは、国家の繁栄の象徴という広い意味でのナショナリズムを形成・維持するという役割であり、64年の東京オリンピック、70年の大阪万国博への出席、続いて71年のイギリスなどヨーロッパ7ヵ国訪問、75年の訪米などは、こうした新しい役割を象徴するものでした。この時期にはまた、“学者天皇”が喧伝され、天皇の政治的業績も、もっぱらポツダム宣言を受諾して戦後日本の平和と繁栄の礎を築いたという点のみが強調され、戦前の〈大元帥〉であり〈統治権総攬者〉としての天皇というイメージは後景に退けられました。&lt;br /&gt;　しかし80年代に入ると、大国化した日本にとっては従来のような経済主義的国民意識では不十分であり、場合によってはみずからの生命を犠牲にしても国益を守るという国家意識が必要となり、そのためには、あらためて天皇をかかる国民統合の中心として強調すべきだという考えが、自民党政府のなかに台頭しました。79年の元号法制定、85年2月建国記念式典への初の首相出席、同年8月15日首相の初の靖国神社公式参拝、86年4月天皇在位60年式典の挙行、そして教科書検定の強化などが、そうした動きのあらわれでした。しかし、こうした動きは逆に、内外、とくにアジア諸国の間に、戦前の天皇制が復活しつつあるのではないかという不安を再燃させるとともに、天皇の戦争責任論があらためて議論される契機となりました。86年以降、首相の靖国神社公式参拝が中断されたどころか参拝それ自体もできなくなったことや、同年戦前日本の歴史を肯定的にとらえ天皇中心の歴史叙述をめざした教科書〈《新編日本史》〉の検定が大きな問題となったこと、1984年の韓国の全斗煥大統領来日に際しての天皇の〈お言葉〉が大きな問題となったことなどは、こうした天皇“復活”へのアジア諸国の警戒のあらわれでした。&lt;br /&gt;［死去］　　昭和天皇は、癌のため、88年9月に大量吐血し重体に陥りましたが、以後その死去を挟む一連の事態はそれ自体が一個の政治的大事件となり、昭和天皇が生涯にわたり政治的対抗の渦中にあったことを象徴するものでした。マスコミは吐血以後連日天皇の病状を微細にわたり報道し、天皇の病状をおもんぱかって秋に予定された運動会や祭りの中止が相次いで、〈自粛〉という言葉が流行となりました。また各自治体はこぞって天皇の病気回復を祈念する記帳所を設置し、全国で600万に及ぶ〈記帳〉が行われました。天皇の戦争責任を追及する集会や発言などへの右翼の圧迫も強まり、同年12月の議会で天皇にも戦争責任があると発言した長崎市長本島等に対しては右翼の脅迫が相次ぎ、後に狙撃されました。こうした〈天皇現象〉に、諸外国のマスコミもいっせいに批判的報道を行いました。&lt;br /&gt;　天皇は、89年1月7日、死去されましたが、この日から3日間服喪のためテレビ報道などが自粛され、2月24日には、大喪が国事行為として挙行され、世界164ヵ国の代表が列席しました。政府はその参加がユーゴの故チトー大統領の国葬への参列121ヵ国を上回る史上最大のものであることを〈大国日本〉の証として誇りました。しかし、こうした一連の天皇代替り儀式を政治的にいかに位置づけ、いかに執り行うかをめぐっては、政府･与党部内で激しく意見が対立しました。天皇を新たな大国の国民統合の核としようとする勢力は、大喪をはじめとする儀式によって天皇の偉大さとともに神秘性をあらためて強調しようとし、それが伝統にのっとって行われることを主張したのに対し、他方昭和天皇から平成の天皇への代替りを機に戦前の大日本帝国の記憶と現代日本の行動の断絶を強調しようとする勢力は、逆にできるだけ伝統色や宗教色を抜くことにより、国際的にも受け入れられかつ憲法にも適合したものにしようと画策しました。その結果、皇室の儀式としての葬場殿の儀と国事としての大喪が連続して行われるなど、大喪は両勢力の主張が折衷されたものとなりました。&lt;/p&gt;</content:encoded>


