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2009年6月

2009年6月30日 (火)

交流会と参観(くみこ)

 先日、娘の小学校で父兄の交流会があり、その翌週に参観・懇談がありました。演奏会の合間を縫って学校行事が多く、寝屋川高校の同窓会の幹事会もあり、慌しい毎日です。
 交流会ですが、これがまた玉入れ大会でした!まあ小学校なので玉入れをするのはごく普通ですよね。先に中学で玉入れがあったので「また~?」と苦笑いしながらも、かなり楽しんでしまいました。(^0^)/子ども同士、親同士のクラス対抗戦のあと、それぞれのトップチーム同士が親子対決をしました。と言っても、大人と子どもの差を考慮して、父兄は20秒間、子どもたちは30秒間というハンディつきの勝負です。いい勝負でしたが、僅差で父兄が勝ちました。
 先日も登場したジェニファーが学級委員で、準備・進行をしてくれたのですが、ブログのネタになるような面白い事件は起こりませんでした。ジェニファー親子に期待してたんですけどねえ。(^0^;
 さて交流会の5日後に低学年の参観がありました。社会の授業でしたが、校区探検で歩いて発見したことを3つのグループに分かれて発表していました。一言ずつ分担して説明したり、最後に1人ずつ発表を終えた感想を述べたりして、見ごたえのある授業でした。この時もジェニファー親子は話題を提供してくれませんでした。残念!
 参観の最後に子どもたちが先生も一緒に「友だちっていいな」という歌を歌いながら踊ってくれたのが印象的でした。お隣の子の肩を叩いたり、横1列に並んでペケポンに手をつなぎ、その手の中に頭をくぐらせて今度は肩を組み合って揺れてみたり・・・。思わず父兄から拍手が起こりました。体育館で全校生徒がこの歌を歌って踊っている様子が学校のHPに載っていたので、リンクを張ってもらいますね。心がほのぼのとする光景です。
 実はこの3日後に給食試食会もあったのですが、それはまた別の機会に書かせて頂きますね。忙しいけれど、充実した毎日です。(^0^)/

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2009年6月29日 (月)

ビートルズ(こーじ)

 6月29日は、ビートルズ記念日、星の王子様の日です。
 「ビートルズ記念日」は、1966(昭和41)年、人気絶頂のロックグループ・ビートルズが初来日したことを、日本のビートルズファンが記念して制定しました。学校をさぼって駆けつけた高校生ら6520人が警察に補導されるほどの騒ぎだったそうです。
 ビートルズはご存知の通り、1960年代の若者文化の頂点に立ったイギリスのロック・グループ。ジョン・レノン(1940‐80)、ポール・マッカートニー Paul McCartney(1942‐ )、ジョージ・ハリソン George Harrison(1943‐ )、リンゴ・スター Ringo Starr(1940‐ )の4人から成る。通常レノンとハリソンがギター、マッカートニーがベース、スターがドラムスを担当し、多くの場合レノンもしくはマッカートニーを中心に全員で歌った。
 4人ともイングランド西海岸の港町リバプールの生れ。1955年、中学生のレノンが作った〈クオリーメン〉というグループにマッカートニーが参加、58年にハリソンも加わり、グループ名が何度か変えられたのち、〈ザ・ビートルズ〉となる。60年、ドイツのハンブルクで演奏。61年、3度目にハンブルクに行った際に初めてレコードを録音(ポリドール)した。この年の暮れ、ブライアン・エプスタインBrian Epstein がマネージャーを引き受ける。62年、ドラマーだったピート・ベストに代わってスターが入り、4人のメンバーが確定して初めてのシングル・レコード《ラブ・ミー・ドゥー Love Me Do》(パーロフォン)を出した。それ以後、急速に人気が高まり、63年にかけて《プリーズ・プリーズ・ミーPlease Please Me》《シー・ラブズ・ユー SheLoves You》《抱きしめたい I Want To Hold YourHand》など次々に大ヒットを放ち、64年に初めてのアメリカ公演でセンセーションを巻き起こし、世界的なスーパースターとなった。
 ビートルズの人気は熱狂的で、イギリスでもアメリカでも公演に集まったティーンエイジャーが悲鳴のような喚声をあげ続け、彼らの車を追いかけ回し、マッシュルーム・カットと呼ばれた長髪をまねるなど、マス・ヒステリー状態を現出しておとなたちのひんしゅくを買った。初期のビートルズの音楽はアメリカのリズム・アンド・ブルースやエルビス・プレスリーなどに学んだ単刀直入なロックンロール・スタイルで、粗野ななかに繊細なロマンティシズムを秘めており、リバプールやハンブルクでの数年間の下積み時代に鍛えた演奏力と、レノンとマッカートニーに備わった作詞・作曲の才能が大きな武器となっていた。人気が爆発したのちも音楽的に成長を続け、65年から67年にかけてのヒット曲《イエスタデー Yesterday》《エリナー・リグビー Eleanor Rigby》、意欲的なアルバム《ラバー・ソウル Rubber Soul》《リボルバー Revolver》《サージェント・ペパーズ・ローンリー・ハーツ・クラブ・バンド Sergeant Pepper’s Lonely HeartsClub Band》(いずれもパーロフォン)は、高度に洗練されたポピュラー音楽として絶賛された。
 この65‐67年がビートルズの音楽活動の絶頂期で、彼らの LP には新鮮なアイデアが盛り込まれ、しかも当時急速に進歩しつつあった録音技術を効果的に生かし、ジャケットデザインにまで十分に気を配って、ポピュラー音楽のレコード製作の水準を大いに高めた。映画の分野でも、1964年の《ビートルズがやってくる ヤァ!ヤァ!ヤァ!》(原題《A Hard Day’s Night》)、65年の《ヘルプ! 四人はアイドル》(原題《Help!》。ともに監督はリチャード・レスター Richard Lester(1932‐ ))を、それまでのポップ・スターの顔見せ映画とは異なった作品に仕上げるなど、音楽の分野だけにとどまらない大きなスケールと斬新な創造性をもつユニークな大衆的ヒーローとして、一時代を画した。
 しかし、人気が高いだけ反動も大きく、65年に外貨獲得への功績でエリザベス女王から MBE 勲章を受けたことへの反感、66年にレノンが、〈われわれはキリストより有名になった〉と発言したことへの教会関係(とくにアメリカの)からの抗議、そのほか、若者が堕落したのはビートルズのせいだといったたぐいの根拠のない非難が浴びせられた。67年にマネージャーのエプスタインが死亡したこと、同じ年に設立したビートルズ自身の会社アップル(レコード、衣類など幅広く取り扱うことを計画)が行き詰まったことや、自主製作したテレビ用16ミリ《マジカル・ミステリー・ツァー》の失敗なども重なって活動は低迷し、4人の結束の乱れがしばしば表面化した。
 68年のシングル・ヒット《ヘイ・ジュード HeyJude》、69年のアルバム《アビー・ロード AbbeyRoad》(ともにアップル)などでまだすばらしい創造力が保たれていることを示したが、70年にマッカートニーが脱退の意志表示をしたのをきっかけに、解散を決定した。

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2009年6月28日 (日)

自由貿易(こーじ)

 今日は6月28日、貿易記念日、雨の特異日です。
「貿易記念日」は、1859年5月28日(新暦6月28日)に、江戸幕府がロシア・イギリス・フランス・オランダ・アメリカの五カ国に、横浜・長崎・箱館(函館)での自由貿易を許可する布告を出したことを記念した日です。
「雨の特異日」というのは、雨の振る確率の高い日のことです。たとえば東京で雨の降る確率は53%と大変高くなっています。
 自由貿易の理論的な支柱は、自由貿易は世界全体にとって資源の最適配分をもたらし、一国にとっても最も高い経済的厚生が実現される〉という国際貿易理論の基本的な命題です。国際貿易を行うことによって各国の消費者は、国内よりも安価な商品が外国にある場合には、これを手に入れることができます。一方、生産者は、外国のほうが安価に生産できる商品の生産を縮小し、なんらかの生産上の優位をもち、相対的に安価に生産できる商品の生産を拡大します。このような比較優位をもつ商品へと特化し、自由貿易を行うと資源の最適配分と消費者の厚生の最大化が同時に達成されます。いいかえれば、自由な価格メカニズムにもとづく国際分業が最も望ましい状態をつくりだします。
 国際貿易理論が自由貿易による消費者や生産者の利益を明確に示しているにもかかわらず、その論理的帰結の現実的妥当性について疑問をなげかけ、政府による介入を積極的に支持する主張も少なくありません。いわゆる保護貿易論がこれです。その一つは、自由貿易による最適な資源配分が静態的な状態を仮定のもとでの利益しか示さないとする批判です。たとえば、現在は農産物の生産にしか比較優位をもたない国であっても、特定の製造業部門を保護し生産規模を拡大するなら、その部門においてもしだいにコストを引き下げて安価に生産できるようになるかもしれません(幼稚産業保護論)。また、この製造業部門の生産に従事する人々が技術的訓練や経営管理能力をつけて、他の産業部門にも好影響を与えるような波及効果が期待できるかもしれません(外部経済効果)。このほか、比較優位をもつからといって少数の商品の生産に特化していたのでは、国際市場での価格変動の影響を大きく受けて外貨取得が不安定になるので、生産の多角化を図らなければならないといった主張もあります。大部分の発展途上国は、国際収支の赤字に対処する必要もあって、政府が貿易取引に直接間接の介入を行っています。
 第2次大戦後の先進諸国では GATT 体制のもとで貿易障壁がしだいにとり除かれ、1970年代の初めまでは世界の貿易取引量の拡大は生産の増加を上回りました。ところが73年秋の第1次石油危機とその後の世界的な同時不況のもとで、自由貿易の後退、新しい保護主義の台頭がみられます。もともと国際間の商品取引の流れはつねに変化しています。これは、各国の生産上の優位性を決める技術水準、資本設備や労働の熟練度の変化が、ある国では速く、ある国では遅いためです。たとえば、20世紀の初めには優位を誇ったイギリスの繊維産業はしだいに日本によって追い上げられ、ついにはイギリスは繊維製品を輸入するようになりました。しかし今また発展途上国の一部の国が、豊富な労働力を武器に日本の繊維産業をおびやかしています。このような追上げを受けた国は、優位性を失った産業を縮小し、その産業で働いていた人々を他の産業に移さなければなりません。いわゆる産業調整が必要なのはこのためです。従来の国際貿易理論は、このような調整過程が円滑に行われると考えてきました。ところが現実に職を失う人々は、これまでの熟練が役に立たなくなったり、また他地域への移動に伴う費用を支払わなければならなかったりします。そこで調整をひきおこす輸入そのものを締め出してしまおうとします。国内景気の停滞、失業率の上昇が新しい保護主義を生み、自由貿易の危機をもたらすのはこのためです。70年代の中ごろから日米、日欧の間や、新興工業国と EC 諸国やアメリカの間でしばしば行われている、繊維、テレビ、鉄鋼、自動車等での輸出自主規制や市場秩序維持協定では、いずれも輸入国の要請によって輸出国の政府が輸出数量や価格の決定に介入します。したがって、これは明らかに自由貿易の後退です。
 先進諸国に新しい保護主義の傾向がみられるとはいえ、これらの国々が全面的に自由貿易の理念を放棄したわけではありません。第2次大戦後の世界経済の繁栄がGATT‐IMF 体制下での自由貿易主義に負うところが大きいことは明らかです。また貿易取引の拡大によって、現在の各国の相互依存性はかつてないほど密接になっています。もともと歴史的にみても、現実には自由貿易に対する保護主義的な制約はつねに行われてきていて、ただその強弱の程度がそれぞれの国の立場を反映して変化してきました。第2次大戦後に自由貿易の旗手となったのはアメリカで、文字どおり自由貿易体制の盟主でした。ところが1960年代の後半になると、ヨーロッパ各国や日本の経済力が強まり、アメリカの経済的地位は相対的に低下しました。より具体的には、71年にアメリカの貿易収支は赤字を示し、輸入急増に直面した繊維や鉄鋼業界からは輸入制限を求める動きが強くなりました。したがって今後は、自由貿易体制維持の役割をアメリカだけに期待することはできません。アメリカと EC 諸国に日本を加えた先進諸国が、自由貿易体制の維持強化にむけて協調的な政策選択を行っていかなければなりません。この際、石油危機後の経済運営が先進諸国のなかでも比較的うまくいき、今後とも経済の安定的成長が世界経済の繁栄に大きく依存する日本が、積極的な対応をみせるかどうかがきわめて重要です。

