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2009年1月

2009年1月31日 (土)

愛妻家(こーじ)

 1月31日は、生命保険の日、愛妻家の日、晦日正月・晦日節です。
 生命保険の商品ができた日ではなくて、「受け取り人第一号」が現れた日だそうです。1月30日に亡くなられた方で、30円の保険料で1000円の保険料が降りたとか。
 古代における妻の他の時代と異なる大きな特徴は、夫とは別に自己の特有の財産を所有し、かつそれを自分の意志で自由に処分、運営できた点でした。女性による土地の売却や買集めを示す当時の文書がそのことを有力に物語っています。そして、このような自己の所有を基礎とする当時の妻の地位は夫と対等で、妻は夫と同等に農業経営にかかわり、みずからの意志で離婚でき、娘の婚姻の決定にも夫より強く関与していました。なお当時の婚姻はいまだ単婚以前の段階で、男にとって妻は必ずしも1人ではなかったのですが、これら複数の妻たちの間には妻妾の別が未成立でした。ただし五位以上の官人は嫡子決定の必要上、形式的に嫡妻を治部省に登録させられていました。対等であった妻の地位も10世紀初めころを境にまず支配層から低下していきます。
 《御成敗式目》の11条には、妻がその里方から相伝した所領について、次のような規定が見えています。その夫になんらかの罪科があって所領の没収を受けるとき、妻妾の所領も同様な扱いを受けるかどうかという問題について、もし夫の起こした犯罪が、〈謀反殺害山賊海賊夜討強盗等〉の重科であるときには、夫と同罪に扱われますが、夫の犯罪が軽罪のときには、妻の所領は没収されることはない、というものでした。とするならば、この規定から、妻の所領が夫からある程度独立した存在であったことが知られます。事実その当時、妻の所領は、その大半がその里方一族の惣領の統制下にあり、夫の支配からは一定程度自立した存在としてあったのです。このことは、妻の身柄そのものに関しても同様で、妻はつねに里方惣領の強い統制下にある存在でした。
 鎌倉時代は、後世に比べて夫に対する妻の立場が比較的強かったといわれていますが、これは、まったくこのように里方一族の権威、実力を背景としての事柄であったということのようです。こうしたことは、子どもに対する親としての教令権についても同じでした。つまり《御成敗式目》の18条が、〈男女の号異なりといえども、父母の恩惟(これ)同じ〉と記したように、当時においては、子どもに対して親権(教令権)を行使しうる立場にあったのは、父と母との両名でした。これは、きわめて平凡なことのように思えるかもしれませんが、中世後期から江戸時代になると、親権といえば父の権限のことに限られるようになるので、それと比較すると、鎌倉時代における上記の事実は、やはりこの時代の特色を示すものとして、はっきり確認されなければならないでしょう。これは、妻がその里方から伝領した所領を夫とは別に持っていた事実とともに、その所領を子どもに対して独自に処分しうる権限を持っていたことに基づいていたといわねばなりません。中世前期の女性の中に、たとえば北条政子のように、夫の没後、夫に代わる強い権限を行使する人物が存在していたことも、まったくこうした里方所領に対する権限によって裏づけられていたとみてよいようです。しかも、この時代は同母兄弟姉妹の結合力は想像以上に強力でしたから、妻が上記のような社会的活動を行ううえで、その里方の兄弟姉妹の強い援助のあったことにも、注意しておく必要があります。
 だが、こうした妻の自立的立場も、室町時代以降になると低下し始めます。それは、女子の所領相続権がこのころになるとしだいに廃され、その結果、妻がその子どもたちに所領を処分するという物質的権威を背景に、〈母〉として臨む資格を喪失していったからにほかなりませんでした。こうして、戦国時代に作成された《世鏡抄》が記したように、妻は夫の子ども(後継者)を生むための道具としてしか観念されなくなっていくわけです。

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2009年1月30日 (金)

3分10円(こーじ)