<dc:subject>3年5組</dc:subject>

<dc:creator>こーじ</dc:creator>
<dc:date>2009-12-25T05:00:00+09:00</dc:date>
</item>
<item rdf:about="http://neyahs31-5.cocolog-nifty.com/blog/2009/12/post-fbed.html">
<title>クリスマス（こーじ）</title>
<link>http://neyahs31-5.cocolog-nifty.com/blog/2009/12/post-fbed.html</link>
<description>　12月24日は、クリスマスイブです。 　「クリスマスイブ」はクリスマスの前夜祭...</description>
<content:encoded>&lt;p&gt;　12月24日は、クリスマスイブです。&lt;br /&gt;　「クリスマスイブ」はクリスマスの前夜祭です。クリスマスは本来キリストの生誕を記念する日ですが、日本ではいつの間にか愛を確かめ合うような日になってしまいましたね。&lt;br /&gt;　597年、カンタベリーのアウグスティヌスがイギリス伝道を開始したとき、クリスマスはローマ教会の三大祝日の一つとなっていました。彼は翌年のクリスマスに1万人以上のアングロ・サクソン人に洗礼を施したといいます。約1世紀後、ベーダはこの日がもと〈母たちの夜〉と呼ばれ、母なる女神の祝日だったと述べています。人々は改宗してもなお、寛大な教会の慈悲により、罪のない異教の祭りをたのしんでいたのです。彼らは常緑樹を飾り、ユールの丸太を燃やし、仮面劇やまじない歌を誦し、踊りに興じました。このようにして、イギリスのクリスマスはユールと降誕節の習合として成立し、アングロ・サクソン暦はこの日から新年を数えることとなりました。この慣習は中世末まで残りました。アルフレッド大王はクリスマスから公現祭までを聖なる期間と定め、労働を禁じました。王が878年デーン人に一時敗退したのはこのためであるといわれています。なお、上記の期間が聖なる期間と定められたのは567年のトゥールの公会議においてです。アングロ・サクソン人のキリスト教化はデーン人の侵寇により遅滞ないし後退しましたが、〈ノルマン･コンクエスト〉までにはほぼ完成しました。〈クリスマス〉という用語は《アングロ・サクソン年代記》の1043年の項で初めて使用されています。それ以前は〈冬至祭〉または降誕を意味する Nativity の語が使用されています。&lt;br /&gt;　ヘンリー8世、エリザベス1世の時代にもクリスマスはイングランド教会(アングリカン・チャーチ)の三大祝日の一つとして祝われました。当時の文学作品などによると、クリスマスは神に感謝を捧げるとき、正真正銘の喜びのとき、友人･親戚との旧交を温め、貧しい隣人を歓待するときでした。この時代は宮廷生活の華やかさに比し、地方では貧富の差が激化し、過去の人間関係のきずなが破綻しはじめた時代でした。クリスマスは貧しい隣人を歓待するようにという文言が著述家たちによってとくに強調されています。エリザベス1世、ジェームズ1世は故郷の人々を歓待するようにと、クリスマスには廷臣たちを帰省させました。地方自治体は貴族・ジェントリーにこの歓待を義務づけました。とくに凶作の年にはそれが地方の治安維持にとって重大な役割を果たしました。1627年のクリスマスに、枢密院はロンドン主教に対して、イギリスに亡命してきたフランスの新教徒救済のため、主教区全体から寄付金を集めるように命じ、古きよき時代のクリスマス精神を懇請しました。&lt;br /&gt;　王党派とイングランド教会は楽しい伝統的慣習を象徴する日としてクリスマスを祝いました。しかし、謹厳なピューリタンはこの日をローマ・カトリックの祝日として非難し、暴飲暴食、ダンス、かけ事、乱ちき騒ぎその他諸悪に結びつく祭日として攻撃しました。すでに《諸悪の解剖》(1583)の著者 P. スタッブズは劇場･演劇を誹謗し、仮面劇を装って盗み、売黒、殺人などがクリスマスほど横行する時期はないと記しました。17世紀のあるピューリタンは〈クリスマスは主イエスの降誕を祝う日ではなく、バッカス神の祭りである。異教徒はこれを見て、イエスは貪食な享楽主義者、大酒飲み、悪魔の友人と思うだろう〉と嘆きました。穏健派はゆきすぎを是正するにとどめるつもりでした。長期議会もクリスマスに干渉する気はありｍせんでした。ところが、1644年、彼らはスコットランドの長老派教会の圧力によって態度決定を迫られたのです。長老派は1583年、スコットランドでクリスマスを完全に禁止しました。その後王の命令によって一時復活しましたが、再びクリスマスを禁止しました。議会派の指導者たちは長老派のクリスマス禁止の要求をイングランドで実施することを拒んだのですが、ついに屈服しました。それは議会派の支配する地域でのみ効果を収めました。1647年、議会派はクリスマス禁止法案を可決しようとしました。このとき、これに反対する暴動が各地に起こり、ついに家庭でのクリスマスを認めざるをえなくなりました。&lt;br /&gt;　クリスマスは再び教会の三大祝日の一つとなり、人々はこれを自由に祝うことができるようになりました。しかし、社会経済上の変化はかつて田舎の地主邸で繰り広げられた伝統的クリスマスの相貌を変え、素朴な人々のどんちゃん騒ぎも廃れ、宗教心も薄れていくことになりました。この変化はゆっくりと、かつ不均等に進行しました。クリスマス休日が制定され、大学、学校、裁判所、議会はクリスマスから公現祭までを休日とし、官公庁はこの期間の数日を、多忙な部署はその一部を休日としました。一部の人々は聖燭祭(2月2日)までをクリスマスと考えました。19世紀になると、産業革命の余波をうけ、労働条件はきわめて過酷となり、クリスマス休日は当日だけとなりました。クリスマスは富裕な家庭では華やかに祝われましたが、一般にはこれを祝う費用のない人々が増大し、クリスマスはいよいよ死滅するかに見えました。&lt;br /&gt;　19世紀中葉、クリスマスが蘇生しました。それはチャーチスト運動の時代であり、大英帝国の威光がもっとも拡大された時期でした。新しいクリスマスでは隣人愛、慈善が重視され、宗教心の復活による宗教的側面の補正が行われ、その上に古い時代のにぎやかな祭りの慣習が輝きを添えました。とくに、クリスマスが子どもを中心とする家族の祭りとなったことがこの時代の特徴です。クリスマスツリー、サンタクロース、クリスマス･カードが導入され、クリスマスキャロルが復活し、クリスマスプレゼントやクリスマス正餐(ディナー)が庶民の家庭に進出しました。今日のクリスマスはこのときから始まりました。新しいクリスマスの成立に大きく寄与したのはビクトリア女王の夫君アルバート公と C. ディケンズです。アルバート公はドイツからクリスマスツリーの習慣をウィンザー城の家庭クリスマスにもちこみ、ディケンズは《クリスマスキャロル》をはじめいくつかの文学作品を公刊し、クリスマスの楽しさ、陽気さを伝え、同時に、クリスマスのあるべき姿、物質的楽しみを享受するために果たさねばならない慈善などの義務を教えました。新しいクリスマスは急速に浸透し、空論家や反対論者も認めざるをえなくなりました。非国教徒も子どもたちが友人仲間の楽しみの輪に入るのを抑止できなくなりました。彼らの礼拝堂の一部は会員が国教会に流れ始めたのを見てクリスマス礼拝を開始しました。こうして非国教徒の態度も軟化し、イギリス国民が新しいクリスマスを祝うようになりました。こうした趨勢に応じて、短縮されていたクリスマス休日もボクシングデー BoxingDay(クリスマスの翌日で、この日に使用人や郵便配達人などに祝儀の贈物を与える)まで延長されるようになりました。それは銀行、官庁のみならず、19世紀末までには一般の商工業従事者にも拡大されました。ここにみんなで祝う楽しいクリスマスが成立したのです。&lt;/p&gt;</content:encoded>


