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2009年2月

2009年2月28日 (土)

我が家のひな寿司(くみこ)

 毎年ひな祭りにはおひな様のお寿司を作ります。年によっては中身がちらし寿司ではなく、おにぎりだったりもしますが・・・。(^0^;去年は私の初節句の写真を載せましたが、もうじき3月3日なので、今年もそろそろおひな様の話題です。
 子供が幼稚園に通っている頃は、お弁当用のおひな様でした。3学期はお弁当を温めてもらうので、中身はちらし寿司ではなく、おにぎりご飯です。お弁当箱に入るように筒型にして、寝かせていました。お弁当がなくなってからは、本物のおひな様のように立てて盛り付けています。
 まず頭はうずら卵を使います。あれば色粉でおひな様の頭をピンクにするとかわいいです。冠と烏帽子はウィンナーをそれらしく切ります。烏帽子の切り落とした部分で冠を作ると無駄がありませんよ。冠や烏帽子とうずら卵は1本の爪楊枝で刺し通してつけています。
 着物ですが、おひな様はちらし寿司のおにぎりに薄焼き卵を巻き、お内裏様はのり巻きにしてちょうどよい長さに切ります。帯は三つ葉、扇はにんじん、杓は大根です。お弁当用だと寝かせるので、黒ゴマで顔をつけることができますが、立たせると落ちやすいので、なくてもよいと思います。
 今年は制作途中の写真も載せました。おひな様が勢ぞろいすると、大奥みたいで迫力がありますね。(^0^;
 中学に行くとまたお弁当が始まりますが、中学生の男の子におひな様のお弁当を持たせると怒られそうなのでやめておきます。(^0^;でも家ではまだまだ楽しんでほしいなあと思います。(^0^)/

Hinazusi Seizoroi

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2009年2月27日 (金)

新撰組(こーじ)

 2月27日は、新撰組の日です。
 新撰組については去年に記事にしたので、今年は新撰組の有名人について少し。
 近藤勇は、幕末の新撰組の隊長です。武蔵国多摩郡石原村の宮川久次の第3子でした。天然理心流近藤周助の試衛館で剣法を学び、1849年(嘉永2)その養子となりました。63年(文久3)将軍徳川家茂の上洛にあたり幕府が募った浪士隊に同門の土方歳三、沖田総司、永倉新八らと加わりました。上洛した浪士隊は洛外壬生村に屯集しました。清川八郎らが尊攘派と結んだので幕府から江戸へ帰還を命ぜられた後も京都に残り、京都守護職支配下に属して新撰組を結成。しだいに力をのばして隊長となり、尊攘派の取締りと弾圧にあたります。64年(元治1)6月池田屋事件で名をあげました。以後、洛中洛外の治安維持につとめ、幕臣にもなっています。68年(明治1)1月の鳥羽・伏見の戦で幕軍敗退後江戸へ帰り、佐幕軍甲陽鎮撫隊を組織して官軍と甲斐勝沼で戦いますがが敗走しています。下総流山で降伏して捕らわれたとき大久保大和と名のりましたが、官軍に勇であることを見破られ、4月25日に板橋庚申塚の刑場で斬られ、首は京都三条河原に梟されました。
 芹沢鴨は、新撰組の初代隊長です。本名木村継次です。水戸藩出身でした。剣は戸ヶ崎熊太郎門で神道無念流を修めました。1862年幕府の募った浪士組に加わり、翌年2月京都へ上ります。尊王攘夷を説く清川八郎らが江戸に戻されたのちも京都に残留、近藤勇、土方歳三らと新撰組を結成しその隊長となります。尊攘派志士弾圧に力をふるいましたが、性格は冷酷で京都豪商への金品無心などもはなはだしく、同年9月に近藤方の手で暗殺されました。
 土方歳三は、新撰組副長です。武蔵国多摩郡石田村の土方隼人の四男に生まれました。近藤勇と同郷でともに天然理心流剣道近藤周助の門弟です。江戸幕府が関東近在において剣術に心得ある者を徴募すると近藤らとともに応じ、1863年(文久3)春に上洛しました。京都郊外壬生(みぶ)村に本陣を置き、清川八郎らの東帰後も京都に残り、京都守護職松平容保(かたもり)の下に新撰組結成に参加、尊攘討幕運動の警戒にあたります。初代組長芹沢鴨暗殺後、近藤が2代目組長になると副長となり、新撰組の組織強化につとめました。68年(明治1)鳥羽・伏見の戦には病気の近藤に代わって隊を指揮しましたが、敗れて江戸に逃れました。甲陽鎮撫隊と改称して甲州勝沼で官軍と戦って敗れ、下総の流山に屯集しています。近藤の捕縛後は幕府の主戦派に合流し、結城、宇都宮、会津などを転戦し、さらに仙台から箱館に逃れ、榎本武揚の指揮下で抗戦しましたが、翌69年5月五稜郭の戦争で流れ弾に当たり戦死しました。
 沖田総司は、新撰組隊士です。陸奥白河藩士の子に生まれましたが、数え2歳で父が死亡し、姉が沖田家を継ぎました。天然理心流近藤周助の試衛館に入り、近藤勇とは同門です。卓越した剣の使い手として知られ、1863年(文久3)京都で結成された新撰組の有力隊士となります。翌年6月の池田屋事件のとき喀血して昏倒しましたが、その後も一番隊長を務めました。鳥羽・伏見の戦後に江戸へ帰りますが、悪化した肺患のため死去しました。

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2009年2月26日 (木)

2.26事件(こーじ)

 2月26日は、脱出の日、2.26事件の日、咸臨丸の日です。
 脱出の日は、1815年、エルバ島に流刑されていたナポレオンが島を脱出してパリに向かったのが由来です。
咸臨丸の日は、1860(万延元)年の今日、幕府が派遣した使節団が、咸臨丸による37日間の太平洋横断航海を終えてサンフランシスコに到着しました。
 2.26事件は、1936年2月26日に起こった皇道派青年将校によるクーデタですね。満州事変開始前後から対英米協調・現状維持的勢力と、ワシントン体制の打破をめざし国家の改造ないし革新をはかる勢力との抗争が発展し、さらに後者の最大の担い手である陸軍内部に、国家改造にあたって官僚・財界とも提携しようとする幕僚層中心の統制派と、天皇に直結する〈昭和維新〉を遂行しようとする隊付青年将校中心の皇道派との対立が進行しました。1934年士官学校事件による皇道派の村中孝次(たかじ)・磯部浅一の免官、35年7月皇道派の総帥真崎甚三郎教育総監の罷免、8月相沢三郎中佐による統制派のリーダー永田鉄山軍務局長の暗殺などで、両派の対立は激化の一途をたどりました。皇道派青年将校は、拠点である第1師団の満州派遣が決定されると、現状維持派の政府・宮廷の要人および統制派の将領を打倒する〈昭和維新〉の決行につきすすんだのです。
 36年2月26日早暁、皇道派青年将校は歩兵第1・第3連隊、近衛歩兵第3連隊など1473名の兵力を率い(ほかに民間人9名が参加)、おりからの降雪をついて、要人を官邸または私邸に襲撃しました。栗原安秀中尉の部隊は首相官邸で首相秘書の松尾伝蔵予備役陸軍大佐を殺害、これを岡田啓介首相と誤認しました(岡田は女中部屋の押入れに隠れ、翌日弔問客にまぎれて脱出しています)。坂井直(なおし)中尉の部隊は斎藤実内大臣と渡辺錠太郎教育総監を、中橋基明中尉の部隊は高橋是清蔵相をいずれも殺害し、安藤輝三大尉の部隊は鈴木貫太郎侍従長に重傷を負わせました。また野中四郎大尉の部隊は警視庁を、丹生誠忠(にゆうよしただ)中尉の部隊は陸相官邸付近をそれぞれ占拠し、襲撃を終えた他の部隊とともに鵬町区南西部の政治・軍事の中枢を制圧しました。さらに栗原らは反軍的とみなした東京朝日新聞社を襲って、活字ケースをひっくり返したそうです。このほか河野寿(こうのひさし)大尉らの別働隊が湯河原滞在の牧野伸顕元内大臣を襲撃しましたが失敗し、牧野は脱出しました。村中、磯部らは川島義之陸相に面会を強要し、国家改造の断行を迫りました。真崎、荒木貞夫大将、香椎浩平(かしいこうへい)東京警備司令官らは決起に同情的態度をとり、決起を容認するかのような文言の陸相告示が出され、クーデタ部隊は〈警備部隊〉に編入、さらに27日午前3時東京市を区域とする戒厳令の施行によって〈鵬町地区警備隊〉となり、兵站給養をうけました。しかし青年将校らは軍首脳部の〈善処〉をあてにして、蜂起後の計画を明確に立てていなくて形勢の逆転を許しました。天皇は重臣殺傷に激怒し、海軍も激しく反発、杉山元(はじめ)陸軍次官、石原莞爾(かんじ)作戦課長らの陸軍主流はカウンター・クーデタの方向に結集しました。27日〈占拠部隊〉撤収の奉勅命令が下され、28日〈反乱部隊〉武力鎮圧の命令の下達により、29日約2万4000の大軍が反乱軍を包囲し、戦闘態勢をとるとともに、ラジオ放送や飛行機のビラなどで帰順を勧告しました。青年将校らは奉勅命令に動揺し、目的をよく知らされないまま連れ出された下士官・兵士は〈兵に告ぐ〉の呼びかけをうけて続々と帰順、青年将校らは逮捕されました。また皇道派の理論的指導者北一輝および西田税(みつぎ)らも逮捕され、クーデタは失敗しました。

