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2009年7月

2009年7月31日 (金)

蓄音機(こーじ)

 7月31日は、こだまの日、パラグライダー記念日、蓄音機の日です。
 「こだまの日」は1959年、特急こだまが、狭軌鉄道での世界最高速記録を樹立したのが由来です。ちなみに今は日本のリニアモーターカーが有人走行で時速552kmを記録するなど、鉄道の世界も年々進歩しているようです。
 パラグライダー記念日は、1988(昭和63)年、北九州市で第1回パラグライダー選手権が開かれたのが由来です。
 蓄音機の日は、1877(明治10)年、エジソンが蓄音機の特許をとったのが由来です。
 エジソンによる円筒式の蓄音機の発明から10年後の1887年に、E. バーリナーがグラモフォンと称する円盤式の蓄音機を発明し、今日のディスクレコードの歴史が始まりました。エジソンやバーリナーの蓄音機は録音・再生機で、文字どおり音を蓄える機械でしたが、1940年代末までの SP レコードの再生装置が広く蓄音機という呼名で親しまれました。蓄音機は基本的にはレコードをのせて回転するターンテーブルと、これに回転力を与えるぜんまい式の駆動部、サウンド・ボックスおよびホーンからなっています。サウンド・ボックスはレコードの溝から針(再生針)によって機械的振動を拾い、振動板に伝えて空気振動(音波)に変換する部分で、この空気振動はさらにホーン(ラッパ形の音響管)に伝えられて音として放射されます。再生針としては鉄製あるいは竹製のものが多く用いられ、またホーンは、初期のものは金属製の朝顔形が主流でしたが、やがて木製が多くなり、形態も今日のスピーカーのように箱の中に納められるようになりました。SP レコードの回転数は毎分78回転で、片面の録音時間も5分程度でしたが、ターンテーブルの駆動もぜんまいによる機械式のため持続時間が短く、ほとんどレコード片面ごとにぜんまいを巻き直す必要がありました。このようにすべて機械式の装置に電気の力が応用されはじめたのは、1924年に初の電気式レコード録音が行われて以降のことです。48年の LP の誕生にかけて、ピックアップ、真空管による増幅器、スピーカーを用いた電気蓄音機(いわゆる〈電蓄〉)の時代にしだいに移っていきますが、その間にはターンテーブルはモーターによる電動で、再生は機械式の蓄音機も現れました。蓄音機は音の出口まで含めた再生装置全体で、今日でいえばステレオ・セット(あるいは単にステレオ)に当たっています。

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2009年7月30日 (木)

プロレス(こーじ)

 7月30日は、プロレス記念日、東北自動車道全通記念日です。
 「プロレス記念日」は、1953年、力道山が中心となり、日本プロレスリング協会が結成されたことが由来です。この年の2月にはNHKがテレビの本放送を始め、該当テレビの前には数千から数万人を越す人だかりが出来たそうです。
 ギリシア・ローマ時代にはすでに職業レスラーが存在しましたが、現在のような形の興行としてのプロレスが確立されたのは19世紀末といわれ、1905年にはフランク・ゴッチが初代世界王者に認定されています。アメリカで人気が高まったのは第2次世界大戦後で、1948年には世界最大の組織 National Wrestling Alliance(NWA)、現World Championship Wrestling (WCW)がプロモーター(興行主)の同盟組織として作られ、〈鉄人〉と呼ばれたルー・テーズが長期にわたって王座を守りました。しかし57年には American WrestlingAssociation(AWA)、63年には World WideWrestling Federation(WWWF。現、WWF)が組織され、おのおの世界王者を認定するようになりました。このほかにも WWA、NWF、IWA などの団体が結成されています。
 日本では1951年に初めての本格的なプロレス興行に参加した元大相撲関脇の力道山が、アメリカ修行を経て53年に帰国、日本プロレス協会を設立し、翌54年〈空手チョップ〉を武器にシャープ兄弟らと戦い、一大ブームを巻き起こしました。〈悪い外人〉をうち負かす力道山は敗戦後の沈滞、鬱屈した国民の気持ちを大いに刺激しました。民間テレビ放送の開始と重なり、プロレスを放映する街頭テレビには人が群れ集まり、テレビ普及の要因ともなりました。力道山は62年に日本人で初めて WWA 世界チャンピオンになりましたが、63年に不慮の死を遂げました。その後一時低迷しましたが、元プロ野球巨人軍投手で身長2.09mの巨漢ジャイアント馬場の登場、さらにアントニオ猪木の台頭、元柔道日本一の坂口征二の転向などによって人気を恐回しました。72年にアントニオ猪木が新日本プロレスを、ジャイアント馬場が全日本プロレスを結成し、以後は2団体を中心とした時代へ移行しました。また76年にアントニオ猪木が、ボクシング世界ヘビー級チャンピオンのムハマッド・アリやミュンヘン・オリンピック柔道優勝者のウィレム・ルスカと〈異種格闘技戦〉を行い話題となりました。
 現在は新日本プロレス、全日本プロレスいずれも複数のエースが支えています。また、89年に大仁田厚が FMW を結成して成功したのをきっかけに小団体が次々と誕生、男女の団体が数多く活動しています。一方、前田日明のリングスなど、キック、関節技を中心とした格闘技色の強い団体も人気が高いようです。97年には元柔道世界王者の小川直也がプロレスに転向して話題を呼びました。日本、アメリカのほか、メキシコ、オーストラリア、南アフリカ、イギリス、ドイツなどでもプロレスが盛んです。
 プロレスは20フィート四方のリングで行われます。勝負は(1)相手の両肩をマットに3秒間抑えつける、(2)KO(10カウント)する、(3)関節などに技をかけギブアップ(参った)させる、(4)リング外へ20秒間以上出す(リングアウト)、(5)レフェリーないし医師が試合続行不可能と判断する、(6)一方ないし双方が禁止事項をおかす、などによって決まります。しかし(6)の反則負けについては、禁止事項であっても5秒以内なら反則とはしない一方、レフェリーの判断でノーカウントでも反則負けにできるなど非常にあいまいな点がプロレスの大きな特徴といえます。また試合形式には1対1のほか数人対数人のタグマッチ、数人が入り乱れて戦うバトルローヤルがあり、そのほか反則を認めたり、決着がつくまで闘わせる〈デスマッチ〉と呼ばれる試合など、他のスポーツに見られない特殊なものもあります。

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2009年7月29日 (水)

アマチュア無線(こーじ)

 7月29日は、発明の日、特許制度執行記念日、アマチュア無線の日です。
 アマチュア無線は、ハム ham ともいわれる趣味の一つですが、国際電気通信条約付属無線通信規則や電波法施行規則によれば、〈金銭上の利益のためでなく、もっぱら個人的な無線技術の興味によって行う自己訓練、通信および技術的研究の業務〉のための無線通信です。世界共通の周波数帯を使って国内国外のアマチュア局と交信し、通信技術の研究を行うほか国際親善につとめています。また、青少年の科学的興味の向上や災害時の非常通信にも役だっています。
 日本では25年ごろから東京、大阪、神戸でアマチュア無線活動が始まり、26年6月には38人のメンバーで日本アマチュア無線連盟(JARL)が創立されました。法的に認められたのは27年ですが私設無線電信(電話)実験局としてでした。41年の太平洋戦争勃発時には約330局となっていましたが電波の発射停止を命じられ、一部は国防無線隊としてしばらく残りました。戦後直ちに再開運動が始められ、50年施行の電波法ではアマチュア局という名称が初めて使われ、第1級、第2級のアマチュア無線技士の資格、国家試験の内容も定められましたが、実際は52年で30局によるスタートでした。59年には電信級、電話級の初級資格が設けられ、66年からはこれが養成課程講習会の修了試験合格者に与えられることになり爆発的な増加をもたらしました。98年3月末現在、日本のアマチュア無線技士数301万人、局数130万局で世界一です。
 アマチュア無線の楽しみは見知らぬ仲間と国の内外を問わず交信ができることですが、それを自分でくふうした機器によって行うのはなおさらの楽しみです。相互主義により外国人アマチュアにも免許が与えられます。交信した局と交信証(QSL カード)を交換したり、一定時間に多くの局との交信数を競うコンテストへの参加、隠された電波発信源を探し出すフォックス・ハンティングなども人気があります。集めた QSL カードの枚数や国数を競ったり、アマチュア局のない国や無人島で局を運用する DX ペディションも熱心に行われています。地震、水害など非常災害時の通信や緊急医療通信にも活躍し社会のためにも役だっています。

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2009年7月28日 (火)

ミニコンが終わりました(くみこ)

 18日(土)に自宅でのミニコンサートが終わりました。今回は何と息子が熱を出して弾けずパス!というハプニングがあり、残念でした。
 みんなはとても上手に弾いてもらいました。お父さんお母さん方に伴奏して頂いたのもみなさんとてもお上手で、秋の発表会がさらに楽しみです。雨が降ったら出られるとおっしゃっていたTさんは日程の勘違いだったそうで、晴れましたが弾いて頂けました。よかった~!クリスマスよりレベルアップした伴奏形で弾かれましたよ。(^0^)/
 東京から来てくれた連続21回出場のTさんには最後の恒例の「夏の思い出」(2台を4人で弾きます)とベルの「七つの子」に参加してもらったのですが、Tさんが練習してきてくれたパートと私がお願いしたと思っていたパートが違っており、一時真っ青に・・・!でも無理やりTさんに準備していなかったパートを初見で弾いてもらってしまいました。それがとっても上手に弾いて下さったのです。さすがです。クリスマスはお仕事の関係で来れないそうですが、夏のミニコンだけでも連続記録を伸ばしてほしいなあと思います。
 今回初めてTさん以外のメンバーでオープニングの演奏に挑戦してもらいました。総勢8人の「崖の上のポニョ」です。ピアノ伴奏のNさん、フルートのKさんとお子さんたち6人でした。にぎやかで楽しい幕開けとなり、よかったと思います。今度のオープニングはどんな風にしようかなあ?と早くも思案しています。(^0^)/
 バイオリンのお子さんや高校の後輩でフルートのKさんも頑張って演奏して下さり、ピアノ以外の楽器なのでみなさんシ~ンとして聴いておられました。これからも披露してほしいなあと思います。
 また息子の同級生の女の子のお母さんが今回初めてソロで弾いて出演して下さいました。娘さんは6年生で同じクラス、今もクラスは違うけれど同じ中学です。昔、とても熱心にピアノを頑張っておられたというお話を聞き、ミニコン出演をお願いしました。緊張されたようですが、なかなかよかったです。次は私と2台で弾いてもらうのも楽しそう!と期待しています。
 それぞれのみなさんがとても楽しく演奏して下さいました。娘も何とかCDにおいていかれずに弾くことができました。今回も写真を載せたかったのですが、息子の発熱騒動でバタバタしていて写真を撮るのを忘れてしまいました。最近は息子がビデオ・写真係になっていたというのもあってうっかり・・・。まあ、いつもミニコン直前はバタバタで写真はよく忘れるんですけどね。(^0^;後で考えると行き届かないことも多々ありますが、これからも何とか続けていきたいなと思います。(^0^)/

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2009年7月27日 (月)

田中角栄(こーじ)

 7月27日は、政治を考える日、スイカの日です。
 「政治を考える日」は、1976年、ロッキード事件で田中角栄元首相が逮捕されたのが由来です。確かにこんなことがあると「政治ってものを考えてみよう」って気になりますけど、昔も今もあまり変わりませんね。
 田中角栄は、昭和戦後期の政治家。新潟県出身。高等小学校卒で上京、苦学力行して建築士、土建業者となりました。1947年(昭和22)に衆議院初当選。民主党から吉田茂の民主自由党に移り法務政務次官となりました。炭鉱国管疑獄(炭鉱国家管理問題)で逮捕され、のち無罪。自由民主党では佐藤派に属し、57年に岸信介内閣郵政相、池田勇人内閣で党政調会長、蔵相を歴任。佐藤栄作内閣でも幹事長、蔵相、通産相を務め、福田赳夫と並び佐藤体制の双璧となりました。72年7月、自民党総裁選で福田を破って田中内閣を成立させました。〈決断と実行の政治〉を旗印に、同年9月、一気に日中国交回復を実現しました。しかしもう一つの柱、日本列島改造政策は土地投機、物価上昇を誘発し、73年秋の石油危機とあいまって〈狂乱物価〉を現出しました。このため1972年12月総選挙も不振に終わり、74年7月の参院選も〈金権選挙〉を指弾された。同年末、金脈・人脈批判を受け首相を辞任しました。76年のロッキード事件暴露によって、田中は収賄で逮捕起訴され、〈総理大臣の犯罪〉は一世を聳動(しようどう)させました。しかし田中は党内に強大な支持勢力を結集して〈田中支配〉を確立し、大平正芳、鈴木善幸、中曾根康弘各政権の〈キング・メーカー〉〈闇将軍〉と呼ばれる権勢を保持しました。85年病に倒れ政界を引退しています。8年間の闘病のあと、93年12月死去。