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2009年6月27日 (土)

ヘレン・ケラー(こーじ)

 6月27日は、日照権の日、女性雑誌の日、奇跡の人の日です。
 「奇跡の人の日」の奇跡の人とはアメリカの社会福祉事業家ヘレン・ケラーのことです。今日は1880年のヘレンの誕生日で、目・耳・口が不自由ながらも、世界各地で公演して盲唖者・身体障害者などを励まし続けたヘレンを記念した日です。
 ヘレン・ケラーはアメリカの女流著述家、社会事業家で、アラバマ生れ。2歳時の疾病によって盲、ろう、唖の三重障害者となったが、家庭教師であるアン・サリバンAnne Sullivan Macy(1866‐1936)の献身的努力と本人の不屈の自立精神で障害を克服。パーキンス盲学校を経て、ラドクリフ女子大学を1904年に優等で卒業。その後、アメリカ、ヨーロッパ、アジアに講演旅行。それによって集まった基金を、盲その他の障害者の訓練・教育事業のために投じた。その社会的貢献に対してテンプル大学より31年に人文博士、グラスゴー大学より32年に法学博士の称号が授与された。37年以来再三訪日し、それを記念してヘレンケラー協会が設立され、日本の戦後の盲人を含む障害者福祉の発展に大きな影響を与えた。著書は《私の生涯》(1903)、《私の住む世界》(1908)、《私の宗教》(1940)など多数あります。日本の手話の整理発展にも多大な貢献をしています。
 手話といってもいろいろあります。本来の手話は文法が普通の会話と異なっています。そのため普通の会話をもとにした手話も作られています。普通に目にするのは身振り手振りで表す手話ですが、耳が聞こえず目も見えない人のための手話もあります(手を握り合って伝えます)。健常者がそういう手話を身につけるのは大変難しいそうで、耳が聞こえず目も見えない人と話すには、まず健常者が耳の聞こえない人に手話で伝え、それを耳の聞こえない人が、目が見えず耳も聞こえない人に通訳します。
 1970年からは、厚生省の〈手話奉仕員養成事業〉が始まって、各都道府県で手話講習会や手話教室が開かれるようになりました。また、選挙のときの政見放送に手話通訳がつけられるなど、公共放送が手話を取り上げるようになってきています。しかし、手話には地域差や年代差がかなりあり、また、新しい手話の需要も急激に増大しているため、これまでの手話を尊重し、新しい手話表現を創出しながら、将来への展望をもった標準手話の出現が切望され、研究が行われています。また、応用の可能性が拡大し、言葉をもっていない対象(チンパンジーとか)や言葉の発達が遅れている対象(自閉症児、重度精神遅滞児、野生児など)への手話の導入が試みられ、かなりの成果をあげているそうです。聾児の教育においても、手話の位置づけが重要な問題となり、諸外国では、音声言語に手話を含めた手指コミュニケーション手段を併用する方法がかなり力をもってきています。

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2009年6月26日 (金)

風呂(こーじ)

 6月26日は、国連憲章調印記念日、露天風呂の日、雷記念日、オリエンテーリングの日です。
 「露天風呂の日」は「ろ(6)てんぶ(2)ろ(6)」の語呂合わせですね(ちょっと強引)。
 「雷記念日」の由来は、大納言の藤原清貴が亡くなった930年の平安京の清涼殿への落雷事故です。この落雷事故は“政治的な策略によって大宰府に左遷されそこで亡くなった菅原道真のたたりである”と信じられ、道真は名誉を回復したということです。
 ギリシア伝説に、シチリアのコカロス 王の下に逃れたダイダロスを探し求めて来たミノス王を、風呂場で殺す話があります。ギリシア世界にもクラシック(古典)時代以前から浴室があったことを推定させますが、最古の考古史料は前5世紀からです。例えば、オリュンピアで発見された浴場は、矩形の部屋に11個のテラコッタ製浴槽が並び、貯湯槽から容器によって給湯したことが判明しています。前348年破壊されたオリュントスの住居跡からも浴室が発見されていて、ヘレニズム時代のデロス、ゲラ Gela(シチリア島)にも浴場施設がありました。
 浴場が一般化し市民のあいだでその重要性が増すのは、前2世紀のイタリア半島においてです。特にポンペイのスタビア Stabia 浴場は、ローマ帝政期に入ってから発達する公共浴場(テルマエ thermae)の原型として有名です。また、ポンペイの富裕市民は、住宅内に数室から成る浴場を有していて、後の別荘住宅(ウィラ)にもその伝統は継承されています。ローマの公共浴場が大きく発達したのは、ネロの時代から都市ローマの整備計画が進み、数階建ての集合住宅に浴室を設置することが出火防止のため、禁止されたことによります。浴室を持たない一般ローマ市民は、皇帝が建設した公共浴場(皇帝浴場)を利用するようになりました。このため規模も大きくなり、熱浴室(カルダリウム caldarium)、微温浴室(テピダリウム tepidarium)、冷浴室(フリギダリウム frigidarium)、更衣室、プールなどを並置するようになります。〈ネロの浴場〉〈ティトゥスの浴場〉〈トラヤヌスの浴場〉などのほか、皇帝浴場の代表例としては現在も保存状態の良い〈カラカラの浴場〉と〈ディオクレティアヌスの浴場〉などがあります。ローマ人がいかに浴場を好んだかは、北アフリカのローマ都市タムガディ Thamugadi(人口約8000)で14の公共浴場が発見されていることや、シリアのドゥラ・ユーロポスやブリタニア辺境のローマ軍駐屯地でも浴場施設が確認されていることからわかります。

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2009年6月25日 (木)

旭区民センターでのコンサート(くみこ)

 6月28日(日)14:30から大阪市の旭区民センター小ホールで演奏会があります。中国音楽理事会主催でピアノ・声楽・サクソフォーン・ヴァイオリン・フルート・クラリネットのみなさんが出演されるようです。何だか他人事のようですが、今回は他に知ってる出演者がいないもので・・・。(^0^;でも楽屋でお話をするうちにお知り合いになれるので、それも楽しみです。
 私はピアノソロだけで出るのですが、今回はショパンの「華麗なる大ポロネーズOp.22」を弾きます。本当は「アンダンテスピアナートと華麗なる大ポロネーズ」というのが全曲ですが、時間制限があってポロネーズの部分だけ弾くことになりました。9月には全部弾く予定です。(←9月の演奏会に関してはまた後日宣伝させて頂きます)
 チラシに載っている曲目をご紹介します。
♪バイ・シュトラウス(ガーシュイン)
♪アルト・サクソフォーンのためのラプソディ(ベローヌ)
♪水の戯れ(ラベル)
♪ハイドンの名によるメヌエット(ラベル)
♪ノクターンOp/9-2(ショパン)
♪ソナタ第2番Op.35(ショパン)
♪バラード第1番(ショパン)
♪華麗なる大ポロネーズOp.22
♪厳格なる変奏曲ニ短調Op.54
♪無伴奏ヴァイオリンのためのパルティータ第2番
♪幻想小曲集Op.73(シューマン)
♪カンタービレとプレスト(ジョルジュ・エネスコ)
♪泣かないお前(クルティス)
♪オーソレミオ(カプア)
♪闘牛士(ビゼー)

 「華麗なる大ポロネーズ」は高校生の時に初めて聞いて感動し、大学に入った年に無理やり弾きました。それ以来、何年かに1度は人前で弾いてきた大好きな曲です。何度弾いてもなかなかうまくは弾けないのですが、今年また引っ張り出して挑戦することにしました。今までより多少進歩した演奏にしたいものですが、どうなりますやら・・・。
 今回はチケットが必要なのですが、1000円にさせて頂いてますので、もし興味のある方がおられましたらご連絡下さい。お時間のある方はぜひ応援しにいらして下さいね。よろしくお願いします。m(_ _)m

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2009年6月24日 (水)

自由貿易(こーじ)

 6月28日は、貿易記念日、雨の特異日です。
「貿易記念日」は、1859年5月28日(新暦6月28日)に、江戸幕府がロシア・イギリス・フランス・オランダ・アメリカの5カ国に、横浜・長崎・箱館(函館)での自由貿易を許可する布告を出したことを記念した日です。
「雨の特異日」というのは、雨の降る確立の高い日のことです。たとえば東京で雨の降る確立は53%と大変高くなっています。
 最初の体系的自由貿易論は A. スミスによって重商主義批判として展開され、D. リカードの比較生産費説(比較優位)によって根拠づけられました。こうした理論的背景のもと、自由貿易運動はイギリスにおいて1820年の〈ロンドン商人の請願〉をはじめとして20年代に高まりました。39年の〈反穀物法同盟〉結成以後再び運動は高まりをみせ、R. コブデン、J. ブライトらの指導による運動の影響もあって、46年には穀物法廃止に至ります。その後、自由貿易は60年の英仏通商条約等の一連の条約として結実しますが、80年前後には早くも帝国主義時代の始まりの前にふきとんでしまいました。
 1930年代の大不況の折に、世界の多くの国が自国の産業を輸入の増大から守るため、争って貿易障壁を引き上げたり平価の切下げを行ったりしたため、かえって世界貿易は縮小し、不況の悪化を招きました。このような苦い経験から、第2次大戦後の国際貿易・通貨のあり方をとり決めた GATT(ガツト)‐IMF 体制は、自由・無差別・互恵を基本的な理念として世界貿易の拡大を目指しています。その結果、50年代末より先進諸国の輸入数量制限の撤廃や関税率の引下げといった貿易の自由化が進み、60年代の世界経済は先進国を中心に歴史上かつてないほどの繁栄をみました。

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ドレミ(こーじ)