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2009年2月25日 (水)

参観と懇談(くみこ)

 先日子供たちの小学校で参観と懇談があり、6年生の息子は小学校最後の参観となりました。高学年と低学年に日が分けてあり、2回足を運びましたが、参観も懇談もゆっくり出席できました。
 6年生の息子のクラスは図工で、夕焼け空をバックに冬枯れの木を3本描くという授業でした。前の日に夕焼け空まで描いて、乾いてから参観授業で木を描いていました。夕焼けや木を描くのに、何色を使ってどう混ぜるとか、だんだん色を薄くしていくにはどうするかとか、随分細かい指導があって描いていました。また3本の木に遠近感をつけるために、「1本目は黒、2本目は黒+茶色または赤、3本目は黒+白を少しだけ」などとこれも具体的に教えてもらっていました。私が小学校の頃はそんなに詳しく教えてもらった記憶がありません。忘れてるだけかしら?
 木の絵を描くと、幹の太さや枝の張り具合などで、とっても個性が出ますね。心理テストに使われることもあると聞きましたが、確かに性格がよく表れそうです。
 小学校最後だったからか、その後のクラス懇談会には12人も父兄が残り、6年生のクラスとは思えない感じでした。先生への期待と信頼が大きいということなのでしょうね。いろいろ有意義なお話を伺いました。
 2年生の娘のクラスは前日もまだ科目が決まっておらず、娘が「先生も考えてるところだって」と言っていました。行ってみると道徳で、「ひと いのち」という教科書に載っている、脳に障害を持って生まれたお子さんのご家族の話を読んで話し合うという授業でした。お話の中の障害のあるお子さんがみんなと違うところを挙げ、人はみんなそれぞれの持ち味があるというお話を聞きました。心に残るよい内容でした。その後、自分の持ち味を書いて発表し、さらにもっと探すということで、宿題になっていました。うちの娘が自分で感じている持ち味は「動物が好き」「鉄棒が好き」などなど・・・。ちょっと‘持ち味’の意味とは違う気もしますが、まあ2年生ですから。(^0^;私が「それならキムチと梅干しが好きっていうのはどう?」と言うと「そんなこと書けるわけないでしょ~」と言いました。ちょっとは恥じらいも出てきたようですね。
 後のクラス懇談会には6~7人残っていましたが、うちのクラスは学級通信が1学期の3~4号でストップしていたので、「あったらよかった」という意見も出て、先生は冷や汗ものだったようです。多いクラスは毎週発行されますからね。男の先生はこういうのが苦手かも・・・。私は発行されてもあまりちゃんと読まないかもしれないし、発行されていないことも忘れていましたが。(^0^;
 ともあれ、今年度最後の参観・懇談にゆっくりと出席できてよかったです。次に参観がある時は中学生と小学生。うれしいような、さびしいような・・・。

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2009年2月24日 (火)

地雷(こーじ)

 2月24日は、鉄道ストの日、地雷を考える日です。
 今日は「鉄道ストの日」です。1898(明治31)年、日本初の鉄道ストライキが実施されたそうです。
 地雷は、地上または地表面下に設置して、これに触れた車両や人員を損傷、殺傷することを目的とした弾薬ですね。爆薬を充浬した本体と、対象物に感応し本体の爆薬を点火起爆する信管からなっています。信管は車両、人員の踏圧に感応する圧力式が多いのですが、音響、磁気、振動等に感応するものなど多様です。
 地雷は対戦車地雷と対人地雷に大別できます。対戦車地雷の爆薬量は対人地雷より多く、信管は車両等には感応しますが人員の踏圧には感応しないものを用います。金属の存在を磁気の変化で検知する方式の地雷探知器に対抗するため、地雷の構成材料には非金属材料を多用する傾向にあります。また敷設した地雷を敵が除去するのを妨害するために、不用意に動かすと爆発する装置(活性化装置)を組み込む場合もあるそうです。
 地雷の敷設は、人力または機械力によります。機械力による場合は、穴掘り、地雷設置、覆土等の一連の作業を効率的に行うことができます。1970年代からヘリコプターや火砲等を利用して地雷を空中から散布する方式(散布地雷)が出現し、多量の地雷を短時間に随所に散布することができるようになったため、地雷の戦術的価値はさらに向上しました。敷設された地雷の探知は、各種偵察情報により概略位置を推定し、探知器や手探り等の手段により細部位置を確認します。除去手段には、1個ずつ確認しながら手掘りする方法、ローラーや鋤(すき)等の機械力による方法、爆薬により地雷を誘爆し除去する方法などがあります。
 なお、《天工開物》では、地雷を、地中に埋め導火線を使って爆発させる武器と説明しています。英語の mine には、攻城戦などで使われた敵城壁の下に掘るトンネル、あるいはそこに仕掛ける爆発物の意味もあります。ここで説明した意味での地雷が初めて使用されたのはアメリカ南北戦争においてです。

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2009年2月23日 (月)

ふろしき(こーじ)

 2月23日は、税理士記念日、ふろしきの日、富士山の日です。
「税理士法」の前身である「税務代理師法」が制定された、「税理士記念日」です。各地で無料の税務相談が行われるそうです。あと「ふろしきの日」でもあります。制定したのは京都ふろしき会というところだそうで、なんだかいろいろな会や協会がありますね。
 ふろしきは、物を包むための布ですね。奈良時代の正倉院御物にも見られ、平安時代には〈ころもつつみ〉〈平包み〉と呼ばれていました。《扇面古写経》の下絵には平包みを頭にのせた絵があります。〈風呂敷〉という言葉が文献に現れるのは、徳川家康の形見分けの記録《駿府御分物御道具帳》で、江戸時代の初めには一般化しました。名の由来としては、
(1)風呂(蒸し風呂)の床板に敷いた、
(2)湯上がりの足ふきとして使った、
(3)自分の衣類を区別するために包んだため
といいます。室町幕府で大名たちが衣類を包んだり湯上がりに敷いた史実から(3)の説が一般的で、室町~江戸初期にはゆかたをつけて入浴したため、脱衣を包んだりぬれたゆかたを包む必要があり、銭湯の発達とともに一般庶民にまで普及していきました。江戸中期ころにはゆかたの省略や脱衣籠や棚の出現により、本来のふろしきとしての使用は少なくなりました。当時は紺無地や縞柄の木綿布を縫い合わせたものが多かったのですが、輸入ものの広幅の更紗(さらさ)や専用の型染をしたもの、中央に家紋を染めぬいたものもありました。ふろしきの代表柄である唐草模様は、江戸時代の更紗の流行以後、寿柄として伝えられました。商家では3幅から7幅の麻の大ぶろしきが使われ、それには補強も兼ねた刺子をしたり、定紋や屋号をつけて宣伝に利用することも行われました。また火事の多かった江戸では、布団の下に大ぶろしきを敷き、半鐘が鳴ると布団をくるんで飛び出したといいます。
 昭和の初めまでその融通性からちょうほうがられていたふろしきも、現在では贈答品、景品、引出物に用いられる程度です。とはいえ、関東地方だけで年間4000万枚近くが販売されているといいます。その素材には、絹、綿、毛、化学繊維のものがあり、大きさは70cm前後のものが一般的です。現在全体の約6割を占めるのが化学繊維製で、結婚式の引出物を包むのに用いられています。東北地方の女性がフロシキボッチと呼ばれる被物に利用する例もあります。都会でも明治・大正のころには紫ちりめんの御高祖(おこそ)頭巾が流行しました。

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2009年2月22日 (日)

九州旅行~その3~(くみこ)

