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2009年5月

2009年5月31日 (日)

ムーブ21の土曜ステージ~その2~(くみこ)

 今日も土曜ステージの話にお付き合い下さい。m(_ _)m
 土曜ステージというと毎週来られる常連のお客さんもおられて、思わぬ反応があるのですが、今回はアンコールをして頂きました。とてもありがたいことですが、今までそんなことがなかったので何も考えていませんでした。私たちとしては、最後にお客さんと一緒に歌うのがアンコールというつもりだったので・・・。でも考えてみれば、プログラムに載せてたらアンコールになりませんよね!とっさに弾ける曲・歌える曲が思いつかず、失礼してしまいました。申し訳なかったです。6月末に弾く予定の曲もありましたが、アンコールで10分も弾いたらヒンシュクですしね。後で考えたら、生徒さんが発表会で弾くような有名な曲が何曲か弾けたのに・・・。前回は思いがけず「ブラボー!」の声がかかり、驚きながらもうれしいだけですみましたが、今回はよい経験になったので、これからに生かしたいと思います。
 それからこの土曜ステージをケーブルテレビが取材に来ていました。当日に聞いたのでちょっとビビリましたが、まあ何とか・・・。土曜ステージと言えば、いつもFMハナコという守口市のラジオ局で、本番の2日前ぐらいに番組内でインタビューに答えるというのがあります。以前の記事にも書いていますが、今年はラジオの話がないなあと思っていたらケーブルテレビが来ていました。ラジオでしゃべるだけの方が気楽でいいですね。(^0^;
 ケーブルテレビのニュースの中で2~3分取り上げられるだけなので、全然大したことないのですが、ケーブルテレビからのお知らせによると・・・・・

番組名    「週刊北河内ニュース」J:COM北河内11ch(CATV内)
放送エリア  守口市・寝屋川市・大東市・門真市・四条畷市・交野市
        (枚方市が入ってなくて残念!)
放送時間  土日①8:30~8:54②15:00~15:24③22:00~22:24
          平日①11:00~11:24②18:00~18:24③22:00~22:24
放送期間  2009年5月30日(土)~6月5日(金)までの予定

もしこのケーブルテレビをご覧になられている方がおられましたら、(思い出したら!)ご覧になってみて下さい。たった2~3分ですから、誰が何をしているところが映るのかもわかりませんが・・・。
 ところで今回は不覚にも、本番の3日前にダンボールで指を切ってしまいました。(>_<)包丁には気をつけていますが、ダンボールで切るとは思わず、ビックリしました!何とか傷がふさがり、本番はバンソウコウなしで弾けましたが、これからもっと気をつけないと!と肝に銘じました。
 先日も書いたように6月14日・28日にもピアノを弾くことになっています。また宣伝をさせて頂きますが、次々とこなしていけるように頑張りたいと思います。アルバムにコメント入りで写真を載せてもらっているので、よかったらのぞいてみてやって下さい。よろしくお願いします。

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2009年5月30日 (土)

掃除(こーじ)

 5月30日は、消費者の日、ゴミゼロの日、掃除機の日です。
 5月30日ということで、今日は「ゴミゼロ」の日です。ゴミがゼロといえば、最近はコンビニでも、お箸やフォークをデフォルトでつけなくなりましたね。さすがに袋はそう簡単にはなくせないでしょうけど・・・でもないですかね。ちなみに、今日から一週間「ごみ減量化・リサイクル推進習慣」でもあります。
 掃除は、中国で〈掃除(そうじよ)〉ははらいぬぐうという意味で、類似語に掃地(そうち)(地面を掃ききよめること)、掃洒(そうさい)、掃灑(そうさい)(ともに、掃いて水を注ぐこと)などがある。日本でも掃除という言葉は平安時代ごろから文章語としては多少使われていたのですが、日常語としてはほとんど使われず、もっぱら〈きよめ〉とか〈はく〉が使われていました。このうち〈きよめ〉のほうが掃き拭(ふ)きを総合した意味をもっていたようです。掃除が日常語になったのは比較的新しいことだそうです。掃除用具には、ほうき、ちりとり、はたき、雑巾などがあります。このうち、ほうき、ちりとりは古くから使われていましたが、はたきは江戸時代になってからです。雑巾も古くは棒雑巾で、手で拭く雑巾が主になったのは室町ごろからのようです。棒雑巾は長柄の先端に30cmほどの横木をつけ、ここに長さ50cmくらいの布をとりつけたもので、鎌倉時代ごろまでは室内の拭き掃除にはこの棒雑巾がおもに使われていました。はたきもなく、そのかわりに鳥の毛で作った羽根ぼうきや笹竹などでちりほこりを払い落としていました。これが室町ごろから手で拭く雑巾がおもに使われるようになり、江戸時代になって、小竹の先に裂いた紙や絹を結いつけたはたきが登場しました。これは住宅のつくり方の変化によるもので、鎌倉時代ごろまでは板敷住宅(寝殿造)であったために棒雑巾のほうが便利だったのです。それが中世から近世にかけて書院造となり、畳敷きがふえ板の間が少なくなったために、手で拭く雑巾のほうが使いやすくなり、また長押(なげし)や舞良戸(まいらど)、明障子(あかりしようじ)など桟のある建具が多くなり、はたきも考案されたと考えられます。しかしはたきとよばれるようになるのは明治になってからで、江戸時代には〈采払い〉〈ちり払い〉とよんでいました。
 掃除といえば年一度の大掃除、煤(すす)払いも重要です。〈煤掃き〉という語がすでに927年(延長5)完成の《延喜式》に見えます。《延喜式》では12月晦日とされていますが、鎌倉から室町には日は一定せず吉日を選んで行っていました。江戸初期には12月20日とされましたが、4代将軍徳川家綱のときに13日に定めたので、民間でも13日の煤払いが恒例となりました。このとき天井などのちりを払うのにむいた枝葉のついた笹竹を煤竹といい、煤竹売が呼び歩きました。また地方により煤男といって長い竿(さお)にわらのぬいごを束ねて結びつけたものも使いました。煤払いは江戸時代から明治にかけては大事な年中行事となっていましたが、大正、昭和と一般の生活様式や習慣が変化するにしたがってしだいに日も一定しなくなり、呼名も〈大掃除〉となりました。それでも昭和初期ごろまでは各町内ごとに大掃除の日を定めていましたが、第2次大戦後はこれも行われなくなりました。現在は掃除用具も電気掃除機などに移っています。

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2009年5月29日 (金)

こんにゃく(こーじ)

 5月29日は、呉服の日、こんにゃくの日、エベレスト登頂記念日、国連平和維持要員の国際デーです。
 今日は「ご・ふ・く」と「こん・にゃ・く」の語呂で、呉服の日とこんにゃくの日です。こんにゃく芋の植え付けが5月に行われることからも来ているそうです。
 もうひとつの「エベレスト登頂記念日」は、そのままの意味なんですけど、エドモント・ヒラリーという人が、1953年に登頂しました。当時は装備なんかも揃ってなくて、大変だったそうです。
 こんにゃくの名は《和名抄》巻十七の園菜類中に見え、鎌倉時代からは大和の供御人(くごにん)から天皇の食膳に供するものが貢納されました。料理名としては《庭訓往来》などに見える糟鶏(そうけい)が古く、これはみそ煮にしたものだったようです。いわゆる精進物として調理法がくふうされ、魚肉がわりの刺身も室町期にはひろく行われていました。狸汁(たぬきじる)というのも、近世初期の《料理物語》ではほんもののタヌキの肉を使った汁でしたが、後期にはこんにゃくを油でいためて汁にするものをいうようになりました。1846年(弘化3)には《蒟蒻百珍》というこんにゃく専門の料理書が刊行されています。こんにゃくのみそ田楽は、豆腐のそれとともに、〈あんばいよし〉と呼びながら行商され、大坂では〈庚申(こうしん)こんにゃく〉といって庚申の日のまじないに食べるならわしがありました。凍りこんにゃくは、薄く切ったものを凍結乾燥させたもので、湯でもどして煮物などにします。水に浸した寒天のような舌ざわりがあり、江戸時代にはかなり愛好されたものですが、いまでは甘く煮た小片を正月の黒豆に添えることさえまれになりました。こんにゃくは97%までが水分で、2%ほどの糖質も難消化性のこんにゃくマンナンで、栄養的にはほとんど無価値ですが、弾力のある歯ざわりが喜ばれます。おでん、白あえ、汁の実などにしますが、まず、から炒(い)りして水分を除いてから味つけするとよいそうです。加工品の糸こんにゃくや白滝(しらたき)は、なべ料理や煮物などに用いられます。

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2009年5月28日 (木)

花火(こーじ)

 5月28日は、花火の日です。花火の歴史は古く、日本では1733(享保18)年、江戸の隅田川で水神祭の川開きが行われた際に、慰霊をかねた花火が打ち上げられたのが最初だそうです(他にも諸説あります)。世界的には、起源はギリシア・ローマの昔にさかのぼるとの説もあるのですが、現在のような花火は火薬の発明以後で、ヨーロッパでは14世紀の後半、イタリアのフィレンツェに始まるといわれています。ヨーロッパ諸国に流布したのは16世紀で、17世紀には花火の技術を教える学校もできました。初期は硝石、硫黄、木炭を主剤としていましたが、1786年ベルトレによって塩素酸カリウムが発見されてから、花火の色彩が自由に出しうるようになりました。18世紀には各地で大花火大会が催されています。

