2.26事件(こーじ)
2月26日は、脱出の日、2.26事件の日、咸臨丸の日です。
脱出の日は、1815年、エルバ島に流刑されていたナポレオンが島を脱出してパリに向かったのが由来です。
咸臨丸の日は、1860(万延元)年の今日、幕府が派遣した使節団が、咸臨丸による37日間の太平洋横断航海を終えてサンフランシスコに到着しました。
2.26事件は、1936年2月26日に起こった皇道派青年将校によるクーデタですね。満州事変開始前後から対英米協調・現状維持的勢力と、ワシントン体制の打破をめざし国家の改造ないし革新をはかる勢力との抗争が発展し、さらに後者の最大の担い手である陸軍内部に、国家改造にあたって官僚・財界とも提携しようとする幕僚層中心の統制派と、天皇に直結する〈昭和維新〉を遂行しようとする隊付青年将校中心の皇道派との対立が進行しました。1934年士官学校事件による皇道派の村中孝次(たかじ)・磯部浅一の免官、35年7月皇道派の総帥真崎甚三郎教育総監の罷免、8月相沢三郎中佐による統制派のリーダー永田鉄山軍務局長の暗殺などで、両派の対立は激化の一途をたどりました。皇道派青年将校は、拠点である第1師団の満州派遣が決定されると、現状維持派の政府・宮廷の要人および統制派の将領を打倒する〈昭和維新〉の決行につきすすんだのです。
36年2月26日早暁、皇道派青年将校は歩兵第1・第3連隊、近衛歩兵第3連隊など1473名の兵力を率い(ほかに民間人9名が参加)、おりからの降雪をついて、要人を官邸または私邸に襲撃しました。栗原安秀中尉の部隊は首相官邸で首相秘書の松尾伝蔵予備役陸軍大佐を殺害、これを岡田啓介首相と誤認しました(岡田は女中部屋の押入れに隠れ、翌日弔問客にまぎれて脱出しています)。坂井直(なおし)中尉の部隊は斎藤実内大臣と渡辺錠太郎教育総監を、中橋基明中尉の部隊は高橋是清蔵相をいずれも殺害し、安藤輝三大尉の部隊は鈴木貫太郎侍従長に重傷を負わせました。また野中四郎大尉の部隊は警視庁を、丹生誠忠(にゆうよしただ)中尉の部隊は陸相官邸付近をそれぞれ占拠し、襲撃を終えた他の部隊とともに鵬町区南西部の政治・軍事の中枢を制圧しました。さらに栗原らは反軍的とみなした東京朝日新聞社を襲って、活字ケースをひっくり返したそうです。このほか河野寿(こうのひさし)大尉らの別働隊が湯河原滞在の牧野伸顕元内大臣を襲撃しましたが失敗し、牧野は脱出しました。村中、磯部らは川島義之陸相に面会を強要し、国家改造の断行を迫りました。真崎、荒木貞夫大将、香椎浩平(かしいこうへい)東京警備司令官らは決起に同情的態度をとり、決起を容認するかのような文言の陸相告示が出され、クーデタ部隊は〈警備部隊〉に編入、さらに27日午前3時東京市を区域とする戒厳令の施行によって〈鵬町地区警備隊〉となり、兵站給養をうけました。しかし青年将校らは軍首脳部の〈善処〉をあてにして、蜂起後の計画を明確に立てていなくて形勢の逆転を許しました。天皇は重臣殺傷に激怒し、海軍も激しく反発、杉山元(はじめ)陸軍次官、石原莞爾(かんじ)作戦課長らの陸軍主流はカウンター・クーデタの方向に結集しました。27日〈占拠部隊〉撤収の奉勅命令が下され、28日〈反乱部隊〉武力鎮圧の命令の下達により、29日約2万4000の大軍が反乱軍を包囲し、戦闘態勢をとるとともに、ラジオ放送や飛行機のビラなどで帰順を勧告しました。青年将校らは奉勅命令に動揺し、目的をよく知らされないまま連れ出された下士官・兵士は〈兵に告ぐ〉の呼びかけをうけて続々と帰順、青年将校らは逮捕されました。また皇道派の理論的指導者北一輝および西田税(みつぎ)らも逮捕され、クーデタは失敗しました。
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