 もう1度旅行の話にお付き合い下さい。
 最後の日は板付遺跡に行きました。弥生時代に稲作が行われていたことを裏付ける重要な遺跡で、教科書にもしっかり載っています。私が大学時代に取っていた考古学の授業でも板付遺跡のことはテストに出ました。今では母校の教授になっているKくんが答えを作ってくれて、それを丸覚えして後期試験を乗り切ったのでした。(^0^;Kくんにはとても感謝しています。自分で調べたことよりも、答えをもらって丸覚えしたことの方がよく覚えてるなんて!どちらがいいんだか・・・。
 それはさておき、ここも入場無料で有意義なところでした。まずは弥生館という史料館に入りましたが、息子がまたまた「教科書と同じ建物や!」と感動していました。私たちの他には誰もおらず、係のおじさんが懇切丁寧に説明して下さいました。団体さん専用のビデオを流してもらったり、貫頭衣を試着させてもらったり、歴史を満喫した感じでした。ちょうど前の日に吉野ヶ里遺跡で作った勾玉を首にかけていたので、貫頭衣にぴったり!特に娘は妙に似合っていました。
 竪穴式住居も吉野ヶ里遺跡とは出入り口の作りが少し違っていて、興味深かったです。板付遺跡の方が時代が古いようです。吉野ヶ里遺跡に比べるとこじんまりしており、中にまでは入れませんでしたが、竪穴式住居をたくさん見ることができてうれしかったです。
 今回の旅行は私たちにとっては最高で、息子は教科書の中に入ったみたいだと喜んでいましたが、興味のない人にとったらつまらなかったかもしれませんね。(^0^;無料または低料金でこんなにたくさんの遺跡を見学できて本当にありがたかったです。
 アルバムにたくさんの写真を入れてもらうので、よかったらのぞいてみてやって下さいね。よろしくお願いします。何度も旅行の話にお付き合い頂き、ありがとうございました。

Honegumi Jyukyo Kantoui2

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2009年2月21日 (土)

夏目漱石(こーじ)

 2月21日は、国際母語の日、日刊新聞創刊の日、食糧管理法公布記念日、漱石の日です。
 今日は「日刊新聞創刊の日」です。明治5年の今日、日本初の日刊新聞となる「東京日日新聞(現・毎日新聞)が、創刊されたわけです。
 あとは「漱石の日」が今日です。1911(明治44)年の今日、文部省が夏目漱石に文学博士号を贈りましたが、漱石は辞退したそうです。
 夏目漱石は、作家、英文学者です。江戸牛込馬場下横町の名主夏目小兵衛の五男に生まれました。本名は金之助でした。生後1年で塩原昌之助の養子になり、幼年期を浅草界隈で送りました。また、そのころ疱瘡にかかり、大人になってからも鼻の頭に痘痕が残ったといいます。このことを〈彼は暗い櫺子(れんじ)のうちで転げ廻った。惣身(そうしん)の肉を所嫌はず仰き強(むし)って泣き叫んだ〉と《道草》に記しています。孤独な幼年時代の記憶は暗い色調に覆われています。10歳のとき養父母の離婚のため生家に戻ったのですが、やすらかな帰属感を抱くことはできませんでした。やがて東京府第一中学に入学するが、まもなく中退、二松学舎に入り漢籍を学びました。漱石の漢詩文の趣味と素養はこの時期に身についたそうです。しかし文明開化の世に好きな漢詩文で身を立てることは諦め、成立学舎に入って英語を学び、1884年大学予備門に入学しました。学制改革により予備門が改称された第一高等中学本科に進むにあたり、専攻を英文学に決めたとき、漱石は趣味にもとづく漢文の文学よりは国家有用の事業としての英語の文学を生涯の仕事としようとしました。しかし〈洋文学の隊長〉たらんとの当初の野心は、まもなく〈英文学に欺かれたかの如き〉失望に変わりました。英文学への懐疑は、東京帝大英文科に進み、卒業して後もつのる一方で、自分の生存理由を疑う人生的懐疑へ深まり、何ものかに追跡されている迫害妄想を抱くにいたりました。かくて1895年高等師範学校の職を辞し、松山中学の英語教師として都落ちするという、常識からすれば不可解な行動に出ました。松山で作った漢詩の〈大酔醒め来りて寒さ骨に徹し、余生養い得て山家に在り〉という句などから推察すれば、松山行きには自己埋葬の衝動が感じられます。翌年、熊本の第五高等学校へ移り、以後4年間、正岡子規の影響もあって多くの俳句を作っています。1900年文部省の命によりイギリス留学の途に上りました。漱石は在学以来苦しんだ英文学への懐疑を根底より解決しようとし、下宿にこもり食費を節約して書物を買い込み、猛勉強を始めましたが、激しい神経衰弱に陥り文部省の報告書を白紙のまま本国へ送り、そのため漱石発狂のうわさが飛びました。漱石が突き当たったのは彼我の文学の言葉の違い、それも感性に訴える面での〈趣味 taste〉の違いに由来する了解不可能という壁でした。この宿命的な壁を除くことはできませんが、論理化することによって日本人として英文学に対する主体的態度を確立しようとし、歴史、心理学、社会学、文明論にわたる読書と思索を続けました。それは英文学の範囲を超えた文学の原理的考察で、東西文明の根底的な比較でした。
 03年帰国した漱石は、東京帝大英文科講師として〈英文学概説〉の講義を、ロンドンでの悪戦苦闘の思索をもとにおこなった(《文学論》)が、学生には難解で不評でした。一方漱石の神経衰弱は帰国後も続き、しばしば幻聴に悩み、被害妄想によるかんしゃくの破裂となり、一時妻子と別居するにいたりました。このときの苦しみは、05年から雑誌《ホトトギス》に高浜虚子のすすめで発表した《吾輩は猫である》に、滑稽と諧謔を交えて描かれ、晩年の《道草》には自己を俎上にのせて解剖する苛烈さで描かれています。《吾輩は猫である》は予想外の反響を呼び、作家漱石の文名があがりました。この年《倫敦塔(ロンドンとう)》《薤露行(かいろこう)》を《猫》と並行して書き、翌年には《坊っちゃん》《草枕》を発表し、せきを切ったような旺盛な創作意欲は、大学教師との両立を困難にしました。そして漱石を慕って家に出入りする小宮豊隆、森田草平、鈴木三重吉ら教え子を中心とする弟子たちのために木曜日を面会日としました。いわゆる木曜会は06年に始まり、漱石の死の直前まで続き、晩年には芥川竜之介、久米正雄、松岡譲らが加わりました。

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2009年2月20日 (金)

普通選挙(こーじ)

 2月20日は、旅券の日、歌舞伎の日、普通選挙の日、アレルギーの日です。
 今日は「普通選挙の日」です。1928(昭和3)年の今日、日本で初めて普通選挙が実施されました。納税額に関係なく、全ての男性に選挙権が与えられたと、歴史の授業で習いましたね。
 他に「アレルギーの日」、これは1966(昭和41)年の今日、石松公成がアレルギーを起こす原因となるlgE抗体についての研究を発表し、アレルギー性疾患の診断に貢献したということです。
 普通選挙は、狭義には、選挙権について、納税または財産の所有のような経済的要件による制限を認めない選挙制度をいいますが、広義には、社会的地位、財産、納税、教育、信仰、人種、性別などによって選挙権を制限せず、成年の男女に等しく選挙権を認める制度をいいます。普通選挙に対して、上述のような制限を伴った選挙を制限選挙といいます。狭義の普通選挙は、財産をもたない労働者階級の登場とその政治的自覚の高まりによって強く要求され、19世紀中ごろから普通選挙を実施する国が現れはじめました。第1次世界大戦後、これを実施する国は急激に増加していて、日本も1925年の選挙法改正によって男子普通選挙制を実施しました。女子の選挙権は男子普通選挙にやや遅れて各国に普及していて、日本では1945年に認められ、現在では広義の普通選挙が各国で一般的となっています。日本国憲法は、15条2項で〈公務員の選挙については、成年者による普通選挙を保障する〉と明瞭に規定していて、また、44条で〈両議院の議員及びその選挙人の資格は、法律でこれを定める。但し、人種、信条、性別、社会的身分、門地、教育、財産又は収入によって差別してはならない〉と規定しています。
 普通選挙が今日において一般的に認められている理由として、普通選挙の根底にある二つの原理を指摘することができます。第1は、近代民主主義における国民主権の原理です。すなわち、国家の主権が全国民に存し、主権者としての国民が国家の政治のあり方を最終的に決定します。したがって、できる限り多くの国民がその意見を表明する機会を与えられ、民意として国政に反映されなければいけません。この要請に基づき、選挙権を少数の人々にのみ制限するあらゆる要件が撤廃されて今日の普通選挙へと選挙権が拡張されてきたわけです。第2に、国民の個人としての人格の独立性、同質性、平等性です。すべての国民はその社会的地位その他のいかんにかかわらず、人格としては平等に尊重されなければなりません。この原理は、いわゆる〈個人の尊重〉および〈法の下の平等〉で、制限選挙の下でのさまざまな選挙権の制限は〈法の下の平等〉が許容する合理的な差別とはいえません。したがって、〈法の下の平等〉は普通選挙の実施を要請しているのです。日本国憲法15条2項および44条の普通選挙の規定は、14条1項の〈法の下の平等〉をとくに選挙について明確に確認したものであるということができます。