 また国際アムネスティの日でもあります。アムネスティは、「すべての移住労働者とその家族の権利保護に関する条約 International Convention on theProtection of the Rights of All Migrant Workersand Their Families」の通称です。国連人権委員会は、外国人労働者の権利保護を1970年代後半から行うようになり、1985年に「外国人市民の権利宣言」を制定し、次いで90年12月18日に国連総会でコンセンサス方式により、この条約が採択されました。
 条約は、人権を(1)人間であれば誰にでも保障される権利、(2)正規の在留・就労資格の保持者の権利、(3)特別の就労許可を得ている者の権利に分類して、広く保障しました。すべての外国人労働者とその家族に対して、自由権、社会権が受入れ国の国民と等しく保障されます(内外人平等処遇原則)。正規の就労資格を持っている者には、労働関係の権利が手厚く保障され、特有の権利(不当な退去強制を受けない権利、海外に送金する権利、家族の同居権など)も認められます。また、職業紹介などの実行、ブローカーや不法雇用者の処罰、不法滞在者の合法在留資格の復活(アムネスティ)なども定めているのですが、他方で、不法滞在者を国外退去させる国家の権限も認めています。
 条約は、20ヵ国の加盟で発効し、「移住労働者人権委員会」が形成され、加盟国における人権保護の実状につき、その国の政府の報告書、個人や NGO の人権侵害状況の通報をもとに審議・報告・勧告するものと予定されているのですが、批准国が二、三にとどまっていて発効の目途は立っていないそうです。

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2009年5月27日 (水)

ムーブ21の土曜ステージ(くみこ)

 5月23日に大日のムーブ21の土曜ステージに出させて頂きました。毎週土曜日の夕方5時から行われており、いろいろな方々が出演されるので、常連のお客さんもおられるようです。新型インフルエンザの影響が心配されましたが、無事に行われ、お客さんも思っていたよりもたくさんお越し頂くことができ、感謝しています。ありがとうございました。
 私はショパンの「スケルツォ第3番」をソロで弾き、あとは声楽の伴奏をさせてもらいました。ロビーに椅子を並べた会場ですが、天井が高くてよく響きます。歌は歌いやすいそうですが、ピアノの音は自分にあまり聞こえなくて弾きにくいです。前回の連弾では低音部が出すぎたので、今回は全体に控えめに弾きました。でもビデオを見ると、ピアノが貧弱!ソプラノの方は声量があるので、ピアノをもっと出せばよかったなあと反省しています。自分の出している音がよくわからないので、伴奏がうるさかったらいけないと控えめにしたのですが・・・。いつものソプラノの方の声ならピアノが勝ってしまうことはないので、ムーブで弾く時は遠慮なく出そう!と思いました。(^0^;
 ソロは何とか最後まで辿り着けたので、ホッとしています。ところでソロで着たドレスは30歳の時に私が縫ったものです。(古い!)オーロラという名前がついた光る生地ではありますが、花嫁ドレスの処分市で買って来るドレスに比べると、かなり見劣りがしますね。(^0^;でも他のドレスも今後着る予定があって、今回は昔のを引っ張り出してきました。ちゃんと光ってたのかなあ。ライトを浴びて光らなかったら、ただのビニールのゴミ袋に見えるのですが・・・。
 ところでこのドレス、デザインの都合でウェストラインの切り替えがかなり高くしてあります。銀色の帯を結ぶ位置は普通のウェストではなく、実は胃袋の辺りなのです。あまりきつく締め過ぎないようにしたら、写真を見ると帯の後ろが結構下がっています。ちょっと不恰好でした!(やっぱり帯は本来のウェストの位置まで下がろうとしています・・・)
 今回は31期のしんころさんとくみ友さんが応援に駆けつけて下さいました。お花まで頂いたのですが、終わってから話していた時のこと。くみ友さんのバッグになぜか1輪の花が飾られていて・・・。聞けば、渡してくれる前に1本折れてしまったそうです。思わず「ブログのネタをありがとう!」と感謝しました。(^0^)/
 土曜ステージに関してはまだ書きたいことがあるので、次回もお付き合い下さい。よろしくお願いします。

Bansou Soro Wagon

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2009年5月26日 (火)

東名高速道(こーじ)

 5月26日は、ラッキーゾーンの日、ル・マンの日、東名高速道路開通記念日です。
 ラッキーゾーンは「甲子園球場が広すぎてホームランが入りにくい」ということで、1942年に設置されたんですが、1992年に撤去されました。今は福岡ドームのように甲子園よりもも広い球場もあって・・・時代は変わるものですね。
 ル・マンと言えば24時間耐久レースが有名です。1923年創設で、「ル・マンを制するものは世界を制す」といわれるほど有名なル・マンで過去唯一優勝している日本車は、91年のマツダ787Bだそうです。また日本人ドライバーでは関谷正徳が外国人選手と組んで、95年にマクラーレンF1GTRで優勝しています。
 東名高速道路は、正式名称は東海自動車道で、東京から愛知県小牧市まで全長346.7kmの高速道路です。1969年に完成し、先に開通した名神高速道路と結んで、東海道メガロポリスを貫く日本最大の交通動脈となりました。1996年度の利用台数は41万台/日、料金収入は2679億円、平均断面交通量は8万台/日弱に及びます。なかでも貨物車が多く、産業的利用が盛んです。名神高速道路と合わせて自動車による全国輸送人キロの2%、トラックによる全国貨物輸送トンキロの17%を担っています。その開通によって三大都市圏の結びつきは強化され、また東京~名古屋間の中間地帯(神奈川県西部、静岡県、愛知県東部など)の人口増加と産業の発展が著しく加速されました。例えば袋井市は多くの工業立地、農業や家畜市場の成長などを見て、1965年から80年の間に市の歳入が20倍以上という急成長を示しています。日本のトラック輸送はまず東名・名神高速道路上において、車の大型化、運行回転率の向上とワンマン化、適時輸送などの合理化を行い、輸送革新の先駆けとなりました。設計速度80~120km/h、4車線(一部6車線)で、すでにその大半の区間で容量不足による自然渋滞、さらには事故、工事による渋滞が増加し、放置を許さない状況となっています。83年より、そのため厚木~御殿場間の6車線への拡幅工事が行われ、さらに第2東名・名神高速道路の建設も始められました。

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2009年5月25日 (月)

食堂車(こーじ)

 5月25日は、広辞苑記念日、食堂車の日です。
 「広辞苑記念日」だそうです。競合の商品がある今でも、「何でも載っている大きな辞典」といったら、やっぱり広辞苑を思い出しますね。その広辞苑が最初に発売されたのが40年以上前の今日でした。広辞苑にはパソコンで使えるCD-R版もあるのですが、あの重い本でもCDにすると1枚にしかならないのですね。
 日本で最初の食堂車は1899年5月25日に私鉄山陽鉄道の京都~三田尻間の急行列車に登場しました。車両は3軸ボギー車で、全長15m、幅・高さとも2.4m、重量21.5トンで、車室は3部に分かれ、その1室の8人座席の食堂は厨房(ちゆうぼう)内にレンジと流しを備え、他の2室は8人定員の一等寝室、および洗面所、便所、乗務員用でした。メニューは洋食のみで、一・二等客専用であった。官営鉄道の食堂車は、1901年12月15日東海道本線新橋~神戸間の急行列車に連結された洋食専門の半車食堂車(他の半車は二等車)が始まりです。しかし、三等客は利用できず、現御殿場線区間と灯坂(おうさか)山の急こう配のため、食堂車連結は新橋~国府津(こうず)、沼津~馬場(ばんば)(現大津市)、京都~神戸に3分割されていましたが、03年に全車となり、同時に全区間連結となりました。初めての和食堂車は06年4月の東海道本線三等急行で、そののち四国を除く各幹線の急行、特急に食堂車が連結され、和洋の別は時刻表に載せられました。また、初めてのビュッフェは二等室との合造で、1901年に大阪(湊町)~桑名~名古屋の関西鉄道に登場しました。なお、世界最初の食堂車は、1868年アメリカのシカゴ・ノースウェスタン鉄道におけるものです。

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2009年5月24日 (日)

ゴルフ場(こーじ)

 5月24日は、ゴルフ場記念日です。
 1903(明治36)年に、日本初のゴルフ場「神戸ゴルフ倶楽部」がオープンしたのが「ゴルフ場記念日」の由来ですね。
 日本においては、ゴルフ場数を大きく増大させてきた三つの時期があります。1960年代前半、東京オリンピックによる第1次ゴルフ場ブーム、70年代半ば、田中内閣による日本列島改造論による第2次ブーム、そして80年代後半から始まった総合保養地域整備法(通称リゾート法)とバブル経済による第3次ブームです。
 1997年現在で日本のゴルフ場数は約2300ヵ所になります。都道府県別の数では、北海道の168をトップに兵庫151、千葉143、栃木131、履城121と100ヵ所以上が五つもあります。ゴルフ場の占有面積では千葉が2.9%、埼玉、大阪、栃木が各2.5%、兵庫が2.3%と続いています。造成中がまだ数百はあるので、これからも増えていくと考えられます。
 ゴルフ場建設には(1)農薬や肥料を散布して周辺の水環境を汚染するなどの〈環境問題〉、(2)1ヵ所で数百haという広大な土地を取得して限られた人々のみがそこを使用するという〈土地の囲込み問題〉、(3)ゴルフ場開発段階の贈収賄、倒産などによる不良債権化などの〈社会経済汚染問題〉があります。
 98年3月、奈良県山添村に端を発したゴルフ場反対運動は全国各地に広がっていきました。当初は〈ゴルフ場の農薬散布に反対する〉という運動が展開されました。しかし開発側から〈無農薬、省農薬ゴルフ場だから無公害であり建設を認めてほしい〉という論理が出てくるに至り、住民側は環境問題を総合的にとらえるようになりました。ゴルフ場建設には、農薬汚染以外に森林伐採による生態系破壊、土砂の大量移動による水環境や土壌破壊、地下水や河川水の枯渇、肥料の大量流出などの多様な環境問題があります。
 ゴルフ場の建設地の多くはもともと里山と呼ばれる雑木林です。そこには多様な野鳥、昆虫、植物が生息し、地下水を涵養して下流に良好な飲み水を供給し、二酸化炭素や窒素酸化物などの大気汚染を浄化するなどの公共性がありました。ゴルフ場開発は、そのような公共性を破壊して、土地を私的に囲い込んでしまいました。また開発段階において、収賄で逮捕された議員や自治体関係者が多く出てきました。ゴルフ場建設が舞い込んだため、地元住民は賛成、反対派に分かれ、親子や親戚や友達という人間関係までおかしくなるという事態も生まれました。
 1990年代後半、バブル経済が崩壊するとゴルフ場開発にかかわった銀行、商社、ゼネコン、企業などの倒産が相次ぎました。98年夏、世界同時不況を回避するため日本の不良債権が世界的にも注目されていますが、ゴルフ場開発や経営に関連する不良債権こそ、今の日本不況の元凶であるといえます。