<dc:subject>3年5組</dc:subject>

<dc:creator>こーじ</dc:creator>
<dc:date>2009-12-24T05:00:00+09:00</dc:date>
</item>
<item rdf:about="http://neyahs31-5.cocolog-nifty.com/blog/2009/12/post-0227.html">
<title>天皇陛下（こーじ）</title>
<link>http://neyahs31-5.cocolog-nifty.com/blog/2009/12/post-0227.html</link>
<description>　12月23日は、天皇誕生日、テレホンカードの日、東京タワー完成の日です。 　「...</description>
<content:encoded>&lt;p&gt;　12月23日は、天皇誕生日、テレホンカードの日、東京タワー完成の日です。&lt;br /&gt;　「天皇の誕生を祝う」国民の祝日。天皇誕生日です。昭和8年、1933年にお生まれですね。&lt;br /&gt;　あともうひとつの記念日は、「テレホンカードの日」です。1982年当時、まだ電電公社だったころの&lt;a href=&quot;http://www.ntt.co.jp/&quot;&gt;NTT&lt;/a&gt;が、数寄屋橋公園にカード式公衆電話の第一号を設置した日です。&lt;br /&gt;　今上天皇である明仁陛下は、昭和8年のお生まれで、第125代に数えられる天皇陛下です。昭和天皇の第1皇子で、称号は継宮(つぐのみや)です。1952年学習院高等科卒業されました。同年11月10日成年式と立太子礼をあげられました。56年学習院大学政経学部聴講生の課程を終えられ、59年4月、日清製粉社長正田英三郎の長女美智子様と結婚されました。60年2月、第1男子浩宮徳仁(ひろのみやなるひと)、65年11月第2男子礼宮文仁(あやのみやふみひと)、69年4月第1女子紀宮清子(のりのみやさやこ)が誕生されました。1953年のイギリス女王戴冠式出席をはじめ、各国への親善旅行を行っておられます。89年1月昭和天皇のご崩御にともない即位され、平成と改元されました。&lt;br /&gt;　〈天皇〉は〈オオキミ〉とも〈スメラミコト〉とも呼ばれました。しかしこの二つの日本語は決して同義ではなく、むしろ両者の質の違い、それぞれの用いられる次元の相違に注目することが、〈天皇〉の歴史性に近づいてゆくための一項目となるでしょう。まずオオキミは〈大いなる君〉の意で、キミはまた〈カミ＝上〉と通ずる古来の日常的尊称でした。《万葉集》の恋歌に女性が相手の男性をキミと呼ぶ例が多いのも、それが親愛をあらわす生活の言葉だったことを示しています。〈胸形君(むなかたのきみ)〉〈筑紫君(つくしのきみ)〉などと地方豪族の地位の称にみえるキミは日常語からの延長であり、それをさらに大きく称号化したものがオオキミだといえます。したがってオオキミは天皇だけをさす語ではなく、王族身分の称(額田王(ぬかたのおおきみ)など)に用いられ、さらに一般にとくに尊敬をこめた代名詞として使われた形跡があります。&lt;br /&gt;　これに対しスメラミコトは天皇のみをさす尊称で、それは旧来のオオキミに代わって、王権の聖性と尊厳を内外にあらわすべく、6世紀末ないし7世紀初めのころ、とくに定められたものと思われます。スメラミコトの用例が対外的文書や詔勅といった公式的・儀礼的機会に限ってみられ、歌の中にいっさい出てこないのはこの語の特性にもとづきます。《万葉集》中の天皇賛歌においても、天皇はやはりオオキミと呼ばれており、これは当時の歌が生活の言語を基本とするための、神聖な権威をあらわすスメラミコトとなじまなかったのです。そこからスメラミコトが日常語とは次元の異なる宮廷専用の、天皇を政治的・宗教的に聖別する用語として機能したことを知り得ます。おそらくこの語の成立には王権神授の由来を説く記紀神話の形成が重なっていたでしょう。〈天皇〉との漢字表記は中国典籍によりますが、スメラミコトの類語に〈スメガミ(皇神)〉〈スメロギ(皇祖)〉〈スメミマ(皇孫)〉等をみることに照らせば、スメラミコトは〈天皇〉の和訓ではなく、すでに先行していたこの語に〈天皇〉の字をあてたとみなされます。なお語義に関し〈スメラ〉を〈統(す)べる、統治する〉ととるのが従来の説ですが、〈スメラ〉を〈澄める〉にもとづくものとし、それにより〈ケガレ〉の対極にあるところの神聖王権の超越性をあらわしたとの西郷信綱の見解があります。&lt;br /&gt;　《日本書紀》は第1代の天皇を神日本磐余彦(かむやまといわれひこ)天皇と称し、前660年に即位したと伝えていますが、もとより事実ではありません(神武天皇)。〈天皇〉号の成立は、かつては7世紀前半の推古朝とする説が有力でした。それは推古朝の仏像の光背の銘に〈天皇〉の称がみえることや、608年(推古16)に日本から隋に送った国書に〈東天皇敬白西皇帝〉とあったと《日本書紀》にみえることなどによります。しかし、仏像の銘は後代に刻まれた可能性が強く、《日本書紀》の文は8世紀の編者の潤色が多くて、ともに信用できないうえ、中国ではもと天皇の語は天の最高神の意に用いられ、地上の君主の意に用いるのは唐の674年(上元1)すなわち日本の天武3年以後のことなので、近年では天武朝より天皇の称号が用いられたとする意見が有力です。&lt;br /&gt;　天皇の語の使用以前は、〈大王〉の称が用いられていました。それは癸未年(443年または503年)の干支をもつ隅田八幡人物画像鏡の銘に〈大王〉、辛亥年(471年または531年)の干支をもつ稲荷山古墳から出土した大刀銘に〈獲加多支鹵(わかたける)大王〉とあることなどからわかります。後者の大王は5世紀後半に在位したとされる雄略天皇に相当すると思われることなどから、大和、河内地方を基盤とする5～6世紀のヤマト政権の首長の称号と考えられます。大王の権力は獲加多支鹵大王の時代をへて、6世紀中葉にさらに強化されました。このころ大王の都が奈良盆地南東部に集中して設けられること、大王の死後天国排開広庭(あめくにおしはるきひろにわ)(欽明)など荘重な諡(おくりな)を奉る風が始まること、舎人(とねり)など大王直属の軍事力や、大蔵、内蔵、屯倉(みやけ)などの財政組織が整備されることなどが、それを示しています。中央集権制の端緒をなす初期の官司制も、この時期にはじまると考えられます。推古朝にはそれがさらに発展し、冠位十二階の制が定められました。&lt;br /&gt;　大王(天皇)の地位は645年からはじまる大化の新政によりいっそう高まり、天皇、皇太子を中心とする政治体制が形成されました。しかし5世紀以来ヤマト政権の主要勢力を構成する豪族連合の力は依然強大で、天智天皇がその末年(671)に、有力豪族の代表5人を左右大臣や御史大夫に任じ、政府首脳部を構成したのはそのあらわれです。この体制は壬申の乱後、天武天皇によって打破され、皇親政治と呼ばれる天皇中心の独裁的な政治が行われましたが、天武の没後には永続せず、大宝律令制下では新しく制定された太政官(だいじようかん)制として復活しました。太政官の首脳部は、定置の官でない太政大臣のほか、左右大臣と大納言、令外官の中納言と参議によって形成され、政策の決定に大きな発言権をもち、その会議の結論は天皇も容易に拒否することはできませんでした。また天皇の意志は詔書、勅旨(勅)として発布されますが、太政官の首脳部などの連署を必要としました。しかし有力貴族も権力をふるうには天皇の権威を必要とし、天皇と姻戚関係をもつことに熱中する傾向がありました。