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2009年2月19日 (木)

九州旅行~その2~(くみこ)

 今日も旅行の話にお付き合い下さいね。次の日はレンタカーを借りて元寇の防塁と佐賀の吉野ヶ里遺跡に行きました。どちらも教科書にも載っている有名なものです。
 まず元寇の防塁ですが、文字通り元寇の時に石垣を築いて、襲来に備えたというものです。「蒙古襲来絵詞」にも描かれています。「生きの松原」という松林があって、そこを通り抜けると海で、石垣がありました。とても観光地とは言えず、碑はありましたが、興味のない人にとってはただの寒い海岸という感じでしょうか。(^0^;息子は「教科書に載ってたのと同じや~」と感激してましたが・・・。
 次は吉野ヶ里遺跡です。佐賀県へ通じる山の中の道はすごい雪で、通行止めになったらどうしようと不安になるほどでしたが、山を抜けると普通の天気になり、安心しました。
 これは有名なので、みなさんよくご存知と思いますが、かなり広いところでした。弥生時代(紀元前300年~紀元300年ぐらい)の移り変わりを知ることができる、日本最大の遺跡だそうです。全部は回りきれませんでしたが、3時間ぐらい楽しんで来ました。「ひみかちゃん」(写真)というマスコットがいましたが、‘ひみこ’ではないところがミソですね。まだ邪馬台国がどこにあったか特定されていませんからね。(^0^;
 竪穴式住居がたくさん復元されており、中にも入ることができます。寒波がやってきてとても寒い日でしたが、竪穴式住居の中に入ると風もなく暖かく、昔の人はうまく考えたものだなと感心しました。夏は涼しいのだそうです。中に人形が展示してありましたが、なんだか顔つきが大陸的に作ってあるように感じました。発掘された人骨から推測される顔なのでしょうね。興味深かったです。
 体験教室というのがあり、この日は土笛と勾玉を作ることができました。子供たちは勾玉作りを選び、作らせてもらいました。砥石にこすり付けてけずるのですが、思ったより材料の石がやわらかく、1時間もかからずにできました。ある程度できたものを水につけて紙やすりでこすると、さらになめらかにツルツルになりました。
 こんなに貴重なものを見せてもらい、体験もさせてもらって、入場料は大人400円・子供80円でした。子供料金が特に安いので驚きました。やはり遠足など学校単位でたくさんの子供たちに見てほしいということなのでしょうね。
 旅行の話はまだ書きたいことがあるので、もう少しお付き合い下さいね。またアルバムに写真をたくさん入れてもらうので、よかったらのぞいてみて下さい。よろしくお願いします。

Bourui Himikachan Magatama Ningyou Yosinogari2

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2009年2月18日 (水)

嫌煙(こーじ)

 2月18日は、嫌煙運動の日、エアメールの日、冥王星の日です。
 今日は「嫌煙運動の日」です。1978(昭和53)年の今日、「嫌煙権確立をめざす人々の会」が設立されました。喫煙家の皆さんのマナーや気配りの向上に期待したいですね。
 通常の喫煙が自発的・能動的喫煙であるのに対し、非喫煙者がみずからの意志に反して余儀なくタバコ煙にさらされ、吸煙を強いられている状態は受動的喫煙と呼ばれています。世界保健機関(WHO)は、喫煙による健康障害に対処するための加盟各国への勧告の中に、〈タバコ煙に汚染されない大気を非喫煙者が享受する権利を擁護すること〉という1項をとくに加えています。近年、日本でも嫌煙権ということばが日常語として定着しつつありますが、非喫煙者の場合、それが受動的であるとはいえ、健康に対する影響を示唆する研究結果が出されています。この意味で、現在、喫煙と健康の問題は、個人衛生の域を脱して、公衆衛生の次元で検討されねばならぬ時期にきているということができるでしょう。

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2009年2月17日 (火)

ノアの洪水(こーじ)

 2月17日は、天使のささやきの日、ノアの洪水の日です。
 今日は「ノアの洪水」の日です。旧約聖書で「ノアの洪水」が起きたのがノアが600歳の第2の月の17日だそうで、その後、40日間雨が降り続いて全てが水没し、1年後の第2の月27日に地が乾いたそうです。
 旧約聖書《創世記》6~8章によれば、最初の人類の堕落のゆえに下される大洪水の難からノア一家を逃がすために、神は箱舟の製作をノアに命じました。これを〈ノアの箱舟〉といい、方舟の字も当てます。それは木造、方形の舟で、長さは約135m、幅は約23m、高さは約14mの三層構造で、横に戸口、上から約50cm下に天窓1個があり、外側はアスファルトで防水されていました。神はこの箱舟に食料のほか、鳥獣などの生物を雌雄各2匹(もしくは潔い動物各7匹に汚れた動物各2匹)を入れることを命じました。洪水は150日(もしくは40日)に及び、箱舟は漂ってアララト(アルメニア方面の北方地域を漠然と指す)の山に着きました。天窓が高くて外の見えないノアは烏に続いて鳩を放ち、鳩がオリーブの若葉をくわえて戻ったので、水の引いたことを知ったといいます。ノアの洪水物語は前2千年紀以降のメソポタミアの洪水神話の影響下で記されていて、箱舟の防水方法や鳥を放って外界を確認することなど、叙述の類似が目立ちます。
 ノアの箱舟は、美術作品で、
(1)《創世記》の説話場面の一つとして描かれる場合と、
(2)象徴的意味を担った主題として描かれる場合とがあります。
(1)は、主として写本画や教会堂壁画などに見られ、舟には箱形や家形があります。ミケランジェロのシスティナ礼拝堂天井画には、家形の方舟と、洪水を避けようとする群衆が描かれています。(2)の早い例に、ローマ、ラティナ街道のカタコンベ壁画(4世紀後半)など初期キリスト教時代の葬祭芸術で、箱形の舟の中に立つノアが救済の象徴として描かれたものがあります。また中世の〈ベアトゥス本〉黙示録写本のさし絵(10世紀)には、教会の予型としての家形の箱舟と、その中にフリーズ状に並んだ人物や動物、オリーブの枝をくわえた屋根の上の鳩が描かれています。

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2009年2月16日 (月)

九州旅行~その1~(くみこ)

 また日が経ってしまいましたが、1月の連休に福岡へ行って来ました。今回もちょっとしたつてがあり、思い切って出かけたのでした。九州は親戚が多いのですが、福岡・長崎・熊本と点在しているのでなかなか行けず、結局はご無沙汰しているところが多いです。連休中は寒波が来て、雪まで降って大変でしたが、割合タイミングよく止み間をぬって動けたので、1度も傘を使うことがなくラッキーでした。
 3学期が始まってすぐだったので学校の帰りも早く、金曜の夕方の新幹線で博多へ出発。土曜の朝から動いて、まずは歩いて30分弱の金の隈遺跡へ。小雪が舞う中歩きましたが、近くの福岡国際空港へ着陸する飛行機を至近距離で撮影できました。でも近過ぎてとてもこわかったです!風のせいか揺れながら私たちに向かって突っ込んでくるのです。絶対に地面をかすることはないんだろうとは思いつつも、ぶつかりそうで・・・。逆光ではありますが、迫力ある写真が撮れました。
 目的地の金の隈遺跡は弥生時代前期から後期(紀元前200~紀元200ぐらい)の甕棺墓で、建物の中で保存されていました。そのままの形だそうで、人骨も科学処理して本物が展示されているそうです。子供用の小さな甕も多く、1歳から6歳の子供の死亡率が最も高かったようです。成人でも40歳ぐらいで亡くなるのが平均的だったとか。ここの遺跡でわかる範囲では、60歳以上まで生きたのは女性のみだったそうです。作り物ではなく、本当に大昔生きていた人のお墓なのだと思うと、見せてもらっているのが申し訳ないような気がして、思わず手を合わせて来ました。こんなすごいものを見せてもらえるのに、ここは入場無料!ありがたいことです。
 午後からはJRと西鉄で大宰府天満宮へ行きました。まだ初詣の人出が多く、参道からずっと賑わっていました。普段の様子を知らないので、いつも人が多いのかもしれませんが・・・。もちろん息子は電車の写真を撮りまくっていました。(^0^;
 入ってすぐの所に、ご神牛(なで牛と言うそうです)をさわるための行列ができていましたが、私は今年が年女なので並んでさわらせてもらいました。境内で猿回しをしており、珍しいのでしばらく見物してからお参りしました。やはりこれもすごい行列でしたが、マイクで「横からでもお参りできます」とアナウンスされていたので、横からお参りして来ました。どこからでもお賽銭が入るような特設のお賽銭箱が作ってありました。(^0^)例によって子供たちはおみくじを引きましたが、子供用はなくて普通のもの。梅にちなんでピンク色の紙のおみくじでした。
 また旅行の話は長くなるので、何度かに分けて書かせて頂きます。コメント入りの写真をたくさんアルバムに入れてもらうので、よかったらのぞいてやって下さい。よろしくお願いします。