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2009年5月23日 (土)

日曜参観(くみこ)

 先日、3年生の娘の小学校で日曜参観がありました。今回からは娘だけなので、ゆっくり参観することができました。
 今年の担任の先生は女の先生で、小学校、中学校、そしてまた小学校と回って来られたおもしろい経歴を持っておられます。と言ってもまだ20代半ばのお若い方ですが・・・。美人ですが、何だかおもしろい先生です。
 算数の割り算だったのですが、明らかに絵の具を溶かした水がペットボトルに入っており、2人の子供が出て3つのコップに均等に分けるというのをやっていました。みんな「絵の具や~」と言っていたけど、先生は「みかんジュースです!」と最後まで言い張ってはりました。(^0^;
 中学で数学を教えておられたそうで、お堅いのかなと思いましたが、小学生相手に楽しく、また厳しく接して下さってるようです。
 4月のクラス懇談の時も、笑わせてもらいました。実は今年もジェニファーの息子さんと同じクラスなのです。ジェニファーというのは娘のもくようルームからのお友だちのお母さんで、バリバリの関西人なのに‘ジェニファー’と名乗るおもしろい人です。そのジェニファーの息子さんもかなりおもしろく、クラス懇談の時にジェニファーが「うちの息子は参観の時にいつも笑かしてくれるので、今年はそういうことのないようにしてほしいと思います。」と発言したら、即座に先生が「それは無理です!」とおっしゃいました。(^0^)/(その日ドッジボールをした時、ジェニファーの息子さんが一人踊っていたらしい!)ジェニファー親子はおもしろいけれど、先生もいい勝負でした。(^0^;
 とにかく今年も娘は学校が楽しい様子。授業参観でその楽しさが伝わってきました。ありがたいことです。
 小学校のHPに日曜参観の写真が載っていました。娘のクラスは写っていませんが、よかったらのぞいてみて下さい。よろしくお願いします。

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2009年5月22日 (金)

ガールスカウト(こーじ)

 5月22日は、ガールスカウトの日です。
 「ガールスカウト」といったら、文字だけ読むと女の子を「ちょっとキミ、今何かバイトしてる?」とかってスカウトすることみたいに見えますけど、もちろんそのことではなくて、キャンプをやったりするあのガールスカウトのことですね。
1910年イギリスにおいてボーイスカウトの創始者ベーデン・パウエル R. S. Baden‐Powell によって創始された少女の教育を中心とする運動です。イギリス連邦系諸国ではガール・ガイド Girl Guide と呼ばれています。パウエルの姉および夫人の努力によって世界各国に広められ、20年に世界連盟が結成されました。81年現在、104ヵ国が加盟し、約800万人が参加しています。日本では1920年東京の香蘭女学校に第1団が誕生し、日本女子補導団と称して普及しました。太平洋戦争中解散したのですが、戦後49年にガールスカウト日本連盟として再発足し、60年には世界連盟への正式加盟が承認されました。ボーイ・スカウトと基本的に共通の理念によって組織、運営され、「ちかい」と「おきて」のもとに自己開発、自然とともに、人とのまじわりの3点にそった活動を通して少女たちの心身発達を目ざしています。対象は6~18歳の少女で、日本では年齢によって「ブラウニー」(小学校3年まで)、「ジュニア」(小学校4~6年)、「シニア」(中学生)、「レンジャー」(高校生)の4部門に分かれています。83年3月現在、登録団数約1570団、団員数約9万6000人です。

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2009年5月21日 (木)

リンドバーグ(こーじ)

 5月21日は、小学校開校の日、リンドバーグ翼の日です。
 日本で最初の小学校というのは、明治の始めに、東京や横浜でなくて京都にできたんだそうですね。それも国や京都府ではなくて、民間でお金を出し合って作ったそう学校なんだそうです。「上京第二十七番組小学校」だとか。
 リンドバーグはアメリカの飛行家です。1927年5月、史上初めて大西洋横断の単独無着陸飛行に成功しました。デトロイト生れです。ウィスコンシン大学中退後、飛行学校に学び、郵便飛行士などを務めています。懸賞金2万5000ドルのニューヨーク~パリ間無着陸飛行に挑戦するため、セント・ルイスの事業家の資金援助で特別機を注文製造しています。27年5月20日朝、スピリット・オブ・セント・ルイス号に乗りニューヨーク郊外のローズベルト飛行場を離陸、21日夜(パリ時間)パリ近郊のル・ブールジェ飛行場に無事着陸しました。所要時間は33時間30分でした。この壮挙で、長身、遠慮深いハンサムな青年は一夜にして世界の英雄になり、アメリカでは「ラッキー・リンディ」「ローン・イーグル(孤独なワシ)」と呼ばれて、1920年代(ジャズ・エージ)の「英雄のなかの英雄」「アメリカの夢」の実現者として熱狂的に迎えられました。しかし32年3月、2歳弱の息子を誘拐され、愛児は約2ヵ月後死体で発見されました。この事件を契機に、複数の州にまたがる誘拐犯行を連邦犯罪として取り締まる、いわゆるリンドバーグ法が成立しました。35‐39年、リンドバーグはヨーロッパで過ごし、この間、フランスでは医師 A. カレルに協力して人工心臓を試作し、ドイツではナチス党の H. ゲーリングから名誉勲章を授けられました。帰国後、アメリカが第2次大戦に対して中立を守ることを主張し、そのため親ナチスとして非難されたましたが、のちには太平洋戦線で軍顧問として戦闘任務についています。戦後は空軍や航空会社の顧問を務め、53年には単独飛行の回想録「翼よ、あれがパリの灯だ」(1954年ピュリッツァー賞受賞)を出版しました。なお、夫人アン・モローAnne Morrow Lindbergh(1906‐ )はエッセー集「海からの贈物」(1955)などで知られる作家です。

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2009年5月20日 (水)

ローマ字(こーじ)

 5月20日は、ローマ字の日、東京港開港記念日、新東京国際空港開港記念日、世界計量記念日です。
 昔「ローマ字国字論」といって日本語から漢字や仮名をやめてローマ字で統一しようという話があったそうです。物理学者の田中舘博士とういう人が提唱したんですが、その命日にちなんでローマ字の日だそうです。
 日本語のローマ字書きについては、そのつづりが問題になります。これはローマ字論が唱えられはじめたとき(1880年代)からの懸案でしたが、1954年に国として統一的なローマ字つづりが内閣告示として示されました。小学校のローマ字教育はこれに従っています。内閣告示には、第1表と第2表とがあって、〈一般に国語を書き表わす場合は〉第1表を用いるが、〈国際的関係その他従来の慣例をにわかに改めがたい事情にある場合に限り〉第2表を用いてもよいとしています。第1表は、1937年に臨時ローマ字調査会の結論が内閣訓令として出された、いわゆる〈訓令式〉の内容とほぼ同一です。第2表は、〈修正ヘボン式〉ともいわれる〈標準式〉と〈日本式〉のつづりで第1表と異なる部分を抜き出して対照させたものです。これら各式のおもな相違は、ジ(シ)、ヂ(チ)、ズ(ス)、ヅ(ツ)のいわゆる〈四つ仮名〉をめぐる部分に集中しています。日本語の音の変化がこの部分に起こったことと、もともとローマ字書きが母語を異にするそれぞれの外国人によって試みられたことのために、つづり方の不統一が生じました。最初に日本語をローマ字で書いたポルトガルの宣教師は、ポルトガル語の正書法で日本語を書き写しました。シ、セを xi、xe、ヂをgi、キ、ケを qi、qe と書きます。その後、オランダ人は、シを si、schi、ツを tsoe、tsu、tu、ヤを ja のように書き、書き手による違いがありました。ドイツ人は、シを ssi、schi、si、s’、ツを tsu、tzu、tu、ts と書きました。フランス人は、シを chi、si、ツを tsou、tso¢ と書きました。英米人によるつづりは、ヘボンの《和英語林集成》(1867)のローマ字が代表しています。シを shi、ツを tsu、チを chi、ジを ji、ヅを dzu(のち第3版で zu に改める)、フを fu と書きます。日本の英学の興隆を背景に、〈ヘボン式〉の名で広く普及しました。そのヘボン式を修正したものを〈標準式〉といいます。以上のほかに、蘭学者たちのつづり方があり、これがのちの〈日本式〉に発展します。シ、チ、ジ、ヂを si、ti、zi、di、ス、ツ、ズ、ヅを soe、toe、zoe、doe と書きます。これはオランダ式とは違うもので、日本語の音韻体系をよく観察して得たつづり方といえます。現行の〈第1表式〉は、この〈日本式〉を修正したもの(すなわち〈訓令式〉)です。〈第1表式〉は、こうした歴史を考えなければ、子音は英語などの音価を基準にし、母音はイタリア語などの音価を基準にしたものといえます。日本語をローマ字で書き表す場合は、多く、仮名を書き写すという姿勢が強く、まだ完全には、語(ことば)を書き表す文字となっていません。〈勉強しよう〉をbenkyou si you などと書くのは、ローマ字を習いたての子供をはじめワープロのローマ字漢字転換のシステムにも見られます。古くは西周(にしあまね)の《洋字ヲ以テ国語ヲ書スルノ論》(1874)のなかにさえ出てきます。日本人のローマ字によるサインのつづり字も仮名をローマ字に引き写すだけのものが多いそうです。
 後、東京港と、新東京国際空港の開港日でもあります。海と空の窓口である二つの「みなと」が同じ日に開いたというのは、何かいわれがあるんでしょうか?