 6月24日は、UFO記念日、ドレミの日です。
 「UFO記念日」は、1947(昭和22)年に、アメリカで初めてUFOが目撃されたことを記念した日です。UFO発見を夢見て、この日は、世界中のUFOマニアが一斉に観測を行うようですよ。
 「ドレミの日」は、1024年に、イタリアの僧侶ギドー・ダレッツオがドレミのお仲胃を定めたことを記念した日です。1000年近く前に決まったとは意外ですね。
 ドレミの階名は、音階上の各音を示す名です。ただし、音名と違って絶対音高をさすのではなく、各音の相対的な位置を表します。西洋音楽では、ド、レ、ミ、ファ、ソ、ラ、シの7シラブル syllable が用いられます。その起源については、11世紀初頭にグィード・ダレッツォが、聖ヨハネ賛歌《ウト・クエアント・ラクシス Ut queantlaxis》の詩(8世紀ころ)の各小区分第1シラブルに、ハから1音ずつ上がってゆく6音(ut、re、mi、fa、sol、la)を当てはめたことに由来するといわれていますが、異説もあります。この6シラブルは当初、ハのほかト、ヘの各音上の6音音階(ヘクサコルド)の階名として使われていましたが、やがてハ音上に固定されるようになりました。16世紀末から17世紀中ごろにかけて、第7のシラブル si(上記の賛歌の最終行〈Sancte Ioannes(聖ヨハネ)〉に由来する)が加えられ、イタリアでは ut が歌いやすい do に変えられました。今日でもフランスではウト、レ、ミ、……、イタリアではド、レ、ミ、……がそのまま音名として使用されています。旋律に階名を当てはめて歌うことを階名唱法といい、ドを各調の主音として歌うことを〈移動ド唱法〉、ドレミ……をハ音上に固定させて事実上音名として歌うことを〈固定ド唱法〉といいます。

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2009年6月23日 (火)

沖縄戦(こーじ)

 6月23日は、沖縄慰霊の日、オリンピックデーです。
 1961(昭和36)年に制定された「沖縄慰霊の日」は、太平洋戦争での沖縄決戦が1945(昭和20)年に終結したことを記念した日です。80日にも及ぶ地上戦で、住民を中心におよそ20万人もの犠牲者が出た戦いでした。
 沖縄戦は太平洋戦争の最終段階に、南西諸島、沖縄本島、周辺の島々で行われた日米最後の戦闘です。日本国内唯一の地上戦闘でした。1944年10月10日の空襲は、那覇市を中心に島の人口密集地を焼き払い、死者548人を出しましたが、本土の空襲と同様の意味で空襲といえるのはこの1回だけであり、以後沖縄は地上戦に突入します。アメリカ軍は、アイスバーグ(氷山)作戦と称する沖縄上陸作戦を開始しました。太平洋艦隊司令官ニミッツ元帥配下のバックナー中将のひきいる第10軍を主力とするアメリカ軍は45年3月下旬から、約1500隻の艦船と、延べ54万8000人の兵員で、沖縄本島中南部や慶良間諸島に艦砲射撃を行っています。3月26日に慶良間に、4月1日には沖縄本島中部嘉手納海岸に上陸しました。一方、沖縄守備第32軍(司令官牛島満中将)は、第24師団(山部隊)、第62師団(石部隊)、独立混成第44旅団(球部隊主力)の陸軍8万6400人、海軍約1万人、それに現地徴集の防衛隊員、学徒隊員約2万人の計約12万人で構成されていました。第32軍は敵戦力のおよそ4分の1で、軍事的にみて圧倒的に劣勢でした。第32軍は、大本営の指導の下に、本土決戦のひき延ばしをはかる「出血持久」作戦を実施し、本島中南部にかけて陣地による戦闘でアメリカ軍の戦力を消耗させることを目的としました。本島北部では、山岳地帯を根拠にする宇土部隊によって、住民をも戦力化する組織的ゲリラ作戦を主体とする秘密遊撃戦も構想されていました。4月1日、第32軍の水際作戦の放棄によって無血上陸をはたしたアメリカ軍は、沖縄本島を南北に分断し、4月20日には北部を制圧しました。一方、南進したアメリカ軍は、嘉数高地や浦添の前田で日本軍と一進一退の攻防を展開し、最大の死傷者を出しました。しかし、アメリカ軍の攻勢はゆるがず、沖縄守備軍司令部は5月22日から27日にかけて首里から南部摩文仁に撤退しました。この間に約10万余の住民が戦場を彷徨したあげく多数の死亡者を出しました。こうして6月23日、牛島満司令官、長勇参謀長が自決し、日本軍の組織的戦闘は終了しました。嘉手納のアメリカ軍第10司令部で日米両軍の代表によって戦争終結の降伏調印文書に署名されたのが9月7日です。
 沖縄戦は国体護持の捨石作戦でしかありませんでした。小磯国昭・鈴木貫太郎両内閣は敗戦を必至とみて、すでに和平工作に踏み切っていましたし、その有利な条件づくりの一つが沖縄戦でした。沖縄戦の特徴は、国内唯一の激しい地上戦が展開され、軍民混在という戦場状況で、正規軍人を上まわる非戦闘員である住民の犠牲者を出したということです。政府は住民の県外への疎開を計画し、九州、台湾に約8万人を疎開させましたが、計画実施の過程で、学童疎開船対馬丸が米潜水艦に撃沈され約1500人が死亡する事件(対馬丸遭難事件、1944年8月)も発生しています。第32軍は、住民の戦争協力を調達するため意識的に、相互監視のために住民どうしがスパイ視する状況を利用しました。激戦地区で発生した集団自決は、敵に投降し捕虜になることでスパイ視されることを恐れたからで、アメリカ軍の保護を受けた住民がスパイと誤認され、日本兵に虐殺された事件もありました。

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2009年6月22日 (月)

かに(こーじ)

 6月22日は、夏至、ボウリングの日、かにの日です。
 「ボウリングの日」は1861年に「長崎外国人居留地に日本発のボウリング場が開設された」という記事が英字新聞に掲載されたのが由来になっているようです。
 「かにの日」は、大阪のかに料理店「かに道楽」が1999(平成11)年に制定しました。星占いのかに座の初日なことと、50音表で「か」が6番目、「に」が22番目になるからだそうです。
 縄文時代から日本人がカニを食べていたのはいうまでもないそうです。《古事記》には応神天皇の食膳に〈角鹿(つぬが)(敦賀)のカニ〉が供されたことが見え、万葉集》にはこれも天皇に進めるため、ニレの樹皮をつきこんだ塩汁をぬってカニを干物にするという歌があります。こうした塩干品と塩辛が多かったのではないかと思われますが、延喜式》に摂津の贄(にえ)として見える擁劔は、あるいはゆでただけのものであったかもしれません。擁劔は〈かざめ〉で、いまのガザミです。《和名抄》では擁劔は〈亀貝類〉に分類されていて、そこにはほかに蟹、石蟹などのほか、寄居子と書いて〈かみな〉と読むものが見られます。これは〈がうな〉ともいい、ヤドカリです。ヤドカリは室町末期までは貴人の食膳にのぼっていたのですが、どういうものか江戸時代に入るとまったく姿を見せません。理由はまだわからりませんが、食品として忌避されるようになったようです。
 食物としてエビと並称され美味ですが縁起物として祝膳に上ることはありません。甲羅を脱いで再生することから奄美・沖縄地方には出産時にこれをはわせて幼児の成育を願う習俗があり、またその甲羅の模様が人の顔に似ていることから怨念ある死者の再来とも説明されました。平家蟹が水没した平氏の霊の生まれかわりとされ、武文蟹も同じくこの名の死者の姿と説かれています。正月にサワガニを門口にかけて守とする風習も強力な霊によって悪疫や災魔の侵入を防ぐ意味と見られます。さらに、日本霊異記》や《今昔物語集》に見える蟹満寺の伝説はカニに恵みを与えた女性が蛇におそわれ死に采(ひん)したとき、恩を受けたカニが集まって蛇の身体をはさみ、これをたおしたというもので、カニを霊ある動物と考え、また悪を避けるものと見ていました。しかし、他方で海浜の農民は田のあぜに穴をあけ作物を害するのでこれをきらっています。

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2009年6月21日 (日)

中学の体育祭(くみこ)

 随分日が経ってしまいましたが、6月5日に息子の中学で体育祭がありました。かなりの雨の中、30分遅れで始まりました。近くの高校も同じ日に予定されていたそうですが、高校では中止、中学は予定通り実施。(^0^;先日の休校騒動の影響で日程的に余裕がなかったのでしょうね。
 とても肌寒い日だったので、みんな長袖の体操服を上に着ていました。それでも雨が止んでる時間が少なかったので、風邪をひかないか心配でした。父兄もシートを敷いて座ることができず(結構雨脚が強い時もあって・・・!)、朝からずっと立ちっぱなし!疲れました~!
 息子はこういう時に活躍する子ではないので、紺色のジャージを着た軍団の中で見つけるのは至難の業です。午前中に出た2種目ではとうとうわからず仕舞い。「多種リレー」という障害物走と「出たとこ勝負」というサイコロの目で走る距離が決まるリレーに出ていたハズです。私の母も来ていたのですが、寒いし見つからないしで、昼休みにタクシーを呼んで帰ってしまいました。(^0^;
 午後からはなぜか(?)「玉入れ」と100mの全員リレーに出たので、さすがに見つかりました。事前に息子に「何に出るん?」と聞くと「玉入れ」と言うのでコケましたよ中学の体育祭で「玉入れ」があるとは思いませんでした。おもしろい!他の種目は競争率が高く、これが残ってたそうで・・・。(いつも引き気味の性格です)でも小学校と違ってカゴの位置がとても高く、結構入りにくかったようです。生徒たちは赤組と青組に分かれて競っていましたが、玉入れは父兄も参加する競技で、父兄は黄色組!私は息子が出るので写真を撮るため出ませんでしたが、一番本気でやっていたのは父兄チームでした!中学生にもなると、ちょっと冷めた子もいますが、お母さん方はメッチャ真剣です。結果も父兄チームがトップ。来年息子が他の競技に出ていたら、私も玉入れに参加しようかな。でもまた競争率の低い玉入れに出ているでしょうか・・・。(^0^;
 学年ごとの「100m全員リレー」は息子のクラスがぶっちぎりの1位でした。うちは走るのが遅いのですが、他のメンバーがものすごい差をつけてバトンを回してくれたので、抜かれることもなく安心でした!
 面白かったのは「クラブ対抗真剣リレー」。運動部も文化部もみんなそれぞれの特色を出して走ります。運動部はそれぞれのユニフォームで、野球部はバット、テニス部はラケット、剣道部は竹刀がバトンといった具合です。剣道部は防具までつけて走るので大変そうですが、みんなとても楽しんでいました。途中すり足で「面~!」とかやりながら走るのです。文化系クラブも文芸部は鉛筆、合唱部はマイクを持って走り、科学部は白衣をバトン代わりに脱いだり着たりの大忙し。全部のクラブは把握できませんでしたが、速さを競うというより、自分のクラブをアピールするのに‘真剣’でした。(^0^)/息子は最近科学部に入ったので、来年は白衣を着て走るのでしょうか?!楽しみです。クラブに関してはそのうちまた書かせて頂きますが・・・。
 1日中雨が降る最悪のコンディションで行われた体育祭でしたが、全ての競技が行われ、子どもたちは楽しかったようです。来年は降らないでほしいと今から祈っています。(^0^;