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2009年7月26日 (日)

ポツダム宣言(こーじ)

 7月26日は、ポツダム宣言記念日、幽霊の日です。
 「幽霊の日」は、1825年、江戸の中村座で四世鶴屋南北作「東海道四谷怪談」が初演されたのが由来です。この「東海道四谷怪談」、今はビデオやDVDでも作品が出ているので、ちょっと刺激がほしい方は見てみてはいかがでしょうか。
 東海道四谷怪談は、歌舞伎狂言。世話物。5幕。4世鶴屋南北作。初演の絵本番付では《あづまかいどうよつやかいだん》。通称は《四谷怪談》。《いろは仮名四谷怪談》をはじめ、多くの別名題があります。1825年(文政8)7月江戸中村座初演で、一番目を《仮名手本忠臣蔵》にして2日がかりで上演しました。絵本番付によれば、初日は《忠臣蔵》の大序から六段目までと《四谷怪談》の序幕から三幕目隠亡堀の場まで、2日目はふたたび隠亡堀から始めて《忠臣蔵》の七、九、十段目になり、そのあとに《四谷怪談》四、五幕が続き、最後が《忠臣蔵》十一段目(討入)となっています。お岩・小平・与茂七を3世尾上菊五郎、伊右衛門を7世市川団十郎、直助を5世松本幸四郎。
 ポツダム宣言は、アメリカ、イギリス、中国3国首脳により1945年7月26日に発表された日本に対する共同宣言。ベルリン郊外のポツダムで開かれたトルーマン・アメリカ大統領、チャーチル・イギリス首相、スターリン・ソ連首相による3国巨頭会談で決定されたのち、蒋介石中華民国総統の同意をえて米英中3国首脳の名で発表されました。ソ連は日ソ中立条約が有効期間中であったため署名せず、45年8月8日の対日宣戦布告ののちこの宣言に署名しました。ポツダム宣言は、カイロ宣言(カイロ会談、1943年11月27日)とヤルタ協定(1945年2月11日)につづき、連合国首脳が太平洋戦争の終結条件と戦後の対日処理方針を決定したもので、その大要は次のとおりでした。
(1)日本軍国主義の駆逐および軍国主義指導者の権力と勢力の永久除去
(2)〈平和、安全及正義の新秩序〉が建設されるまでの連合国による日本占領
(3)日本国の主権の本州、北海道、九州、四国および連合国が決定する諸小島への制限
(4)日本国軍隊の完全武装解除と兵士の復員
(5)戦争犯罪人の処罰と日本国内における言論・宗教・思想の自由および基本的人権の尊重
(6)軍需生産の禁止、(7)前記諸目的が達成され、日本国民の自由意志による平和的政府が樹立された後における占領軍の撤退
(8)日本国軍隊の無条件降伏。
 7月28日軍部主戦派の圧力に屈した鈴木貫太郎首相が、この宣言を〈黙殺〉すると言明したため、アメリカはそれを口実に広島と長崎へ原子爆弾を投下し、ソ連の参戦を経たのちの8月14日、日本は御前会議における天皇の〈聖断〉によりポツダム宣言の受諾を決定しました。敗戦後における日本の民主的改革は、ポツダム宣言の精神に基づいて実施されましたが、連合国の日本占領がアメリカによる事実上の単独占領となり、1946年3月チャーチルの〈鉄のカーテン〉演説を契機に米ソの冷戦が激化するなかで、ポツダム宣言の精神はしだいに歪曲され、日本の民主化は貫徹されずに終わりました。

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2009年7月25日 (土)

フェーン現象(こーじ)

 7月25日は、最高気温記念日、夏氷の日、味の素の日です。
 「最高気温記念日」は、1933年、山形市で日本の最高気温40.8度が記録されたのが由来です。このときの原因はフェーン(乾熱風)現象によるものだったらしいですね。このフェーン現象は夏は日本海沿岸に、冬は東北部に見られる現象で、大火災の原因となりやすいので、この現象が起きたときは注意したほうがいいです。
 フェーンは、本来は局地風の一種で、アルプスの谷を吹き抜けていく南よりの温暖な下降風をいいますが、一般用語としては、低気圧の通過などに際して、海洋上にあった湿潤な空気が山を越えて反対側に吹き込んだとき、風が吹き下りる側の山麓で異常乾燥・異常高温の風が吹く現象をいいます。これは山に沿って上昇する空気塊が凝結高度以上では湿潤断熱減率(約5℃/km)で降温し、降水を終えてから山に沿って降下するときには乾燥断熱減率(約10℃/km)で気温が上昇するために起こるものです。アルプス北側のスイスの谷間とかアメリカのロッキー山脈の東側山麓(これはチヌーク Chinook と呼ばれている)などで顕著にみられますが、日本でも台風が日本海を通過するときなどに日本海沿岸でフェーン現象が起こり大火の一因となっています。水が水蒸気になるときは潜熱を周囲から取り、反対に水蒸気が凝結するときは潜熱を周囲に放出しますが、水蒸気が凝結を起こすに足りないほど山が低い場合には、このフェーン現象は起こらないことになります。山が高いほど、水蒸気を完全に凝結させるので潜熱の放出も大きく、そのため気温は上昇し、湿度は減少します。また初めの湿度が高いほど、空気中に含まれる水蒸気が多いので、温度が上昇する割合も大きくなります。日本では1933年7月25日山形市にフェーン現象が現れ、気温40.6℃、湿度26%の記録があります。またフェーン現象に伴う大火例としては、55年の新潟市の大火(被災世帯1193)、66年の三沢市の大火(被災世帯817)、76年酒田市の大火(被災世帯1023)などがあります。
 夏氷の日は、日本かき氷協会が制定しました。夏氷とはかき氷のことです。「な(7)つ(2)ご(5)おり」の語呂合せと、この日に日本の最高気温が記録されたことからきています。

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2009年7月24日 (金)

河童忌(こーじ)

 7月24日は、劇画の日、河童忌です。
 「劇画の日」は、1964年のこの日、青林堂が劇画雑誌「ガロ」を創刊したのが由来です。当時連載されていた白土三平の「カムイ伝」などは、今でも多くの人に読まれています。
 劇画は、辰巳ヨシヒロの命名による新様式の絵物語。1959年辰巳ヨシヒロ、さいとうたかをらを中心とする〈劇画工房〉の宣言にはじまります。社会生活の苦しい面、むごい面をえがく長編絵物語は、もはや漫画というたのしい絵物語とちがうため、新しい名前を必要としましたた。

 昭和2年7月24日、芥川龍之介は睡眠薬を多量服用して現世に別れを告げました。小説において名を馳せましたが、虚子に学び俳句も作りました。 最晩年の作「河童」に準え「河童忌」といいますが、俳号よりつけられた「我鬼忌」とも称します。
 芥川龍之介は、作家。東京の生れ。号、澄江堂主人など。俳号は我鬼。生後7ヵ月にして母の発狂のため、その実家芥川家に養育され、幼少年期を下町の本所に過ごします。養家は代々お数寄屋坊主を務め、その家系につたわる文人的・遊芸的気分はおのずからに彼の作風に影響を与え、その文人趣味とともにすぐれた鑑賞家の眼を育てました。府立三中、一高を経て1916年、東大英文科を卒業後、海軍機関学校の英語教官として19年まで勤めました。16年2月発刊の第4次《新思潮》に発表の《鼻》が、師夏目漱石の推恐を受け文壇に登場。翌17年には第1創作集《羅生門》を刊行。その多彩な文体の変化と巧緻をきわめた構想の妙を示す短編の数々に独自の世界をひらき、たちまちに大正文壇の寵児となりました。その題材も《羅生門》(1915)、《芋粥》(1916)、《地獄変》(1918)、《六の宮の姫君》(1922)など王朝の説話集に材をとった王朝もの、《奉教人の死》(1918)や《神神の微笑》(1922)のごとき切支丹もの、《戯作三昧》《或日の大石内蔵助》(以上1917)など江戸時代を舞台としたもの、《開化の殺人》(1918)、《舞踏会》(1920)など明治初期に材をとった開化ものなどをはじめ多岐にわたりましたが、いずれもその鋭い人間批評とともに、また一面〈日本的優情〉とも呼ばれる繊細な抒情性をにじませ独自の短編世界を示しました。そのすべてを作家のすぐれて意識的な試みと見る芸術観(《芸術その他》)は、やがて意識ならぬ無意識の世界、日常性そのものへの着目へと転移し、22年以後書き出される保吉もの(《保吉の手帳から》ほか)から《大導寺信輔の半生》(1925)、《点鬼簿》(1926)などへと進むにつれ、己の出自をめぐる宿命への暗い凝視となります。その心身の衰弱のなかにも力編《玄鶴山房》や《河童》、珠玉の小品《蜃気楼》(以上1927)などに最後の光芒を見せつつ、やがて《或阿呆の一生》をはじめとする一連の遺稿の内にその作家的宿運の何たるかを語りつつ、27年7月24日未明、〈ぼんやりした不安〉の一句を遺書に残し、自裁の死をもって36年の生涯を閉じました。遺稿《歯車》や《西方の人》の語るその内なる西方と東方の相克、また日常性を“守らんとする”生活者の意識とこれを“超えんとする”芸術家の意識の損藤などを基底とする、彼自身のいう“無数の分裂”こそは、芥川という作家の存在が、まさしく大正から昭和への架橋を意味していたことを告げるものでしょう。

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2009年7月23日 (木)

今年も祇園祭!(くみこ)

 また今年も祇園祭に行って来ました。そしてまたまた2回も!12日に鉾立てがボチボチ始まっていたので、とりあえず昼間に見に行って、16日の宵山にもう1度Go~!でした。14・15・16日の3日間しか夜店が出ないので・・・。息子は鉾を見たらそれでいいと言っていましたが、娘は夜店が目当てです。(^0^;
 実は息子は16日に臨時で増発する京阪電車を友だちと見に行く約束をしていました。そのお友だちというのは中学で知り合ったのですが、小学生のころから1人で和歌山まで電車に乗りに行っていたすごい子なのだそうです。宵山といえばかなりの人出なのでちょっと心配でしたが、息子たちは別行動でいろいろな電車を堪能して、お祭りの雰囲気も少しは味わって、夜遅く帰って来ました。(私は光善寺駅まで迎えに出ました)このことはまた別の時に書かせて頂きます。
 そんなわけで息子がデジカメを持って行ってしまったので、宵山の写真は私の携帯で撮ったものばかりです。ボケボケですみません!
 四条河原町から阪急で1駅の烏丸まで行き、歩行者天国になっている烏丸通りを三条の方へ歩くと、両側にズラ~っとお店が並んでいました。娘はさっそくヨーヨーつりやスーパーボールすくい(今回のは流れるプールみたいにスーパーボールが流れていました!)、風船割り(ピストルで風船を撃つもの)などを楽しんでいましたが、一昨年見つけたものの挑戦しなかった「亀すくい」なるものをやってみました。スーパーボールすくいと同じような‘ポイ’で生きた亀(小さいけど)をすくうなんて絶対無理!と思っていましたが、何と4匹もすくってしまいました。流れるスーパーボールすくいは1個もすくえなかったのに・・・!球体のスーパーボールより平べったい亀の方が力が均等にかかってすくいやすかったのでしょうか???10匹以上すくったらもらえるということでしたが、亀をもらって育てる自信はないので、この程度がちょうどよかったです。
 最近は祇園祭に行くのが恒例になっています。学校や自治会でやってもらうお祭りとはいろいろなものの値段が全然違って高く、連れて行くのも勇気がいりますが(^0^;、年に1度のことだし、私も祇園祭は好きなので、できれば来年も連れて行ってやろうと思います。(^0^)/