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2009年5月19日 (火)

ムーブ21の土曜ステージ(くみこ)

 5月23日(土)夕方5時からの土曜ステージに出させてもらうことになりました。守口市生涯学習情報センター(ムーブ21)の1階エントランスホールです。(早い話がロビーですが・・・)土曜ステージはここ数年毎年出ていたのですが、去年はいっぱいで予約が取れず、出られませんでした。一昨年以来になります。
 今年はピアノ3人ソプラノ1人の4人でやることになりました。

~プログラム~
ピアノ連弾    
 小組曲より「小舟にて」「行列」(ドビュッシー)
ソプラノ独唱
 アレルヤ(モーツァルト)
 楽しい思い出はどこに(モーツァルト)
 (オペラ‘フィガロの結婚’より)
 夕顔(木下牧子)
ピアノ独奏
 ペトラルカのソネット104番(リスト)
 アレグロ・アパッショナート(サン=サーンス)
 スケルツォ第3番(ショパン)
ピアノ連弾
 小組曲より「メヌエット」「バレエ」(ドビュッシー)

 見上げてごらん夜の星を(いずみたく)

 最後の「見上げてごらん夜の星を」はお客さんもご一緒に歌って頂くことにしています。
 私はソロでショパンの「スケルツォ第3番」を弾き、声楽の伴奏もさせて頂きます。また「見上げてごらん夜の星を」の伴奏も私が弾かせてもらう予定です。
 ソプラノの方とは2度ほど合わせましたが、相変わらず迫力あるソプラノです。ピアノも私以外の2人はたくさんの連弾曲を準備しています。私も足を引っ張らないように頑張らなくては!!!
 守口市生涯学習センター(ムーブ21)は地下鉄谷町線大日駅、大阪モノレール大日駅から徒歩3分です。入場無料ですので、お時間のある方は応援しにいらして下さい。どうぞよろしくお願いします。
 
 ところで、5月6月で3つ演奏会があり、6月14日(日)に枚方公園の青少年センター、6月28日(日)の森小路の旭区民センターで弾くことになっています。詳しいことはまたご案内させて頂きますが、日にちだけ先に宣伝させて頂いておきます。(^0^;

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2009年5月18日 (月)

博物館(こーじ)

 5月18日は、国際博物館の日、国際親善デー、ことばの日、18リットル缶の日です。
 今日は「国際親善デー」と「ことばの日」とのことです。どちらも特別な行事は行われていないみたいです。ちなみに「ことばの日」は、「こ(五)と(十)ば(八)」の語呂合わせです。
 国際博物館の日は、博物館が社会に果たす役割について広く市民にアピールするため、国際博物館会議(略称ICOM:イコム)によって提唱され、1977年に設けられました。多くの文化施設が集まる上野では、毎年、「国際博物館の日」の前後に博物館を初めとした多くの文化施設やお店が様々な記念イベントをおこなっています。
 物を集め、これを他人に見せたいという欲望は人間の本性で、戦利品を神殿にならべ、公衆に見せるというようなことが、古代のエジプトやメソポタミアでも行われていました。ギリシア時代には、美術品の収集が盛んになり、有力な都市が、コレクションを納める宝庫をもち、特定の人々に展観させたことが知られています。ローマ時代、将軍たちは自分の邸宅に戦利品を並べ、富裕な人々も絵画館や図書館を邸内に建てることが盛んになり、美術品だけでなく、珍奇な自然物も集められ、また、動植物の飼育、育成も行われました。これは、今日の動・植物園の芽生えともいえます。ローマ帝国の衰退とキリスト教の発展は、キリスト教が偶像崇拝を否定したことから、それまでに集められたコレクションの多くが散逸してしまいました。しかし、中世を通じ学問の中心でありヨーロッパの文化を支えてきた教会では、儀式用具や祭服、聖遺物などが収集され、また、呪術的な力のもとと考えられた宝石や化石その他の自然物が集められましたが、それらをもとにやがて、動物や植物が聖職者たちによって研究され、百科事典や博物誌などの編集が行われるようになりました。
 14~15世紀のルネサンス時代には、イタリアを中心に芸術運動が盛んになり、また、メディチ家などの学芸の保護者たちは、盛んに美術品の収集を行い、また、フィレンツェのウフィツィ美術館など、収集品を展示するための美術館を建設しました。15世紀末、新大陸の発見によって、人々は新しい文明に興味をいだき、未知のものに対して強い好奇心をもちました。海外からもたらされる種々の物産は、学者たちの研究心を刺激しただけでなく、一般人の関心をも集めました。ドイツではアルコール漬の動植物標本や土俗資料、各種の機械類などを集め展示する〈ウンダーカマー〉(驚異の部屋)が各地に始められました。また、ヨーロッパの各地に大学や科学アカデミーが創設され、科学研究が盛んになるに従って、科学機器のコレクションも行われるようになりました。17世紀には、オックスフォード大学に、旅行家で探検家でもあった J. トラデスカントの収集した資料を中心に、アシュモリアン博物館が誕生しましたが(1683)、これがイギリス最初の科学博物館とされ、また最初の大学博物館、公共博物館となりました。このころから、各国で〈ミュージアム〉の用語がコレクションの保存、展示をする施設に対して用いられるようになりました。1759年、イギリスの収集家スローン Hans Sloane(1660‐1753)のコレクションを中心に国立博物館(大英博物館)が創設され、また、このころからヨーロッパ各国の王室のコレクションが一般に公開されるようになりました。89年に始まったフランス革命は、博物館の歴史にも大きな影響を与えました。91年召集されたフランス国民公会は、王室の収集品をルーブル宮殿に収容して一般に公開することを布告し、93年に〈共和国美術館〉として開館しました(ルーブル美術館)。また、94年には国立工芸博物館(現、国立技術博物館)が国民教育の場として公開されました。このころ、パリ植物園、ベルリン植物園、キュー植物園も相ついで公開されています。1851年、ロンドンで第1回万国博覧会が開催されましたが、これがきっかけになり、57年にサウス・ケンジントン博物館が創設され、やがて、ビクトリア・アンド・アルバート美術館、自然史博物館、地質博物館、そして科学博物館へと分離、発展していきました。20世紀に入り、各地に大規模な博物館が創設されました。1906年ミュンヘンにドイツ科学技術博物館が開館されましたが、これは後にドイツ博物館として、多くの機械装置を実際に動かして見られる大技術博物館として完成され、現代の科学技術博物館の草分けとなりました。第1次大戦後、ソ連では科学博物館などの技術教育に関係した博物館をはじめ、国有化した旧王室のコレクションを中心に展示したエルミタージュ美術館などが公開されました。第2次大戦後、各国とも博物館の復旧、発展に努め、新しい形式の美術館、民俗博物館、科学博物館が創設されています。

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2009年5月17日 (日)

パック旅行(こーじ)

 5月17日は、世界電気通信記念日、パック旅行の日、自然保護の日です。
「世界電気通信記念日」といって、世界中の国々がすばやく連絡を取り合うために電気的な通信手段を推進する万国電信連合が発足した日だそうです。今では無線通信の連合と統合されて国際電気通信連合になっています。
 パック旅行の日は、1861年、イギリスで世界初のパック旅行が行われたのが由来です。労働者委員会が企画し旅行業者トーマス・クックが手配した労働者一行の団体旅行が、この日、ロンドン・ブリッジ駅からパリに出発し、これが世界初のパック旅行となりました。
 トーマス・クックは、イギリスの旅行代理業者です。熱心な禁酒論者で、1841年禁酒運動の大会へ同志を団体旅行させたのを皮切りに旅行斡旋業をはじめました。51年のロンドン万国博覧会で大成功を収めたうえ、海外旅行にも事業を拡大、現在、全世界の主要地に支店を置く世界屈指の旅行社トマス・クック・アンド・サン社となっています。同社は1873年《ヨーロッパ鉄道(および連絡船)時刻表兼旅行ガイド》を発刊、現在は全世界の鉄道時刻表を発行しています。

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2009年5月16日 (土)

旅の日(こーじ)

 5月16日は、旅の日です。決めたのは日本旅のペンクラブというところで、その由来は、「松尾芭蕉」が『奥の細道』に旅立った日ということだそうです。それはいいんですが、ゴールデンウィーク直後のこの時期に、「旅」といわれても、ちょっと難しいですね。ほかの皆さんが、GW明けで忙しく働いているさなかにさっと休みを取って優雅に旅立ったりしたら、確かに松尾芭蕉的という気はしますが。
 あと性交禁忌の日でもあります。江戸時代の艶本『艶話枕筥』に、(旧暦)5月16日は性交禁忌の日で、禁忌を破ると3年以内に死ぬと書かれていたそうです。

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2009年5月15日 (金)

5.15事件(こーじ)