天皇の権威は長い伝統によりますが、神話や伝説を天皇中心に構成しなおして《古事記》《日本書紀》を編纂し、権威を高めることに努めました。その他律令国家では内蔵寮(くらりよう)や官田(のちには勅旨田、勅旨荘)、また衛府(えふ)(五衛府のち六衛府)の制により、天皇の財政的･軍事的基礎が固められ、その地位を強化しました。しかし律令制の弛緩とともにそれらはしだいに実体を失って形骸化しました。&lt;br /&gt;　律令制下の天皇は、中国流の皇帝として位置づけられましたが、中国皇帝と基本的に異なる点をいくつかもっています。その第1は、天皇の地位が特定の家系に独占世襲されたことです。これは有徳者が天命を受けて君主となるという中国の思想と根本的に相いれないものです。第2は、皇祖神をはじめ、日本固有の天神地梢をまつる祭祀執行者の地位です。これは第1の特徴に密接に関係しますが、天命を受けた天子が天帝をまつる中国の郊祀とは基本理念を異にするとともに、天皇の地位と不可分でした。孝謙上皇が淳仁天皇から政権を奪ったときの詔に、祭祀と小事のみ天皇の親裁にゆだねると宣したのは、端的にこれを裏づけています。江戸時代に来航した欧米人の目に、天皇が将軍＝世俗的皇帝に対して、〈宗教的皇帝〉〈生得の教皇〉と映じたゆえんです。第3は、皇位の超責任的性格です。これも究極的には第1の特性に帰着しますが、いかに儒教的徳治主義を標榜しても、易姓革命(えきせいかくめい)を認めない以上、天皇に対する責任の追及には限界があります。また大化前代の中央豪族から系譜を引く議政官の議定と執奏を柱とする太政官政治も、天皇の超責任性を支える要素でした。もちろん天皇が大政を総攬する権能も厳存したので、政務親裁ないし独裁を志向する天皇の出現も妨げられませんでしたが、執政官に大政を委任し、〈垂拱(すいきよう)して成るを仰ぐ〉天皇があらわれても、太政官政治は十分に機能したのです。&lt;br /&gt;　この後者の方式を慣習化したのが、摂関政治と呼ばれる政治形態です。その端緒は、人臣太政大臣の任命にあります。令制の太政大臣が唐制の三師、三公と異なる点は、菅原道真が指摘したように、分掌はないのですが、太政官の職事として天下の政を知り行うところにあります。この権能がやがて人臣摂政に移り、さらに関白の職権となりました。摂政は天皇幼少の間、天皇に代わって大政を摂行する臨時的な地位ですが、関白は大政総攬の権能をもつ天皇のもとで、百官総己を職権として執政する地位でした。したがって摂関政治の成否は、執政能力のない幼帝の代理人たる摂政は別として、成人の天皇と関白との一体性いかんにかかっています。当時の言葉でいう〈魚水の契〉の成立が、摂関政治が有効に機能する基本的条件でした。その一体性を強固に支えたのが、天皇と摂関との姻戚関係であり、摂関政治の全盛期には、天皇が摂関家にとり込まれる様相を呈しました。&lt;br /&gt;　しかしその反面、外戚関係が失われ、天皇の独立性が強まると、摂関の権勢は急速に後退しました。もちろん後三条、白河と個性の強い天皇が続いたのも、摂関勢力の後退に拍車をかけた原因でしょうが、基本的には社会的、経済的変革の流れが、貴族勢力を再編成し、結集させる強力な権威を求め、生み出したとみるべきでしょうし、それが専制的な院政権力の出現となったのです。それが天皇親政ではなく、上皇執政となった理由は、第1に、上皇が、行動を制約する面の多い祭祀をはじめ、煩瑣の度を強めていた天皇の儀礼から解放されたことにあります。第2は、摂政・関白と直接的な関係がないことです。天皇と摂関の間には、制度的にも慣習的にも強いきずながありますが、上皇はそれから自由な立場にあります。こうした条件をふまえて、〈意に任せ、法に拘らぬ〉上皇の治政が成立したのです。もちろんその根源も、前天皇としての権威に帰着するわけで、現天皇を東宮、上皇を事実上の天皇とみなす見解も行われましたが、一面では上皇の専制君主化は、しばしば上皇を政争の当事者とし、ついには遠島配流の悲劇を招いて、皇位の超責任性すら危うくするに至りました。また院政のもとで皇位継承が恣意的に行われ、上皇が続出すると、天皇と複数の上皇のうち、だれが〈治天の君〉となるかが問題となりました。ことに持明院、大覚寺両皇統の対立が皇位の継承を複雑にすると、皇位と治天の君が分離し、それぞれ別個に定められ、継承される事態を招きました。後醍醐天皇の討幕運動は、この天皇と治天の君の再統合を図ったものということもできます。&lt;br /&gt;　1185年(文治1)、源頼朝は〈日本国総追捕使、日本国総地頭〉に任命され、全国の軍事警察権を一手に掌握し、武士勢力を直接、間接に支配するに至りました。頼朝はさらに奥州征伐を前にして征夷大将軍の任命を奏請しましたが、後白河上皇はこれを許さず、上皇の没後、ようやくこれに任ぜられました。ただそのときにはすでに征夷の実質はなく、名目的な職名にすぎなくなっていて、頼朝はわずか在職2年にしてこれを辞任しました。しかし頼朝の後継者は、征夷大将軍の任命を吉例とし、武家の棟梁にふさわしい称号として重んじ、代々その任命を奏請しました。一方、社寺を含む公家勢力は、一応京都の公家政権の支配下におかれ、公武両政権併立の外観を呈しましたが、承久の乱(1221年)により公家勢力は鎌倉幕府に屈服を余儀なくされました。しかし一面では、公家政権は幕府の監視と保障のもとにかえって安定し、院評定(天皇親政の場合は禁中議定)と伝奏および文殿(ふどの)(親政の場合は記録所(きろくじよ))を中核とする政務運営も定着して、公家社会を支配しました。ついで後醍醐天皇の公武一統の政権が成立しましたが、まもなく崩壊して南北両朝の抗争に突入すると、北朝の公家は武家政権のもとに組み込まれ、両朝の対立も、世人は宮方と武家方の抗争とみなしました。しかし武家政権内部に続発した内紛の原因の一つが、南朝の存在にあったので、室町幕府は南朝を抹殺する方策として、両朝合一を図りました。かくて50年にわたる南朝の抵抗、さらにその後の後南朝の抵抗は、国内統一に果たす天皇の権威の重さを武家にも強く認識させることになりました。&lt;br /&gt;　織田信長、豊臣秀吉のいわゆる〈尊皇〉も、もちろん国内統一の最も有効な手段として標榜されたもので、徳川家康にもそれは引き継がれました。しかし信長にしても、秀吉、家康にしても、みな自己の実力をもって政権をかちとったもので、天皇ないし朝廷から与えられたものではありませんでした。家康が法度を作って、天皇をはじめ公家の権限、行動を強く規制しても、朝廷がこれになんら抵抗できなかったのも当然です。天皇にわずかに残された権能である官位授与権、元号制定権、暦制定権すら、形式的・名目的な範囲を出なかったですし、朝廷内部の公縁、廷臣らの支配さえ、幕府の干渉をまぬがれることができませんでした。しかし泰平がうち続き、文運が興隆するなかで、学者の間に、天皇の立場の過去と現在を調和させる試みとして、武家は天皇から政権を委譲されたものとする大政委任説があらわれました。もっともその論者の一人である熊沢蕃山も〈武家の人の帝位に上り給はんと、王の天下をとり給はんとは、共に無分別たるべき也〉と述べて、朝廷の政権回復を否定していますが、やがて大政委任説は幕府当路者の間にも普及し、政権奉還を唱える政治運動も起きました。ことに幕末、外交問題の処理に窮した幕府が、これを諸藩に諮問し、朝廷に奏上するに及び、幕府の独裁制に大きな亀裂を生ずる一方、武家の棟梁の標識にすぎなかった征夷大将軍の職名に、現実の攘夷の役割が押しつけられ、将軍と幕府を苦しめました。かくしてついに大政奉還をうけた天皇は、さしあたり将軍に代わって、〈同盟列藩の主〉と称して内外に対処しましたが、ついで版籍奉還、廃藩置県により列藩体制は崩壊し、近代天皇制の成立へ向けて歩みはじめました。&lt;/p&gt;</content:encoded>