Kame1 Kame4 Yama

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2009年7月22日 (水)

下駄(こーじ)

 7月22日は、全国下駄の日、著作権制度の日です。
 下駄は、歯のある台木に鼻緒や端棒(はなぼう)をつけたはきものですね。弥生時代後期の登呂遺跡から下駄状の木製品が出土していますが、挿刈りや稲の穂摘みにはいた田下駄であろう。古墳時代になると大陸から下駄が伝えられ、地方豪族の墓などから前穴の内側へ寄った二枚歯の下駄が出土していて、当時は権威の象徴として用いられました。奈良時代になると平城京では子ども用の下駄もあったことが出土品で知られています。中世の絵巻物や近世の絵画をみると、排便や水耀み、洗濯のとき、衣服の裾を汚さないために下駄をはいています。当時の下駄は鼻緒が全体に前寄りについた、かかとの部分の長いもので、引きずって歩いても泥はねのあがらないものでした。江戸時代の中ごろから工具が発達して家内工業がおこり、下駄屋が出現し、下駄が大衆化して歩行にもっぱらはかれるようになりました。
 下駄は古くはアシダと呼ばれ、足下から名付けられたことが《和名抄》によってわかります。また奈良時代の《東寺写経所解》(760)には木沓(きぐつ)と木履(ぼくり)が併記されていますが、出土物には木を靴の形にくり抜いたものと、いわゆる今日の下駄の両方があることから、ボクリと呼ばれていたことがわかります。ゲタは下踏、下駄と書かれて江戸時代の文献から見られる新しい言葉ですが、橋桁や湯げた(腰掛台)など平板に2本の足をつけたものを古くよりケタまたはゲタと呼んできたことから、近世になってアシダやボクリもゲタと呼ぶようになりました。東日本で高下駄をアシダ、奄美・沖縄地方で下駄をアシジタ、アシジヤといい、伊豆諸島や西日本で下駄をボクリ、ブクリというのはこれらの名残です。
 下駄の足をのせる部分を台またはコウラ(広い表の意)といい、一木作りの下駄を連歯下駄、歯を差し込んだものを差歯下駄といいます。指を挟む前緒と甲にかかる横緒とからなり、両者を Y 字形にしたものが鼻緒と総称されます。また前部に指を挟む端棒だけのものはその形から撞木(しゆもく)下駄と呼ばれ、庭を歩くのに用いました。端棒式と鼻緒式の両者の下駄が東南アジアや東インド、西アフリカの稲作民族にはかれていて、稲作文化と下駄の関連で日本の下駄を見直す必要があるでしょう。鼻緒を通す穴は目とかツボといい、ふつう三つ穴ですが、北陸の浜下駄のように前後左右それぞれ中央に穴をあけた四つ穴のものは前後を逆にしてはくこともできます。古墳出土の六つ穴の石下駄(副葬品)も同様にはいたものです。
 下駄は連歯と差歯に分けられ、連歯のうち二つ歯を駒下駄(関西で真(まさ)下駄)といい、おいらんの道中にはくものは三つ歯下駄といいます。台裏をくり抜いたものはぽっくり(こっぽり)下駄で、これの低いものを舟底下駄といいます。台裏を斜めに切り後ろに歯のあるのがのめり下駄(神戸下駄)、後ろを丸く削ったものが後丸下駄です。わらや竹皮、立、シュロなどを草履に編んで表につけたものが表付き下駄です。浅雪の歩行にはく雪下駄は、歯の間が下に広がった台形や三角形をしていて、雪が残らないようになっています。差歯下駄のうち、歯の高い二枚歯のものを足駄(関西では高下駄)といい、樫歯でしたが、ホオを歯としたものは朴歯下駄(厚歯下駄)といいます。今は多く桐を用います。二枚歯の低い差歯下駄は日和(ひより)下駄(利休下駄)といい、雨あがりの歩行にはかれました。台の厚い差歯下駄を助六下駄、後ろだけに歯を入れたものを後歯下駄といい、同じ用途です。このほか農漁村、山村ではく労働用の下駄には各種あり、古い伝統を残しています。深田の代(しろ)ならしや稲刈りにはくのが田下駄、作業台や踏台として用いるのが海苔(のり)下駄、舞台下駄、梨もぎ下駄などです。熱よけに用いる酒造用の需(こしき)下駄、和鉄生産のたたら下駄など、日本の下駄は仕事の能率を高めるために作られてきました。
 産地としては、桐下駄は福島県会津地方や履城県結城市、焼杉下駄は栃木市や大分県日田市、塗下駄は静岡市などが知られています。香川県大川郡志度町も桐下駄を作っていますが、表に斑点のある竹を張ったものを特産としています。広島県福山市の松永は、雑木を用いて機械化した下駄の産地として特異な発展をしました。ほかに東京、大阪、京都なども産地として知られていました。しかし1955年ころを境として下駄の需要は少なくなり、どの産地も生産高は僅少となっています。

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2009年7月21日 (火)

婚姻(こーじ)

 7月21日は、神前結婚の日、破防法公布記念日・公安調査庁設置記念日、自然公園の日です。
 「破防法公布記念日」「公安調査庁設置記念日」は、1952年に「破壊活動防止法」(破防法)が公布・施行され、同時に公安庁が設置されたのが由来です。「破防法」は最近では1996年のオウム真理教への適用で注目されましたね。
 婚姻とは、社会的に承認された夫と妻の結合で、この〈夫〉と〈妻〉の資格、役割については、それぞれの社会において独自の意味づけがなされています。この意味づけはときとしてひじょうにかけ離れているので、上記の広い定義にもう少し具体性をもたせようとすると、その定義からはずれてしまう事例が出てきます。たとえば、〈一対の男女の継続的な性的結合を基礎とした社会的経済的結合で、その間に生まれた子どもが嫡出子として認められる関係〉と定義すると、日本をはじめ多くの社会に通用する普遍性をもつように見えますが、人類社会全体を通して見ると、この定義に当てはまらない例がいろいろと出てきます。たとえば南インドのナヤール・カーストの妻訪形式をとる男・女の関係は、夜をともにする性的関係にとどまり、居住、生産、消費や子どもの養育、しつけなどは兄弟姉妹が一生を過ごす居住単位で行われていました。つまり、子どもたちはその〈生みの父〉を識別し、正当なカーストの身分を得ても、その葬儀にも参加せず、それ以上の社会的経済的なつながりはもっていませんでした。ナヤールでは通ってくる男は1人とは限らなかったので、いわゆる一妻多夫婚でした。さらに〈夫〉は男とは限らず、アフリカでは女どうしの結婚の慣習をも認めている部族があります。たとえばナンディ族(ケニア)で、息子をもたない未亡人は、嗣子を得るため、普通の結婚と同じ形式にしたがって〈妻〉を迎えます。父系制をとるナンディ族では、家畜や土地などの財産を父から息子へ均分相続で伝えますが、息子をもたず死亡した男の財産はいったん妻が保有します。この財産を亡夫の弟など傍系の父系親族に渡さず、みずから亡夫の身代りとなって〈妻〉をめとり、後継者を確保するのです。実際にはこの新妻のもとには、愛人が通ってきて子を生ませるのですが、性以外の日常生活では、同棲している〈夫〉が男主人として客を接待し、力仕事は別に男を雇って自分の代りにやらせるなど男性の役割を果たします。こうして、女どうしの〈夫婦〉間には通常の夫婦間におけると同様の協力関係と感情が見られるといいます。いっそう極端な例として、同じナンディ族において〈家との結婚〉も行われます。これは未亡人が亡夫との間にもうけた娘に、家または中央の柱を〈夫〉に見たて、それと結婚させます。実際には娘が自分で選んだ愛人との間に生まれる息子が亡父の財産を相続します。
 一方、〈妻〉が男であることもあります。北アメリカ北西海岸のクワキウトル族では、首長の特権の多くが息子ではなく義理の息子、つまり娘の夫を通じて孫に伝えられます。娘がないときは、息子がやむをえず娘の代りになって、他の男子を婿として迎えます。この結婚式は普通の結婚式とまったく同じ方式で行われ、この後はじめて〈娘〉婿は首長の特権を受けつぐことができます。つまり、これらの同性者間の結婚においては、性的要素はまったく含まれておらず、財産ないし地位の相続、継承の道筋をつけるために行われています。さらに、〈夫〉や〈妻〉が子どもの場合の幼児婚や、生者でなく死者の場合、つまり亡霊婚がアフリカや東アジアで報告されています。これらも、相続・継承者を得たり、あるいは死後の祭祀を確実にし、死者の霊を満足させるために行われます。以上、われわれの通念と著しくかけ離れた事例をあげましたが、これは単に珍奇な習俗が世界に存在していることを示すものではなく、ふだん何げなく使っている〈婚姻〉という語が、社会によってまったく異なった意味をもちうることを強調するためです。

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2009年7月20日 (月)

修学旅行(こーじ)

 7月20日は、月面着陸の日、ハンバーガーの日、Tシャツの日、修学旅行の日、ファクシミリの日、夏の土用入りです。
 「月面着陸の日」はその名の通り、アメリカが打ち上げたアポロ11号が月面の「静かの海」に着陸し、人類が始めて月面に降り立った日です。この時アームストロング船長は、月に初めて一歩を踏み出したことについて「この一歩は小さいが、人類にとっては偉大な一歩である」という有名なメッセージを地球に送りました。
 修学旅行は、学校の公式行事として教職員の引率のもと、校外教育・学習の目的をもって学生、生徒、児童が集団で行う旅行ですね。共同宿泊をともなう点で遠足と、また学習目的が複合的であり複数の目的地を周遊する点で臨海学校、林間学校、合宿などと区別されます。C. G. ザルツマン、シュトイ KarlVolkmar Stoy、ライン Wilhelm Rein らドイツの教育者により、18世紀後半から19世紀にかけて自然学習および身体訓練の目的をもって唱道され組織された徒歩旅行 Wanderungen、教育旅行 padagogischer Reisen などの影響を受けつつも、日本独特の性格をもつ学校行事として展開されました。初代文相森有礼による兵式体操重視方策の一環として、1886年2月高等師範学校男子部が千葉県銚子へ実施した行軍旅行が端緒とされます。同校では行軍旅行に自然観察、標本採集、史跡見学など研究・学習目的を加味して〈修学旅行〉と名づけました。翌87年からは、各地の師範学校、中学校などで実行されるようになり、88年尋常師範学校では恒例行事として文部省令中に規定されるようになりました。当初は徒歩によることを通例としましたが、国内鉄道網の普及とともに鉄道を利用して短日程で遠隔の諸地域を訪ねることができるようになりました。99年日本鉄道会社、翌1900年鉄道院が学生の集団運賃割引を開始し修学旅行の便を図りました(〈学割〉のはじめ)。普及とともに、伊勢、奈良、京都など〈国のふるさと〉や東京、横須賀など首都、軍港の見学などが一般化する一方、師範学校での県内小学校めぐり、実業学校での関連産業地帯の見学など、その教育に即した数々の工夫もみられるようになりました。第2次大戦中から終戦直後にかけて、勤労動員、輸送難、食料不足などにより一時中絶されましたが、50年代に復活、59年には国鉄(現 JR)に修学旅行専用列車(ひので号、きぼう号など)が運転される(1971廃止)などの隆盛をみています。多くの生徒、児童にとって修学旅行の最大の魅力は、旅のもつ解放感と集団宿泊の経験にあり、盛りだくさんで平板に流れるきらいがある〈修学〉の内容は、しだいに二次的になっているといわれています。子どもたちの旅行機会が増加した現在、学校行事としての修学旅行は、方法や内容において検討を迫られています。