 5月15日は、沖縄本土復帰記念日、ストッキングの日、5.15事件記念日、ヨーグルトの日です。
 今日は「ストッキングの日」ですけど、ストッキングが発明された人はちょっと違って、「ナイロン製のストッキング」が発明された日です。もともとアメリカのストッキング市場は、日本の絹製のもので独占されていたところを、デュポン社が1940年の今日にナイロン製のものを販売し、値段・耐久性ともに優れていたので一気に広まったという歴史があるようです。
 5.15事件は、海軍急進派青年将校を中心とする1932年のクーデタ事件です。1931年十月事件が不発に終わったのち、橋本欣五郎中佐ら幕僚将校は地方や外国に転勤させられ、幕僚将校に反感をもった隊付青年将校らは、荒木貞夫陸相のもとで国家改造が実現できるものと期待し、直接行動から離れていきました。これに対して井上日召一派と藤井斉中尉ら海軍急進派青年将校は国家改造のための決起に固執し、はじめは32年2月11日の紀元節を期して政財界の要人を暗殺することを計画しました。しかし上海事変が発生し藤井らが出征したため、まず井上一派が第1陣として〈一人一殺〉の要人暗殺を引き受け、血盟団事件をおこしました。第2陣の海軍側は、藤井が戦死したため、古賀清志中尉、中村義雄中尉らが中心となって準備をすすめました。古賀らは愛郷塾の橘孝三郎に働きかけ、橘は塾生7名による農民決死隊を編成しました。橘らは農本主義の立場から、農業恐慌下の農村困窮の元凶を資本主義に見いだし、その代表である財閥や政党の打倒をめざす国家改造運動に連なっていました。また古賀らは陸軍青年将校にも決起を求めましたが、陸軍側は応じませんでした。しかし陸軍士官候補生11名が参加し、血盟団の残党4名も加わりました。武器は海軍側が用意したほか、大川周明らが協力し、資金とともに提供しました。決起の最終計画は5月13日に決定されました。
 計画にしたがって、5月15日午後5時半ごろ三上卓中尉ら海軍将校4名、士官候補生5名の第1組が首相官邸に自動車で乗りつけ、日曜日の休養をとっていた犬養毅首相を襲いました。犬養は〈話せばわかる〉と制しましたが、山岸宏中尉が〈問答無用、撃て〉と叫び、黒岩勇予備役少尉と三上がピストルで犬養を撃ち、犬養は午後11時26分絶命しました。第1組はこのほか官邸の巡査2名を殺傷し、警視庁のガラス戸を破壊したり、日本銀行に手榴弾を投げつけたりしたのち、東京憲兵隊に自首しました。古賀中尉らの第2組、中村中尉らの第3組はそれぞれ内大臣官邸、政友会本部に手榴弾を投げつけ、ついで檄文をまいたりしたのち、憲兵隊に自首しました。血盟団残党の奥田秀夫は三菱銀行へ手榴弾を投げ込み、川崎長光は決起を妨害したとみなした陸軍青年将校の指導者西田税に重傷を負わせました。また農民決死隊員は変電所6ヵ所を襲撃し、帝都を暗黒とし戒厳令施行を導こうとしましたが、いずれもほとんど損害を与えることができませんでした。民間グループは24日までに逮捕され、橘は7月24日自首しました。
 結局、決起は犬養首相1人を倒しただけで、国家改造のクーデタとしては失敗でしたが、その及ぼした衝撃は絶大でした。陸軍側は事件を利用して政党内閣の排斥を迫り、斎藤実を首班とする挙国一致内閣が成立し、戦前の政党内閣制は終止符をうちました。血盟団や農民決死隊の存在は農村窮乏の重大性をきわだたせました。〈非常時〉が叫ばれ、農村救済を中心とする〈時局匡救〉が政治の大きな課題となりました。翌年軍法会議で古賀、三上に禁錮15年などの判決が下りましたが、減刑運動が全国に展開され、ファッショ的風潮をかきたてました。

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2009年5月14日 (木)

プリンターを買いました(くみこ)

 先日の記事でチラッと触れましたが、新しいプリンターを買いました。水泳大会の合間を縫ってヤマダ電機に行ったのでした。
 去年からプリンターの調子が悪く、写真のプリントもお店でするようになっていたのですが、普通の文字もおかしくなってしまったのです。何とかならないかと知人に相談してみると、「5年も使ったんなら充分ボロボロのはず。修理を考えるより、新しく買った方が得!」とのこと。そこで買ったのが下の写真のプリンターです。(EPSON)普段は2万円ぐらいのところ、ゴールデンウィーク特価ということで14800円になっていました。ラッキー!インクは6色だし、コピー、スキャナなどもついているので、とても便利です。
 水泳大会の日、娘の出番の都合で3時間半ぐらい時間が空いたので、買ったプリンターを家に持って帰り、使えるようにしてからまた水泳の会場に戻りました。京阪沿線の古川橋だからできたことですね。先日の体操みたいに西宮でやってたらプリンターどころではありませんでしたが・・・。(^0^;
 ミニコンサートのプログラムやコンサートのチラシが印刷できないと非常に困るので、これで一安心!あとは、機械に弱い私がちゃんと使えるかどうかですが・・・。頑張って使いこなせるようになりたいと思います。(^0^)/

Epson

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2009年5月13日 (水)

カクテル(こーじ)

 5月13日は、愛犬の日、メイストームデー、カクテルの日です。
 今日の記念日は「愛犬の日」、アメリカの雑誌で世界で初めてカクテルという言葉が使われた「カクテルの日」、それに「メイストームデー」ですが、最後のだけ意味が分かりにくいですね。なんでも「5月の嵐」、バレンタインデーから88日目で、別れ話を切り出してもよい日、らしいです。
【カクテル32選】
処方中にクリームとあるのは乳脂肪分30%のもの、スライスレモンとあるのは薄い輪切り、オレンジは半月形の薄切り、チェリーとあるのはマラスキーノチェリーです。またレモンピールとあるのはレモンの皮の意ですが、カクテルの場合はレモンの皮を薄く短冊形にそぎ、それを軽くひねってエキスを含んだ脂肪を滴下することをいいます。強くひねるとくどくなるので10cmほどグラスから離してひねるとよいそうです。なお、名称はカクテルの語を省略しています。
●アメリカーノ―中甘口。カンパリ40ml、スイートベルモット35ml、アンゴスチュラビター2滴。オールドファッションドグラスにキューブアイスを入れて上から注ぎ、軽くステア(かき混ぜること)して、レモンピールを軽くしぼってから中に入れる。食前向き。
●アレキザンダー―甘口。ブランデー24ml、クレーム・ド・カカオ20ml、クリーム15ml。よくシェークしてカクテルグラスに注ぐ。ブランデーの代りにジンを使うとプリンセスメリーとなる。
●ブラディメリー―辛口。8オンスタンブラーにキューブアイス2個を入れ、ウォッカ45ml、ウースターソース3滴、タバスコソース2滴、塩、コショウ、セロリソルトをふりかけ、冷やしたトマトジュースで満たし、レモンの縦八つ切り1片を軽くしぼって入れ、キュウリは縦六つ切りの1本を中に入れかき混ぜる。テキーラを使うとストローハット。クラマトジュース(アサリのエキスとトマトが材料というジュース)を使えばブラディシーザー。
●ブラックロシアン―甘口。オールドファッションドグラスにキューブアイスを入れ、ウォッカ40ml、カルア20ml を注ぎ軽くかき混ぜる。
●キューバリブレ―中甘口。10オンスタンブラーにキューブアイス3個、その上からライトラム50ml を注ぎ、コーラで満たし、ライムの六つ切り1片を軽くしぼって中に入れ、マドラーをさす。
●カンパリ・アンド・ソーダ―中甘口。10オンスタンブラーにキューブアイス3個、その上からカンパリ55ml を注ぎ、静かに炭酸水で満たし、スライスレモンを入れ、マドラーをさす。
●ダイキリ―中甘口。ライトラム45ml、レモンジュース10ml、シュガーシロップ6ml をシェークしてカクテルグラスに注ぐ。シュガーシロップのかわりにグレナデンシロップを使うと、バカーディカクテルとなる。またシェーブドアイスを加え電気ミキサーで作ると、フローズンダイキリとなる。これにはストローを短く切ってさす。
●ドライマチーニ―辛口。ドライジン55ml、ドライベルモット5ml をミキシンググラスでステアし、カクテルグラスに注ぐ。スタッフドオリーブ、またはレモンピールを入れる。ジンを50ml、ドライベルモット10ml にすればマチーニとなり、ウォッカを使えばウォッカマチーニ。またエキストラドライマチーニは材料、グラスともに冷やしておき、まずドライベルモットを氷の上から注ぎ、軽くかき回してから氷を残して水分を捨て、その上からジンを注ぎ手早くステアする。オリーブのかわりにパールオニオンと呼ぶ豆粒大のタマネギを使うとギブソンとなる。
●フロリダ―アルコール分なしのカクテル。オレンジジュース60ml、レモンジュース20ml、グレナデンシロップ6ml、アンゴスチュラビター1滴をシェークしてシャンパングラスに注ぐ。
●ギムレット―中辛口。ドライジン50ml、ライムジュース10ml をシェークしてキューブアイス1個を入れたシャンパングラスに注ぐ。オールドファッションドグラスでオンザロックにすると、ジン・アンド・ライムとなる。
●ジン・アンド・トニック―中辛口。10オンスタンブラーにキューブアイス3個、その上からドライジン50ml を注ぎ、縦六つ切りのライム1片を軽くしぼって中に入れ、トニックウォーターで満たし、マドラーをさす。ウォッカを使えばウォッカ・アンド・トニック。ラムを使うとラム・アンド・トニック。
●ジンフィズ―中辛口。ドライジン50ml、レモンジュース20ml、シュガーシロップ10ml をシェークして、キューブアイスを3個入れた10オンスタンブラーに注ぎ、炭酸水で満たす。スライスレモンを入れる。フィズは炭酸ガスがグラスの中でシュッという音をたてるところからつけたといわれる。ベースをかえることにより、変化に富んだ飲みものができる。おもに蒸留酒を使いその名を冠してフィズという。また鶏卵、クリームを加えたローヤル、ゴールデン、シルバー、ラモスフィズがあるが、これらは二日酔いを直すのによいという。ベースにリキュールを使ったアプリコット、カカオ、バイオレット、スロージンフィズなどはビギナー向き。
●グラスホッパー―食後向き甘口。ペパーミント(グリーン)24ml、クレーム・ド・カカオ18ml、クリーム18ml をよくシェークしてカクテルグラスに注ぐ。
●ハービーウォルバンガー―中甘口。8オンスタンブラーにキューブアイス2個、ウォッカ45ml、オレンジジュース90ml を注ぎかき混ぜる。その上からガリアノ15ml を注いでマドラーをさす。
●ホットバタードラム―中甘口。8オンスタンブラーを温めてから、グラニュ糖1スプーン、バター1スプーンを入れ、1/3まで熱湯を注いで溶かし、ゴールドラム45ml を注ぎ、あと熱湯で満たして、クローブ3個をつきさしたスライスレモンを入れ、グラスホルダーをつける。寒い季節の飲みもの。
●アイリッシュコーヒー―中甘口。ワイングラスにグラニュ糖1スプーン、アイリッシュウィスキー40ml を入れ、七分目までホットコーヒーを注ぐ。静かに混ぜてから、泡だてておいた45%クリームを、5スプーンほどコーヒーの上に浮かせる。
●キール―中甘口。ワイングラスにクレーム・ド・カシス10ml を先に注ぎ、よく冷やした辛口の白ワイン120ml を注ぐ。食前向き。
●マンハッタン―中辛口。ライウィスキーまたはバーボン45ml、スイートベルモット15ml、アンゴスチュラビター1滴。ミキシンググラスでステアして、カクテルグラスに注ぎ、チェリーを入れ軽くレモンピールをかける。スコッチウィスキーを使うとロブロイとなり、ドライベルモットを使いオリーブを入れるとドライマンハッタンとよばれる。
●マルガリータ―辛口。テキーラ45ml、コワントロー10ml、レモンジュース15ml、アンゴスチュラビター1滴。よくシェークして塩をグラスの縁につけたシャンパングラスに注ぎスライスレモンを入れる。塩をグラスの縁につけるにはレモンでぬらして、塩の上にふせる。
●マウントフジ―中甘口。ドライジン45ml、マラスキーノ16ml、レモンジュース12ml、パイナップルシロップ6ml、卵白1/3個分、シュガーシロップ6ml、クリーム6ml をよくシェークして、シャンパングラスに注ぎ、チェリーをグラスの縁に飾る。
●ネグロニ―中甘口。オールドファッションドグラスに、キューブアイスを入れジン、カンパリ、スイートベルモットをそれぞれ20ml 注ぎ、軽くかき混ぜてスライスオレンジを入れる。
●オールドファッションド―中辛口。オールドファッションドグラスにグラニュ糖をデミタススプーン1/3入れ、アンゴスチュラビター3滴、炭酸水6ml入れて混ぜる。キューブアイス3個を入れてチェリー、スライスオレンジ、スライスパイナップルを入れ上からウィスキー45ml を注ぎ、レモンピールを軽くひねり、デミタススプーンをさす。このスプーンでフルーツをつぶし味のかげんをする。
●ピニヤコラダ―甘口。ジャマイカラム30ml、ココナッツリキュール30ml、キュラソー10ml、パイナップルジュース45ml、クリームとミルクそれぞれ30ml をよくシェークしてつぶした氷をつめた10オンスゴブレットに注ぐ。飾りは生パイナップル、ミントの葉。ストローを入れる。ラムのかわりにウォッカを使うと、チチとなる。ともにトロピカルドリンク。
●ラスティネイル―中甘口。オールドファッションドグラスにキューブアイスを入れ、スコッチウィスキー30ml、ドランビュイ20ml を入れて軽くかき混ぜる。
●サイドカー―中甘口。ブランデー30ml、コワントロー15ml、レモンジュース15ml をシェークしてカクテルグラスに注ぐ。食前、食後ともに向く。
●スチンガー―中甘口。ブランデー45ml、ホワイトミント15ml をシェークしてカクテルグラスに注ぐ。ペパーミント(グリーン)を使うとデビル、ブランデーをウォッカにかえるとスパイダー。これらはみな食後向き。
●シンガポールスリング―中甘口。ドライジン45ml、チェリーブランデー15ml、レモンジュース20ml、シュガーシロップ10ml をシェークして、キューブアイス4個を入れたコーリングラスに注ぎ、炭酸水で満たす。チェリーとスライスしたレモン、オレンジを飾る。
●ソルティドッグ―中辛口。8オンスタンブラーの縁をぬらし塩をつける。キューブアイス2個を入れ、ウォッカ45ml、冷やしたグレープフルーツジュースで満たす。
●スクリュードライバー―中甘口。8オンスタンブラーにキューブアイス2個、ウォッカ45ml を入れ、冷やしたオレンジジュースで満たす。
●バレンシア―甘口。アプリコットブランデー36ml、オレンジジュース24ml、オレンジビターを3滴。シェークしてカクテルグラスに注ぐ。ビギナー向き。
●ウィスキーサワー―中甘口。ウィスキー45ml、レモンジュース30ml、シュガーシロップ15ml をよくシェークして、サワーグラスに注ぐ。チェリー、スライスオレンジを飾る。ウィスキーのかわりに別の酒を使うと、それぞれの名を冠したサワーとなる。氷を入れてオンザロックにしてもよい。リキュールをベースにしたサワーは適度な甘味も加わりビギナー向き。
●ウィスキーフロート―辛口。オールドファッションドグラスに氷2個を入れ、冷やした炭酸水を氷がかくれるぐらいまで注ぎ、その上にバースプーンを使って静かにウィスキーをフロートさせる。ブランデーなど好みの酒をフロートさせるのも楽しい。ただしリキュール類は比重が重いからできない。ハードな通人向きといったところ。