Club Tamaire1

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2009年6月20日 (土)

難民(こーじ)

 6月20日は、世界難民の日、ペパーミントデーです。
 「ペパーミントデー」は、ハッカが特産品の北海道北見市まちづくり研究会が1987(昭和62)年に制定した記念日です。「はっか(20日)」の語呂合わせですね。
 2000年12月4日、国連総会で、毎年6月20日を 「世界難民の日」(World Refugee Day)とする旨が決議されました。この日は、もともとOAU(アフリカ統一機構)難民条約の発効を記念する「アフリカ難民の日」(Africa Refugee Day)でしたが、改めて、難民の保護と援助に対する世界的な関心を高め、UNHCRをはじめとする国連機関やNGO(非政府組織)による活動に理解と支援を深める日にするため、制定されました。
 「難民の地位に関する条約」は主として、第2次世界大戦を契機としてヨーロッパに発生した難民保護のために、1951年7月にジュネーブで開かれた〈難民および無国籍者の地位に関する国連全権会議〉で採択されました、前文および6章46ヵ条から成る条約で、54年4月22日発効。96年3月現在の加盟国は126ヵ国。
 この条約は、まず、難民を〈人種、宗教、国籍、特定の社会的集団に属すること、または政治的意見のゆえに、迫害を受けるという十分根拠のある恐怖のために、国籍国の外にあって、かつ、国籍国の保護を受けることができないか、または……保護を受けることを望まない者〉と定義します(1条A 項)。締約国は、こうした難民を積極的に受け入れる義務は負いませんが、不法入国した旨を遅滞なく当局に申し出た難民に刑罰を課すことはできず、また、迫害のおそれのある地域へ難民を追放または強制送還することは許されません(ノン・ルフールマン non‐refoulement の原則)。そして、難民には、初等教育、社会保障、物資配給などについては在留国の国民と同等の待遇が、労働組合の結成などについては最も優遇されている外国人と同等の待遇が、財産の取得、営業の自由などについては一般の外国人より不利でない待遇が与えられます。このように、難民に対してかなり手厚い保護を定めている条約ですが、その反面、適用を受けることのできるのは、〈1951年1月1日以前に発生した事件の結果〉として生じた難民に限られていました。しかし、その後も各地で多くの難民が生じつつある実情にかんがみ、1967年の〈難民の地位に関する議定書〉によって、この条約はすべての難民に拡大適用されることとなりました。
 日本も、インドシナ難民の流入という事態に対処するため、従来の〈出入国管理令〉を〈出入国管理及び難民認定法〉と改めるなど国内法を整えたうえで、本条約および上記議定書にあいついで加入しました(1982年1月1日発効)。

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2009年6月19日 (金)

ベースボール(こーじ)

 6月19日は、ベースボール記念日、元号の日、京都府開庁の日、桜桃忌・太宰治聖誕祭です。
 3アウト・3ストライクなどの、現行のベースボールのルールの基礎は、1846年にA・カートライトが編集した野球規則だといわれています。この野球規則による最初野球試合がニューヨークで行われたのが、今日の「ベースボール記念日」の由来です。それまでは、たとえば“バッターは自分の好きな球が来るまでいくらでも待つことができる”など、今では考えられないルールーで行われていたそうです。
 645(大化元)年、蘇我氏を倒した中大兄皇子が、日本初の元号「大化」を定めました。以来「平成」まで247の元号が定められています。
 太宰治はもちろん小説家。本名津島修治。青森県生れ。東京帝大仏文科中退。津軽屈指の大地主の六男として生まれたことが、この作家の生涯と芸術に決定的な影響を与えました。中学時代から文学に親しみ、旧制弘前高校に入って左翼思想に接し、大地主の子であることに屈折した罪意識を抱くようになりました。1930年に東京帝大仏文科に進み、井伏箆二に師事します。この年から非合法運動に関係するようになりました。同年、青森の芸妓小山初代と結婚するが、その直前にバーの女給と心中をはかり女だけが死んでいます。この事件は、非合法運動からの離脱とともに彼の心に終生消えぬ「黒点」を残しました。35年、「逆行」によって第1回芥川賞候補となり、36年第1創作集「晩年」を刊行。その後、麻薬中毒になり、錯乱した内面を「HUMAN LOST」(1937)などの前衛的な方法で表現したのですが、初代と離別し石原美知子と再婚するころから、「富嶽百景」「女生徒」(ともに1939)など平明な作風に移り、「走れメロス」(1940)などの好短編も生まれました。第2次大戦中は「右大臣実朝」(1943)、「お伽草紙」(1945)などの翻案的佳作を書くとともに、「津軽」(1944)のような名作を残しました。戦後は戯曲「冬の花火」(1946)などで便乗思想を批判する一方、「ヴィヨンの妻」(1947)など既成倫理に反逆するような短編を発表。滅びゆく高貴なものへの恐歌「斜陽」(1947)で流行作家になったのですが、人間恐怖の自画像「人間失格」(1948)を残して山崎富栄とともに入水して果てました。

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2009年6月18日 (木)

考古学(こーじ)

 6月18日は、海外移住の日、考古学出発の日です。
 今日の「海外移住の日」は、総理府(現在の内閣府)が1966(昭和41)年に制定。国際協力事業団移住事業部が実施しました。日本からブラジルへ最初の移民(781人)を乗せて神戸港を出発した笠戸丸が1908(明治41)年の今日、無事サントス港へ入港したのを記念した日です。以来、北米、中南米諸国を中心に、戦前戦後を通じ、多くの日本人が移住しています。ちなみに、今、海外諸国に在住する日本人駐在者・日系人は約250万人以上だということです。
 考古学は、物質資料を用いて人類の過去を研究する学問です。明治初期から英語アーケオロジーの訳語として用いられ、当初は〈古物学〉という訳語と併存しましたが、まもなく〈考古学〉に統一されました。アーケオロジーは古代学、古伝承を意味する古代ギリシア語アルカイオロギア archaiologia に由来することばです。
 考古学が利用する資料は、人間の活動にかかわるすべての物的証拠です。土器、石器、家、墓のように人間が積極的に製作構築したものの痕跡はもちろん、運搬したが利用しなかった原材、製作途上で放棄された未成品、失敗品、さらに、石器製作の際に生じる石漢、食べ残しの魚骨、獣骨、木の実の殻、人畜の排泄物のような生活残滓、足跡のような無意識に残された痕跡にいたるまでが資料になります。資料の検出法も進んでいて、現在の考古学者は土中に掘りこんだ穴が埋まった跡、木製品が土中で腐ったために生じた空洞、さらに、その空洞に土が流入した跡なども的確に検出できます。人間が活動した環境、人間自身の遺体も重要な資料です。自然環境は人間の行動を制約しますが、同時に狩猟や開墾など人間の活動によって影響されます。人間の身体は本来、自然物ですが、栄養や労働など人間自身の文化によって影響を受けます。このような自然と人間の交互作用を明らかにするため、土壌、花粉、種子、自然死した動物の遺体、人間の遺体等も検査の対象となります。ただし、これらの資料については考古学者が独力では処理できないので、自然科学者との共同研究が行われます。物質資料以外にも人類の過去を研究する資料としては、文字で記された文献資料、風俗習慣・伝説などの無形の民俗資料があり、それぞれ狭義の歴史学(文献史学)、民俗学の資料となっています。しかし、文献資料は当然のことながら文字発明以後のものしかあり得ません。民俗資料はその起源が古くても、伝承されている間に変形していて、それによる過去の復原には限界があります。これらの資料にくらべると、石器のように腐朽しない材料で作られた物は、条件さえよければ何百万年も形を保ち得るので、考古学者は人類史のあらゆる段階にわたって同時代資料を入手できる可能性をもっています。人類の出現は300万年前と推定されていますが、現在知られている最古の文字は5000年前にしかさかのぼらず、その発達の前段階を考慮しても、文字の発明が6000年前にさかのぼることはないでしょう。文字発明以前の時代にさかのぼって人類の活動を明らかにするには、考古学によらざるをえないのです。しかし、考古学の役割は文献のまったくない先史時代(先文字時代)の研究に尽きるのではありません。文献がわずかながら残っている原史時代(原文字時代)、文献が豊富に残っている歴史時代(文字時代)においても、すべての生活分野について詳しい文献があるわけではなく、また、文献にはしばしば筆者による意識的・無意識的な事実の歪曲が見られるので、新しい時代についても文献の欠陥を補うために考古学的研究が必要です。考古学は古い時代のみを研究する学問と考えられがちですが、その取り扱う時代範囲にはなんらの制限もありません。実際に北海道では明治期の開拓使関係の遺跡のような新しい遺跡の発掘も行われています。
 考古学の属する上位の学問区分については、歴史学とする立場と人類学とする立場とがあります。概して旧世界の諸国では、考古学は広義の歴史学に包摂されると考えられていますが、国ごとに考え方に微妙な違いがあります。日本は考古学を歴史学の一部門と見なす考えが最も徹底した国です。これは、日本の場合、先史時代から現代まで連続した歴史の筋道をたどりやすいからです。ヨーロッパでは、先史時代を総合的に研究する〈先史学〉の、歴史学に対する相対的な独立性が強いそうです。アメリカでは考古学を人類学の一部門とする考えが支配的です。これは、アメリカの考古学が事実上、先コロンブス時代の考古学であって、現在のアメリカ住民の歴史とのつながりが希薄で、アメリカの考古学は現生のアメリカ・インディアンやエスキモーの文化を研究する文化人類学(民族学)と密接な関係の下に発展したという事情によるのです。

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2009年6月17日 (水)

枚方青少年センターでの紫陽花コンサート(くみこ)

 6月14日(日)に枚方公園の青少年センターで紫陽花コンサートをしました。今年はピアノ3人、フルート1人、クラリネット1人の5人でした。とても楽しい時間を過ごすことができ、無事終わりました。
 今回、自作のフルート曲を演奏してもらったのですが、とてもいい感じでうまくいきました。久しぶりにフルートで音を出してもらい、感激です!フルート奏者の方に「来年は2・3楽章もやりましょう」と言って頂いており、全楽章を演奏して頂けることになっています。本当にありがたいことです。
 ソロも何とか無事弾けてホッとしていますが、何と言っても今回は管楽器とのアンサンブルがとても楽しかったです。プログラム最後の「舞踏会」は5人全員で演奏しました!最高でした。(^0^)/またプログラムには載ってませんでしたが、アンコール的に管楽器のお二人と私の3人で「浜辺の歌」を演奏しました。これもとても楽しかったです。
 ところで今回は20年ぐらい前に私が縫ったドレスを着ました。このエンジ色のドレスは1昨年の阿倍野区民センター以来になります。ちょっとくたびれて色褪せてきていますが、好きな色なので時々引っ張り出して着ています。
 終わってから出演者全員で、青少年センターのすぐ近くにある川崎麻世さんのご実家である‘コハク’という喫茶店に行きました。去年も行こうとしたら日曜はお休みで残念だったのですが、今年は日曜でも開いていました。ラッキー!ここのサンドイッチはボリュームたっぷりで、私では食べきれない量です。(私はピアノのIさんのを1切れだけもらってすませてしまいました!)
 かなり話し込んでネバっていたのですが、嫌な顔をされるどころか、「お土産でもらったから」とサービスで沖縄銘菓の‘ちんすこう’を出して下さいました。とてもおいしかったし、うれしかったです。川崎麻世さんのお母さん(←多分)、ありがとうございました。
 紫陽花コンサートは~音の花びらが集まって~というサブタイトルがついています。ピアノのMさんが去年考えてくれたもので、とても気に入っています。これからも、毎年いろいろな色に変わりながら続けていきたいなあと思っています。素敵な音楽仲間に感謝!です。