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2009年7月19日 (日)

女性大臣(こーじ)

 7月19日は、女性大臣の日、北壁の日です。
 「女性大臣の日」は、1960年のこの日、中山マサが初の女性大臣として池田内閣の厚生大臣になったことに由来しています。もう今の世の中では女性の社会進出も進んできて、女性大臣も珍しくなくなってきましたね。
 性差別は古代から存在し、女性がそれを不当と感じたのもその時代からでした。だが差別の状況から脱出する道を見いだせなかった時代の女性たちは、忍従するか、来世での平等を説く宗教に救いを求めました。女性解放が現実の問題として意識されるようになるのは、近代に入ってからでした。
 近代初期の女性解放は、男女の能力の平等とそれを保障する教育の平等の要求として主張されました。ルネサンス期にはクリスティーヌ・ド・ピザンが《女の都》(1404)を、17世紀にはデカルト合理主義の影響を受けたプーラン・ド・ラ・バールが《両性の平等について》(1673)を、イギリスでは市民革命後の女性の後退を批判して、メアリー・アステルが《女性への重大な提言》(1694、1697)を書きました。
 こうした前史を受けて、女性解放が人権の要求として主張されるようになるのは、18世紀末のフランス革命期でした。フランス革命の自由と平等という原理を女性にも適用するべきだとして、フランスではグージュが〈女性と女性市民の権利宣言〉(1791)を、イギリスではウルストンクラフトが《女性の権利の擁護》(1792)を、ドイツではヒッペルが《結婚について》(1793)を発表しました。
 19世紀に入ると、女性解放はさまざまな角度から論じられるようになりました。それは第1に、社会主義のなかでとりあげられました。フーリエは《四運動の理論》(1808)を書き、共同社会ファランジュを建設して女性を解放しようとし、サン・シモン主義者は一対の男女を社会的個人とすることによって、男女平等を実現しようとしました。マルクス主義ではエンゲルスが《家族、私有財産、国家の起源》(1884)を、ベーベルが《女性と社会主義》(初版1879、第50版1910)を発表し、女性史の記述を通して社会主義による女性の解放を説きました。第2に、欧米での女性参政権運動、売春禁止運動、教育の機会均等運動などの高揚を背景に、J. S. ミルは功利主義の理論を適用して《女性の隷従》(1869)を書き、運動に理論的根拠を与えました。第3に、19世紀末以来の女性労働への注目を受けて、アメリカではギルマンが《女性と経済学》(1898)で、家事労働からの解放と職業労働による女性の経済的自立を説き、イギリスではシュライナーが《女性と労働》(1911)で、女性の労働権を要求しました。社会主義革命期のソビエトでは、コロンタイが〈家族と共産主義〉(1920)で、女性の職業労働の増大により家族は死滅すると主張しました。第4は、ダーウィンの生物学やフロイトの精神分析など、男女の身体的性差と性格的性差の結合を説く諸科学の影響です。エリスは男女の身体的差異は男女の優劣とはならないとする《性の心理学の研究》(1897‐1928)を、E. ケイはダーウィンの進化論を援用して《恋愛と結婚》(1903)を発表しました。諸科学の発達はまた、それらを利用して男女の身体的性差と性格的性差の結合を批判する女性解放の思想を生み出しました。文化人類学者ミードは《三つの未開社会における性と気質》(1935)で、性格的性差は文化が作り出したものだといい、クライン Viola Klein(1907‐72)は《女とは何か》(1946)で、知識社会学を利用して女性の性格のイデオロギー性を説明し、実存主義者ボーボアールは《第二の性》で、女は社会的につくられたと主張しました。これらの研究は、現代のセックスとジェンダーの区別につながっていきます。

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2009年7月18日 (土)

浜木綿(はまゆう)が咲きました(くみこ)

 我が家の浜木綿(はまゆう)が咲きました。10年ぐらい前に母がもらってきて、最初は葉がたくさん出るだけで花が咲かなかったのですが、6~7年前から1つだけ咲くようになり、近年は2つ咲きます。とても太い茎に大きな花が1つずつ咲くので、豪華な感じがします。
 ちょっと調べてみると・・・
~浜木綿(はまゆう)~
☆彼岸花科で浜万年青(はまおもと)ともいうそうです。
☆海岸に生え、開花時期は7月から9月ぐらい。
☆宮崎県の県花でもあるそうです。
☆万葉集より(柿本人麻呂)
「み熊野の 浦の浜木綿 百重(ももえ)なす
   心は思えど 直(ただ)に逢わぬかも」
(熊野の海辺に群れて生えている浜木綿のように、幾重にも心で思っても、じかにあなたに逢うことのできない恋よ)

 こんな相聞歌があったんですね。うちは海岸とは縁遠いところで、しかも鉢植えなので、万葉集にも詠まれている浜木綿が毎年咲いてくれるのはうれしいです。また来年も咲いてほしいものです。できればもっと株を増やしてたくさん咲いてくれるとうれしいのですが、植え替えないと難しいかな・・・?(^0^;

Hamayu1 Hamayu3

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2009年7月17日 (金)

漫画(こーじ)

 7月17日は、漫画の日、東京の日です。
 「東京の日」は、1868年、明治天皇の詔勅により「江戸」が「東京」に改称されたことを記念した日です。
 1841年のこの日、イギリスの絵入り諷刺週刊誌『パンチ・ロンドン・シャリヴァリ』(通称「パンチ」)が発刊されました。1992年4月8日に財政難の為に終刊になるまで151年間発行されていました。
 マス・コミュニケーションと結びついて発達したのが、現代社会での漫画の形です。アメリカでは1894年のアウトコールト作《ホウガンズ・アレー》(〈イェロー・キッド〉とよばれた)に始まって、新聞の興亡をかけた大衆芸術の様式となりました。何人もが組んで一つの漫画作品を描くという仕事ぶり、シンジケートを通して各地の新聞に同じ作品を載せるという配給のしかた、新聞だけでなく映画、テレビ、キャラクター商品などをとおしてマルチ・メディアに同時進出するというありようは、すべて20世紀のアメリカで始まり、日本にも入ってきました。
 第1次大戦後の平和会議を報道するために派遣された朝日新聞記者鈴木文史朗は、アメリカ経由でヨーロッパにむかい、その途上で漫画の重大性に気づいたそうです。日本にもどった後、1923年1月創刊の《アサヒグラフ》の編集長になったとき、彼はアメリカの新聞連載漫画マクマナス作《親父教育》を翻訳連載するとともに、自分で腹案をたてて部下の織田信恒に文を、樺島勝一に絵を頼んで日本最初の連載漫画《正チャンの冒険》を始めて、成功をおさめました。続いて麻生豊の《ノンキナトウさん》《只野凡児》、宮尾しげを《団子串助漫遊記》、下川凹天《男やもめの巌さん》、田河水泡《のらくろ》、島田啓三《冒険ダン吉》、横山隆一《フクチャン》があらわれました。新世代の漫画家近藤日出造、横山隆一、杉浦幸雄は32年に〈新漫画派集団〉をつくり、漫画界の主流となりました。戦争の下で漫画は衰え、大政翼賛漫画という形で続きはしますが、内実は、絶滅に近かったようです。ファシズム下のイタリア、ドイツにおいても、漫画は栄えませんでした。共産主義国家ソビエト・ロシアにおいても漫画は栄えませんでした。これまでのところ共産主義政権が成立したところで漫画が栄えた例はありません。漫画は共産主義政権の性格について考える一つのいとぐちとなります。共産主義政権下の中国で1962年に届拓が《燕山夜話》を著して政権を批判したとき、中国に漫画の伝統があったということから説き起こしてやがて反党・反社会主義として批判されたのも、〈全体主義〉と漫画が両立しにくいことを示しています。ファシズムに対抗する際の共産主義運動は、《無産者新聞》にアジ・プロ漫画を描き続けた柳瀬正夢(やなせまさむ)(1900‐45)のように、すぐれた作品を生み出しました。
 1945年の敗戦は大正時代の漫画を復活させました。伊藤逸平主宰の漫画雑誌《Van》が創刊され、加藤芳郎、横山泰三、手塚治虫など新しい世代の漫画家があらわれました。独特の筆づかいで清水崑(こん)(1912‐74)が海外にまで迎えられたのもこの時代です。経済復興の後は、大正時代とはけたはずれの規模の漫画が印刷されて、量として日本の出版物の主要部分を占めるに至りました。77年に漫画は日本の総出版物の28%に達しました。こどもだけが漫画を読むという状態は、1960年代に入って大きく変わり、大学生が漫画を読むことが現代風俗の一部となりました。劇画という新しい流れが漫画からはみだして発展しました。昭和の初めに盛んだった紙芝居が、戦中のトンネルをくぐって敗戦後に2度目の全盛期を迎えました。しかしテレビに押されて衰えていくと、紙芝居の作家たちは貸本屋むけの単行本を描いたのです。彼らのもっている黒い怒り、虚無的な感情は、農村から都会に移ってきて孤独な暮しをしいられている少年・青年に訴え、戦後日本の復興のしかたに異議をもつ大学生たちの心をとらえました。紙芝居と貸本文化から出てきた絵物語作家は、笑わせることを目的とせず、むしろ怒りの表現として長大な物語を紡いだそうです。白土三平の《忍者武芸帳》《カムイ伝》を頂点とする劇画があらわれました。そのよりどころとなったのは長井勝一の主宰する《ガロ》(1964年9月創刊)という漫画雑誌です。水木しげる《河童の三平》、つげ義春《ねじ式》は同じく劇画とよばれますが、そこには超現実的なユーモアがあります。それはアメリカの新聞漫画の影響からほど遠く、むしろ中国明末の八大山人や清代の揚州八怪の墨絵に通ずる作風で、日本社会の高度の西洋化、工業化への反動としてアジアの伝統に回帰する心のむきをつたえているそうです。
 1960年代の劇画に続いて70年代から80年代にかけて少女漫画が創作の中心となりました。女性漫画家として長谷川町子が、戦後最も広く愛された長編連載《サザエさん》を描きました。1970年代以後、池田理代子《ベルサイユのばら》、萩尾望都(もと)《ポーの一族》、竹宮恵子《風と木の詩(うた)》、樹村(きむら)みのり《菜の花畑のむこうとこちら》、山田紫《しんきらり》、高野文子《絶対安全剃刀》、山岸凉子《日出処(ひいづるところ)の天子》があらわれて、男性漫画家をしのぐ活動によって男女の区分を超える広い読者に支持されています。すぐれた漫画創作の根源が高度成長以後の日本においては女性作家に移っています。その時代の有力漫画家が女性の間からむらがってあらわれたことは日本の歴史上はじめてで、世界の歴史にも珍しいことです。
 1960年代以後の日本では教育制度の整備とともに幼稚園のレベルから上位学校の入学試験のための競争が激しくなり、生徒はきびしい管理の下におかれるようになりました。親と学校によるこのような管理から自由になろうという衝動が漫画興隆の背景にあります。赤塚不二夫《天才バカボン》、山上たつひこ《がきデカ》のような、反道徳的な漫画キャラクターの似姿をなぞって落書をすることが、少年少女にとって自由への衝動のはけぐちとなっていました。

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2009年7月16日 (木)

駅弁(こーじ)

 7月16日は、駅弁記念日です。
 「駅弁記念日」は、1885年、この日開業した日本鉄道東北本線の宇都宮駅で、日本初の駅弁が発売されたのが由来です。宇都宮駅は今でも駅弁に定評のある駅なのだそうです。
 駅弁は、1885年7月15日、日本鉄道会社の新線(上野~宇都宮)開通のさい、同社の懇望で宇都宮の旅館白木屋(現、白木屋ホテル)が販売したのが始まりです。握飯2個にたくあんだけのタケの皮包みで金5銭は、ウナギ丼10銭という当時にしては割高でしたが、列車回数が1日に2両連結の4往復(1982年の東北新幹線開通直前では少なくとも12両連結列車が約100往復)では、この価格でも採算割れでした。第2番目は3ヵ月後の信越本線横川駅、3番目は86年3月の同線の高崎駅でした。販売はいずれも駅舎内とホームの売店に限られ、車窓販売は97年ころの国府津駅(東海道本線)に始まります。初期の駅弁業は、鉄道建設時の労務者募集・用地提供・宿舎食事などの便宜供与といった協力にたいして、販売許可を与えられて開業したものが多く、今日の業者は世襲制による3代目、4代目も珍しくありません。
 駅弁販売は、その始まりから今日までまったく無休で行われていて、完全休止は1923年9月の関東大震災時の被災地域内における列車不通の数日間にすぎず、第2次大戦時の空襲下でも販売されていました。