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2009年5月12日 (火)

ナイチンゲール(こーじ)

 5月12日は、ナイチンゲール・デー、看護の日、海上保安の日、民生委員・児童委員の日、アセロラの日です。
 今日はナイチンゲールの誕生日。「ナイチンゲールデー」と「看護の日」は、もちろんこれが由来です。
 ナイチンゲールは、看護婦で病院改良家です。イギリス人の裕福な両親がフィレンツェに滞在しているときに生まれ、それにちなんでフローレンスと名づけられました。諸国の病院を訪れ、ことにドイツのデュッセルドルフ郊外にフリードナー Theodor Fliedner(1800‐64)の設立したプロテスタント婦人奉仕団病院で正規の看護婦訓練を受け、当時看護活動が技術無視の召使仕事と解せられた時代にあって、高度訓練を受けた看護婦がいかに重要であるかを学びましだ。1853年、ロンドンの病弱婦人病院長に任ぜられましたが、54年のクリミア戦争勃発には38名の看護婦を率いてトルコのスクタリ基地に従軍し、低劣をきわめる衛生条件で伝染病の続発する陸軍病院の改善に奔走しました。イギリスへ帰還して後は、ロンドンでも著名な聖トマス病院にナイチンゲール看護学校を設立し、看護婦の社会的地位の飛躍的向上に貢献しました。1907年、婦人最初の勲功章(Orderof Merit)を授けられ、世界看護婦界の模範と仰がれています。なお、赤十字国際委員会では20年以来、顕著な働きを示した看護婦に対してフローレンス。ナイチンゲール記章を授与しています。
 1977年に制定された「民生委員・児童委員の日」ですが、民生委員とは、福祉の増進のために、地域住民の生活状況の把握、生活困窮者の保護指導を行う人です。

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2009年5月11日 (月)

大津事件(こーじ)

 5月11日は、大津事件記念日、鵜飼開きです。
「大津事件記念日」といいます。大津事件というのは、1891(明治24)年に、滋賀県大津でロシアのニコライ皇太子が、沿道警備中の巡査に切りつけられたという事件です。
 大津事件は、1891年5月11日におきたロシア皇太子遭難と犯人処刑をめぐる政治問題です。湖南事件ともいいます。ウラジオストクのシベリア鉄道起工式に出席する途中、軍艦7隻で日本に東遊したロシア皇太子ニコライ(のちの皇帝ニコライ2世)は琵琶湖遊覧の帰途、大津町(現、大津市)で警衛中の滋賀県巡査津田三蔵に斬りつけられ頭部に負傷しました。津田はロシア皇太子来日を日本侵略の準備とする風説を妄信し犯行におよんだものですが、政府が配置した警察官が国賓の殺害を企てたことは、政府の大失態であり、日本の朝野はパニック状態におちいりました。天皇は京都に行幸して皇太子を見舞い御前会議で謝罪使のロシア特派を決定しました(ロシアの辞退で中止)。女中奉公をしていた畠山勇子は、国家の危難を救うために国民のなかから命をささげてロシアに詫びるものが必要であると考え自殺しました。成立直後の松方正義内閣は、緊急勅令で内務大臣に新聞雑誌などの関係記事を事前検閲させました。皇太子は滞日旅程を打ち切り5月19日離日しましたが、前日に犯人取押えに協力した人力車夫2名にロシアの勲章と一時金が与えられ、日本政府も勲八等に叙し白色桐葉章を授与したので両名は帯勲車夫といわれました。一方、滋賀県知事、滋賀県警部長は懲戒免官となりました。
 ロシア皇太子の来日前、駐日ロシア公使シェービチは同皇太子への不敬の所業を厳罰するよう緊急勅令の公布を外務大臣青木周蔵を通じて日本政府に求めましたが、青木は緊急勅令でなく皇族に関する刑法規定の準用を同公使に約言しながら公表していませんでした。そこでこの国際的な約束にしばられた政府は、犯人に刑法116条の天皇、三后、皇太子への危害の条文による死刑を司法部に求めたほか、伊藤博文は戒厳令を考え、青木外相は同条を外国皇族にも適用する緊急勅令を提案しましたが、いずれも実行にいたりませんでした。大審院長児島惟謙は、青木・シェービチ協定の存在を政府から知らされましたが、刑法116条でなく通常謀殺未遂を適用するよう、大津地方裁判所で開廷した大審院特別法廷の担当判事を説得しました。この結果5月27日大審院は津田に無期徒刑の判決を宣告しました。児島の行動は司法権の独立を政府の干渉から守ったものとしてたたえられ、この事件後司法権独立は日本の裁判所の伝統として確立されたと評価されました。しかし行政上担当裁判官を監督する大審院長の職にあり、担当裁判所の構成員でない児島が、担当裁判官を説得して自己の法解釈に同意させたのは、やはり裁判干渉でした。彼は政府の行動を軟弱として国権論の立場から政府に抵抗しました。
 ロシア皇帝は日本が約言を守り、津田に死刑を宣告してロシアに対する礼儀をつくせば、ロシアが減刑を申し出ることにより皇太子殺害未遂事件を日露親善の契機に転じようとしていましたが、大審院の判決はロシアにその機会を失わせたと駐露公使西徳二郎は批判しています。津田は同年9月30日、釧路集治監で肺炎により病死しました。