<dc:subject>3年5組</dc:subject>

<dc:creator>こーじ</dc:creator>
<dc:date>2009-12-23T05:00:00+09:00</dc:date>
</item>
<item rdf:about="http://neyahs31-5.cocolog-nifty.com/blog/2009/12/post-960b.html">
<title>民法（こーじ）</title>
<link>http://neyahs31-5.cocolog-nifty.com/blog/2009/12/post-960b.html</link>
<description>　12月22日は、労働組合法制定記念日、改正民法交付記念日です。 　労働組合法制...</description>
<content:encoded>&lt;p&gt;　12月22日は、労働組合法制定記念日、改正民法交付記念日です。&lt;br /&gt;　労働組合法制定記念日は、1945(昭和20)年の今日、「労働組合法」が公布されたのが由来です。「労働組合法」は、労働者の団結権・団体交渉権・団体行動権等の保障について定めた法律で、「労働基準法」「労働関係調整法」とともに「労働3法」と呼ばれています。&lt;br /&gt;　改正民法公布記念日は、1947(昭和22)年のこの日、「民法改正法」が公布されたのを記念しています。第4編と第5編が全面改正され、家父長制の家族制度が廃止され戸籍が夫婦単位となりました。&lt;br /&gt;　日本の民法典は、西ヨーロッパ諸国の民法をおもなモデルとして作られたものです。民法典編纂事業は、明治維新直後の明治3年(1870)江藤新平が太政官制度局に民法会議を設け、箕作麟祥にフランス民法典の翻訳作業を命じて以来、途中で挫折(後述の旧民法の施行延期)を経ながらも、現行民法典制定に至るまで休むことなく続けられました。このような一貫した編纂作業への原動力が、国民の権利義務を明らかにすることにより、軍備の充実と相まって諸外国に対抗できるような富強な国家を作ろうということと並んで、明治期の国家的目標の一つであった不平等条約(これによって治外法権を認め、関税自主権を奪われていた)の撤廃(欧米にならった司法制度を樹立することによって欧米人の不安をなくして治外法権撤廃への道を開く)にあったことは、一般に認められているところです。&lt;br /&gt;　編纂事業は、1872年司法省明法寮における民法会議によってまず皇国民法仮規則(フランス民法にならった最初の大法典)という成果を生んだのですが、その後、司法省仮法則(1873)、左院の民法草案(1873)、司法省の民法草案(1878)という試みを経て、1880年元老院民法編纂局は、1873年以来司法省の御雇外国人として招かれていたフランス人法学者ボアソナードに民法の編纂を依頼し、編纂事業は新局面を迎えることになります。ボアソナードは、身分法関係については、日本人委員をして起草に当たらせつつ、87年に全部の草案を完成しました。この草案は、司法省法律取調委員会、元老院、枢密院などの議を経て修正を加えられた後、90年に公布され、93年からの施行をまつばかりとなりました(旧民法という)。ところが、公布前後の時期から、旧民法は日本の民俗慣習に合わないから施行を延期すべきだという議論が出てきて施行賛成派との間に論争を起こし、朝野あげての大議論にまで発展しました(民法典論争、ないし法典論争と呼ばれる)。1892年には旧民法の施行延期を求める法案が議会で可決され、旧民法は流産してしまいました。そこで政府は、93年、伊藤博文を総裁とする法典調査会を設け、梅謙次郎、富井政章、穂積陳重の3人を起草委員として民法典の起草に当たらせました。旧民法の時と異なって編纂作業は順調に進み、同年秋には草案ができ上がり、法典調査会の審議を経て民法典の前3編(総則、物権、債権)は96年に議会に提出されて両院で可決され、後2編(親族、相続)は98年に同じく議会を通過し、両者あわせた民法典全部が98年7月16日に施行されました。&lt;br /&gt;　親族、相続の後2編は、戸主、家督相続をはじめとする家の制度を定めていた(家族制度)が、第2次大戦の敗戦による新憲法制定により、これらの制度は、新憲法の規定する個人の尊厳と男女の本質的平等に反するものとされ、後2編は全面的に改正を受け(1947)、まったく新しい法律となりました。1980年に行われた寄与分に関する規定の新設(904条の2)などが、その後この後2編に加えられた改正のおもなものです。これに対し前3編(総則、物権、債権)は、施行以来ほぼそのまま行われていますが、大きな改正としては、1971年に根(ね)抵当権に関する規定が追加されたこと(398条ノ2以下)があげられます。&lt;br /&gt;　民法典は、総則、物権、債権、親族、相続の5編から成っています。旧民法の編成とまったく異なってドイツ系の民法典が採用している方式にならったものであって、このため、民法典は、もっぱらドイツ民法典(正確にはその草案)にならったものと信じられていましたが、最近の研究では、ドイツ民法草案のみを範としたわけではなく、イギリス法を含めた各国の法律を広く参照して作られていること、旧民法との連続性が従来考えられていたよりもはるかに大きいことを示し、民法典の解釈においても、各規定の系譜を調べて立法趣旨を明らかにすることの重要性が認識されています。もっとも前3編についていうと、一般的にはドイツ民法、フランス民法をはじめとするヨーロッパ諸国の民法典の影響があることは否定できません。このうち総則編の各規定には、とくにドイツ民法草案の影響がありますが(法律行為に関する規定など)、ドイツ民法そのままというわけではありません(時効の規定など)。物権編には、とくにフランス民法の影響がみられます(物権変動の対抗要件主義、担保物権制度など)。債権編の編成はドイツ民法草案的ではあるのですが、それと異なるものも少なくないそうです(債務不履行、連帯債務、不法行為など)。後2編は、元来日本固有の慣習に基づく規定が多かったのですが、戦後の改正によりその特徴的なもの(家督相続)は姿を消しました。現在の規定は、婚姻、離婚、養子縁組など身分関係の成立がきわめて容易であること、男女、夫婦、親子の平等がかなり徹底していることなどに、その特色をみることができます。&lt;/p&gt;</content:encoded>


<dc:subject>3年5組</dc:subject>

<dc:creator>こーじ</dc:creator>
<dc:date>2009-12-22T05:00:00+09:00</dc:date>
</item>
<item rdf:about="http://neyahs31-5.cocolog-nifty.com/blog/2009/12/post-4c3e.html">
<title>クロスワード（こーじ）</title>
<link>http://neyahs31-5.cocolog-nifty.com/blog/2009/12/post-4c3e.html</link>
<description>　12月21日は、クロスワードの日、遠距離恋愛の日です。 　「遠距離恋愛の日」な...</description>
<content:encoded>&lt;p&gt;　12月21日は、クロスワードの日、遠距離恋愛の日です。&lt;br /&gt;　「遠距離恋愛の日」なんだそうです。「1221」の両側が一人を、中の2が近づいた二人を表すそうですが・・・。&lt;br /&gt;　クロスワードの日は、1913年のこの日、『ニューヨーク・ワールド』紙が日曜版の娯楽のページにクロスワードパズルを掲載したのが由来です。それ以前からクロスワードは存在していましたが、新聞の連載をまとめた本が1924年に刊行され、世界中にクロスワードパズルが広まるきっかけとなりました。&lt;br /&gt;　クロスワードパズルは、与えられた縦、横の〈カギ〉をヒントにして、碁盤目に引いたます目のうちの空白の個所に言葉を入れていく遊び。基本形は縦横15のます目をもつ四角で、文字を入れない黒塗りの個所が左右対称に配列されたものである。1913年12月21日付の《ニューヨーク・ワールド》紙日曜版に載ったのが最初で、考案者はアーサー・ウィン ArthurWynne。この遊びは古くからある〈ワード･スクエア word square〉(四角連語)から派生したものと考えることができます。これは縦、横どちらに読んでも同じになるように単語を並べる遊びで、&lt;br /&gt;　ROME&lt;br /&gt;　OPAL　　ローマのねこ目石をエラが&lt;br /&gt;　MAUL　　壊す&lt;br /&gt;　ELLA&lt;br /&gt;はその一例です。24年にクロスワードパズルの最初の本が出版されたのをきっかけにアメリカでブームとなり、イギリス、フランスその他各国に広まりました。日本で、日本語による問題が最初に作られたのは1924年といわれています。現在でもアメリカやイギリスでは何種類もの専門誌が出ていて、問題を解くための辞典や問題作成のとらの巻まで刊行されています。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;/p&gt;</content:encoded>


<dc:subject>3年5組</dc:subject>

<dc:creator>こーじ</dc:creator>
<dc:date>2009-12-21T05:00:00+09:00</dc:date>
</item>
<item rdf:about="http://neyahs31-5.cocolog-nifty.com/blog/2009/12/post-d674.html">
<title>娘の音楽参観（くみこ）</title>
<link>http://neyahs31-5.cocolog-nifty.com/blog/2009/12/post-d674.html</link>
<description>　先日、小３の娘の音楽参観が体育館でありました。実は今年娘たちの学年が枚方市の合...</description>
<content:encoded>&lt;p&gt;　先日、小３の娘の音楽参観が体育館でありました。実は今年娘たちの学年が枚方市の合同音楽祭に出ることになっていたのですが、新型インフルエンザの影響で中止になったのです。息子は５年生の時に&lt;a href=&quot;http://neyahs31-5.cocolog-nifty.com/blog/2007/11/post_8974.html&quot;&gt;合同音楽祭&lt;/a&gt;に出てよい経験ができたので、とても楽しみにしていたのに残念でした。その代わりに授業参観の時に発表するということになったのですが、またまた学級閉鎖により延期になり、今回３度目の正直でやっと発表にこぎつけた次第です。それでも３人のお子さんはインフルエンザで欠席されてたらしく、気の毒でした。&lt;br /&gt;　合同音楽祭で歌うことになっていた曲以外にリコーダーの演奏、詩の朗読なども増えていて、１時間の授業になっていました。「じゅげむ」「かまきりの子」「夕日が背中をおしてくる」を各クラスごとに朗読したのですが、表情をつけたり、早口でしゃべったり、なかなか見ごたえのある授業参観。クラスごとの発表と学年全員による発表とを取り混ぜ、メリハリがありました。クラスごとの発表の時は体育館全体を暗くして子どもたちにスポットライトが当たり、結構本格的！合同音楽祭がなくなってしまったことは本当に残念でしたが、普通このような音楽発表会はないので、これはこれでよかったと思います。&lt;br /&gt;　できるものなら、来年の合同音楽祭に出られたらいいのですが、これは無理でしょうね。もともと毎年何年生が出るとは決まっておらず、その年のスケジュールによって決まるらしいので、今年３年生が当たっていたことに感謝しないといけないのかもしれません。充実した音楽発表会を参観できたのはラッキーでした。(^0^)/&lt;br /&gt;　ところでこの写真、ブログ用にこのように撮ったわけではありません。マジで望遠が全然きかなかったのです！時々望遠がおかしくなってたんですが、いよいよ本格的にアウトなのでしょうか・・・。困った！&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;a href=&quot;http://neyahs31-5.cocolog-nifty.com/photos/uncategorized/2009/12/21/roudoku.jpg&quot;&gt;&lt;img title=&quot;Roudoku&quot; border=&quot;0&quot; alt=&quot;Roudoku&quot; src=&quot;http://neyahs31-5.cocolog-nifty.com/blog/images/2009/12/21/roudoku.jpg&quot; width=&quot;100&quot; height=&quot;75&quot; /&gt;&lt;/a&gt; &lt;/p&gt;</content:encoded>