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2009年7月15日 (水)

ファミコン(こーじ)

 7月15日は、ファミコンの日、大阪港開港記念日です。
 「ファミコンの日」は、1983年のこの日に、任天堂が家庭用ビデオゲーム機「ファミリーコンピュータ」を発売したことが由来です。
 コンピューターやコンピューター技術を利用してゲームを行うことは古くからなされていたのですが、コンピューター自体は高価なものであったため、なかなか家庭まで浸透しませんでした。しかし、コンピューター技術の低価格化にともない、比較的高価な機器が利用できるゲームセンターではランダムロジックによるテレビテニスなどのビデオゲームが徐々に一般的になっていきました。1970年代中盤には、テレビテニスが各社から専用 LSI として発売されましたが、これをもとにしたテレビテニス専用機が家庭用ゲーム機の最初のものです。この後も、家庭用ゲーム機では価格的に実現が困難な各種先端技術は、まずゲームセンターで採用され、その後技術の低価格化とともに家庭用ゲーム機に取り込まれるという傾向が続きます。
 その後、マイクロコンピューター技術の発展により、パーソナルコンピューターは家庭へも徐々に普及しました。アプリケーションはもっぱらビデオゲームが主体でした。しかし、パーソナルコンピューターのハードウェア構成は、汎用大型コンピューターをそのまま縮小したものであり、ゲーム専用に使うには無駄が多いものでした。
 そこで1983年に任天堂が発売した家庭用ゲーム機がファミリーコンピューター(通称ファミコン、1998年3月現在累計出荷台数6162万台)です。ファミリーコンピューターのハードウェア構成は、本体には家庭用テレビ受像器への出力装置、入力用の数個のボタンと最小限の RAM と ROM しかもたない、ビデオゲームに特化したものです。しかし、専用ハードウェアにもとづくゲーム機と異なり、ファミリーコンピューターではゲーム機としての性能はプログラムに大きく左右されます。個々のゲームのプログラムは、専用のカートリッジ内部の ROM として供給されました。

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2009年7月14日 (火)

廃藩置県(こーじ)

 7月14日は、検疫記念日、求人広告の日、廃藩置県の日、パリ祭・フランス革命記念日です。
 「パリ祭・フランス革命記念日は、1789年にパリ市民がバスチーユ監獄を襲撃し、監禁されていた政治犯を解放したことをきっかけに起きた「フランス革命」を記念した日です。この日が日本で「パリ祭」と呼ばれているのは、映画“Le Quatorze Juillet”(7月14日)の邦訳が「巴里祭」だったことにちなんでいるからだそうです。
 廃藩置県は、1871年(明治4)7月14日、これまでの藩を廃して県を置き、中央集権的な統一権力として明治政府が成立するのに一時期を画した政治変革です。広義には、79年4月4日の琉球藩の廃止、沖縄県の設置で完成します。1869年の版籍奉還は、この廃藩置県の前提ではありましたが、前者は諮問という形で各藩に論議をつくさせ、〈奉還〉を許可したのに対し、後者は天皇の一方的な命令として廃藩が布告されました。このように廃藩が一挙になされた要因は、戊辰戦争以降1871年にかけての諸状況から、次のように要約できます。
(1)複合的な矛盾による重層的な危機の進行 戊辰戦争の終結によって列強による外圧の危機はいちおう回避されましたが、各地の農民一揆・打毀の激化、山口藩の諸隊反乱、〈脱籍浮浪の徒〉による大官暗殺・反政府運動の連鎖的反応などによって、社会的および政治的な重層的危機が増大しました。
(2)藩財政のゆきづまり 戊辰戦争によって各藩の財政は逼迫し、そのため1869年12月以降、自発的に廃藩を申し出る藩(多くは小藩)が相ついでいました。しかし、これはどの藩にもあった藩財政窮乏の先行的な顕在化現象でした。
(3)藩政改革の進行 藩政改革は基本的には新政府による藩統制の強化にほかならなかったのですが、そのなかにあって中央政府の意図をこえた事態(たとえば、鹿児島藩の士族軍事国家、熊本藩の豪農的ブルジョア権力の出現の可能性等)が予測されました。
(4)中央政府軍事力の創出 1871年2月、薩長土3藩を中心とする〈御親兵〉約1万を兵部省管轄下におくことが発令され、6月にはその集結が終わりました。この中央軍事力の創出が、廃藩置県を前提としてなされたか否かで議論は分かれていますが、少なくとも廃藩置県断行の背景的な威力になっていることは否定できません。
(5)急進的廃藩論の台頭 前述の複合的な矛盾による重層的危機の進行が、政府首脳の志向を一致せしめ、反政府運動の弾圧強化策とともに、漸進的廃藩論を急進的廃藩論へと変化させました。
(6)統一国家としての実質化 維新政府は、対外的には唯一の主権者ではありましたが、藩体制存置のままの対内的支配には限界があり、財政も不安定でした。当時、至上の課題とされた〈万国対峙〉のためには名実ともに統一国家の実現は緊急の要請だったのです。かくて、廃藩の緊急性は痛感され、維新官僚はこの国際的条件にからむ要請を、統一国家実現の〈てこ〉にしたのです。
 このような諸要因を背景とし、山県有朋、鳥尾小弥太、野村靖、井上馨ら少壮開明派が、木戸孝允、大久保利通、さらに廃藩に微妙な態度をとっていた西郷隆盛らを動かして、1871年7月14日、〈内以テ億兆ヲ保安シ、外以テ万国ト対峙セント欲セバ、宜ク名実相副(あいそ)ヒ、政令一ニ帰セシムベシ〉という天皇の命令による廃藩置県が断行されたのです。ここに全国は1使(開拓使)3府(東京、京都、大阪)302県となり、その年11月、1使3府72県に統合されました。この地方行政は、政府任命の開拓長官(当初は次官)、府知事、県令(権令(ごんれい)、参事等)が担当しました。ついで12月には、これら府県の序列が定められました。東京、京都、大阪3府の序列から始まり(1872年の琉球藩設置後は琉球藩がこれに次ぐ)、神奈川、兵庫、長崎、新潟(重要港のある県)がこれに次ぎ、以下関東、近畿、中部、東海(甲信を含む)、東北、北陸、山陰、山陽(和歌山を含む)、四国、九州というだいたいの順序でした。その際、政府は維新の忠勤藩と朝敵藩とを区別し、前者の大藩は県名にそのまま藩の名を用い(たとえば、鹿児島、山口、高知など)、後者と日和見の大藩にはその藩名を使わせないで、郡名または山川の名を用いさせた(名古屋=愛知、松江=島根、金沢=石川など)というエピソードがあります。79年4月の沖縄県設置で全国は1使3府36県となり、88年1道(1886年、北海道庁設置)3府43県となりました。
 ところで、廃藩置県に際し、藩主層はまったくといってよいほど抵抗しませんでした。廃藩によって年貢は新政府の手中に入ったものの、旧藩士への家禄の支給や藩の負債は政府が肩代りをし、藩主の実収入は保障されたからです。政府は各藩主の籍を東京に移させ、知藩事ではなくなりましたが、華族の身分には変化はありませんでした。廃藩置県は藩主層にとっては不安や危機感から解放され、失うことのもっとも少ない保障された政治的措置だったといえます。廃藩置県直後、〈太政官職制並事務章程〉が制定され、天皇親臨・万機親裁が明確に規定されました。廃藩置県は近代天皇制国家形成過程における権力統一の第一歩ですが、同時にそれはイタリアの統一完成(1870)、ドイツ帝国の成立(1871)とともに、19世紀70年代の後発国の近代的統一のアジアにおける一形態を示しているといえます。

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2009年7月13日 (月)

もうじきミニコンです(くみこ)

 この夏もミニコンサートの時期になりました。5月6月に演奏会が続き、並行してミニコンの準備もしていたので、とても忙しくしていました。(^0^;合奏やベルの楽譜以外に、今回は2台やアンサンブルのための楽譜もいくつか書かねばならず、普段より手間がかかったのでした。まだ大茶話会用のお菓子の買出しが不充分なので、これから必死でスーパーと家を往復します!
 第1回目から連続21回の出場となるTさんが、今回も東京から弾きに来てくれます。いつもオープニングを担当してくれていましたが、さすがに今回は恒例の「夏の思い出」だけになりました。(←2台のピアノを4人で弾きます)クリスマスは日程的に無理だろうということなので、これからは夏のミニコンの連続記録を伸ばしてほしいなあと思います。
 いつものようにお父さん・お母さん方にも何人か伴奏をして頂くのですが、今回初登場のパパさんがおられます。さゞなみ会のM先生のところから移ってこられた方のお父さんで、経験はなかったのにお子さんと一緒に練習してとても弾けるようになられた方です。昔習っておられた三姉妹のパパさんももちろん参加して頂きます。また去年のクリスマスにデビューされた別のパパさんは、今回進歩した伴奏形に挑戦して頂く予定でしたが、ご都合が悪くなって欠席です。残念!でも雨が降ったら弾きに来て頂けるかもしれません。う~ん!できれば晴れてほしい!どちらがいいか難しいところです。(^0^;
 前のミニコンで「崖の上のポニョ」を弾きたいお子さんが多く、みんなに我慢してもらったので、今回5~6人で右手のメロディだけを弾くという企画をしました。2台のピアノの前にズラ~っと並んで立ったまま弾くのです。伴奏は大人が1人入ってくれます。そしてフルートのKさんにも入ってもらって、みんなでにぎやかにポニョを演奏してオープニングにしようと思っています。楽しみです!この楽譜や少し弾きやすく書かれた「パッヘルベルのカノン」その他の曲の第2ピアノのパートを書くのでバタバタしてしまいました。
 他には大人のみなさんと「ハンガリー舞曲第5番」「展覧会の絵」「ミッション・インポッシブル」などを弾く予定で、フルートは‘猫の恩返し’より「風になる」を吹いてもらいます。前にも書きましたが、フルートのKさんは高校の後輩で40期だそうです。(31期の私よりかなり年下!)またいつものバイオリンのお子さんが「ホームスイートホーム」を弾いてくれます。「埴生の宿」ですね。前にベルでやった曲だし、みんな知ってて楽しいと思います。
 うちの息子は私と2台で「剣の舞」、娘はCDのオーケストラに合わせてチェルニー30番の19番を弾きます。参加してくれるみんなが楽しく弾けたらいいなあと祈っています。無事に終わりますように。

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2009年7月12日 (日)

人間ドッグ(こーじ)

