森鴎外(こーじ)
7月9日は、ジェットコースターの日、鴎外忌です。
「ジェットコースターの日」の由来は、1955年のこの日に開設した後楽園遊園地に、日本初の本格的なジェットコースターが設置されたことから来ています。ジェットコースターは意外と昔からあったんですね。
森鴎外は、明治・大正の小説家、評論家、翻訳家、陸軍軍医です。本名林太郎。別号観潮楼主人など。石見国津和野(現、島根県)生れ。父森静泰(せいたい)(のち静男)は津和野藩主亀井家の典医でしたたが、維新後は禄を離れて上京し千住で診療所を開きました。鴎外は母峰子の薫陶下に、没落した生家再興の期待を託されて育ち、1872年(明治5)に上京、81年に最年少で東大医学部を卒業し、軍医に任官しました。84年衛生学研究の目的でドイツに留学、西欧の思想と文化に触れて清新な感動を受けました。88年帰国。落合直文や井上通泰、妹の小金井喜美子らと新声社(S. S. S.)を結成し、西欧の抒情詩を中心とする訳詩集《於母影(おもかげ)》(1889)を発表しました。ついで《しからみ草紙》を創刊し評論を中心に、レッシングにみずからを擬した戦闘的な文学啓蒙活動を展開、とくに坪内逍遥の説く写実主義に対して、イデー(理想)を重視する浪漫主義の立場から批判を加え、没理想論争を応酬しました。また、《舞姫》や《うたかたの記》(ともに1890)など、ドイツ留学記念の三部作を書いて戯作性を脱却した近代小説の確立に貢献しました。他方、医学面では《衛生療病志》などの個人誌を創刊、医学界の封建性の払拭(ふつしよく)をめざした論戦をいどみ、その批判が軍医部内の上部に及ぶことも辞さなかったそうです。ハルトマンの美学を祖述した《審美論》(1892‐93)などの業績もあります。日清戦争の従軍で文学活動は中断しましたが、凱旋(がいせん)後、96年に《めさまし草》を創刊し、合評形式による実作の批評を試み、とくに樋口一葉を推賞して世に出したことは有名です。しかし、99年小倉の第12師団に左遷され、《宝外漁史とは誰ぞ》(1900)を書いて以後、文壇への発言を停止しました。その間、クラウゼウィツの《戦争論》の翻訳を試み(《大戦学理》1903)、また、アンデルセンの翻訳《即興詩人》(1892‐1901)を完成しました。1902年東京の第1師団に復帰、日露戦争に従軍しましたが、戦場での詩歌・俳句をまとめた異色のアンソロジー《うた日記》(1907)を編んでいます。
1907年陸軍軍医総監に進級して、陸軍省医務局長に補せられ、軍医としての最高位につきました。そして09年、家庭内のトラブルを描いた小説《半日》から創作活動を再開し、第2の活動期を迎えます。《スバル》《三田文学》など、耽美主義の拠点となった雑誌の精神的支柱として自然主義と対立しましたが、自身の作風はロマンティシズムの枠をこえて、はるかに多彩でした。自己の性欲史を冷徹に点検、叙述した《ヰタ・セクスアリス》(1909)は発禁処分を受けて話題になりましたが、身辺の事実に題材を求めた短編も多くあります。かつての戦闘的な啓蒙性は影をひそめ、作風は総じて玲瓏(れいろう)かつ端正で、口語体に統一された文体も格調が高いそうです。《予が立場》(1909)で resignation(諦念)の心境について語っていますが、公務にも芸術にもけっしてのめりこむことのない独自の哲学を語った《あそび》(1910)、巨富を蕩尽(とうじん)したあげく非情な傍観者と化した豪商を描く《百物語》(1911)などに、高級官僚として日本の近代を生きる複雑な心情を彷彿(ほうふつ)とします。《妄想》(1911)も同系列の作品で、半生を回想してなお尽きぬ〈見果てぬ夢〉の思いを述べます。《普請中》(1910)は留学時代の愛人と再会して無感動な高級官吏を描いた短編ですが、西洋を模して及ばぬ日本の近代に対する諦念が根底にひそみます。しかし、現実の時代状況への対応も敏感で、華族の嫡男を主人公とする《かのやうに》(1912)以下一連の秀麿(ひでまろ)物や《沈黙の塔》(1910)では、大逆事件に象徴される政府の社会主義弾圧政策に対して、強い危惧を表明しています。文部省の国語政策に干渉して、歴史的仮名遣いの改定を阻止した《仮名遣意見》(1908)もありました。やや長編の作では、知識青年の個性形成史を追った《青年》(1910‐11)、薄幸な女性のひそかな覚醒と失意のドラマを描いた《雁》(1911‐13)などがあり、後者は青春の追憶をこめたロマンティックな抒情がただよいます。
大正期の宝外は乃木希典の殉死に触発されて、歴史小説に新しい領域を開くことになりました。《興津弥五右衛門の遺書》(初稿1912)は殉死者の遺書に擬して乃木への賛歌を語り、《阿部一族》(1913)は殉死の掟と人間性の相克を描いて、武士道を貫いた死者への感動を隠しません。《大塩平八郎》(1914)では大塩の挙兵を〈未だ醒覚せざる社会主義〉の乱と呼んで批判的です。これらの歴史小説はいずれも史料に忠実な〈歴史其儘(そのまま)〉の手法が特色ですが、その後、史料の束縛を脱して主観を自由に生かす〈歴史離れ〉の方向にむかい、《山椒大夫》(1915)や《高瀬舟》《寒山拾得》(ともに1916)などの佳作が書かれました。女性の献身、求道者の安心立命などを主題とします。庶民の反抗を描いた《最後の一句》(1915)も異色作です。さらに《渋江抽斎(しぶえちゆうさい)》(1916)では医にして儒者を兼ねた抽斎の伝を、伝記の考証過程とあわせ描いて、史伝の新しい領域を開きました。文体もまた、高雅に完成され、《北条霞亭》(1917‐21)などが書きつがれましたが、1922年萎縮腎で没しました。夏目漱石と併称されることが多く、相並んで明治の精神と倫理を体現した作家です。
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