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2009年2月27日 (金)

新撰組(こーじ)

 2月27日は、新撰組の日です。
 新撰組については去年に記事にしたので、今年は新撰組の有名人について少し。
 近藤勇は、幕末の新撰組の隊長です。武蔵国多摩郡石原村の宮川久次の第3子でした。天然理心流近藤周助の試衛館で剣法を学び、1849年(嘉永2)その養子となりました。63年(文久3)将軍徳川家茂の上洛にあたり幕府が募った浪士隊に同門の土方歳三、沖田総司、永倉新八らと加わりました。上洛した浪士隊は洛外壬生村に屯集しました。清川八郎らが尊攘派と結んだので幕府から江戸へ帰還を命ぜられた後も京都に残り、京都守護職支配下に属して新撰組を結成。しだいに力をのばして隊長となり、尊攘派の取締りと弾圧にあたります。64年(元治1)6月池田屋事件で名をあげました。以後、洛中洛外の治安維持につとめ、幕臣にもなっています。68年(明治1)1月の鳥羽・伏見の戦で幕軍敗退後江戸へ帰り、佐幕軍甲陽鎮撫隊を組織して官軍と甲斐勝沼で戦いますがが敗走しています。下総流山で降伏して捕らわれたとき大久保大和と名のりましたが、官軍に勇であることを見破られ、4月25日に板橋庚申塚の刑場で斬られ、首は京都三条河原に梟されました。
 芹沢鴨は、新撰組の初代隊長です。本名木村継次です。水戸藩出身でした。剣は戸ヶ崎熊太郎門で神道無念流を修めました。1862年幕府の募った浪士組に加わり、翌年2月京都へ上ります。尊王攘夷を説く清川八郎らが江戸に戻されたのちも京都に残留、近藤勇、土方歳三らと新撰組を結成しその隊長となります。尊攘派志士弾圧に力をふるいましたが、性格は冷酷で京都豪商への金品無心などもはなはだしく、同年9月に近藤方の手で暗殺されました。
 土方歳三は、新撰組副長です。武蔵国多摩郡石田村の土方隼人の四男に生まれました。近藤勇と同郷でともに天然理心流剣道近藤周助の門弟です。江戸幕府が関東近在において剣術に心得ある者を徴募すると近藤らとともに応じ、1863年(文久3)春に上洛しました。京都郊外壬生(みぶ)村に本陣を置き、清川八郎らの東帰後も京都に残り、京都守護職松平容保(かたもり)の下に新撰組結成に参加、尊攘討幕運動の警戒にあたります。初代組長芹沢鴨暗殺後、近藤が2代目組長になると副長となり、新撰組の組織強化につとめました。68年(明治1)鳥羽・伏見の戦には病気の近藤に代わって隊を指揮しましたが、敗れて江戸に逃れました。甲陽鎮撫隊と改称して甲州勝沼で官軍と戦って敗れ、下総の流山に屯集しています。近藤の捕縛後は幕府の主戦派に合流し、結城、宇都宮、会津などを転戦し、さらに仙台から箱館に逃れ、榎本武揚の指揮下で抗戦しましたが、翌69年5月五稜郭の戦争で流れ弾に当たり戦死しました。
 沖田総司は、新撰組隊士です。陸奥白河藩士の子に生まれましたが、数え2歳で父が死亡し、姉が沖田家を継ぎました。天然理心流近藤周助の試衛館に入り、近藤勇とは同門です。卓越した剣の使い手として知られ、1863年(文久3)京都で結成された新撰組の有力隊士となります。翌年6月の池田屋事件のとき喀血して昏倒しましたが、その後も一番隊長を務めました。鳥羽・伏見の戦後に江戸へ帰りますが、悪化した肺患のため死去しました。

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