 7月12日は、ラジオ本放送の日、人間ドックの日です。
 「ラジオ本法王の日」は、1952年のこの日に、当時の東京放送局、現在のNHKでラジオの本放送が開始されたことを記念した日です。
 1954(昭和29)年のこの日、国立東京第一病院(現在の国立国際医療センター)で人間ドックが始められました。
 人間ドックは、壮年期、老年期にある人で、日常生活を支障なく送っている人を対象として、短期間に全身の総合的な健康診断を、主として入院によって行い、本人の健康状態を評価、把握し、その後の生活における健康面での指導を行う総合健康診断のことですね。おもな目的は、自覚されていない各種の慢性疾患、とくにいわゆる生活習慣病を早期に発見することと、老化に伴う心身の機能の低下の度合を判定し、健康保持の方針を確立することです。
 船舶が航海中の安全を期するために、定期的に入港、ドック入りして詳しい点検をすることと類似することから、この名で呼ばれています。1938年、東京大学坂口内科に、当時の民政党の代議士の桜内、俵両名が短期入院し、健康診断を受けて、次期政権に参画できるよう、体調を整えようとしたことが初めといわれていて、〈人間ドック〉の名称もこの両名によってつけられたといわれています。しかし、病院が本格的に人間ドック・システムを取り入れだしたのは第2次大戦後で、54年に国立第一病院(現、国立病院医療センター)で設置され、しだいに全国に普及しました。この背景として、日本の健康保険制度に原則として予防給付が含まれていないこと、高度経済成長を支える企業の中堅以上の幹部の健康管理意識の高まり、各種検査技術の発展、などがあげられます。
 当初は、1週間の入院を基本的な形態としていましたが、普及に伴って、また検査のスピード化によって、2日入院や外来ドックも利用されるようになってきました。とくに、70年代以降の医療技術、とりわけ診断技術の急速な発展によって、この傾向は強まっていて、近年では、健康診断という本来的機能に限ってみれば、外来ドックでも十分に目的を達成できるようになっています。この結果、入院ドック、とくに1週間ドックは、健康診断に加えて、休養のための社会からの一時的隔離という目的を備えるようになりました。
 最近は、企業・事業主が医療費抑制対策の一環として従業員の健康管理に強い意欲を示していて、中・高年の健康管理に一日ドックなどの短期ドックを採り入れています。

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2009年7月11日 (土)

真珠(こーじ)

 7月11日は、真珠記念日、世界人口デーです。
 「真珠記念日」は、1893年のこの日に、三重県鳥羽町の御木本幸吉夫妻が初めて真珠の養殖に成功したのを記念した日です。それまでは真珠といえば天然真珠のことで同じ大きさのダイアモンドとほぼ同額なほど高価だったそうです。今、真珠が多くの人々の手に届く存在となったのは、この養殖のおかげなんですね。
 日本では御木本幸吉が1888年ころからアコヤガイにガラス、貝殻などで作った半球形の核を挿入して養殖試験を行い、5年後にようやく5個の半円真珠を得ました。その後、1907年に三重県の見瀬辰平は真円真珠の誕生を告げる特許を得ました。この特許願の中で見瀬は、核を挿入する際に外套膜の上皮細胞をいっしょに挿入することが真円真珠を作るために重要であると述べ、真珠の形成にとって真珠袋を作らせる細胞が必要なことを明確にしています。同じころ、御木本幸吉の女婿西川藤吉も一連の特許出願を行い、その中で外套膜の1片を切り取り真珠袋を作らせるという、現在の挿核技術の基本をなす原理を述べています。見瀬辰平の方法を誘導式、西川藤吉のそれをピース式と呼ぶ。このように明治末期から大正初期に、ようやく半円真珠の技術を越えて真円真珠生産の技術が確立しました。一方、養殖技術もそれまでの地まき式方法から、10年藤田昌世による垂下式養殖法が考案されて以来、急速な発展をみました。38年に第2次大戦前の真珠養殖としては最高の1088万個の生産量をあげ、戦後では67年に3900万もんめ(〈もんめ〉は真珠の重さの国際単位で、1もんめ=3.75g)に達してピークを迎えました。しかし、その直後に生産過剰による不況に陥り、現在は各種の生産調整が行われています。

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2009年7月10日 (金)

納豆(こーじ)

 7月10日は、建設省開庁記念日、納豆の日、ウルトラマンの日です。
 「ウルトラマンの日」は、1966年のこの日にTBSテレビで「ウルトラマン」の放映が開始されたのを記念した日です。
 納豆の日は「なっ(7)とう(10)」の語呂合わせですね。
 納豆はダイズを原料とする加工食品。塩辛納豆と糸引納豆の2種があり、単に納豆というと、関東では後者を、関西では前者をさすことが多かったようです。塩辛納豆の名は平安後期の《新猿楽記》に見えていますが、古く中国から伝えられ、奈良時代から宮内省の大膳職でもつくっていた〈汀(くき)〉の一種とされます。室町期になると納豆、唐(から)納豆と呼ばれ、のちには寺院でつくることが多かったため寺納豆ともいいました。京都では大徳寺納豆、天竜寺納豆などの名が知られ、遠江(とおとうみ)浜名湖畔の大福寺でつくられたものは江戸初期から浜名納豆(浜納豆とも)として著名でした。現在では、柔らかく煮たダイズにショウユコウジカビを植えてこうじ豆をつくり、塩水に浸漬(しんし)して3~4ヵ月発酵させたのち、豆をとり出して乾燥します。暗黒色で、八丁みそに似た風味があります。そのまま酒のさかななどにもしますが、田楽みそにすり混ぜたり、和菓子のあんに加えると特有の苦みと渋みが味を引き立てます。
 糸引納豆は、蒸し、あるいは煮たダイズを納豆菌で発酵させるもので、従来は煮たダイズをわらづとに包んで室(むろ)に入れ、わらに付着している納豆菌を繁殖させてつくりました。このため、つと納豆とも呼びます。室町中期から日記類などに名が見られるようになり、15世紀半ばのものとされる《精進魚類物語》には納豆太郎糸重という武者が活躍します。江戸前期、人見必大は《本朝食鑑》(1697)にからしであえて食べると美味だといい、貝原益軒は《大和本草》(1709)で腐って粘りが出てきたもので、こんな物を食べてはいけないといっています。京都では食べ、九州では食べる人が少なかったのかも知れません。
 糸引納豆はタンパク質やビタミン B2に富み、消化吸収のよいすぐれた食品です。刻みネギを加え、からしじょうゆで味をととのえて飯にかけて食べ、あるいは、すりつぶしたものをみそ汁でのばして納豆汁にします。納豆あえは、刻んだ納豆をからしじょうゆで調味し、それでヒラメ、サヨリなどをあえます。また、つきたての餅にからませたり、固めにといた小麦粉の衣をつけててんぷらに揚げたりもします。第2次大戦前の東京では、毎朝早く納豆売が町を呼び歩いていました。関西では見られませんでしたが、それは昔からのことではなく、《人倫訓蒙図彙》(1690)には納豆売の姿が描かれています。ところで、東ネパール、シッキム、ブータンなどのヒマラヤ地方とジャワ島に、現在糸引納豆そっくりのダイズの無塩発酵食品が行われており、この両地方と日本とを結ぶ大三角形の地域が、照葉樹林文化の重要な一部をなす納豆文化圏であろうとする中尾佐助(1916‐93)の説が注目を集めています。

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2009年7月 9日 (木)

森鴎外(こーじ)

 7月9日は、ジェットコースターの日、鴎外忌です。
 「ジェットコースターの日」の由来は、1955年のこの日に開設した後楽園遊園地に、日本初の本格的なジェットコースターが設置されたことから来ています。ジェットコースターは意外と昔からあったんですね。
 森鴎外は、明治・大正の小説家、評論家、翻訳家、陸軍軍医です。本名林太郎。別号観潮楼主人など。石見国津和野(現、島根県)生れ。父森静泰(せいたい)(のち静男)は津和野藩主亀井家の典医でしたたが、維新後は禄を離れて上京し千住で診療所を開きました。鴎外は母峰子の薫陶下に、没落した生家再興の期待を託されて育ち、1872年(明治5)に上京、81年に最年少で東大医学部を卒業し、軍医に任官しました。84年衛生学研究の目的でドイツに留学、西欧の思想と文化に触れて清新な感動を受けました。88年帰国。落合直文や井上通泰、妹の小金井喜美子らと新声社(S. S. S.)を結成し、西欧の抒情詩を中心とする訳詩集《於母影(おもかげ)》(1889)を発表しました。ついで《しからみ草紙》を創刊し評論を中心に、レッシングにみずからを擬した戦闘的な文学啓蒙活動を展開、とくに坪内逍遥の説く写実主義に対して、イデー(理想)を重視する浪漫主義の立場から批判を加え、没理想論争を応酬しました。また、《舞姫》や《うたかたの記》(ともに1890)など、ドイツ留学記念の三部作を書いて戯作性を脱却した近代小説の確立に貢献しました。他方、医学面では《衛生療病志》などの個人誌を創刊、医学界の封建性の払拭(ふつしよく)をめざした論戦をいどみ、その批判が軍医部内の上部に及ぶことも辞さなかったそうです。ハルトマンの美学を祖述した《審美論》(1892‐93)などの業績もあります。日清戦争の従軍で文学活動は中断しましたが、凱旋(がいせん)後、96年に《めさまし草》を創刊し、合評形式による実作の批評を試み、とくに樋口一葉を推賞して世に出したことは有名です。しかし、99年小倉の第12師団に左遷され、《宝外漁史とは誰ぞ》(1900)を書いて以後、文壇への発言を停止しました。その間、クラウゼウィツの《戦争論》の翻訳を試み(《大戦学理》1903)、また、アンデルセンの翻訳《即興詩人》(1892‐1901)を完成しました。1902年東京の第1師団に復帰、日露戦争に従軍しましたが、戦場での詩歌・俳句をまとめた異色のアンソロジー《うた日記》(1907)を編んでいます。
 1907年陸軍軍医総監に進級して、陸軍省医務局長に補せられ、軍医としての最高位につきました。そして09年、家庭内のトラブルを描いた小説《半日》から創作活動を再開し、第2の活動期を迎えます。《スバル》《三田文学》など、耽美主義の拠点となった雑誌の精神的支柱として自然主義と対立しましたが、自身の作風はロマンティシズムの枠をこえて、はるかに多彩でした。自己の性欲史を冷徹に点検、叙述した《ヰタ・セクスアリス》(1909)は発禁処分を受けて話題になりましたが、身辺の事実に題材を求めた短編も多くあります。かつての戦闘的な啓蒙性は影をひそめ、作風は総じて玲瓏(れいろう)かつ端正で、口語体に統一された文体も格調が高いそうです。《予が立場》(1909)で resignation(諦念)の心境について語っていますが、公務にも芸術にもけっしてのめりこむことのない独自の哲学を語った《あそび》(1910)、巨富を蕩尽(とうじん)したあげく非情な傍観者と化した豪商を描く《百物語》(1911)などに、高級官僚として日本の近代を生きる複雑な心情を彷彿(ほうふつ)とします。《妄想》(1911)も同系列の作品で、半生を回想してなお尽きぬ〈見果てぬ夢〉の思いを述べます。《普請中》(1910)は留学時代の愛人と再会して無感動な高級官吏を描いた短編ですが、西洋を模して及ばぬ日本の近代に対する諦念が根底にひそみます。しかし、現実の時代状況への対応も敏感で、華族の嫡男を主人公とする《かのやうに》(1912)以下一連の秀麿(ひでまろ)物や《沈黙の塔》(1910)では、大逆事件に象徴される政府の社会主義弾圧政策に対して、強い危惧を表明しています。文部省の国語政策に干渉して、歴史的仮名遣いの改定を阻止した《仮名遣意見》(1908)もありました。やや長編の作では、知識青年の個性形成史を追った《青年》(1910‐11)、薄幸な女性のひそかな覚醒と失意のドラマを描いた《雁》(1911‐13)などがあり、後者は青春の追憶をこめたロマンティックな抒情がただよいます。
 大正期の宝外は乃木希典の殉死に触発されて、歴史小説に新しい領域を開くことになりました。《興津弥五右衛門の遺書》(初稿1912)は殉死者の遺書に擬して乃木への賛歌を語り、《阿部一族》(1913)は殉死の掟と人間性の相克を描いて、武士道を貫いた死者への感動を隠しません。《大塩平八郎》(1914)では大塩の挙兵を〈未だ醒覚せざる社会主義〉の乱と呼んで批判的です。これらの歴史小説はいずれも史料に忠実な〈歴史其儘(そのまま)〉の手法が特色ですが、その後、史料の束縛を脱して主観を自由に生かす〈歴史離れ〉の方向にむかい、《山椒大夫》(1915)や《高瀬舟》《寒山拾得》(ともに1916)などの佳作が書かれました。女性の献身、求道者の安心立命などを主題とします。庶民の反抗を描いた《最後の一句》(1915)も異色作です。さらに《渋江抽斎(しぶえちゆうさい)》(1916)では医にして儒者を兼ねた抽斎の伝を、伝記の考証過程とあわせ描いて、史伝の新しい領域を開きました。文体もまた、高雅に完成され、《北条霞亭》(1917‐21)などが書きつがれましたが、1922年萎縮腎で没しました。夏目漱石と併称されることが多く、相並んで明治の精神と倫理を体現した作家です。