Hikouki1 Kamekanbo Nisitetu Sarumawasi Seikurabe

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2009年2月15日 (日)

春一番(こーじ)

 2月15日は、コマーシャルフォトの日、春一番名附けの日です。
 春一番は、冬から春に移る時期(通常は立春過ぎ)に、初めて吹く暖かい南寄りの強風です。通常、冬型の気圧配置がくずれ、温帯低気圧が日本海を発達しながら北東に進むときに吹き、春の訪れを告げますが、その後、寒冷前線が通過して急に寒さがぶり返すことが多いようです。しばしば海および山での遭難を引き起こします。春一番は元来漁業者によって使われていた言葉ですが、1950年代後半よりマスコミで使用され一般化しました。なお、春一番に続く南寄りの強風を春二番、春三番と呼びます。

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2009年2月14日 (土)

バレンタイン(こーじ)

 2月14日は、聖バレンタインデー、チョコレートの日、ネクタイの日です。
 今日は「聖バレンタインデー」ですね。269年の今日、兵士の自由結婚禁止政策に反対したバレンタイン司教が、ローマ皇帝に処刑されました。これを起源として、ヨーロッパでは「愛の日」として恋人たちが愛を誓い合う日になったわけです。女性が男性にチョコレートを贈る風習は日本独自のもので、1958(昭和33)年にメリーチョコカンパニーが、新宿・伊勢丹で行ったチョコレートセールが始まりのようです。バレンタインデーに相乗りして、「チョコレートの日」「ネクタイの日」も今日です。
 バレンタインデーは本来、キリスト教の聖人ウァレンティヌス Valentinus(バレンタインはその英語読み)の祝日です。いずれも3世紀後半に殉教した同名の聖人(祝日も同じ)が2人いて、さらに事跡不詳の別の修道士もいたとされ、どの人物に由来するかは実は不明です。今日では英米を中心に、恋人たちがカードValentine card や贈物をとり交わす日として知られ、日本では特に女性の方から愛をうち明けることができる日としてチョコレートを贈ることがさかんに行われています。この習俗の起源は、古代ローマの豊穣祈願祭ルペルカリア Lupercalia にあるとも、この日から鳥がつがい始めるという西欧の民間伝承にもとづくともいわれています。

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2009年2月13日 (金)

成田山不動尊の豆まき(くみこ)

 節分の話なのに、バレンタインのことを先に書いていたため、またまたタイミングがずれてしまいました。すみません。
 去年初めて香里園の成田山の豆まきに行って記事を書きました。今年は平日なので行かないつもりでしたが、子供が「行って写真を撮って来て~」と言うので、行って来ました。本当は午前中出かける用事があったのですが、ちょうどタイミングよく別の日に変更になったのでラッキーでした。
 午後からは普通通り仕事があったので、午前10時半からの部に行きました。この部は一番有名人が多かったようです。成田山のHPによると、大阪府知事の橋下徹さん、女優の三倉茉奈さん・佳奈さん姉妹、俳優の吉田栄作さん、漫才の宮川花子さん・さゆみさん親子などなど・・・。去年は雨のせいか、午後からで有名人が少なかったせいか人出も少なめでしたが、今年は曇り空で去年の何倍もの人・人・人・・・!びっくりしました。
 豆まきが行われる柵の中に入ると大変だから、今年も柵の外側に立っていましたが、なんと目の前を福男さん・福女さんの行列が通り、有名人の方々の写真がアップで撮れました!また記念撮影風景や豆まき直前の様子などの写真も撮れました。しかし、豆まきが始まるとカメラなど構えていられないほどの騒ぎで、豆まき風景は撮れませんでした~!袋を広げて私の頭の上におおいかぶさってくる人もおり、大変でした。成田山の福豆はピーナッツなのですが、しゃがんで拾うのは危ないほどの人で、「しゃがんで拾わないで下さい」と何度もアナウンスされていました。私の収穫は、たまたま飛んで来たのを2つほど素手でキャッチし、終わってから帰る時に1つだけ拾い、合計3コです!去年は空いていて、100コぐらい拾ったのに。もっとも子供が必死で拾うのはまだかわいいけど、こんなおばちゃんが袋に100コも拾ってたらみっともないですよね。(^0^;空いていても1人で行った時は控えめにしないと・・・!
 ところで橋下知事は行列には参加されず、豆まきの直前に姿を見せられました。混乱を避けるためでしょうか。登場とともにすごい歓声!吉田栄作さんが通ってもみんな静かで冷静でしたが、知事の登場で湧いていました。一番人気だったようです。(^^ゞ
 アルバムにコメント入りの写真を何枚か入れてもらうので、よかったらのぞいてみて下さいね。よろしくお願いします。

Eisakusan Hutiji_2 Okeihan Setubun2 Utakosan

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2009年2月12日 (木)

ボブスレー(こーじ)

 2月12日は、ペニシリンの日、ボブスレーの日です。
 今日は「ペニシリンの日」です。イギリスのオックスフォード大学付属病院が、世界で初めてペニシリンの臨床実験に成功したのが、1941(昭和16)年の今日だったそうです。
 ボブスレーは、鋼鉄製のそりを使い、山腹の斜面に作られた氷のコースを滑降してタイムを競う競技です。男子だけに限られ、2人乗りと4人乗りがあります。そり競技にはボブスレーとリュージュ(トボガン)がありますが、後者はプラスチック製あるいは木製でハンドルとブレーキがありません。
 雪国で交通機関や木材運搬用に使われていた木ぞりを、1883年イギリス人がサン・モリッツ(スイス)でスポーツ化したのが始まりといわれています。当初木製のそりだったのですが、90年代に入ると、それにあきたらない人たちが、鋼鉄製でハンドルとブレーキをとりつけたそりを考案しました。コースも最初は自然の山道を利用して作られていましたが、スピードが増すに従って危険が出てきたので、外へ飛び出さないようにくふうした人工的なコースが作られるようになりました。ヨーロッパを中心に発達し、1914年にヨーロッパ選手権が行われました。23年には国際ボブスレー・トボガニング連盟(略称 FIBT)が設立され、翌24年の第1回冬季オリンピックには正式種目として登場しています。
 日本への移入は37年です。40年に予定されていた札幌冬季オリンピックのため急きょ札幌に日本ボブスレー協会ができ、37年にドイツから専門家を招いて講習会を開きました。翌38年には国内初の競技会も開かれましたが、戦争で同大会は中止されすべてが立ち消えとなりました。しかし戦後、札幌オリンピック再招致にあたって復活し、63年に FIBT に加盟、72年の札幌大会からオリンピックに参加しました。85年にリュージュと統合し、日本ボブスレー・リュージュ連盟となります。FIBT 加盟国48ヵ国(1997現在)です。
 競技方法は、2人乗り、4人乗りとも1日2回、2日間に計4レースを行い、そのタイム合計で順位を決めます。コースは、全長1500m以上です。選手を乗せるそりの大きさは2人乗りが長さ2.7m、幅67cm、4人乗りが3.8m、67cmの制限があり、選手を含めた最大重量は、2人乗りが390kg、4人乗りが630kgまでです。鉄や鉛をそりに固定して制限いっぱいまで重さを増やすことが許されています。
 そりの前部に乗ってハンドルを握る選手をパイロット、後部でブレーキを操作する選手をブレーカーと呼びます。ブレーカーはスタートでそりを押すための走力も必要です。最高時速143km。一般に時速110~120kmのスピードが出るため〈氷上のF1〉ともいわれ、勇壮果敢な精神と瞬間の判断力が必要です。危険を考慮して18歳以上との年齢制限があるため、他の競技からの転向者が多いそうです。日本でも1998年の長野オリンピックでは陸上競技の選手が代表の一員になっています。体力、スピード経験がものをいうため、ドイツ、スイス、イタリアなど欧州アルプス周辺国が伝統的に強いようです。