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2009年6月16日 (火)

家庭裁判所(こーじ)

 6月16日は、和菓子の日、ケーブルテレビの日、無重力の日、家庭裁判所創立記念日です。
 家庭裁判所の理念については、創設当初当局は家庭裁判所の理念を次のように説明しました。
(1)民主的性格 憲法、民法の理想(家庭の民主化)を生かす運用が求められるゆえ、国民に親しみやすく、信頼される裁判所であること。家事事件には裁判官のほかに民間から選ばれた調停委員、参与員が参加し、簡易な手続をとり素人にも分かりやすいこと。少年事件では民間人、民間機関、施設の協力援助を得ることが必要です。親しみの持てる建物の外観が望ましい。
(2)科学性 紛争、問題を科学的に処理する必要が強調され、家庭裁判所に精神病科がおかれる等、アメリカでの科学的運営を参考とします。
(3)社会性 他の官庁、教育、福祉機関、施設との常時協力が必要です。そこで機会あるごとに関連諸機関と接触して意思疎通を図ると同時に、社会的会合には職員を列席させて各種社会的活動に協力し、家庭裁判所の啓蒙宣伝に役だてます。
(4)教育的機能 とくに少年事件においては、調査段階から審判に至るすべてが少年の教化、教育のための方法の発見です。
 このような新しい理念の実現は社会一般の民主化の潮流の中で、裁判所の努力によって部分的には成果をあげ、家庭裁判所自体が国民に知られ、頼りにされ、期待されるようになりました。さらに、裁判所という名称を持ちながら原則として訴訟を扱わないことは、従来の枠組みにとらわれず新しい発展の可能性ともなりましたが、長い伝統をもつ司法制度の中で容易には受けいれられない要因ともなりました。のちに家庭裁判所が個々の点では進展をみせながら問題を残しているのも、これらに起因するといえます。

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2009年6月15日 (月)

スーパーマン(こーじ)

 6月15日は、スーパーマンの日、暑中見舞いの日、千葉県民の日、栃木県民の日、信用金庫の日です。
 1938(昭和13)年のこの日、アメリカのDCコミックス社がコミック「ACTION COMICS」を創刊しました。その中で爆発的な人気を得たのがスーパーマン。アメリカン・コミックスを代表するスーパーヒーローの誕生です。以後、バットマンやスパイダーマンなどが続々と登場します。
 スーパーマンは、アメリカのコミック・ブック最初の超人的英雄ですね。シーゲル Jerry Siegel とシュースター Joe Shusterの2人の若者が生み出し、1938年《アクション・コミックス》誌上に初めて登場しました。惑星クリプトンからやってきた異星人で、メトロポリス市の市民としての名はクラーク・ケント。職業は《デーリー・プラネット》の新聞記者ですが、70年代以降はテレビのニュース・キャスターです。恋人のロイス・レーン、いとこのスーパーガールなどとともにスーパーマン・ファミリーを形成しています。アメリカ人の力へのあこがれと、良き市民としてのあり方が、〈真実、正義、アメリカ的生き方〉のために戦うスーパーマン=ケントに体現され、彼に続くバットマンなどの超人漫画の原型となりました。1948年にカーク・アリン主演で連続映画シリーズ、1941‐43年にかけてアニメ・シリーズにもなりましたが、51年ジョージ・リーブズ主演のテレビシリーズで人気は決定的となりました。また、78年にはクリストファー・リーブ主演で映画化されました。これがまた大ヒットし、大の大人が自分も飛べると信じ込んで、高いところからジャンプして怪我をするという事故が続出したそうです。

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2009年6月14日 (日)

星条旗(こーじ)

 6月14日は、フラッグデーです。「フラッグデー」のフラッグは星条旗のことです。1777年に正式に星条旗がアメリカ国旗に制定されたのですが、これ以前の旗には宗主国であるイギリス国旗が入っていたため、初代大統領ワシントンが旗作り職人ベッツイ・ロスに新たな国旗の製作を依頼、現在の星条旗が誕生したそうです。
 アメリカ国歌「星条旗よ永遠なれ」はスーザが作りました。スーザはアメリカの吹奏楽指揮者、作曲家です。少年時代からワシントンやフィラデルフィアの劇場でバイオリン奏者、指揮者として活躍し、1880年海兵隊軍楽隊(大統領の儀礼用)の楽長に就任しました。92年に辞任して自ら「スーザ吹奏楽団」を組織し、アメリカ、ヨーロッパを旅して好評を博しました。第1次世界大戦中は海軍軍楽隊訓練所長として復役し、軍楽少佐にまで進みました。作品には100曲にのぼる行進曲、オペレッタ、舞曲、歌曲などがあるのですが、その中で名高いのはもちろん「星条旗よ永遠なれ The Stars and StripesForever」(1897)で、他に「ワシントン・ポスト」(1889)、「士官候補生」(1890)などの行進曲があり、彼は「行進曲王」と呼ばれました。なお、スーザフォーンという楽器は、彼が自分の楽団のためにチューバを改造したものだそうです。

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2009年6月13日 (土)

息子の漁村体験(くみこ)

 5月末のことでしたが、中1の息子が1泊2日で淡路島に漁村体験をしに行ってきました。H二中では、1年生は去年までスキー体験学習をしていたそうなのですが、近年は雪が安定して降らないし、費用もかかるということで、今年から漁村体験に変わったそうです。これがとてもよかったので、変わってよかったと思っています!
 1日目は雨が降り、予定がこなせるのか心配していましたが、カッパを着ていろいろな体験をさせてもらったそうです。カゴ漁を仕掛けたり(カゴを沈めて翌日引き上げる)、塩作り、干物作り、寒天作り、生タコの塩もみ、わかめの加工などなど・・・。台所に立つのが好きな息子なので、とても楽しめたようです。(1日目の昼食になるお弁当のおかずも前の晩に作っていました!)2グループに分かれて、交代で防波堤での陸釣りも経験させてもらいました。←息子は1匹も釣れなかったそうですが。
 1日目は予定のスケジュールが早く進み、お風呂も午後3時台に入り(お風呂からの景色も素晴らしかったそうです)、クラスでのレクレーションを早めに切り上げて、急遽ウミホタルを見に行ったそうです。これは予定には入っていなかったのですが、時間に余裕ができたため、夜にもう1度バスで連れて行ってもらったとのこと。「とてもきれいだった」と喜んでいました。
 夕食はご馳走で、鯛の宝楽焼に鯛のお刺身などなど・・・。全部食べ切れなかったそうです。食事の時だけ乱入したかった!(^0^;
 2日目は数人ずつ漁船に乗せてもらい、船釣りも経験しました。今度は2匹釣れたそうで、本人が言うにはベラだったらしいのですが本当かしら?でも風があって波も高めで、2匹釣ったところで船酔いしてしまい、あとは座って休んでいたらしいです。ちょっと残念!
 その後は1日目に沈めておいたカゴを引き上げて、獲れた獲物をお昼ご飯で食べさせてもらったそうです。うらやましいです!また前の日に作った干物もお土産に頂きました。(^0^)/
 ところで釣りのエサはゴカイで結構不気味な姿だったから(見たくない方が多いと思うので、リンクはしていません(^0^;)、女の子に頼まれてつり針につけてあげたのだそうです。息子は虫が大好き!というタイプではないのですが、結構何人もの人につけてあげたようです。船釣りでは小さな1.5cmぐらいのゴカイを使ったそうですが、陸釣りでは何とその10倍ぐらいのゴカイを1cmにちぎってつけたと聞きました。ゾ~~~!(>_<)息子にしてはよくそんなことができたなあと思います。学級通信に担任の先生が「エサをつけてくれてありがとう!」と書いて下さってました。(^0^;余談ですが、担任の先生はとてもマメに学級通信を発行して下さいます。もう21号まできています。(この記事が載るころにはさらに増えているでしょう)学校で起こったことがよくわかり、とても感謝しています。
 漁村体験は本当に楽しかったようで、親としてもうれしく思います。息子は妹に「絶対に二中へ行くべきやで!」と力説していました。(^0^;妹ももちろん行きたいと思っていますが、4年後も中学を選んで行けるのかどうかはわかりません。まあ、どこへ行っても楽しい行事はあるでしょうけど。 (^0^)/

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2009年6月12日 (金)

日記(こーじ)

 6月12日は、恋人の日、日記の日です。
 ブラジル・サンパウロ地方では、縁結びの聖人アントニウスが没した前日の6月12日を「恋人の日」として、恋人同士が写真縦に写真を入れて交換し合う風習があるそうです。“写真”つながりで、全国額縁組合連合会も1988(昭和63)年からこの日を「恋人の日」と制定しています。
 日本における〈日記〉の語は、古来広狭さまざまな意味に用いられました。日にかけて事実を書きしるしたものという観点から、六国史以下の史書を日記とよぶことも広く行われましたし、特定の事件に関する報告書や問注記を事発日記とか、問注日記、勘問日記と称しました。また《土佐日記》や《蜻蛉日記》のように、紀行や回想録、随筆等の文学作品で日記と称したものも少なくありません(〈日記文学〉の項参照)。しかし備忘のため日々のできごとを記録したもの、すなわち狭義の日記が、日本のように9世紀中ごろからほとんど間断なく伝存していることは、中国にも欧米にも例をみない現象で、現在文献史料としては、典籍や文書に対し、記録とよばれて重んぜられています。日本における最古の例は《正倉院文書》天平18年(746)の断簡ですが、明確に現れるのは平安時代です。

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2009年6月11日 (木)

傘(こーじ)