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2009年7月 8日 (水)

給食試食会(くみこ)

 またかなり日が経ってしまいましたが、娘の参観の3日後に給食の試食会がありました。演奏会前に学校行事が多くて大変でしたが、今しか経験できないことだし、申し込んで行って来ました。子どもが大きくなるのは早くて、きっと気がついたら娘も小学校を卒業してしまうでしょうから・・・。
 その日のメニューはコッペパン・焼きスパゲティ・コロコロソテー・つぶつぶりんごカムカムゼリーでした。焼きスパゲティは焼きそばと同じ味つけです。中華麺を炒めるのは大変だから、スパゲティをゆでて中華麺の代わりに使うのだそうです。コロコロソテーはサイコロステーキのような豪華なものを想像していましたが、3mmぐらいのハムとにんじん、コーンの炒め物でした。(^0^;つぶつぶりんごカムカムゼリーですが、「カムカム」というのはビタミンCの多い果物だそうです!知りませんでした。‘よく噛んで食べよう’という意味だと思っていたら、‘りんご’と‘カムカム’のゼリーなのでした。ジェニファーやキャメロンを初めとする数人で丸いテーブルを囲んで楽しく給食を頂きました。(^0^)/
 この数日前に沖縄の慰霊の日にちなんで「沖縄そば・ゴーヤチャンプルー・黒糖パン・パイナップル」というメニューの日があったのですが、できればそういう珍しいメニューの日に試食会をしてもらえたらうれしかったなあ・・・なんて思いました。ぜいたくでしょうか。(^0^;
 ところで最初に校長先生のご挨拶があり、「同じぐらいの規模の他の小学校では試食会に来る父兄は20人ぐらいですが、この学校は70人も申し込みがありました」というお話を聞きました。確かに多いですよね。図書室とランチルーム2部屋を使って行われましたから。「給食への感心が高いということで、喜んでます」とのこと。でもちょっとあきれられてるかも・・・!
 実は校長先生のお話はいつも長いので有名なのですが、この日は比較的短く、隣にいたある人が「お体の調子が悪いのかしら?」と心配していました。ジェニファーは、話が長引いたらキャメロンの娘さんに「長い!」と言ってもらおうなどと言ってましたが(私も一緒になって言ってたけど!)、その必要はありませんでした。(^0^)/来年もできれば参加したいです!

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2009年7月 7日 (火)

七夕(こーじ)

 7月7日は、七夕、川の日、浴衣の日、カルピスの日、スリーセブンの日です。何かいいことがありそうな日です。
 「七夕」はいろいろな言い伝えがあるのですが、天の川を隔てた織姫と彦星が年に一度の再会を許される日という話が一番ポピュラーでしょうね。この話は中国の言い伝えらしいですが、日本でも誰でも知っているくらい有名なお話ですね。
 日本の七夕の行事はこの夜、天の川の両岸に現れる牽牛星(わし座の首星アルタイル。彦星、犬飼星)と織女星(こと座の首星ベガ)とが鵲の翼を延べたのを橋として天の川を渡り相会うという、中国の伝説を受けいれたことから興りました。タナバタとは機を織ることから、その人をさすことになった古語で、それが織女星に結びついたようです。中国の乞巧奠の行事に倣って日本でも宮中の節会(せちえ)の一つとなりました。後世五節供(ごせつく)とよばれるものの一つとして、この夜庭前に供えものをし、葉竹に五色の短冊などを飾りつけ、子女の学問・技芸の上達を願う行事として広く行われるにいたっています。織女星は神格化されて〈織り姫さま〉ともよばれ、短冊にも子女が競って願望を文芸的に表現し、きわめてうるおいのある風俗行事を発達させました。
 この星祭とは別に、民俗上からとくに注目されるのは、この日を盆の一部として扱い、ナヌカボン(七日盆)とかナヌカビとよんで、精霊(しようりよう)を迎えるための準備を行う風が全国的に見られます。カヤやマコモで馬をつくり、庭に置いたり、綱でつるしたり、屋根に上げるのは東日本に広く見られます。また、この日を墓掃除とか墓参り道の草刈り(ボンミチツクリ)とか仏壇の道具を洗い清める日などに決めている土地も多いそうです。ことに子どもらの〈七度食べて七度水浴びする〉とか、牛馬に水浴させるとか、年に一度の共同井戸の井戸替えとて組中総出で行うとか、水に関連する習俗が見られます。七夕の日にきまって雨が降る、この日3粒でも降ったほうがよい、とか、およそ星祭とは縁の遠い、降雨についての言い伝えが往々にしてあり、土地によっては、河童供養とか水神(すいじん)祭の日としています。おそらく、祖霊を迎えて行う盆祭の準備段階としての、水による潔斎が重視されていたことの名残なのでしょう。

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2009年7月 6日 (月)

公認会計士(こーじ)

 7月6日は、記念日の日、ゼロ戦の日、公認会計士の日、ピアノの日、サラダ記念日です。
 企業の公表する財務諸表が社会的に信頼されるには、独立の第三者である職業的専門家の監査によってその適正性が立証される必要があります。この監査を、他人の求めに応じて報酬を得て主たる業務として行っている職業的専門家を公認会計士といいます。公認会計士の業務は、監査業務のほかに、会計業務、税務業務、経営助成業務と多岐にわたっています。監査業務には、商法による監査、証券取引法による監査、その他の法令による監査、法令によらないで受ける任意監査等があります。会計業務には、会計制度、帳簿組織、記帳方法、内部統制組織等の調査、立案、相談等があります。また公認会計士は、税務業務の専門家として税務申告書の作成や税務相談等を行っています。経営助成業務としては、経営者の意思決定に必要な情報と助言の提供を行っています。産業の発達に伴って、企業の会計制度も複雑かつ大規模化し、また信用経済の発展とともに企業をとりまく利害関係人も増え、その利害調整の必要性から生まれたのが、公認会計士制度です。
 この制度が最初に生まれ発展したのはイギリス、ついでアメリカで、会計士監査の理論と技術は企業の発展および変化に応じて発展してきました。これらの国では、信用目的、投資目的のため、会計士の業務が重視され、その社会的地位も高くなりました。会計士 accountant も、会計士協会を組織し、会員の資質の向上をはかりました。イギリスでは1880年にイングランドおよびウェールズ勅許会計士協会(イギリス勅許会計士協会。略称 ICA)が設立され、アメリカにおいては1916年(起源は1887年にさかのぼる)アメリカ会計士協会(AIA)が組織されました(1957年、アメリカ公認会計士協会=AICPA になる)。日本においても、職業会計人の必要性から、1927年に計理士法が立法化され、会計士制度の端緒となりました。この計理士法のもとでは資格試験も実施されましたが、他方、専門学校以上で会計学を修めれば試験なしで登録ができたため、計理士登録者も一時は全国で2354人に達しました。第2次大戦後の48年に証券取引法が制定公布され、投資家保護の目的のために上場株式を発行している会社に対し、監査報告書を添付した有価証券報告書の提出義務を負わせました。この監査の担い手として従来の計理士が適切であるかどうかが問題とされ、同年、計理士法に代わって公認会計士法が制定公布され、公認会計士制度が発足することになりました。この制度では、まず第1次、第2次の公認会計士試験(国家試験)に合格して会計士補資格を取得したのち、一定期間(最低3年)の業務補助ないし実務従事および実務補習後、第3次試験に合格し、日本公認会計士協会に備える公認会計士名簿に登録したものを公認会計士といいます。第1回の公認会計士試験は翌49年実施されました。74年には商法上も公認会計士監査が取り入れられ、公認会計士の仕事の範囲は拡大しました。

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2009年7月 5日 (日)

ビキニ(こーじ)

 7月5日は、ビキニスタイルの日、農林水産省発足記念日です。
 「ビキニスタイルの日」の由来は、1946年にフランスのルイ・レアールが、世界でもっとも小さい水着としてビキニスタイルの水着を発表したことからですね。発表の4日前にアメリカが原爆実験を行ったビキニ環礁から、その名前が取られたということですが……。
 ビキニは小型のブラジャーとショーツだけを着ける女性用の水着ですね。肌の大部分が露出されるので、1947年にフランスに現れたとき、センセーションを巻き起こしました。ビキニ環礁でのアメリカの水爆実験による衝撃とあいまって、ビキニと呼ばれるようになったといわれていますが、実験は54年なので、この説はあたりません。また、フランスの技術者、ルイ・ルオールLouis Ruault が作り出し特許をとってビキニの名で売り出したともいわれていますが、語源、起源ともはっきりしていません。ビキニ・スタイルは、すでに前3世紀のシチリア島のモザイク壁画に現れていました。今日では、日光浴のためにも愛好され、世界的に普及しています。

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2009年7月 4日 (土)

旭区民センターでのコンサート(くみこ)

 先日、旭区民センターでピアノを弾いてきました。中国音楽理事会主催のもので、去年は客席がざわついていて、気が散って弾きにくかったのですが、今年は静かでした。(^0^)私は休憩の後の1番だったので、最初の1~2分はまだ着席されてないお客さんで落ち着かない感じでしたが、すぐにシ~ンとして内心驚きました。
 曲はショパンの「華麗なる大ポロネーズ」で、まあ何とか最後まで辿り着けてホッとしています。ここのコンサートは客席からのビデオや写真の撮影が禁止されていたので、舞台裏にビデオをセットして、自分で背中から録りました。顔は映っていませんが、滅多にない面白いアングルでした。(顔が映っていないのがよかったりして!)中国音楽理事会の方で録ってくれるDVDは申し込みましたが、マイビデオもよい記念になります。
 今回懐かしい知人が2人来てくれました。1人は昔カワイ音楽教室に勤めていた頃にピアノを習いに来てくれていたKさん。最初に出会った頃、彼女はまだ高校生でした。もう24~5年前のことになります。とても熱心に練習してこられていましたが、お仕事も忙しく、私もそのうちカワイをやめたので、年賀状だけのお付き合いになっていました。でもここ数年はいろいろな演奏会に来てもらっています。ミニコンを聴きに来てくれたこともありました。お話を聞くと、今も教会で賛美歌の伴奏をしたり、あちこちの披露宴でピアノを弾いたり、結構ピアノで活躍されているそうです。そのうちミニコンにも弾きに来てほしいなあと思います。
 もう1人は大学時代の同級生Sちゃん。ゼミは違いましたが、いつも一緒に動いていた6人グループの1人で(男性)、昔サキソフォンを吹いていた音楽好きの人です。卒業以来ご無沙汰していたのですが、去年の同窓会で連絡が取れるようになりました。これまた幹事さんには感謝です。(その幹事さんも青少年センターの時に来てくれていました!)この友だちが私の演奏会に来る途中、別の同級生にあったのだそうです。以前の記事でご紹介した大学准教授になっている友だちです。彼も昔ピアノを弾いていた人で、何だかご縁を感じました。次々とご縁がつながっていくとうれしいなと思います。
 これでやっと一連の演奏会が終わりました。次は自宅でのミニコンサートです。みんなで楽しく弾きたいです!