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2009年2月11日 (水)

紀元節(こーじ)

 2月11日は、建国記念の日、文化勲章制定記念日です。
「建国記念の日」です。結構誤解しやすいんですが、この日に建国されたという「建国記念日」ではなくて、あくまで「建国を記念する日」なんですね。もともとは紀元節という日でした。
 1872年(明治5)の太政官布告によって、記紀説話の神武天皇即位の日を祝日とすることが定められましたが、翌73年の二つの太政官布告によって、その日を2月11日とし、紀元節と呼ぶことが決められました。しかし神武天皇即位が架空の事実であるというだけでなく、推古朝以前に関する《日本書紀》の暦法が紀元節設定当時には明らかではなかったので、神武天皇即位日とされた辛酉年正月元日を太陽暦に換算することは不可能であったはずで、2月11日の日付は当時の学問水準に照らしても無根拠でした。そのころ明治政府は、国内においては世直し一揆に対し、対外的には〈万国対峙〉という状況に直面していたのですが、この内外の危機を一挙に突破するために、神権的天皇に権力を集中させようと企てていました。紀元節はこうした天皇統治の存在理由である古代の政治神話を宣伝し、外国に対して国威をはるために設定されたものでした。そしてこれ以降も紀元節当日を期して、大日本帝国憲法が発布され(1889)、宣戦の詔勅の新聞発表がおこなわれ(日露戦争)、御真影の下賜や金鵄勲章の設定がおこなわれるなど、紀元節は天皇制国家主義の宣伝のための国家政策に強く結びつけられていました。太平洋戦争のとき、紀元節がシンガポール陥落の目標日に設定されたことは有名です。こうした紀元節も、当初は宮中、官庁、軍隊などで祝われたに過ぎなかったのですが、小学校教育の普及と1891年の〈小学校祝日大祭日儀式規程〉の制定を契機に国民の中にも定着していきました。1926年からは学生や青年団、在郷軍人会などを主力にした建国祭のパレードや式典が、東京をはじめ各地で催されるようになりましたが、28‐34年の時期には左翼の建国祭反対運動も出現し、紀元節への批判行動が生まれていました。
 敗戦後の1948年、その存続を求める議会内の保守派議員の抵抗を押し切って、紀元節を廃止する〈国民の祝日に関する法律〉が制定されましたが、66年同法の一部改正により建国記念日として復活しました。

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2009年2月10日 (火)

バレンタインデーのプレゼントに「ふたり心地」はいかがですか?(くみこ)

 またまた従兄・一瀬高帆の本の宣伝です。この「ふたり心地」、去年はホワイトデーのプレゼントということで宣伝しましたが、今度はバレンタインのプレゼントとして宣伝させて頂きます。
 「ふたり心地」の内容は以前の記事でも少しご紹介しましたが、心温まるお話がいっぱいです。前にご紹介したのはホロリとくるお話でしたが、今日はまた別のお話を・・・。

~雪だるま~
 あるカップルが真夏に結婚して、新婚旅行でニュージーランドに行きました。ニュージーランドは真冬。二人で雪だるまを作り、ホテルのテラスに置いて帰ってきました。
 半年過ぎた頃、日本でも珍しく雪が降り、新婚旅行を思い出して雪だるまを作りました。今度は中に蜜柑を入れて作り、冷凍庫に保存し、夏の結婚記念日に雪だるまを見ながら食べようということになりました。
 この時作られた雪だるまが二人を語っているお話なのですが、「結婚記念日にはご馳走が並んで、デザートは僕の頭とお腹で保存してある冷凍蜜柑!」と雪だるまは冷凍庫の中で楽しみにしていました。
 ところが、待ちに待った1年目の結婚記念日の前日、二人は外で食事をして帰って来て、翌日からは奥さんの実家へ出かけると言っています。雪だるまのことは忘れているようです。お祝いの主役になるつもりだった雪だるまはそれを聞いて「約束が違うじゃありませんか。私はお祝いの主役なんですよ。まさかこのまま来年まで冷凍庫の中で・・・?」と心配しているところで終わります。

 このお話はふっと笑ってしまうストーリーです。こんなお話もたくさん入っています。チョコレートに添えて「ふたり心地」をプレゼントするというのもいいかもしれませんよ。(←と、思いっきり宣伝しておきます!)今年は男性からもプレゼントしていいという話も聞きます。男性のみなさんもどうぞよろしくお願いします。
 それから従兄はいろいろなご夫婦を取材して記事を書いているのですが、先日脚本家の市川森一さんご夫妻の取材をしたそうです。奥様は女優の柴田美保子さんです。(「ちこちゃん日記」に出ておられたのではないでしょうか?)記事が載っているHPにリンクを張ってもらうので、よかったらのぞいてみて下さい。市川さんに「タイトルがいいですね。」とほめて頂いたそうです。もちろん「ふたり心地」も差し上げ、気に入って下さったようです。どうぞよろしくお願いします。

Itikawasan

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2009年2月 9日 (月)

衣服(こーじ)

 2月9日は、ふくの日、服の日、福の日、肉の日です。
 今日は、「ふくの日」「服の日」「福の日」「肉の日」です。見事に語呂ばっかりですね。ちなみに「ふく」とは魚の「ふぐ」のことで、本場下関では濁点を取って「ふく」と呼ぶんですね。
 人間は衣服を作ることによって自然に対抗し、どのような環境にも適応しうるようになりました。極寒の寒さや灼熱の太陽から身を守り、害虫や外傷から身体を保護するために、人々は衣服を身につけます。そこから最も一般的な起源説である環境適応説が生まれました。しかしそれだけでは説明しきれないケースが若干あります。例えば南米のフエゴ島の原住民オナ族は、寒冷な湿気の多い所に住みますが、身につけるものといえば腰布とアザラシやカワウソの皮で作った袖なしの外衣だけです。昼間は暑いが夜は急激に温度の低下する地域に住む、アマゾンやオーストラリアの原住民も、体を覆うことをせず一年中裸で、夜はたき火をしてこげるほど近くで互いに体を寄せ合って眠るだけです。
 次に、人間のもつ羞恥心から衣服の起源を説明するものがあげられます。まったく体に何もつけず性器を露出させている民族はごく限られていますし、イスラム教徒の女性のベールはその慎み深さの極致といえるでしょう。しかしこれも決定的な説明とはいいがたいものがあります。アマゾンのウイトト族の女性は通常全裸で、祭りの日には前部に三角形の切穴をもつ広い腰巻を身につけて、逆に恥部を誇張します。また乳房を露出することは平気でも特定のアクセサリーをはずすことが大変な恥であったり、何をもって恥ずかしいとするかは、民族、地域、時代によって実に多種多様です。文明社会でも、女性は長い間脚をみせることを慎みのないこととしてきましたが、現代ではミニスカートが流行し、トップレスの衣服も出てきています。
 そこで、羞恥説とちょうど逆の説明となる異性吸引説があります。衣服は男女が互いに相手をひきつけようとする動機から生まれたとする説で、種族保存本能に裏づけられたものとする説です。例えば熱帯雨林地帯の裸族の男たちはたいていペニスケースを身につけていますが、これは羞恥心から性器を覆うというより、外傷から性器を守る機能の方が強いそうです。さらにペニスケースがきわめて装飾性に富み、極端に長くとがっていたり大きかったり、また鳥の羽毛や貝などの飾りがつけられていたりするのは、明らかに異性に性的刺激を与えようとするものです。異性吸引説は広義には人間の装飾本能から衣服の起源を説明するものに含まれるでしょう。
 現在最も説得力のある衣服起源説は、美しく身を飾りたいという人間の心的・文化的欲求から説明する装飾説です。異性への性的誇示を含む自己顕示欲も満足させるものです。どんなに未開な社会にもおしゃれ心があり、自分の身体を傷つけ苦痛に耐えてでも人々は身を飾ります。体一面に鮮やかな色彩で模様を描くボディペインティングや入墨、瘢痕文身、種々の頭飾、装身具類も広義の衣服です。

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2009年2月 8日 (日)

逓信省(こーじ)