<dc:subject>日記・コラム・つぶやき</dc:subject>

<dc:creator>こーじ</dc:creator>
<dc:date>2009-12-21T04:23:23+09:00</dc:date>
</item>
<item rdf:about="http://neyahs31-5.cocolog-nifty.com/blog/2009/12/post-52e7.html">
<title>霧笛（こーじ）</title>
<link>http://neyahs31-5.cocolog-nifty.com/blog/2009/12/post-52e7.html</link>
<description>　12月20日は、霧笛記念日、道路交通法施行記念日、デパート開業の日、シーラカン...</description>
<content:encoded>&lt;p&gt;　12月20日は、霧笛記念日、道路交通法施行記念日、デパート開業の日、シーラカンスの日、鰤（ぶり）の日、人間の連帯国際デーです。&lt;br /&gt;　7500万年前に死に絶えたといわれていたシーラカンスが、マダガスカル島沖で捕獲された「シーラカンスの日」です。&lt;br /&gt;　霧笛、すなわち汽笛は、蒸気の噴出を利用して音を発生させる装置およびその音響による信号です。原理的には呼子と同じです。圧縮空気、電気などを利用するものを含むことがあります。船のほか、鉄道車両などでも利用されています。船では蒸気機関が推進に利用されるようになるにつれて、それまでのゴング、トランペット、空砲などに代わり、大音響を持続発音できる汽笛が信号装置となっていきました。音響を用いる通信は天候、風向、風速、地形などの影響をうけて受信できる範囲が一定せず、伝達にも時間がかかり確実とはいえません。また、多数の船が存在する海上の場合、汽笛信号はそれを発した船を判別する困難さも加わります。しかし、音声による信号に比べてはるかに簡便明りょうですので、船内外への信号連絡手段として汽笛を設備することが国際的、国内的に定められています。日本では1874年から霧中での信号には蒸気笛を使用することが定められ(このことから霧笛の名がつきました)、現在では〈海上衝突予防法〉によって、船は、その長さに応じた基本周波数と音圧とをもち、短音と長音を発することができる装置(蒸気笛とは限らない)の設備が義務づけられています。つまり船が長いほど低音で音の大きい信号を吹鳴することになります。信号は短音(約1秒間)、長音(4秒以上6秒間以下)および両者の組合せでできていて、船の種類(動力船、帆船)、状態(航海中、錨泊(びようはく)中、乗揚中)、操船動作(右転、左転、機関後進)、疑問表示、注意喚起、視界制限状態などに応じ、吹鳴すべき信号、時機、間隔などが定められています。これらはすべて国際的にも統一されたものです。国際信号書に定められている信号を汽笛で行ってもよいのですが、混乱を防ぐためにも緊急時以外は多用すべきではないとされています。このほか汽笛には船内警報装置としての役割があり、非常の際には救命艇などで退船させるため乗船者を招集する信号が〈船員法〉によって定められています。また習慣として、在港船が元旦午前零時に長音を吹鳴して新年の祝意を表したり、出帆する船が長音3回を吹鳴して別離のあいさつとすることが行われています。&lt;/p&gt;</content:encoded>