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2009年5月10日 (日)

コナミスポーツクラブ上級対抗水泳競技会(くみこ)

 5月5日に古川橋のコナミで水泳の大会がありました。娘が出たのですが、体操に続き、こちらもよい経験だけして帰って来ました。(^0^;こどもの日だったせいか、コーチがこいのぼりを振って応援しておられました。さすがにカブリモノは見かけませんでしたが・・・。
 娘は3・4年生区分のクロール50mと背泳50mに出場し、クロールはベストタイムが出ましたが、背泳はいつもより遅くなってしまいました。クロールは一緒に泳いだ3人の中では1着でゴールしたし、ベストタイムが出たので喜んでいたのですが、全体の順位は22人中15位。全然大したことありません。うちの子のベストタイムは一般的には遅いようで・・・。背泳にいたっては11人中10位。これも一緒に泳いだ3人の中では接戦で1着でしたが、どの種目も大体同じぐらいのタイムの子が一緒に泳ぐようになっているので、その中で多少早くゴールしても全体の中ではえらく遅いのでした!でも本人は楽しかったようですし、また出たいそうです。
 去年不評だった300円のプログラムですが、今回もやっぱり300円で売られていました。もちろん私は買いませんでした!前回と違うのは、1つ下のフロアーで進行状況がホワイトボードに書かれており、レースの順番やおよその時間も張り出されていたことです。やっぱり苦情が多かったのでしょうか。それで随分助かりました!うちの娘は前半に続けて泳いで閉会式までかなりの時間があいたので、その間にヤマダ電機へ行ってプリンターを買うこともできました。(^0^)/プリンターを買った話はまた別の日に書かせて頂きますね。
 結果はともかく、何でもやってみようというのはいいことだと思っています。これからも前向きにいろいろ挑戦していってほしいです。

Haiei Koinobori Kuroru

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2009年5月 6日 (水)

進研模試の点検グループ(くみこ)

 ずっと以前に学生時代は福武書店(現在ベネッセコーポレーション)でアルバイトをしていたという記事を書きましたが、今日もその話です。2回生の春に添削で入ったのですが、夏に別の採用試験を受けて進研模試の採点のアルバイトをすることになりました。私は日本史専攻だったので、日本史で採用試験を受けるのが妥当だったのですが、「落ちたらカッコ悪いかな~」と思い、日本史は避けて国語で受けてみました。運よく採用されましたが、国語の採点というのは長文問題などもあり、と~っても大変でした。日本史専攻の同級生が「日本史の採点は楽やで~」と言ってるのを聞くと「しまった!」と思ったものです。でも、それはそれでいろいろな出会いもあり、楽しく過ごせました。
 普通、採点は家に持ち帰ってしていましたが、夏休みなどは会場採点と言って会社の大きな会議室などに集まって大勢で採点をするという形でした。(当時福武書店は京都の御池通り沿いにありました)2回生の時は初めてだったし、何だかわからないうちに終わったのですが、3回生の夏休みの会場採点のメンバーが非常に強烈で、そのうちの何人かは今でもお付き合いが続いています。その年は前年と違って、採点するグループとそれを点検するグループがありました。(前の年は全員が採点をしていました)点検グループは1つだけで私はこの点検グループになったのです。これは運がよかったのでしょうか・・・?
 朝から夕方まで点検ばかりしているとクラ~い雰囲気になりそうなものですが、もともと強列な人間が集まっていたのか、毎日涙が出るほど大笑いして盛り上がっていました。何をしゃべってもひたすらツッコミの女子学生、逆に何をしゃべってもひたすらボケの女子学生、休憩時間には毎日アルギンZを買って来て疲労回復する男子学生、天才のようなセルロイドのめがねをかけた男子学生、亀岡から時間をかけて通ってくる女子学生などなど・・・。亀岡の彼女はアルギンZの彼に「亀岡は田舎」と言われ続けていました。(亀岡の方がおられたらお許しを・・・)人が採点したものにイチャモンをつけて気分転換(?)したり、おやつ当番を決めて休憩時間に交代でおやつを持ち寄ってみたり。アルバイト代をもらいながら、あんなに楽しく過ごせたのはありがたいことでした。今はマークシートが多いから、採点方式も変わっているでしょうね。「古きよき時代」だったのかも。私のような者に採点された高校生はとんだ災難だったかもしれませんが・・・。
 何年かに1度はこのうちの4人で会っていたのが、3人になり、また何年か集まっていません。40歳を過ぎて会ってもみんな変わっていなくて、相変わらずの会話で大笑いしたものです。そしてまた会いたいな~と思う今日この頃です。でも笑いすぎてシワが増えてしまうかしら?

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2009年5月 5日 (火)

自転車(こーじ)

 5月5日は、こどもの日、端午の節句、おもちゃの日、わかめの日、こどもに本を贈る日、薬の日、自転車の日です。
 今日はおなじみ「こどもの日」です。「こどもの人格を重んじ、こどもの幸福を図るとともに、母に感謝する」国民の祝日とのことです。こどもの日というと、それを理由に子供が新しいおもちゃを買ってもらったりするのがよくありますけど、そこはちゃんと業者も分かっていて、「おもちゃの日」にもなっています。同じように、こどもの日の相乗りで制定された記念日が、他にも「わかめの日」、「子供に本を贈る日」などなど。
 イギリスのバッキンガム近郊のストークポージズにある教会のステンドグラスには自転車に似た絵が描かれていて、17世紀中ごろに自転車の着想があったと考えられないこともないのですが、これは自転車ではなく、当時地図の作成に使用された測距車であるという説もあって定かではありません。これまで、二輪車の原理に最初に挑戦し実際に走らせたのは、フランスのシブラックC. de Sivrac で(1790)、その自転車はセレリフェールと呼ばれたと信じられてきました。しかし、シブラックは、架空の人物で、セレリフェールとは、当時大型馬車のことであったことが判明し、最近は、ドイツのドライス Karl von Drais(1785‐1851)をもって自転車の始祖とする説が有力になってきました。ドライスが二輪車を発明したのは1813年といわれ、18年にフランスで特許を得、ドライジーネ draisienne の名で呼ばれました。この自転車はほとんどの部分は木製で、単純な足けり式でしたが、人間よりも速いことを立証したので、イギリスにも渡って流行しました。ペダル式の最初の自転車は、39年にスコットランドのマクミランKirkpatrick Macmillan によって発明されましたが、これはロッドとクランクによる後輪駆動でした。61年ころフランスのミショー Pierre Michaux らはペダル式でクランクが前輪に直接固定されている自転車を発明しました。このミショー型は最初の量産自転車として実用に供され、イギリスではボーンシェーカー bone shaker(骨ゆすりの意)と呼ばれ、世界中に広がって人々に愛用されました。ボーンシェーカー型は速度を増すために前の駆動輪を大きく、後輪を小さくする改良がなされ、ついに70年イギリスのスターリー James Starley(1831‐81)は前輪の直径が後輪の3倍もあり、全金属製でワイヤスポークを採用した軽量で優雅な自転車を製作しました。これはオーディナリ ordinary 型自転車と呼ばれ、当時の紳士が熱狂的に愛用し、85年ころ欧米諸国で全盛時代を迎えました。スターリーは自転車について多くの発明や改良を行ったため、後年〈自転車工業の父〉と呼ばれるようになりました。しかし一方では、オーディナリ型はサドルが高くて危険なため、1870年代に三輪車(トライシクル tricycle)が製作され、商業的にも成功しました。
 後輪チェーン駆動方式で、サドル位置の低いセーフティ safety 型自転車を最初に製作したのはイギリスのローソン Harry J. Lawson です(1879)。彼はこのセーフティ型にフランス語でbicyclette と命名し、以後英語でも bicycle と呼ばれるようになりました。85年 J. スターリーのおいである J. K. スターリーによって、ローバー Rover(放浪者)という愛称をもったセーフティ型自転車が製作されました。この自転車は前・後輪の大きさが同一で、後輪チェーン駆動方式やダイヤモンド形に近いフレームが採用されるなど、今日の自転車の原型となるものです。そして、ローバーの出現はすばらしい成功をおさめ、数年後にはオーディナリ型に代わって市場を支配するようになりました。その後1880年代の終りにイギリスのダンロップによって自転車用の空気入りタイヤが発明されるに及んで、自転車の性能は飛躍的に向上しました。
 日本に初めて自転車がもち込まれたのは、江戸末期の慶応年間であったといわれ、そう伝承されるボーンシェーカー型の自転車が残っています。記録のうえでは1870年(明治3)にアメリカからオーディナリ型自転車(日本ではだるま自転車、あるいはだるま車と呼ばれた)が輸入されたのが最初で、90年宮田栄助が製作した国産第1号はダイヤモンドフレームのセーフティ型自転車でした。明治時代には全国の主要都市で貸自転車業が流行し、個人用としては一部の富裕層やその子弟、モダン階層のステータス・シンボルとして使用されました。1900年ころからは国産自転車の本格的な生産が開始され、国内の自転車保有台数は明治末の約40万台から、大正末には470万台に達していて、通勤や会社、商店の業務用としてしだいに国民生活になくてはならない交通機関として定着していきました。
 第2次世界大戦後は、自転車に対する考え方も、重くて黒塗りの荷物運搬のためのあくまで実用的な乗物から、人だけが乗る自由で快適な乗物へと変化していき、60年代に入ると乗りごこちがよく変速装置のついた軽快車が主流になってきました。そして60年代後半にはミニサイクルが出回るようになり、家庭婦人の買物や通勤、通学に普及していきました。さらに71年5月、アメリカ、サンタ・バーバラで〈バイコロジー運動〉が始まったことも、日本の自転車熱に拍車をかけたといえます。国内の自転車保有台数は、1965年の約2400万台から、75年には5000万台へと爆発的な伸びを示し、その結果世界でも有数な自転車利用の盛んな国となりました。
 しかしながら、その一面では、自転車利用の増加に伴って交通事故が頻発したり、駅周辺路上などに大量の自転車が乱雑に放置されることにより、歩行環境や都市美観を阻害し、駅前広場の機能を低下させるなどさまざまな社会問題を起こしています。このような自転車問題に対して、行政による対応策が講じられるようになったのは1970年代以降のことです。この問題に対し適切な対策を総合的に推進するために、自転車基本法として、地方公共団体や官公署、銀行、デパート、スーパーなど自転車の駐車需要の多いところが、自転車の駐車場の設置に努めることなどを内容とした〈自転車の安全利用の促進及び自転車駐車場の整備に関する法律〉(自転車法、1980年11月公布)が制定されました。