 2月8日は、〒マークの日、針供養です。
 今日は「〒マークの日」です。1887(明治20)年、逓信省(テイシンショウ)の「テ」の字を図案化して「〒」としたのが、「〒」マークの始まりということです。
 逓信省は、明治から昭和にかけての交通・通信行政の中央官庁で、のち電気・航空行政をも管掌しました。1885年内閣制度実施とともに、工部省の電信、灯台、農商務省の駅逓、管船の各局管掌事務を引き継いで設置されました。90年以降電話事業、93年以降官設・私設鉄道事業を管轄、陸上交通を含む広範な行政官庁となりました。この間、とくに郵便・電信業務の近代化をはかり、日露戦争前後の時期にはほぼこれを完成しました。1908年12月5日、鉄道監督行政は新設の鉄道院(内閣直属)に移り、23年航空局を陸軍省から引き継ぎ、民間航空事業の監督、育成を担当しました。このころから電気事業の監督業務が大きな比重を占め、また郵便貯金、簡易生命保険の業務も拡張されました(1920年貯金局、簡易保険局設置)。24年3月放送監督業務を開始、29年4月1日、日本航空輸送の東京、大阪、福岡間定期便開設に際して航空郵便の取扱いを開始しました。太平洋戦争開始にともない船舶、船員などの業務を海務院に移し(1941年12月19日)、42年11月には機構の簡素化が実施されましたが、43年11月1日運輸通信省設置にともない、逓信省は廃止され、郵便、電気通信、郵便為替、郵便貯金、簡易生命保険、郵便年金などの業務は運輸通信省の外局として設置された通信院に移管、45年5月19日逓信院として内閣の管轄としました。戦後の46年7月1日逓信省として復活しましたが、49年郵政省と電気通信省(1952年8月日本電信電話公社に改組され、監督行政は郵政省に移管される)とに分割されました。

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2009年2月 7日 (土)

バレンタインチョコの作り方(くみこ)

 節分の日に成田山の豆まきに行ったので、そのことを書こうと思っていたのですが、よく考えるとバレンタインデーが近いので、先にバレンタインチョコのことを書かせて頂きます。豆まきの話は、また後日お付き合い下さい。
 毎年3Kgぐらいのチョコレートを買い込み、バレンタインチョコを200~250個ぐらい作って生徒さんを中心にお友だちなどに差し上げています。大量に作るので2種類限定で、いつも同じものです。たまには違うものがほしいと思っているお子さんも多いかもしれませんが(^0^;、手早くこなすには、同じ種類でないと余裕がなくて・・・。去年は生チョコをご紹介したので、今年は一昨年と同じピンクのガナッシュチョコをご紹介します。毎年同じなので、写真もいつもと同じです。お許しを・・・。m(_ _)m

~材料~
ホワイトチョコ250g
生クリーム100cc
五色スプレー適量
あれば赤の色粉
~作り方~
①ホワイトチョコを細かく刻みます。(私は包丁で粗く刻んでからスピードカッターにかけます)
②生クリームを沸騰させて、刻んだチョコを入れて溶かします。(私はチョコを入れたらすぐに火を止めます)
 この時、生クリームに色粉を入れてピンクにするとかわいいですよ。
③しっかり冷ましてから、泡だて器で白っぽくなるまでホイップします。
 ※よく冷まさないとホイップできません!
④一口大の大きさに丸めて、五色スプレーをまぶします。(五色スプレーがしっかりとチョコに埋まるぐらい押さえてつけておくと、取れにくいです)

 難しい技術は全くいりません。丸める根気さえあれば大丈夫です!この分量だと20~30個ぐらいでしょうか。私は100個以上丸めるので、ちょっと大変です。一気にやらないと、固まってしまうと丸くならないし、もう1種類生チョコも作るし・・・。でもうちの子供たちも楽しみにしていて、五色スプレーをまぶすのは子供たちも手伝ってくれるので、今年も頑張ります!

Choko3

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2009年2月 6日 (金)

大宝律令(こーじ)

 2月6日は、海苔の日です。
 今日は「海苔の日」です。702(大宝元)年1月1日大宝律令が施行され、その中で海苔が、産地諸国の物産として年貢に指定されたことから、指定されたようですね。
 大宝律令は、日本古代の法典ですね。701年(大宝1)施行されました。律6巻、令11巻と伝えられますが、いずれも現存していなくて編巻の状態は分かっていません。日本の律令法典の編纂は天智朝の近江令(おうみりよう)(律なし)、天武朝の飛鳥浄御原令(あすかきよみはらりよう)(律なく、唐律を准用したと推定されている)、大宝律令、養老律令の4度にわたって行われたと考えられています。もっとも近江令は存在しなかったとする学説も有力ですが、いずれにせよ法典の完成度からみれば、大宝律令はそれ以前のものにくらべ格段に整ったものでした。《続日本紀》の大宝元年(701)元日の記事に〈文物の儀ここに備われり〉といい、その数年後に造られた威奈大村(いなのおおむら)墓誌に〈大宝元年を以て律令はじめて定まる〉と記されているのは、当時の人々が大宝律令をもって本格的な律令法典の出現と意識していたことを示しています。その編纂と施行について、従来は律・令とも701年から翌年にかけて、成るにしたがって施行されたと考えられていましたが、最近では、令は700年(文武4)に完成していて、続いて成った律も701年に令とともに施行されたとする学説が有力になっています。これを編纂したのは刑部(おさかべ)親王(天武皇子)、藤原不比等(ふひと)ら19名でした。当時の文化的水準からみて当然ですが、そのなかには渡来人一世あるいは渡来系氏族出身者が多いそうです。この律令は757年(天平宝字1)まで施行され、その間に日本の律令制の骨格がかたちづくられたのでした。継受法である大宝律令が範としたものは、唐の永虐律令(えいきりつれい)(650制定、翌年施行)であったとみられています。
 大宝律令そのものは今日残されていませんが、その内容は9世紀に編纂された令の注釈書《令集解(りようのしゆうげ)》に引用されている〈古記〉(大宝令の注釈書)や、大宝律令が施行されていた時期の《続日本紀》の記事などによって、その大要を知ることができます。それによれば、第1に、律を刑罰法、令を教令法・行政法とすることや、天皇の権力を絶対的なものとして中央集権的統治を貫徹させることなどの、中国律令法の基本的理念はそのまま継承されています。しかし第2に、個々の条文をみると、律においては、唐律条文をそのまま引き写した条文が多く、ただ量刑は、一般に唐より軽減されていること、第3に、これに対して令では、日本の実情にあわない条文は採用しなかったり、実情にあわせて修正した条文や、日本独自の新しい条文を作成したものなどが多いようです。また第4に、大宝律令と養老律令の間には、一部の条文に内容上大幅な相違のみられるものはあるものの、全体としてみれば両者に根本的な違いはなかったこと、などが知られています。そして第4点からみれば、実質的には9世紀まで、形式的には近世までの日本の国家体制の枠組みを規定したものは、大宝律令であったということができます。

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2009年2月 5日 (木)

野球(こーじ)

 2月5日は、プロ野球の日です。
 1936(昭和10)都市の今日に、全日本職業野球連盟が結成され、プロ野球が誕生しました。当時は東京巨人軍、大阪タイガース、名古屋軍、阪急などの7球団でのスタートでした。
 野球は、1907年、アメリカのナショナル・リーグのミルズ会長を委員長とする6人の委員で〈ベースボール起源調査委員会〉がつくられたのが最初です。この委員会は、もと投手で当時アメリカで最大の運動具商のスポルディング Albert Goodwill Spalding(1850‐1915)が依頼して構成されたといわれています。調査委は、野球はアメリカで生まれたもので、1839年にダブルデー少将 Abner Doubleday が考案し、最初のゲームはニューヨーク州の郊外クーパーズタウンで行われた、と結論を出しました。クーパーズタウンには、現在野球殿堂が建てられています。しかし、野球の起源をたどると、すでに1744年にイギリスで出版された J. ニューベリーの子ども向けの《かわいいきれいなポケットブック》の中にbase‐ball の語が出ていることが明らかになりました。これはラウンダーズ rounders という、クリケットから派生した子どもの遊びをさし、クリケット同様に18世紀にはアメリカにもちこまれていたと思われます。ラウンダーズは1チーム9人の2チームが、ボールとバット(スティック)を用いてラウンダー(四つのポストを一周すること)を争うもので、野球のベースをやや変形した位置に木の棒(ポスト)を立てます。また、アメリカで生まれたといわれる遊びの中にも、ワナキャット one old cat など、野球の要素を含んだものがあり、結局、これらのボールとバットとベースを用いるゲームが集約され、19世紀前半にベースボールが成立したというのが現在の定説になっています。
 初めは人数もまちまちでルールも単純でしたが、1839年の A. ダブルデーを経て、45年カートライト Alexander Cartwright により、ニューヨークに最初の野球チーム〈ニッカーボッカー野球協会〉が編成され、同時に15条からなる〈ニッカーボッカー規則〉が定められました。その規則のおもなものは、
(1)塁間は本塁から二塁、一塁から三塁までがそれぞれ42歩(正方形のフィールド)、
(2)21点を記録して勝負が決まる、
(3)投手は下から投げる、
(4)3人アウトで攻守交代、
(5)判定はすべて審判が行い、アピールは許されない
などで、この規則によって今日の野球への第一歩がふみ出されました。翌46年に〈ニューヨーク・クラブ〉というチームとの間で初のクラブ対抗戦が行われ、ニューヨーク・クラブが23対1で勝っています。このころは野球は上流社会のスポーツで、メンバーは銀行や保険会社の役員などに制限されていました。しかし、50年代に入ると、商人や店員など一般庶民が参加し、52年から55年の間にニューヨークとその周辺で7チームが誕生しました。こうして年々盛んになるにつれて、1853年には試合の結果が新聞に載り、56年にはゲーム内容を紹介する新聞も現れました。57年ニューヨーク地区の球団代表者たちは〈全国野球選手協会〉を設立し、以後ルールも、
(1)1試合を9イニングスとする(1857)、
(2)投手の投球に対してストライク、ボールを宣告する、
(3)ボール21で一塁を与える(以上、1863)
など細かく決められました。58年には入場料を取って見せる試合が初めて行われ、野球が職業、商売として成り立つきっかけを示ました。60年には西海岸のサンフランシスコにもチームができ、この年は62チームを数えました。