 6月11日は、銀行の日、雨漏り点検の日、傘の日、入梅です。
 「国立銀行設立の日」は、1873(明治6)年、日本初の銀行、第一国立銀行(現・第一勧業銀行)が設立されたことを記念した日です。国立銀行は第○国立銀行のような名前になっていて、ナンバー銀行と呼ばれていたようです。新潟の第四銀行、仙台の七十七銀行など、現在もそのままの名称を使っている銀行が残っています。
 雨漏り点検の日は、本格的な梅雨のシーズンを前に、建物の雨漏りの点検をしようということで、全国雨漏検査協会が1997(平成9)年4月に、この日を記念日として制定しました。全国雨漏検査協会では、紫外線に反応すると青く光る検査液を使う新手法で、雨漏り発見に努めています。
 日本洋傘振興協議会では、入梅にあたる6月11日を「傘の日」と定め、毎年、ファッション性や機能性など傘の持つ多様な魅力の紹介に勤めています。
 傘は、雨や日ざしを避けるため頭上にかざすものですね。直接あたまにかぶる笠と区別するため〈さしがさ〉ともいいます。しかし、傘と笠は関係深く、さらに、仏像の上に懸垂される天蓋や、宮廷の儀式に用いた〈きぬかさ〉とも共通する面があります。
 中国の神話によれば、黄帝が戦いの際、五色の雲が花の形になって頭上にとどまったとき戦況が一変し勝利を得たので、これにちなんで華蓋をつくり、以後つねにかざしたといいます。華蓋は実際に国王や貴族の外出の際の日よけとして用いられたもので、日本では〈きぬかさ〉と読ませています(《和名抄》)。大きな笠に柄をつけて手にもつようにしたものが塵で、《和名抄》では〈おほかさ〉としています。日本では《万葉集》に蓋(きぬかさ)の語があり、《宇津保物語》《枕草子》《更級日記》などに〈からかさ〉の語が出てきます。
 からかさ(唐傘)については、(1)唐・韓(から)から伝来したもの(《類聚名物考》)、(2)柄笠(傘)の語があり、柄の字を〈から〉と読む(《貞丈雑記》)、(3)さっと開いて、さすのが奇なるゆえ(《俚言集覧》)、(4)からくりの〈から〉と同じくろくろ細工の意あるいは軽いの意(《俗語考》)、というような説があります。文献では、唐傘、韓笠、塵、雨繖、油傘、笠傘、雨傘、竪笠、傘の字をからかさと読んでいます。繖はきぬかさ、つまり布を張ったかさをさしますが、紙張りのかさも古くからあり、字音が同じ傘(サン)と区別はありません。いずれにしても、古い時代の〈かさ〉がどんなものかは明確ではありません。英語では傘をアンブレラ umbrella といいますが、これは〈影〉を意味するラテン語 umbra が語源で、フランス語では日傘をパラソル parasol(para はよけるの意。太陽をよける)、雨傘をパラプリュイ parapluie(雨をよける)といいます。

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2009年6月10日 (水)

路面電車(こーじ)

 6月10日は、時の記念日、路面電車の日、ミルクキャラメルの日です。
 「時の記念日」は、東京天文台と生活改善同盟会が1920(大正9)年に、「時間をきちんと守り、欧米並みに生活の改善・合理化を図ろう」ということで制定したようです。今となっては、日本人は欧米以上にその辺りに関してはしっかりしているかもしれません。
 路面電車の日は、1995(平成7)年のこの日、路面電車を持つ自治体が「路面電車サミット」を開催、「ろ(6)でん(10=テン)」(路電=路面電車の略)の語呂合わせから、記念日に制定しました。最近では環境に優しい乗り物として見直されています。
 ミルクキャラメルの日は、森永製菓が2000(平成12)年3月に制定しました。1913(大正2)年、森永製菓が「森永ミルクキャラメル」を発売しました。それまでは1899年の創業以来「キャラメル」とだけ書いて販売していました。
 路面電車は、一般道路に線路を敷設し、自動車、自転車、歩行者などと路面を共用する仕組みをもって運転される電車で、市街電車、低速電車ともいう。乗降は路面または路面に特設した安全地帯と呼ばれる低いプラットホームを介して行い、客車にはその床面との乗降用にステップ(踏段)が備えられる。法令上では軌道と呼ばれ、専用敷地をもつ鉄道と区別される。
 路面電車は、19世紀後半、産業革命の進展に伴う人口の都市集中によってもたらされた市街地内道路の交通難に対処する方式として創案されたもので、1881年ベルリン郊外での試用に始まります。しかし市街地道路での交通機関としては馬で客車を牽引する鉄道馬車(馬車軌道)がすでに行われていて、経済上での優劣や技術開発とのかかわりから、すぐには普及しませんでした。路面電車が市街地道路での主要な交通機関となるのは1900年代からでしたが、その全盛期は短かったそうです。第1次世界大戦を契機に自動車が有力な競争相手として登場する一方、市街地内に高架構造の専用線路(高架鉄道)を設けたり、あるいは道路下にトンネル構造の専用線路をもつ高速電車(地下鉄)が普及して、路面電車の経営が圧迫されたからです。
 日本では1895年に京都市の東洞院塩小路~伏見油掛(6.7km)で路面電車が初めて営業を開始し、全国各地へ急速に普及しました。英米に比べると日本では路面電車が長く愛用されましたが、それは、経済発展の後進性に伴う地下鉄普及の遅滞、石油燃料の使用制限などによる公共用乗合自動車(バス)路線網の整備不良のためらしいです。一般道路を自動車と共用する路面電車は、自動車による進路妨害をうけやすく、運転速度が遅くなります。これが乗客離れを促し、経営圧迫を激化しました。路面電車の線路内に自動車の立入りを禁じ、運転速度が早く、加速・減速も容易な新型車両を開発し、路面電車を存続させようとする試みもなされましたが、自動車交通円滑化を優先し、路面電車を廃止した事例のほうがめだっています。路面電車による輸送力は、巨大都市での市街地内交通需要には対応しにくいのですが、中規模都市ならばその任に耐えうる場合が多いようです。そのため、日本では石油ショック以来、路面電車見直し論が台頭し、広島、長崎での実践事例が高く評価され、軽快電車と呼ばれる新型電車の実用化も進められています。ヨーロッパ大陸では、ドイツをはじめ各国の諸都市で路面電車が今日でも広く用いられていますが、運転方式は日本と著しく異なり、省力化によるコストダウンが大幅になされています。近年は、いったん路面電車を廃止したアメリカやフランスの都市でも、近代的なライトレールとして復活しています。

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2009年6月 9日 (火)

枚方青少年センターでの紫陽花コンサート(くみこ)

 6月14日(日)午後2時半から、枚方公園の青少年センターで紫陽花コンサートというのをします。(入場無料です)去年も青少年センターで同じ名前のコンサートをしました。今年は都合で声楽の方がいませんが、あとは去年と同じメンバーで、ピアノ3人、クラリネット1人、フルート1人の5人でやります。
 さっそくプログラムですが・・・

ピアノ連弾
 小組曲より「小舟にて」「行列」(ドビュッシー)
フルート独奏
 フルートソナタ第1楽章(←私のオリジナルです!)
クラリネット独奏
 ポケットサイズ・ソナタNo.2(テンプルトン)
ピアノ独奏
 ペトラルカのソネット104番(リスト)
 アレグロ・アパッショナート(サン=サーンス)
 スケルツォ第3番(ショパン)
ピアノ連弾
 小組曲より「メヌエット」「バレエ」(ドビュッシー)
アンサンブル
 君をのせて(久石譲)
 カントリーロード(J.デンバー他)
 子どもの遊びより「舞踏会」(ビゼー)

 私は「フルートソナタ」の伴奏、ピアノ独奏の「スケルツォ第3番」、アンサンブルの「カントリーロード」「舞踏会」で出ます。
 実は昔、少しだけ作曲の勉強をかじったことがあるのですが、今回16~7年前に私が作ったフルート曲を演奏してもらいます。フルート奏者の方に「ちょっと変な曲があるんだけど・・・」と話を持ちかけたら、「やりましょう!」と言って頂き、実現しました。私の拙い曲にお付き合い頂くことになり、感謝しています。
 このフルート曲はソナタ形式で、第1主題はお姫様のイメージでゆっくりおだやかなメロディ、第2主題は王子様のイメージでテンポの速いリズミックなメロディにしました。提示部・展開部・再現部と続き、最後はお姫様の第1主題と王子様の第2主題が二重奏になって出てきます。フルートを聴かせるカデンツの部分もあります。
 カワイ音楽教室に勤めていた頃、講師の研修のシンポジウムで何度か作品発表をさせてもらっていたのですが、フルートでの音出しはそれ以来です。自宅のミニコンサートでは、カシオトーンをフルートの音色にして披露してみたことがあるのですが・・・。とっても楽しみです!
 クラリネットの独奏曲はジャズっぽい雰囲気だそうです。管楽器とのアンサンブルもあり、お聴き頂きやすいプログラムだと思いますので、ご都合のつく方はぜひ応援しにいらして下さいね。よろしくお願いします。

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2009年6月 8日 (月)

バイキング(こーじ)

 6月8日は、バイキングの日、大鳴門橋開通記念日、成層圏発見の日、学校の安全確保・安全管理の日です。
「大鳴門橋開通記念日」は、1985(昭和60)年、鳴門海峡をまたいで四国と淡路島をつなぐ大鳴門橋が開通したのを記念した日です。この10年後、明石海峡大橋が平成10年に完成して、関西圏と四国を直結するルートができ、ずいぶん便利になりました。
 バイキングは、8世紀末~11世紀にヨーロッパを襲ったスカンジナビア人の海賊です。
 語源は古北欧語ではビーキング vikingrと記され、‐ing は人を表します。ビーキングについては、古北欧語で入江、小湾を指す vik、オスロの周辺部の古い地名 Vik(または Vikinn)、古英語で交易地を指す wic(ドイツ語 Wik、ラテン語表記 vicus)など諸説あり、学問的な定説はありません。ビーキングの呼称は主としてアイスランド、ノルウェーの詩などにみられます。しかしそこでは、人を表す用法以上に、〈バイキングに赴く〉というように行為を表す用例が多く、その場合には海外への略奪遠征を意味します。したがって、北欧に〈バイキング〉という特別な社会的グループ・身分があったのではなく、普通の人々の正常な生活の活動の一部としてバイキング行為があったのです。
 当時スカンジナビア人は、散居定住し、単婚の自由人家族に若干の奴隷を加えた農場世帯を営んでいました。デンマークを除けば主穀生産は不十分で、牧畜、漁業を行い、必要な物を入手するために、船によって交易をしました。交易先で機会が許せば略奪をし、またその帰途、水と食料を手ごろなところで実力で入手したので、8世紀末以降、ヨーロッパ各地へバイキングが進出する、いわゆるバイキング時代以前から、バイキング的生活は北欧やバルト海地域で行われていたのです。農場家産は息子たちに均分相続されましたが、不動産は一人の息子が経営を引き継ぐようにし、他の息子たちは動産を受け取って新農場を開きました。800年ころ、ノルウェーとくにその西部沿岸では農場が肥沃な土地を占め尽くし、あまりよくない土地にも農場が建設されつつあったので、その意味では相対的な人口過剰=土地不足になっていました。北欧の他の地域では、このような現象は必ずしも認められないので、バイキング活動(とくに西欧への侵入)の原因を端的に人口過剰に求めることはできませんが、しかし息子たちがそれぞれ独立して新農場を開くのだから、国内での新開墾にせよ海外植民にせよ、絶えず新しい土地が求められていたのです。また交易と海外略奪は豪族たちの政治権力としての成長の根拠となり、同時に目的となりました。バイキング時代は北欧諸国における王権を頂点とする地域的もしくは統一的政治権力成長の時代でもあります。スカンジナビア人を構成するスウェーデン人(スベア人とヨート人からなる)、デンマーク人、ノルウェー人はすべて北ゲルマン人として互いに通じあえる言語を話し、協力することもありましたが、バイキングとしてはおおざっぱに三つの違った方向に向かいました。