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2009年5月 4日 (月)

競艇(こーじ)

 5月4日は、みどりの日、ラムネの日、競艇の日、ノストラダムスの日です。
 もう1999年ははるかに過ぎ去りましたが、ノストラダムスの問題の予言、その名もずばり「大予言」という本が出版された日です。自分で「大予言」という名前の本を出すというのも、すごい自信ですね。そういうわけで、今日が「ノストラダムスの日」と誰からともなく制定されたそうです。
 競艇は、〈モーターボート競走法〉(1951公布)により公認、運営されるプロ選手によるモーターボートレースです。勝舟投票券(舟券)を発売します。日本では、1931年隅田川で第1回の全日本モーターボート選手権大会が開かれるなど、第2次世界大戦前からアマチュアのモーターボート競走が行われていました。そして戦後の地方財政を立て直し、また造船産業の振興をはかる目的で51年に同法が立法化され、52年4月、長崎県大村市で初めて競艇レースが開催されました。1997年現在、競走場は全国で24ヵ所あり、1996年度の年間売上げは約1兆8000億円、入場者数約5500万人となっています。競艇競走は運輸省の監督下、都道府県、または自治大臣が指定した市町村がその施行者となります。その数は97年現在、県、市町村、市町村で構成する施行組合など合わせて46あります。舟券売上げの75%が各舟券に案分して払戻金の形で支払われ、残りの25%が施行者である各地方自治体の収入などとなります。この収益は地方財政の改善、造船関連産業および海難防止事業の振興、体育、公益事業の振興に支出されています。舟券には単勝式、複勝式、連勝単式、連勝複式の4種類があります。単勝式は1着を、複勝式は1、2着のいずれかを、連勝単式は1、2着をその着順どおりに1組、連勝複式は1、2着をその着順に関係なしに1組的中させればよいのです。
 競走の運営はモーターボート競走会が行っていて、この統括機関が全国モーターボート競走会連合会で、造船関連事業の振興というモーターボート競走法の目的を達成するために日本船舶振興会があります。競艇選手はモーターボート競走会連合会による1年間の研修期間を経た後、初めて選手として登録されレースにも出場できるようになります。97年現在、1644名が登録され、うち女子130名となっています。レースに使用されるモーターボートは、長さ3m、幅130cm、重量70kgの木製ボートに、国産の船外機(アウトボード・エンジン)を取り付けたもので、時速は約80kmです。ボートには艇底が平らで段のついているハイドロプレーン(滑走艇)と段のついていないランナバウト(快走艇)の2種類があります。通常競走は6隻のモーターボートで、直線距離300mの位置に設けられた2点の浮標(マーク)間を3周(1800m)して着順を競います。1開催の最終日にはその開催の成績上位者による優勝戦が1レースだけ行われますが、この距離は4周(2400m)です。レースにはフライングスタートが用いられ、各隻はゆっくりと待機水面を周回し、大時計の指針がスタート時刻を表示したときにスタート線を全速力で通過してレースが始まります。
 競艇競走の大レースとして、総理大臣杯、笹川賞、グランドチャンピオン決定戦、オーシャンカップ、モーターボート記念、全日本選手権(ダービー)、賞金王決定戦の SG7レースがあります。

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2009年5月 3日 (日)

今年のきんせんか(くみこ)

 私は毎年のようにきんせんかを植えます。強くて私でも失敗なく育てられるので・・・。
 今年もちゃんと咲いてくれているのですが、今年は珍しい咲き方を発見しました。花が終わった後から4本も茎が伸びてきて、そこに花が咲いていたのです。本当に花が終わった後だったのか、ずっと観察していたわけではありませんが、形からしてどうもそのように見えます。写真を撮ったので、ご覧下さい。今までこのような咲き方をしているのに気づいたことがありません。
 とっても不思議だったので、書かせて頂きました。もし何かご存知の方は教えて頂けるでしょうか。よろしくお願いします。

Kinsenka

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2009年5月 2日 (土)

郵便貯金(こーじ)

 5月2日は、郵便貯金の日、交通公告の日、歯科医師記念日です。
 今日は「郵便貯金の日」ということで、郵便局で貯金の業務が始まった日です。1875年に始まったんですが、当初、東京都内と横浜郵便局だけでの扱いだったとか。
 郵便貯金制度は、1861年イギリスで初めて実施され、これを参考として、当時の駅逓頭(えきていのかみ)であった前島密(まえじまひそか)によって、ニュージーランド、ベルギーに次いで世界で4番目に創設され、75年5月2日、東京18ヵ所、横浜1ヵ所の郵便局で貯金の取扱いが開始されました。当時世の中では、金銭軽視と利殖を卑しむ風潮があり、また信用ある貯蓄機関が未発達であったため、金銭の退蔵も盛んに行われていました。そこで郵便貯金制度は、政府の信用を背景とした確実な貯蓄手段を提供することによって、国民一般の間に勤倹貯蓄の美風を養い、その生活の安定を図ると同時に、日本の近代化のための産業資本の蓄積を図るという目的をもって始められました。当初その名称は、単に〈貯金〉となっていましたが、民間銀行の発達に伴って、混乱を避けるために〈駅逓局貯金〉となり、87年から〈郵便貯金〉となりました。発足初年末の郵便貯金残高は1万5000円にすぎなかったのですが、以来、1908年1億円、23年10億円、42年100億円と増加し、その資金は大蔵省預金部(1951年から資金運用部)に預託され、殖産興業・富国強兵のため利用されました。
 第2次大戦後、47年には新しい〈郵便貯金法〉が公布され、〈郵便貯金を簡易で確実な貯蓄手段としてあまねく公平に利用させることによって、国民の経済生活の安定を図り、その福祉を増進させることを目的とする〉(同法総則1条)と規定されました。その後、郵便貯金残高はさらに飛躍的ともいうべき増加を続け、49年1000億円、60年1兆円、72年10兆円となり、96年3月現在の残高は213兆4375億円という巨額に達し、個人預貯金残高の35%を占めるに至っています。

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2009年5月 1日 (金)

赤十字(こーじ)

 5月1日は、メーデー、日本赤十字社創立記念日、扇の日、スズランの日です。
 メーデーとカタカナで言うと、語源がよく分からないですけど、英語で書いたらMay Dayで「5月の春の記念日」みたいな意味なんですね。国際的な労働者の祭典で、1886年にアメリカのシカゴで「8時間労働制」を要求するデモをしたのが始まりだそうです。8時間労働を要求したということは、当時は何時間労働だったんでしょうか。
 赤十字の歴史は次のようなものです。ジュネーブに生まれた J. H. デュナンは青年実業家として早くから宗教活動や慈善活動に参加していましたが、1859年、イタリア統一戦争にさいし、ソルフェリーノの戦場を旅行したとき、多くの戦傷病者が医療を受けられないでいる悲惨さに深い衝撃を受けました。そしてクリミア戦争にさいしてナイチンゲールらが行った救護活動にならい、篤志家を糾合して傷兵の収容と看護につくしました。このときの体験をまとめたのが著書《ソルフェリーノの思い出》(1862)です。この経験をもとにデュナンは戦時の傷病者を救護する国際運動を起こそうと決意し、63年ジュネーブ公益協会長の協力を得て赤十字創設5人委員会をつくり、スイス政府の尽力のもとに16ヵ国36代表による国際会議をジュネーブで開催することに成功しました。63年10月26日から29日まで開催された国際会議は赤十字規約を採択し、各国に1社の赤十字社 Red CrossSociety および赤十字国際委員会の設立を決定しました。64年ジュネーブに各国の政府代表が集まりジュネーブ条約(赤十字条約)に調印し、国際赤十字を発足させました。条約には、
(1)戦時傷病者は敵味方の区別なく看護されること、
(2)看護にあたる人員・資材・施設は中立として保護すること、
(3)国際会議開催に尽力したスイスに敬意を表し、スイス国旗の色を逆さにした白地に赤十字を赤十字の標章として用いること(ただし、現在、イスラム教国では宗教的理由から十字を使うのを嫌い、赤新月社 Red Crescent Society という組織名で、赤新月(せきしんげつ)の標章を使っている)、
(4)加盟国は各国政府の公認した1国1社の赤十字社をつくってジュネーブ条約の完全履行に協力すること、
などが規定されました。
 その後1919年アメリカ赤十字社戦時救済協議会会長デービソン H. P. Davison の発議により、イギリス、アメリカ、フランス、イタリア、日本の五大赤十字社代表が集まり、平時における活動に主眼をおいた赤十字社連盟の設立を定めたため赤十字国際委員会との関係が紛糾しましたが、その後の話合いにより27年5月両者を統合した〈国際赤十字規約〉がつくられ、現在の組織が定められました。ジュネーブ条約は従来は交戦当事国が対等の立場にある戦争の場合にのみ適用されてきましたが、77年6月調印されたジュネーブ四条約議定書で、紛争の範囲をひろげました。その背景には、東南アジアや中近東、アフリカなどで起こっている武力衝突や内乱などがありました。これによりゲリラに捕虜待遇が適用されることになりました。またこれまで内乱の一種とみなされていた植民地支配、人種差別政権などに対する武力紛争を国家間の戦争と同様の国際紛争とみなすことになりました。そこでこの議定書に加入した民族解放運動のゲリラが捕虜になった場合にも相手国の国内法によって処罰されるのではなく、人道的な抑留・送還を保障されるなどジュネーブ条約上の捕虜の待遇を受けることになりました。

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