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2009年2月 4日 (水)

再び弓矢(くみこ)

 息子が前期に歴史クラブに入って弓矢を作ったという話を書きましたが、後期も歴史クラブで弓矢を作りました。本当は前期・後期と続けて同じクラブに入ることはできません。間をあけて学年が変わると同じクラブに入れるということになっています。ただし第2希望以下なら同じクラブに入れるそうです。そこで息子は別のクラブを第1希望、念のため歴史クラブを第2希望にしていました。そうしたら運よく(?)じゃんけんに負けて、第2希望の歴史クラブにまた入ることができたのでした!
 大体前期と同じような活動をしているようで、後期も弓矢を作らせてもらいました。前期に作った弓矢はツルの部分がすぐに切れて(昔風に麻ヒモを使うから弱い!)、ナイロン製のヒモなどをくくりつけましたが、どうもうまく弧がしならず、竹だけになっていたので、再び弓矢を持って帰って大喜び!さっそく写真を撮りました。「担任の先生に渡す卒業のメッセージ集に載せる写真にこれを使う」と言って今度は正面からの写真です。弓矢をひいて向かってくる写真をもらった先生は「私に恨みでもあるのかしら?」と思われるかもしれませんが、息子は一番気に入った写真だから載せたいようです。息子の歴史好きは先生もご存知なので、わかって下さるかしら?(^0^;
 ところでこの写真、ブログ用にはちょうどいいぐらいに顔が隠れてますが、よく考えたら先生へのメッセージ集に載せるには顔が隠れすぎでしょうか?ずっと覚えていてほしいから、やっぱりメッセージ集用のは撮り直そうかな!(^^ゞ

Yumiya21

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2009年2月 3日 (火)

節分(こーじ)

 2月3日は、節分です。それと、大岡越前の日です。
 「節分」ですね。それと「大岡越前の日」です。時代劇でおなじみの「大岡越前」こと大岡越前守忠相ですが、南町奉行在任中の裁判は3回だけで、時代劇のようにしょっちゅう裁判していたわけではなかったんだそうです。
 節分は、雑節の一つで、立春の前日。現行暦では2月3日もしくは4日にあたります。大晦日、1月6日、1月14日とともに年越しの日とされ、これらとの混交もみられますが、現在の節分行事はほぼ全国的に、いり豆をまく追儺(ついな)の行事と門口にヤキカガシ(ヤイカガシ)を掲げる風習を行う点で共通しています。社寺でも民間でも盛んに行われる豆まきの唱え言は土地によって各種ありますが、〈鬼は外、福は内〉というのが一般で、訪れる邪鬼をはらおうとするものと解されています。豆で身体を撫でて捨てる風もあり、これは災厄の祓と考えられます。ヤキカガシとは、焼いた鰯の頭など臭気の強いものを豆の枝や鋭い葉をもつ柊(ひいらぎ)にさして家々の入口に掲げるもので、鬼の目突き、鬼おどしなどと呼ばれ、これも邪霊防御の手段とされています。また豆占いや、ヤキカガシを焼くときの虫の口封じの唱え言もかつては広く行われていました。以上のように節分には追儺の考えが濃いのですが、別にこの夜に神霊の訪れを認めて、本来ヤキカガシ掲示はそのための物忌(ものいみ)をしているしるしで、豆は神への供え物とする解釈もあります。

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2009年2月 2日 (月)

ガイド(こーじ)

 2月2日は、国際航空業務再会の日、バスガールの日、頭痛の日です。
 今日は「バスガールの日」です。東京の乗合自動車に初めて「バスガール」が登場したのが。1920(大正9)年の今日でした。今では「バスガイド」という職業名でおなじみですね。後はp夫婦の日」。これは説明要りませんよね。語呂合わせです。
 ガイドは、旅行者が旅行先で不自由なく快適な旅行をし、その旅行先を正しく理解するために、旅行先の地理、歴史、文化、産業等について深い知識をもって案内、説明する人です。ガイドは観光ガイドと山岳ガイドに大別されます。観光ガイドには、まず日本を訪れた外国人を案内するガイドがおり、日本では通訳案内業者と呼ばれています。通訳案内業は、通訳案内業法により運輸大臣の行う試験に合格したうえで、都道府県知事の免許を受けた者のみが営業できます。1983年4月現在、免許取得者数は1890名です。免許取得者の団体である社団法人日本観光通訳協会は、新たに国家試験に合格した者を対象に毎年、研修会を開催し資質の向上に努めています。また観光ガイドは観光客と宿泊旅行を共にするクーリア・ガイド courier guide と、特定地域における観光案内を行うローカル・ガイドlocal guide に分かれます。日本人の海外旅行では現地のツアー・オペレーター tour operater(地上手配業者)から派遣されるローカル・ガイドを地域ごとに使用する場合が多いですね。このほか、観光バスの車掌として乗り込み、沿道の案内や名所・史跡などの説明をするバスガイドも観光ガイドとして大きな役割をはたしています。山岳ガイド alpineguide は外国ではアルプス、ヒマラヤ、ロッキー、アンデスなど、日本では信州、飛舞、立山などで、登山者の山案内人が専業化したものです。

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2009年2月 1日 (日)

中学校の説明会(くみこ)

 先日、息子が入学する予定のH二中で説明会がありました。今年で創立58年目だそうです。枚方の砲兵工廠の近くなので、最初は兵舎を校舎として使い始めたとか。兵舎時代に目立たないように建てたためか、ちょっとわかりにくい場所にあるようです。 最近は1学年が100人前後で3クラスというこじんまりした学校なのですが、今年は校区が少し変わったこともあり、150~160人ぐらいの入学が予定されているそうです。最低でも4クラスですね。影がうすい(^0^;うちの息子にとって、人数が少ないのも大きな魅力だったようですが、多いのでびっくり。それでも近隣の中学の半分程度ですけどね。
 校長先生をはじめ4人の先生方がいろいろなお話をして下さいましたが、とてもわかりやすく、感じのよい印象を受けました。うちの小学校からは行く人が少なく、今わかっているのは女の子数人だけです。男の子も多少は行くはずですが、今のところ情報が入って来ていません。(^0^;
 でもとってもうれしいことに、幼稚園の時のお友だちが結構いるようなのです。そう言えば香里幼稚園の近くの枚方市に住む方は大体二中に行くので、6年ぶりに再会できるお友だちがたくさんいそう!さっそく説明会で2人発見しました。1人はコナミのスイミングでも一時期一緒だったお友だちなので、息子もとても喜んでいました。幼稚園時代のお友だちを意識して決めたわけではないのですが、思わぬサプライズでうれしいです。
 うちの子供たちは、もくようルームから幼稚園に行く時も、幼稚園から小学校に行く時も、学年で1人だけ別のところへ飛び込んで来ました。だから今回も何も迷わず、同じ小学校からは行く人が少ない二中に決めていましたが、やはり知ってるお子さんがいると安心感があります。なんだか春に向けてワクワクしてきました。充実した中学校生活を送ってほしいものです。

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