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2009年6月 7日 (日)

母親大会(こーじ)

 6月7日は、母親大会記念日です。
 母親大会は、日常生活のさまざまな問題や教育、平和などについて母親の立場から話し合い、連帯を深めることを目的に開催される大会です。1954年3月ビキニ水域でのアメリカの水爆実験に抗議して、日本婦人団体連合会会長平塚らいてうは国際民主婦人連盟にあてて〈原水爆禁止をのぞむ日本婦人の訴え〉を送りました。この訴えが支持され、55年7月にスイスのローザンヌで世界母親大会が開かれました(参加68ヵ国、1060人、日本からは団長の河崎なつら14人)。その準備大会をかねて同年6月に東京で第1回母親大会を開き、子どものいのちを守り育てる母親の立場からの新しい女性解放運動の誕生として注目を浴びました。この大会の準備には、日本子どもを守る会、日教組婦人部、全日本婦人団体連合会、婦人民主クラブ、総評、生協婦人部、婦人矯風会のような全国規模の団体から、岡山地域婦人会、世田谷家庭会、無痛分娩母の会、生活をつづる会など、地域のグループまでの60数団体が参加し、大会当日には全国各地から2000人を超える母親たちが集まりました。〈子どもの幸福を守る〉〈平和を守る〉〈婦人の生活と権利を守る〉の三つの分科会で状況報告と意見交流を行い、最終日の全体会議では、社会保障費や教育予算の増額、不良文化財の追放、生理休暇・産時休暇の完全実施、交通安全対策の推進、売春禁止法の制定、家族制度の復活反対、軍事基地の撤去、原爆被害者の援助、原水爆禁止世界大会の成功、などの13項目にわたる要求を決議しました。その後、全国、地方(県・市)の大会ともに盛んになり、PTAや教育委員会も後援団体になるなど、毎年の日本母親大会の参加者は2万人に及ぶほどに普及するようになりました。近代日本の女性解放運動は、封建的男女差別の撤廃をめざす、いわゆる女権拡張運動と、〈働く婦人〉の権利要求を中心とする労働運動との二つの潮流のうえに進んできましたが、母親大会はその流れを一つの大きな女性解放運動に発展させたといえます。

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2009年6月 6日 (土)

兄弟姉妹(こーじ)

 6月6日は、楽器の日・おけいこの日、カエルの日、コックさんの日、飲み水の日、兄の日、恐怖の日、最後だけ恐い記念日ですね。
「楽器の日」「おけいこの日」の由来は、昔から「芸事は6歳の6月6日から始めると上達する」といわれていることから制定されたようです。確かに、6月6日はともかく、6歳はなんとなく芸事を始めるにはちょうどいい年齢のような気はします。
 かえるの日は、「かえる友の会」の会員で作家の矢島さらさんが1998(平成10)年に制定しました。かえるの鳴き声「けろ(6)けろ(6)」の語呂合せです。
 コックさんの日は、「かわいいコックさん」の絵描き歌の中に「6月6日」が出てくることからきています。
 飲み水の日は、東京都薬剤師会公衆衛生委員会が1990(平成2)年に制定しました。世界環境デーの翌日です。「薬だけでなく健康に関わり合いのあるものに貢献して行くのが薬剤師の仕事」として、東京の水道水の水源である利根川等の水質検査を行っています。
 兄の日は、姉妹型、兄弟型の研究で知られる漫画家の畑田国男さんが提唱しています。双子座のほぼ中間に当る6月6日を記念日としました。
 兄弟姉妹関係は親子関係、夫婦関係とともに家族内外における基本的な親族関係のひとつで、どのような兄弟姉妹関係を形成するかによって家族や親族組織の構造に差異を認めることができます。さまざまな家族制度を兄弟姉妹関係を視点としてみれば、兄弟姉妹間の連帯をなんらかの形で強調もしくは尊重するものと、兄弟姉妹間の分離を促進し、そのかわりに親子関係や夫婦関係を強調もしくは尊重するものの二つに大別できます。
 兄弟姉妹関係を強調する家族制度としてとくに注目されるのは大家族制(拡大型家族)、同族組織、オナリ神信仰、均分相続制、レビレート婚(兄弟逆縁婚)、ソロレート婚(姉妹逆縁婚)です。日本における大家族制の最も一般的な形態は兄弟姉妹のうち複数の男の兄弟が結婚後配偶者をともなって生家にとどまり(多子残留)、同一の家族を形成するもので、親子関係に加えて兄弟間の連帯が強調される家族といえます。東北地方にみられた大家族の多くはこうした形態ですが、白川村や越中五箇山の大家族においては戸主および将来の戸主以外は配偶者との同居がみられませんでした。しかし同一家族に生まれたほとんどの兄弟姉妹が一生を通じて生家にとどまるという点では、兄弟姉妹関係の重要性が優先されていたといえます。同族組織は兄弟関係を、家族の外側の本分家関係に置換した親族組織です。とくに兄弟間の長男と次・三男の生得的身分的地位の差異を本分家関係にまで拡大したもので、ここに認められる兄弟関係の著しい特徴は、本家を相続するものと分家を創設する次・三男の差です。この差は一子残留制を基本とする日本の直系型家族において一般的で、通過儀礼などの遂行にあたってこの差がよくあらわれます。これに対して均分相続制は兄弟間の格差をつけない相続制度で、位牌祭祀形態のひとつです〈位牌分け〉(親の位牌を子ども全員がもつ慣行)もこれに類似した意味をもつといえます。レビレート婚とソロレート婚はそれぞれ兄弟間と姉妹間の一体性を強調する制度です。以上では主として兄弟間もしくは姉妹間のみにかかわる家族制度をとりあげてきましたが、奄美・沖縄などにみられるオナリ神信仰は兄弟と姉妹の関係をめぐる家族制度のひとつです。奄美・沖縄では一般に兄弟をイヘリ、姉妹をウナリ・オナリとよびます。これは兄弟姉妹を一括してキョウダイとよぶ本土の用語法とは異なる日本語です。オナリ神信仰とはオナリがイヘリを霊的に守護するとする信仰であって、イヘリは旅に出るときにはオナリ神のシンボルである白い布などを身につけていきます。こうしたオナリ神信仰にみられる兄弟姉妹間の連帯は夫婦関係とは対立します。
 兄弟姉妹の分離を促進する家族制度として重要なものは一子残留制と夫婦家族制です。一子残留制は兄弟姉妹のうちのいずれか一人が相続者として残留する制度で、したがって相続者以外は養子、分家、婚姻などによって生家から転出し、兄弟姉妹間の分離が行われます。これがさらに著しいのは夫婦家族制でして、この場合にはすべての男女が結婚を契機として生家をはなれて独立した家族を創設する制度で、家族内の関係としては親子関係や兄弟姉妹関係よりも夫婦関係の強調がみとめられます。全体的にみれば、日本の家族制度のなかで完全な意味で兄弟姉妹間の一体性を強調するものはみられないといえます。

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2009年6月 5日 (金)

もくようルームのバザーのお知らせ(くみこ)

 子どもたちがお世話になったもくようルームのバザーが6月9日(火)朝9:30からあります。中振キリストの教会のお庭であるのですが、雨天の場合はお隣の宣教師の先生のお宅の地下室で催されます。
 バザーはお母さん方の手作りケーキや手芸作品をはじめ、リサイクル品など、盛りだくさんです!以前の記事にも登場したキャメロン(^0^;の娘さんが今年もくようルームに通っておられ、内容を詳しく教えてくれました。

~縫い物~
レッスンバッグ・上靴入れ・小物類・帽子・雑巾・エプロンなど
~編み物~
コサージュ・ストール・アクセサリー・コースター・携帯袋・アクリルたわしなど
~アクセサリー~
シュシュ・ヘアーピン・ヘアーゴムなど
~ビーズ~
ピアス・ネックホルダー・キャラクターストラップなど
~食べ物~
お菓子16種類!(生キャラメルも)・もちもち食パン(生地の中にお粥を入れて焼く)・抹茶小豆パン(抹茶と小豆のハーモニーが絶品!)・炊き込みご飯・ちらし寿司・唐揚げなど
~その他~
シンケンジャーやシュガーバニーズなどのキャラクターワッペン・消しはん・リサイクル品などなど

 何と、これだけのものを10人のお母さん方で用意されるそうです。すごい!お子さんへの愛情が感じられます。ぜひ行かせてもらいたいと思います。売上げに貢献するというよりも、本当に価値あるものがたくさんあるので楽しみです。
 お近くの方はぜひのぞいてみて下さいね。よろしくお願いします。

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2009年6月 4日 (木)

ローメン(こーじ)

 6月4日は、虫の日、ローメンの日、土地改良制度記念日です。
 今日は「ローメンの日」ですが、ローメンってご存知でしょうか。ローメンとは長野県伊那市の名物で、羊の肉と蒸した固めの中華麺を独特のスープで煮込んだ食べ物です。伊那市の商工会議所が「む(6)し(4)」(蒸し)の語呂合わせで制定しています。1957年に、伊那市の中華料理店「萬里」の主人であった伊藤和弌が、服部製麺社長の故・服部幸雄の協力を得て創作しました。当時は、冷蔵庫が一般的でなく、麺の保存が利かなかったため、蒸し麺を用いて日持ちさせました。肉は、伊那市周辺で羊毛生産のため盛んに飼育されていた牧羊に伴う副産物のマトンを使うこととし、塩漬け肉にして日持ちさせたものが使用されました。野菜は、周辺で栽培されていたキャベツを使用しています。
 初期には、炒めるという炒肉麺(チャーローメン)と称して販売されたようです。諸説あるのですが、最終的には「チャー」がとれ、「ローメン」という名称が定着しました。伊藤和弌は、地域発展を念頭に「ローメン」の名称使用を自由にしたため、ローメンは周囲の店に広がりました。伊那市もローメンをまちおこしに使用しています。萬里本店近くには、記念碑も建立され、6月4日をその語呂からローメンの日としています。
 「ローメンズクラブ」という、ローメン愛好家の組織も立ち上がっています。

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2009年6月 3日 (水)

測量(こーじ)