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2009年7月 3日 (金)

アイスクリーム(こーじ)

 7月3日は、サーファーデー、通天閣の日、ソフトクリームの日です。
 サーファーデーは「な(7)み(3)」の語呂合わせです。
 通天閣の日は、大阪・新世界の中心にある有名な塔「通天閣」が、1912年のこの日に完成したのを記念した日です。パリのエッフェル塔を模倣して作られたという話だそうです。
 アイスクリームは、牛乳または乳製品を主原料とし、これに糖類、安定剤、乳化剤、香料その他を加えて凍らせた氷菓子ですね。原料の配合比など一定しないため、日本では食品衛生法によってアイスクリーム類の成分規格と呼称が定められている。また、乳固形分を含まないものは、氷菓の名で区別されています。原料を混合したものをアイスクリームミックスと呼び、これをフリーザーで凍結させるさい、かくはんしながら空気を送り込んで細かい気泡を多く含ませて容積を増量させます。これをオーバーランといい、この操作によって口あたりが滑らかで刺激の少ない冷たさが得られるようになります。
 アイスクリームの原型にあたる氷菓は、3000年以上も前に中国で作られたと13世紀にマルコ・ポーロが伝えていますが、天然の雪や氷を利用して食物を冷やすことは古くから各地で行われていました。ヨーロッパで果汁やブドウ酒を入れた氷菓が作られたのは、硝石を水に溶かし熱を奪って冷却する方法を16世紀初めにイタリアで発明してからです。1533年にはフィレンツェのメディチ家の娘カトリーヌがアンリ2世のもとに嫁いださい、連れて行ったコックによってフランスに伝わったのですが、製法は100年以上もの間、宮廷内で秘法とされていました。初めて市販されたのは、1660年にパリに店ができてからで、たいへんな旋風を巻き起こし、76年には同業組合がつくられました。これまでのものは、シャーベット状で、17世紀から18世紀にかけての改良によって空気と脂肪の溶けあったクリーム状のものとなりました。18世紀にはアメリカへ伝わり、1851年には J. ファッセルが世界で初めてアイスクリームの製造卸売を始めたといいます。ソフトクリームを入れる円錐形のコーンカップも、1904年のセントルイス万国博の会場にいたアイスクリーム売によって発明されたといいますが、同様なものはヨーロッパにもありました。日本人で記録上初めてアイスクリームを口にしたのは、1860年(万延1)に渡米した幕府の遣米使節の一行でした。彼らはこの珍奇にして美味なるものに接して驚倒したようです。正使新見豊前守の僕従であった柳川兼三郎は、その〈アイスクリン〉の美味をたたえ、〈是を製するには、氷を湯にてやわらかくなし、其後物の形へ入れ、又氷の間へ入れて置く時は氷のごとくなると云ふ、尤も右の氷をとかしたる時なま玉子を入れざれば再び氷らずと云ふ〉と、ほほえましい文章を書き残しています。1869年(明治2)に横浜で初めて売り出されましたが、まだ外人相手のもので、一般に普及するにはそれから30年ほどかかりました。大正に入ると抹茶入りアイスクリームなども作られた。1920年に富士アイスクリーム、続いて明治乳業が工業生産を開始、デパートや駅での販売も始められました。第2次大戦後アイスクリームの消費は大幅に伸び、生産高は57‐62年の5年間で約3倍を示しました。消費量の中ではラクトアイスと氷菓が70~80%を占めていますが、高級品の伸びが著しいそうです。

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2009年7月 2日 (木)

蛸(こーじ)

 7月2日は、ユネスコ加盟記念日、たわしの日、蛸の日です。
 タコはイカと全形が類似して吸盤をそなえた8本の足があり、丸くて頭とみなされる腹部をもつ点で、一種奇怪な擬人的生物としての感覚を起こさせるようで、漫画などでしばしばタコ坊主などとして扱われるほか、禿頭(とくとう)の人とか赤褐色の外皮から酔漢を連想させるあだなにもなっています。巨大なタコは伝説化して人をとる怪物のようにも伝えられました。また、蛇が海中に入ったものが変じて7本足のタコとなり人を襲うなどとも語られ、北陸海岸から北日本にかけてこの種の怪異談が伝えられています。また、タコはサトイモを食うことを好み、海岸の砂畠に栽培するイモを、6本の足を使って立って陸上を歩み、他の2本の足で土を掘ってイモを取っていくなどとも語られていました。これは芋とタコとを煮たものが美味なところから生まれた戯話ではないかと考えられますが、近世の随筆や奇譚におりおり扱われた話題です。タコは飢えると自分の足を食って生き続けるという説もあって、利益が上がらず財産を処分しながら配当を続ける会社の行為を蛸配当などともいいます。蛸壺の中にとじこもる性質などから連想された行動かもしれません。タコは形ににあわず美味なところから、これを食うことを禁じて自己の謹慎する誠意を示す意味で、タコを描いた絵馬を奉納して病気の治癒を祈願する風習があり、京都の蛸薬師はもと永福寺本尊で、現在は中京区の妙心寺本尊となっていますが、薬師信仰としての治病祈願に、婦人病、小児病の治癒のためタコを禁ずるといって祈願するので名高いそうです。形から妊婦がタコを食べると生まれた子がいぼができるとか、骨なしになるといって、妊婦の食物としては与えないようにすることも俗信として行われています。さらに子どもの夜泣きを止めるまじないとして薬師や地蔵に、タコの絵馬を奉納する例も各地に知られています。
 タコが自分の触腕を食べ、しかも食べた触手は再生するという俗信は、すでに大プリニウスの《博物誌》にも述べられています。そのためキリスト教世界では守銭奴の象徴となりました。これは、交尾期に生殖器の役を果たす雄の触腕が雌の外套腔に挿入される現象から生じた説と思われます。タコは近づく魚を引き寄せて捕食するので、誘惑者や裏切り者、あるいは悪魔と同一視され、devilfish の名が一般化しています。西洋では古くから海の怪物の伝説が存在していましたが、タコも《オデュッセイア》に語られる12本足と6頭の怪物スキュラ Skylla などと混同されました。さらに19世紀初めに博物学者ドニ・モンフォール Pierre Denys‐Montfort は、船を海中に引きずり込むという怪物クラーケンの正体を大ダコと断定し、〈地上で最大の凶暴な生物〉という恐しいイメージを定着させました。ユゴーはこれにヒントを得、《海で働く人々》(1866)で人間を襲うタコを描き、J. ベルヌや H. G. ウェルズも怪物としてのタコのイメージを作品に盛り込んでいます。吸盤や触腕の形からタコを好色のシンボルとみなすことも古来行われ、タコの肉は催黒作用をもつと信じられました。なお、タコを表す英語 octopus などは、ギリシア語 okto と pous の合成に由来し、原義は〈8本足〉です。

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2009年7月 1日 (水)

わらべうた(こーじ)

 7月1日は、童謡の日、国民安全の日、更生保護制度施行記念日、海開き、山開きです。
 きょうから7月、いよいよ夏って感じですね。「国民安全の日」が何で今日なのかというと、「暑さで気のゆるみから事故が多発するから」という理由だそうです。ちなみに、今日から「全国安全週間」です。
 童謡の中でも「わらべうた」というのがあります。子どもたちの遊びの中で、子どもによって選択され、作り変えられ伝えられる歌です。わらべ歌(唄)、童唄とも表記されます。おとなが子どもの頃に歌った歌が伝えられることもありますが、おとなが子どものために創作した歌である童謡は、遊びで使う場合を除き、一般に「わらべうた」には含まれません。遊びの中ではなく年中行事の中で、子どもが参加し受け持つ歌、例えば正月の左義長(どんど焼き)、夏の虫送り、秋の亥子(いのこ)などの歌もわらべうたとされます。いってみれば、わらべうたは子どもが歌う民謡(民俗音楽)です。
 また、子守歌の中で、とくに眠らせるための歌は、おとなや子守娘が歌い、子ども本来の表現とは異なる性格をもち、わらべうたとおとなの民謡との中間的歌といえます。
 わらべうたは子どもの遊び仲間の集団で共通し、集団が違えば歌の内容や遊びのルールも違い、子どもはその違いを厳密に区別しています。しかし、多くはすぐに覚えられるような単純な構造を持っています。子どもはわらべうたに対して〈歌〉という意識をもっていない場合が多く、むしろ〈歌〉が鞠(まり)や縄と同様に遊びに欠かせぬ道具の一つと考えているようです。だが、音楽的にみれば単純であっても民族の歌がもつ最も基本的な表現を含み、無意識の中で表現されるものであるだけに、原初的な音感覚をとらえることができます。
 小泉文夫編《わらべうたの研究》(1969)では、現代の日本の子どものわらべうたを遊びによって10種に分類しています。
(1)唱え歌 〈あした天気になれ〉などの唱えごとや数をかぞえたり数をよみ込んだ歌、約束やものえらびの歌、悪口やはやしことば、尻取りや頭韻あわせの歌、早口ことば、暗記歌、替歌などのことば自体を遊びとする歌。
(2)絵かき歌 〈棒が1本あったとさ〉などと歌いながら絵を描くもの。基本的にひとりで遊ぶものなので、即興的にどんどん変えられていくことが多いです。日本のほか、数ヵ国にだけみられます。
(3)おはじき・石けりの歌 〈いちじくにんじん〉など遊び道具を地面や机の上にほうって遊ぶときの歌。数は多くありません。
(4)お手玉・羽根つきなどの歌 遊び道具を上にほうり上げて遊ぶもの。〈おさらい〉や〈一番はじめは一ノ宮〉などのお手玉歌、〈ひとり来な〉の羽根つき歌のほか、風船、小石、けん玉遊びの歌など。数は少ないそうです。
(5)まりつき歌(手鞠歌) 〈あんた方どこさ〉など。かつては女の子の遊びの中の主役でしたが、近年あまり盛んでなくなりました。それは技術的に難しく熟練しないと楽しめないなど種々の理由があげられます。よく弾むゴムまりの普及で、立って足の技巧を中心とする遊び方になる以前は、床に座ってつき、速いテンポでした。まりつきから来るリズム感は、1拍が単位となるので、歌では2拍子や3拍子が混じったような柔軟な拍節になります。
(6)縄跳び・ゴム縄の歌 〈お嬢さんお入り〉など縄の中に入り跳ぶときの歌や、ゴムひもを跳んだりくぐったり、《春の小川》などの唱歌で足にからませながら跳ぶときの歌。縄跳びは昭和に入ってから普及し盛んに遊ばれましたが、近年は廃れぎみです。なお、〈熊さん〉はアメリカの〈Teddy Bear〉が日本に輸入されたものです。縄跳び歌の拍子は、規則的にまわる縄を跳ぶ動作に由来するリズム感から、明確な強弱アクセントのある2拍子となります。
(7)じゃんけん・グーチョキパー遊びの歌 〈じゃんけんポイ〉など、グーチョキパーの三つの形で勝ち負けを決めるときの掛声のような歌や、勝敗を長びかせてよりスリルを味わうための歌。また、〈グリコ〉と3歩進む遊びなどバリエーションが多くあります。手ばかりでなく足や舌、顔などでも行います。南・北アメリカでは日系人からじゃんけんが伝わり、少しずつ普及しているようです。
(8)お手合せ歌 〈せっせっせ〉などと、向かい合った2人がお互いの手のひらを打ち合わせて遊ぶときの歌。古くはストーリーのある歌詞につれて身ぶりを加えながらのものがかなりありましたが、近年は《みかんの花》《桃太郎》など童謡や唱歌を歌いながら打ち合わせる、技巧に重点を置いたものが多いようです。〈おちゃらか〉とまったく同じものが韓国にもあります。
(9)からだ遊びの歌 〈だるまさんにらめっこ〉〈ずいずいずっころばし〉〈おしくらまんじゅう〉など、遊び道具の代りに手や顔などのからだの一部や全体を使って遊ぶときの歌。これらはかなり昔から遊ばれていて、今日でも子どもに愛されているものが多くあります。
(10)鬼遊びの歌 〈鬼ごっこ〉〈かごめかごめ〉〈今年のぼたん〉など、鬼を中心に遊ぶための歌や、関所遊びの〈通りゃんせ〉、子もらい遊びの〈はないちもんめ〉など、つかまえたり引っこ抜かれたりすることにスリルを感じる遊びのときの歌。この種の遊び歌の中にも古い歌があります。
 現在の日本の子どもたちを取り巻く生活環境の変化は、自然現象や動植物の歌の大部分を失っています。核家族化は老人から孫への歌の伝達を切断し、安全な路地や場所も少なく、またテレビや塾などで、仲間と遊ぶ時間も減少し、ある種の歌は歌われなくなっています。とはいえ、逆に唱歌、CM ソングや歌謡曲、テレビ・ドラマのテーマソングなどの中から、子どもの音感覚にとって受け入れやすい歌が遊びの中に取り込まれ作り変えられて、姿をかえつつわらべうたは生き続けています。

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