<dc:subject>3年5組</dc:subject>

<dc:creator>こーじ</dc:creator>
<dc:date>2009-12-20T05:00:00+09:00</dc:date>
</item>
<item rdf:about="http://neyahs31-5.cocolog-nifty.com/blog/2009/12/post-8037.html">
<title>飛行機（こーじ）</title>
<link>http://neyahs31-5.cocolog-nifty.com/blog/2009/12/post-8037.html</link>
<description>　12月19日は、日本初飛行の日です。 　ライト兄弟に遅れること7年と2日で、日...</description>
<content:encoded>&lt;p&gt;　12月19日は、日本初飛行の日です。&lt;br /&gt;　ライト兄弟に遅れること7年と2日で、日本最初の飛行実験が行われた日、「日本初飛行の日」です。飛行時間は4分で、距離は3000メートルということでした。&lt;br /&gt;　第1次大戦が始まるまでは、飛行機の性能も幼稚だったので、大戦が終わってみると世界中の空がほとんど未開拓のまま残されていました。一方、4年間の大戦の試練で飛行機の航続性能も信頼性も大幅に向上していたので、各国の飛行家たちによって、空路開拓への挑戦が盛んに行われました。これらの開拓飛行では、飛行機のもつ性能に対してかなり無理な冒険的な企画が多かったので、成功すれば無名の飛行家が一躍空の英雄とたたえられる反面、目的を果たさず挫折するものも多かったそうです。アメリカとヨーロッパの間に横たわる北大西洋横断飛行の場合は、1919年から30年までの12年間に、挑戦61回に対し成功はわずかに17回、あとは離陸に失敗するか、故障で引き返したり、不時着するか、行方不明になるかでした。&lt;br /&gt;　新空路に対する挑戦は、第1次大戦と第2次大戦の間続き、地球上のほとんどすべての部分が開拓されました。このような長距離飛行を行うには、飛行機の航続性能の向上が要求されるわけですが、一方、第1次大戦直後からヨーロッパ、アメリカを中心に本格的に開始された定期航空輸送もしだいに発展してきて、輸送機の高性能化に対する要求が強くなっていきました。とくに国土の広いアメリカではこの要求は切実で、1920年代の終りころからノースロップ、ロッキードなどアメリカのメーカーによって、近代化革命ののろしが上げられたのです。これは、当時いまだに幅をきかしていた空気抵抗の大きい複葉や支柱付き高翼単葉から、低翼片持翼単葉へ、固定脚から引込脚へ、木製や金属の骨組みに羽布を張った旧式な構造から薄いアルミニウム合金の応力外皮構造へと思い切った改革をし、さらに主翼フラップ、過給機付きエンジン、可変ピッチプロペラなどの近代装備を加え、画期的な高性能化をはかろうとするものでした。1930年代半ばに就航したダグラス DC3、ロッキード・エレクトラ、ボーイング247などの輸送機はその代表的な例で、長い間200km/h前後と低迷を続けていた輸送機の巡航速度もこの近代化で一躍300km/hを突破するに至ったのです。&lt;br /&gt;　1939年9月、ドイツ軍がポーランドに侵攻し、第2次大戦が始まりました。前の第1次大戦でも多数の飛行機がいろいろの目的に活躍しましたが、当時は兵器としての威力がまだまだ不足で、陸軍、海軍の行動に対して補助的な役割を果たしたにすぎませんでした。ところが第2次大戦では、飛行機の性能が飛躍的に向上していたので、空軍の優劣、勝敗が戦局の帰趨を決定するまでになりました。このため参戦国は、少しでも早く敵にまさる優秀機を開発、生産して戦場に送ることに全力をあげたので、各機種の性能は飛躍的に向上しました。各機種の中でもっとも高速を要求される戦闘機の最大速度は平均して600km/h台に達し、大戦末期には700km/hを超すものも現れました。&lt;br /&gt;　プロペラ機がこのような高速で飛行すると、高速で回転しつつ高速で前進するプロペラの羽根の先端部は音速に近づき、プロペラ効率の急激な低下を招きます。この見地から、プロペラ機には最大速度の限界があるはずで、大戦末期の戦闘機はその限界に近づいてきたのです。&lt;br /&gt;　この障害を突破して、より高速を求めるならば、ジェット機によるよりほかはありません。その動力となるジェットエンジンについては、すでにイギリスのW. ホイットルの1930年の特許がありますが、ドイツやイギリスのいくつかの会社が自社の企画としてジェットエンジンの開発に着手したのは30年代の後半でした。その結果、39年8月24日にはドイツのハインケル He178がジェット機として世界で初めての飛行に成功し、40年イタリアのカプロニ・カンピーニ N1、41年イギリスのグロスター E28/39と続きました。&lt;br /&gt;　しかし、ちょうど大戦中で各国とも実用機の改良、生産に追われていたので、ジェット機の実用化はおくれ、大戦末期の44年ころになって、ドイツのメッサーシュミット Me262、イギリスのグロスター・ミーティアなどが戦線に現れました。これらは最大速度850～900km/hと断然プロペラ機をしのいだのですが、初期のターボジェットエンジンは燃費がきわめて悪かったため航続時間が短く、空軍で主力の座を占めるまでには至りませんでした。&lt;br /&gt;　それにしても、プロペラ機の性能が限界に近づいたとき、タイミングよくジェット機が出現し、このため飛行機の性能が、停迷期を迎えることなくどんどん発展していったことは、まことに興味深いことです。しかもジェットエンジンの研究は各国政府の先見性によって国策として始められたのではなく、個人の研究者の発想や民間企業の企画によってスタートし、ある程度成果があがったところで、政府が本腰を入れて援助を始めたのです。&lt;br /&gt;　1945年8月、第2次大戦が終了するとともに、ジェット機の実用化が急速に進展しました。初めのうちはジェットエンジンの燃費が著しく悪く、航続時間が短くなるので、速度や上昇力に重点をおく戦闘機がまずジェット化され、エンジンの燃費改良につれて、爆撃機、攻撃機などの機種にもジェット化が及び始めました。さらに燃費が改善され、経済的な運航が見込まれるようになって、ジェット輸送機も登場しました。その第1号はイギリスのデハビランド・コメット1型機で52年5月に定期航空に就航しましたが、与圧胴体の外板の疲労破壊で空中爆発事故が2回続けて起こり、就航停止になってしまいました。このため、58年10月、アメリカのボーイング707、イギリスのコメット4型の大西洋横断空路就航が本格的なジェット輸送時代の幕あけとなりました。&lt;br /&gt;　続いて60年ころまた一つの革新が起こります。ターボジェットにおけるターボファン方式の導入です。60年ころまず出現したターボファンはバイパス比0.5～1.0程度でしたが、70年ころからバイパス比5.0以上のいわゆる高バイパス比ターボファンが実用化されました。これは、高バイパス比の採用により推進効率が向上したうえに、エンジン本体の熱効率や要素の効率も改良されたので、ストレートジェットはもちろん、初期の低バイパス比ターボファンに比べても、著しい燃費や騒音の低減が達成されました。一方、これらの高バイパス比ターボファンは出力のうえでも目覚ましい向上を示し、離昇推力20～25tという強力なエンジンが生産されるようになりました。これに伴って、従来の輸送機より幅の広い胴体(いわゆるワイドボディ)をもったボーイング747、マクダネル・ダグラス DC10、エアバス A300などの大型輸送機が70年ころから次々と就航しました。ジェット機の出現は、飛行機のスピードアップだけでなく、大型化をも可能にしたのです。&lt;br /&gt;　ジェット機の出現により、すべての機種にわたって飛行機のスピードが飛躍的に増加したのはいうまでもありません。とくに軍用機の高速化は目覚ましく、各国の第一線戦闘機はマッハ2.0～2.5の高速に到達しました。世界でいちばん速いのはロッキード SR71A 偵察機で3529.56km/h(約マッハ3.3)の記録をもっています。&lt;br /&gt;　しかし民間輸送機は経済性の見地から一般に音速の少し手前の800～950km/h(マッハ0.8内外)を巡航速度としています。これは初期のボーイング707以来、今日まで変わりません。将来ともこの速度範囲は民間輸送機にもっとも適した速度として、永久に使われるでしょう。&lt;br /&gt;　民間輸送機の分野でも超音速輸送機(SST)としてフランスとイギリスで共同開発したコンコルドが1976年以降就航しています。ふつうの亜音速輸送機に比べて2倍以上のマッハ2.0の巡航速度をもりますが、客席が約100内外と少なく、航続距離も6000kmともの足りないため、開発国以外からの注文がなく、わずか16機で生産を打ち切ってしまいました。しかし現代の技術をもってすれば、さらに高速で、搭載量も航続距離もコンコルドよりはるかに優れた第2世代 SST の開発は可能です。近い将来に実現する可能性があります。&lt;br /&gt;　ジェット機の出現により、1950年代から60年代にかけて、目覚ましい進歩を示していますが、70年に入ると進歩の度合が鈍化し、現在では性能的にはほぼ実用上の限界に達しているように思われます。したがって飛行機の今後の進歩は、安全性、信頼性、快適性、経済性などの向上に重点がおかれるように思われます。&lt;/p&gt;</content:encoded>