 6月3日は、測量の日、ムーミンの日、雲仙普賢岳祈りの日です。
 1991(平成3)年の今日、長崎の雲仙普賢岳で大火砕流が発生し、死者40人、行方不明3人の犠牲者が出ました。長崎県島原市がこれを記念して、1998(平成10)年から、「雲仙普賢岳祈りの日」を実施しています。
 測量の起源はエジプト王朝時代にさかのぼって求められます。当時のエジプト人にとってナイル川は生活の糧の源泉でしたが、毎年おきる洪水は耕地等の土地の境界を破壊するものでした。この結果を原形に復するための境界の設定が必要となり、このための技術として測量技術が発達したものと考えられています。エジプト時代の測量機器、方法については簡単な測量縄、測量幹の使用以外に詳細は不明ですが、ギーザのピラミッド(前2500ころ)の建築技術、その基礎の方向から、測量の精度はかなり良いものであったことがうかがわれます。
 ギリシア時代には学問の進歩に伴い測量の分野でも発展がみられ、メトンによる方位の測定、エラトステネスによる地球外周長の測定があり、またヘロンによる経緯儀と水準器を組み合わせた測量器と考えられるディオプトラや歯車式の距離計についての記述、プトレマイオスによる天文観測用の象限儀(四分儀)についての記述が残っています。ローマ時代の測量手段はこれ以前のものと大きな差は見られませんが、測量機器、方法の中部ヨーロッパへの普及が著しいですね。ローマ時代には道路網の整備や地籍調査が国家的に実施されていますが、そのために重要な役割を果たしたのはグロマ groma とよばれる直角器の一種です。グロマは木の棒2本を互いに直交させ、その四つの腕の先からおもりをつけた紐をたらしたもので、その紐を使って照準を合わせることで角度を直角に合わせることができました。当時の土地の単位は矩形であったと考えられ、グロマと測量幹が当時の主測量器でした。中世時代の科学はおもにアラブ人により保持、向上させられていましたが、測量部門では中世後期に至るまで若干の改良はあったにしても、一般にはこの時代以前のものが広く用いられていました。
 ルネサンスとともに測量技術にも大きな進歩がありました。レオナルド・ダ・ビンチは距離測定車のデザインを描いていますし、また J. F. フェルネルは1525年に測距車により長距離の測定を行い、弧長測量を実施しています。この時代には地理学的発展、航海術の進歩に伴い、地図や測量データへの要求が一段と強まりました。1530年ころにはオランダで現在の巻尺の元となった測量鎖が初めて用いられ、1600年ころには水平角測定装置が開発され、このような装置に初めてセオドライト theodoliteの名称が記されています。平板測量器具はヘンマ・フリシウス Regnier Gemma Frisius(1508‐55)により発明されたといわれ、それがプレトリウスJohann Praetorius(1537‐1616)により広められました。
 17世紀に入ると多くの主要測量器が開発されています。すなわち、G. ガリレイや J. ケプラーらによる望遠鏡の開発、テベノ Melchisレdech Thevenot(1620‐92)による気泡管の発明などがあります。また1617年にはオランダのスネル Willebrod vanRoijen Snell(Snellius。1591‐1626)により近代的な三角測量方式が実用化されるなど、測量方法にも進歩が見られます。18世紀になるとフランスでは土地測量による地籍の確定に関する法律が議会を通過し、これには三角測量法を用いると明記されるなど、測量の精度の向上が図られ信頼されるに至りました。1795年には C. F. ガウスが、ほとんど同時に A. M. ルジャンドルが、最小二乗法理論を発展させ測量データの精度を一層向上させました。この時代にはほぼすべての地上測量用器の基本は開発され、以後その改良が進められていましたが、20世紀後半における電子工学の発展に伴い電磁波測距儀が開発され距離測量が広く用いられるようになったことと、写真技術の発達に伴う写真測量の発展に著しいものがあります。さらに、人工衛星や電波星を利用した測量が開発されるに及び、測量手段は宇宙にまで発展しています。

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2009年6月 2日 (火)

裏切り(こーじ)

 6月2日は、横浜港開港記念日・長崎港記念日、うらぎりの日です。
 今日はなんだか仰々しい「うらぎりの日」ですが、1582(天正10)年の、歴史的に有名なあの出来事を指しています。そう、本能寺の変ですね。織田信長は本能寺で、明智光秀に裏切られて攻められ、信長はいつも好んで歌い待っていた、「敦盛」の一節「♪人生五十年~」の通り、数え年50歳で自害しました。
 本能寺の変は、1582年(天正10)6月2日、明智光秀が京都四条西洞院の本能寺に織田信長を急襲して自殺させた事件ですね。羽柴(豊臣)秀吉の備中高松城攻防をめぐって織田・毛利両軍が全面的に対決する局面を迎えた信長は、とりあえず堀秀政を派遣するとともに明智光秀に出陣を命じ、みずから近臣を伴って5月29日上洛しました。このとき将軍か太政大臣に任じようとする朝廷の意向に回答する予定でした。出陣を命ぜられた光秀は5月26日近江坂本城をたって丹波亀山に帰り、愛宕山に参籠(さんろう)して籤(くじ)を取り〈時は今あめが下しる五月哉〉という発句で連歌を興行したといいます。そして6月1日夜10時ごろ1万3000の軍を率いて出陣、信頼する老臣に本意を告げ、老ノ坂を下って桂川を渡り、2日黎明本能寺を囲みました。信長は1日夜を茶会、囲碁で過ごし深夜就寝しましたが、鉄砲の音ではじめて光秀の襲撃を知り、森乱法師(蘭丸)等近臣と防戦のすえ火中で自殺しました。父より早く上洛していた織田信忠も1日深夜本能寺から妙覚寺に帰り、2日朝村井貞勝等の通報で襲撃を知り、本能寺に入ろうとしたが及ばず、誠仁親王の二条御所にこもって防戦のすえ自殺しました。光秀はその日午後京都をたって近江に向かいましたが、山岡景隆が瀬田橋を焼いたのでいったん坂本に行き、5日安土を占領、8日再び坂本城に帰りました。しかし細川藤孝(幽斎)・忠興父子、筒井順慶、摂津の諸将等は予期に反して呼応せず、羽柴秀吉が毛利氏と講和して迅速に兵をかえし、織田信孝、丹羽長秀と提携したので光秀の計画はまったく齟齬(そご)しました。
 光秀謀反の原因には怨恨説、陰謀露顕説、保身説、政権奪取説、武士の面目説などが主張されています。しかしいずれも唯一の原因とみなすべき論拠を欠き、またこれらをすべて否定し去る確証もありません。ただ確実なことは、信長の主たる部将はすべて四周に出て敵軍と対峙し、信長・信忠父子だけがほとんど無防備の状態で京都にあり、そして光秀の軍団だけが京都の周辺にあるという、信長打倒のための絶好の機会において決行されたことです。

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2009年6月 1日 (月)

天気俚言(こーじ)

 6月1日は、電波の日、気象記念日、写真の日、氷の日、真珠の日、その他いろいろたくさんの記念日です。
 「気象の記念日」は、1884(明治17)年に日本で初めて気象と地震の観測が開始されたことが由来になっています。この日、日本で最初の天気予報が出され、その予報は「全国一般風の向きは定まりなし、天気は変わり易し、但し雨天勝ち」というものだったそうです。今に比べるとかなり曖昧だったんですね。
 天気の変化は生活に大きな影響を与えるので、天気の変化に関する経験をまとめた天気俚言は東洋でも西洋でも紀元前から知られています。ギリシアのテオフラストスは前300年ころ、200あまりの天気俚言を集めた本を出しています。その中には、〈夕焼けは晴、朝焼けは雨〉〈月や日がかさをかぶると雨〉〈北東風は天気が悪い〉〈絹雲は雨のきざし〉などという今日知られたものがだいたい入っています。また、船乗りにとって天気の変化はときには生死にかかわるので、瀬戸内海の水軍の頭領、村上雅房は、1456年(康正2)に出した《船行要術》の中に、天気に関する経験則を30あまりあげています。天気俚言は経験則で、各地の天気の変化の特性は、その地方の地形が大きく影響し、また季節によっても違うので、普遍性が少ないそうです。また、なかには〈肥びしゃくをかつぐと雨〉〈下駄をなげて表が出れば晴〉というような、まったく科学的な根拠がなく、迷信的なものもあります。このため、科学的な天気予報の手段としては価値が少ないのですが、なかには気象学的に説明できるものもあり、役に立つものもあります。
 たとえば、〈雲の堤が見えると早手がくる〉というのは、寒冷前線にともなう積乱雲が近づいてくることを物語り、注意していれば、1時間くらい前にわかります。信州などでは〈子どもがはしゃぐと雨になる〉といいますが、これは低気圧が近づくと、その前面は南風となり、暖気が入り、気温が上がるので浮き浮きしてくる、と見れば説明がつきます。一般に、気温が急に上がるのも、反対に下がるのも、雨の前兆です。前者は温暖前線の通過、後者は寒冷前線の通過を意味するからです。〈塩が水を吸えば雨〉〈鰹節(かつおぶし)を削るとき、柔らかいと雨〉〈ハコベの花が閉じると雨〉というのは、空気中の湿度が高いと雨になるということを意味しています。しかし、これは多く同時現象で、予報としての価値は少ないです。〈煙がまっすぐ上がると晴、横にたなびくと雨〉というのは、大気の安定度と関連した現象です。前線が近くにあって、上空に気温の高い空気が入っていると、煙の上昇がそこでおさえられ、横にひろがるからです。また、〈遠くの鐘がよく聞こえると雨〉というのも、前線が近くにあり、音が上空の暖かい空気の層との境で反射するからです。ただ、冬季の晴れた日、夜間放射で地面付近が冷え、似た状態になりますが、このときは晴れて、雨とはなりません。
 〈星がまたたくと日中風が強くなる〉〈西風と嫁入りは日暮まで〉〈南風はばかっ風でやむことを知らない〉というのは、大気の成層が日変化することによって生ずる現象です。〈夕焼けは晴〉ということは、西の空が晴れていることを意味し、中緯度、高緯度では天気が西から東に移動していくことで説明できます。ただ、低緯度では反対に天気は東から西に移動し、また、夏の日本でもこの傾向となるので、この天気俚言は当てはまりません。〈朝霧は日中晴れ、気温がのぼる〉といわれています。これは、晴れた風の弱い日の夜、地面付近が夜間放射でいちじるしく冷え、上空に気温の逆転ができたときに朝霧が出るためで、日中は霧が蒸発して消え、下層がとくに暖まるためです。
 風も天気変化のよい目安となります。一般に北西風は天気がよく、北東風は天気が悪くなる前兆です。〈浅間山の煙が西に流れると天気が悪くなる〉というのは、このことをいったものです。ただし、冬季日本海側では北西風は天気が悪いきざしです。また、上空まで北東風の場合には、むしろよい天気がつづくきざしです。これは背の高い強い高気圧におおわれていることを意味するためです。〈空が高いと降りそうでも降らない〉というのは、相対湿度が低く、雲から雨粒が落ちてきても、途中で蒸発し、雨とはならないためです。
 天気俚言のなかには、夏や冬の天候の前兆をいったものも多いようです。〈コブシの花が多い年は豊作〉〈ツバメの渡来が早いと豊作〉などというのは、春の気温が高いと夏の気温も高いということを言い表したものと考えられます。事実、春の気温と夏の気温との間には統計的にも相関があります。〈大雪は豊年のきざし〉とよくいわれますが、地域により成り立つこともあれば、反対のこともあります。冬の天候の前兆をいったものには、〈モズが高い木にカエルや虫などをさしておくのは大雪〉〈ソバの豊作は大雪のきざし〉〈高山に早く雪がある年は大雪なし〉など多数あります。一般に冬の前兆は11月になって現れる傾向が多く、秋の天候とはむしろ逆の傾向があるようです。

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