<dc:subject>3年5組</dc:subject>

<dc:creator>こーじ</dc:creator>
<dc:date>2009-12-19T05:00:00+09:00</dc:date>
</item>
<item rdf:about="http://neyahs31-5.cocolog-nifty.com/blog/2009/12/post-c502.html">
<title>移民（こーじ）</title>
<link>http://neyahs31-5.cocolog-nifty.com/blog/2009/12/post-c502.html</link>
<description>　12月18日は、国連加盟承認の日、東京駅の日、国際移民デーです。 　国連加盟承...</description>
<content:encoded>&lt;p&gt;　12月18日は、国連加盟承認の日、東京駅の日、国際移民デーです。&lt;br /&gt;　国連加盟承認の日は、1956(昭和31)年のこの日、日本の国際連合加盟案が全会一致で可決され、国連加盟が承認されたのが由来です。&lt;br /&gt;　1941年のこの日に東京駅が完成したことから「東京駅の日」になりました。&lt;br /&gt;　国際移民デー(International Migrants Day)は、2000年の国連総会で制定されました。1990年のこの日、国連総会で「すべての移民労働者とその家族に人権保護に関する国際条約」が採択されたのを記念しています。&lt;br /&gt;　移民は、労働の目的をもって自国の国境を越え他国に移り住む人 migrant を指します。移り住む行為すなわち〈移住〉の代りに、移民という言葉を使うことも多いですね。ヨーロッパの言語では、その国の立場により〈出移民(英語 emigrant、フランス語 emigre)〉と〈入移民(英語 immigrant、フランス語 immigre)〉とに分けて使用するのが普通ですが、日本ではまだ一般的ではありません。〈植民〉〈殖民〉という言葉は、自国の統治権内の植民地や未開拓地に移り住むことに用いますが、19世紀までは移民との区別はそれほど明確ではありませんでした。移民の定義は国により時代によりまちまちで、最大の出移民国イギリスでさえ、1年以上の長期滞在者と短期旅行者とを区別したのは1912年からで、国連などの努力にもかかわらず、現在でもその用法の混乱は続いています。しかし、国際結婚などは移民とはいわないので、〈労働を目的とする〉という点では一致しているといえます。日本政府は、第2次大戦後の移民再開に当たって、明治以来の移民史につきまとう〈社会の脱落者〉という暗いイメージを払拭するため、1955年に〈移住者〉という表現を用いることにしましたが、まだ熟した言葉にはなっていないようです。&lt;br /&gt;　移民の要因は一般的には、政治的･思想的迫害や国境変更などの政治的要因によるもの、英国国教会の圧迫から逃れて新大陸に渡ったピルグリム・ファーザーズに代表されるような宗教的要因によるもの、物理的・社会的稠密社会や保守的伝統からの脱出を欲する心理的要因によるものがあげられます。しかし、最も大きなものは経済的要因です。現在の貧しい生活、あるいは将来性の少ない状態から抜け出て、高所得水準の、または流動的社会で財産をつくり、社会上昇を果たそうという気持が、最も強い移民の誘因となります。しかし、これらの諸要因は複雑にからみあっていて、本人自身にさえ十分な認識のない場合が多いようです。&lt;br /&gt;　移民はさまざまに分類できますが、基本的には政府によって強制された移民と自己の意志によるもの(自由移民)との二つに分けられます。自由移民はさらに、政府などの援護を受ける補助移民と、それらとまったく関係のない完全な自由移民に分けることができます。また、移住後の雇用契約の有無により、契約移民と非契約移民とに分類され、前者は労働条件が不利な場合が多く、後者は移住後不安定な要素が多いのです。移民の職種等により、自営移民と雇用移民、技術移民と非熟練移民等々にも分類できます。永住移民と短期移民(出稼ぎ移民)、家族移民と単独移民といった分け方もあります。地理的要素を考慮に入れて、ヨーロッパ各国間のような大陸内移民と、ヨーロッパ・アメリカ間のような大陸間移民とに分けることもあります。&lt;br /&gt;　出移民国の政策としては、禁止・制限、放任、奨励、強制の四つの選択がありえます。禁止・制限には相手先国、職業等による制限など、その程度に強弱があります。奨励も内容的には放任に近いものから、強力な助成措置に至る段階があります。具体的には、移住先国の情報を志望者に提供すること、移住相談に応じること(移民顕在化助成)、移住後の適応のための研修訓練を施すこと(能力補充援助)、財産の整理や渡航手続を援助し、渡航費を低利融資もしくは交付し、さらに支度費を支給すること(移転援助)、渡航後の経済活動および子弟教育や生活を、通常の領事保護業務以上に行うこと(現地における援護助成)に分類できます。他方、入移民国としては、禁止・制限、放任、奨励の政策があります。禁止・制限の内容は多様で、犯罪・疾病歴等による入国禁止は一般的ですが、数量制限、国別・人種別制限、職業、能力、資金力、年齢、性別、親等などによる制限もよく行われます。奨励策としては、出移民国での宣伝、移住相談、渡航費補助、移住後の職業斡旋などがあります。入移民政策は、それぞれの国のおかれた人口・経済・外交上あるいは軍事上の条件により、引き締められたり緩和されたりするのを常とします。&lt;/p&gt;</content:encoded>


<dc:subject>3年5組</dc:subject>

<dc:creator>こーじ</dc:creator>
<dc:date>2009-12-18T05:00:00+09:00</dc:date>
</item>
<item rdf:about="http://neyahs31-5.cocolog-nifty.com/blog/2009/12/post-0050.html">
<title>ライト兄弟（こーじ）</title>
<link>http://neyahs31-5.cocolog-nifty.com/blog/2009/12/post-0050.html</link>
<description>　12月17日は、飛行機の日です。 　今日は「飛行機の日」、有名なライト兄弟が世...</description>
<content:encoded>&lt;p&gt;　12月17日は、飛行機の日です。&lt;br /&gt;　今日は「飛行機の日」、有名なライト兄弟が世界初の動力飛行機での飛行に成功した日です。1903年のことでした。世界初の飛行は59秒、距離は260メートルでした。今では世界一周もそう難しくはない飛行機も、まずは260メートルからスタートしたんですね。&lt;br /&gt;　ライト兄弟は、アメリカの飛行機開発者。兄はウィルバー WilburWright(1867‐1912)、弟はオービル Orville Wright(1871‐1948)。牧師の子として生まれ、もともとは自転車製造業者でしたが、ドイツの航空先駆者 O. リリエンタールなどに刺激を受け、空飛ぶ機械を構想しました。彼らの真の目的は、人類に翼を与えるというような抽象的なものではなく、またリリエンタールのように青少年の目を空へ向けるためのスポーツ志向でもなかったのでした。彼らのねらいはロマンと同時に自分たちの工場の先行的製品の開発と考えられるそうです。これは彼らがほかから資金援助を受けず、金銭の収支明細を記帳し、特許を固く防衛し、製作した飛行機をなんとかアメリカ陸軍信号兵団その他へ売り込もうとした事実から明らかです。このような意図は彼らの飛行機を実用的、かつ商品的なものに仕上げるために貢献し、最初の成功がそのまま製品へつながった珍しい技術開発の一例です。ただし、それまでに至る開発過程はきわめて系統的でしたが、辛苦に満ちていました。彼らの工場があったオハイオ州デートンから、大西洋岸のノース･カロライナ州キティホークまで4年間通い続けて実験を繰り返しましたが、これは強い恒風の吹く土地をアメリカ気象局の資料によって調べた結果です。開発はたこからグライダー(有人)へ進み、つねに固有安定よりも人間の操縦による安定を目ざした点に彼らの卓見を見ます。つまり、人間はなんのために飛行機に乗っているかを深く掘り下げ、それは操縦するためだと結論しました。このため、主翼両端の後縁を左右玄で反対にねじる、現在の補助翼の原理を発見し、応用しました。これによって、それまで昇降舵(だ)と方向舵しか考えられていなかった飛行機に、三次元の乗物として当然の3舵を与えました。これこそ兄弟の大革新でしたが、そのために各種の難問を背負いこんで苦心しました。しかし、その前すでに手製の風胴で主翼の翼型を実験的に選定するような基礎研究的態度で、補助翼と方向舵を使って横滑りのないつり合い旋回を実現し、この原理は現在に至っても変わっていません。&lt;br /&gt;　兄弟は1903年12月17日キティホークで人類初の動力飛行に成功しましたが、そのためにはわずか4年半の年月を費やしたにすぎません。グライダーによる飛行で操縦の安定、さらに完全なつり合い旋回を完成すると、あとは手製のエンジン(部品は自動車産業から購入したのでしょう)を装着するだけで動力飛行への道は開けました。ただし、あまりにも個性的な設計、例えば自転車式のチェーンで1台のエンジンにより二つのプロペラを反対まわりに駆動する方式にこだわりすぎ、08年フランスで公開飛行をした後は、ライト機の全盛はたった1年にすぎなかったようです。その失望と、主翼ねじり特許の係争により心身ともに疲れた兄ウィルバーは病を得て没しました。弟オービルは長生きしましたが、以後はほとんどなにもしていないそうです。&lt;/p&gt;</content:encoded>


<dc:subject>3年5組</dc:subject>

<dc:creator>こーじ</dc:creator>
<dc:date>2009-12-17T05:00:00+09:00</dc:date>
</item>


</rdf:RDF>