 1月30日は、3分間電話の日です。
 1970年に、市内電話の通話料金が3分間10円になったことを記念しているんですが、逆に言うと、30年近く市内通話はそのままの料金だったということですね。10円で話し放題でした。
 一般に通信料金は、接続距離、通信時間、通信速度(周波数帯域幅)、サービス内容などにより定められますが、その料金を定める制度を料金制度といいます。また、この料金制度に基づいて、接続距離や通信時間などの諸量を計測して料金集計を行う方法を課金方式といいます。
 現在、日本では、電話料金算定の基礎となる接続距離は次のようにように定められています。まず加入者が収容されているいくつかの端局をまとめたある適当な大きさの区域を考えます。その区域内の中心となる局をこの区域内各端局の起点として代表させ、この起点相互間の直線距離を異なる区域間に発着する端局間の接続距離とみなすのです。この距離算定の単位となる区域を単位料金区域と呼び、同じ区域内の接続にはすべて同一料金が課せられます。このように単位料金区域を定めて料金算定を行う方法を料金帯域制といいます。現在、単位料金区域は集中局区域と原則的に一致させています。
 通話時間の算定法には大別すると3通りの方式があります。第1は単位時間法と呼ばれる方法で、これは一定時間(例えば3分)ごとに接続距離に応じた通話料金を課していく方式です。第2は距離別時間差法と呼ばれる方法で、これは接続距離に応じて単位料金で通話できる時間を変える方式です。例えば遠距離になればなるほど単位料金の登算周期を早めていきます。この方式は接続距離区分を細分して料金種別が多くなっても登算パルスの周期を変えるだけで課金できるので装置が簡単になり、しかも端数時間に基づく料金誤差もたかだか1単位料金ですむのが特徴です。第3は詳細記録法です。上記の2方式では料金の総額が累積加算されるだけで、その内訳は記録できません。これに対して詳細記録法では各通話ごとに通話相手の電話番号、通話開始時刻、終了時刻、日付などを記録しておき、あとでコンピューターを使って一括して分類集計する方式です。この方式は個々の通話記録が残り、料金請求書も自動的に作成できる利点がありますが、装置はやや複雑高価になります。
 現在、アメリカでは電話料金の課金に詳細記録法を採用していますが、日本をはじめとし、ヨーロッパ諸国でも装置の簡単な距離別時間差法を採用している国が多いですね。しかし、将来通信網が高度化し、通信サービスが多様化して料金種別が複雑化した場合には、その内訳や記録の必要性は高まってくるものと考えられていて、いずれ日本においても料金の詳細記録は不可欠のものになっていくでしょう。

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2009年1月29日 (木)

一生に1度のカニ三昧(くみこ)

 先日、親戚に招待されてカニをたらふく食べました!ずわいガニとたらばガニです。写真があればいいのですが、うっかり忘れていました~。見とれてしまったと言うべきか・・・。
 お鍋をしてもらったのですが、野菜やつみれに加えてカニの足がわんさか入って、カニカニしていました。(と、私は感じました)
 ずわいガニはうわさの通り、甘みがあってまさに絶品の味でした。たらばガニもおいしかったけれど、私はずわいガニの方がしっとりした食感で好きです。でもたらばガニの大きさには圧倒されました。私はクモが大の苦手なので、カニ系もちょっとこわいのです。足が4対以上あるものはみんなこわいので、丸ごとゆでたタコも苦手。(生のグニャグニャと足3本ぐらいに切り分けたゆでダコは平気です)今回のたらばガニはゆでたものを買って来てもらったので、足がたたんであり、何とか大丈夫でした!
 ずわいガニはまだ生きており、つつくとじわ~っと動くぐらいだったので、お鍋に入れたほか、お刺身として生でも食べてみました。(私はカニに慣れていないし、得意なカタチでもないので、殻に切り目を入れたりするお手伝いもせずに待っていただけです・・・)味はとてもおいしかったのですが、殻から身がはずれにくく、食べにくかったです。(^0^;ゆでた方がすっと身が取り出せるので、やはりカニはお鍋に入れたり、蒸すのがおすすめですね。
 カニをこんなに堪能するなどということは最初で最後だろうと思い、ブログのネタにさせて頂きました。普段からカニを食べ慣れてる方には笑われそうな記事になってしまいましたが、お許しを・・・。m(_ _)m

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2009年1月28日 (水)

著作権条約(こーじ)

 1月28日は、コピーライターの日です。
 コピーライターというと、広告なんかの「コピー」を創造しますが、この記念日は1956年に万国著作権条約が公布されたことから来ています。著作権のことをコピーライトといいますからね。
 万国著作権条約は、アメリカが中心となり、1952年に成立した著作権保護に関する国際条約です。所管はユネスコでやっています。この条約は、著作権の発生について登録や著作権表示など、その保護に一定の方式を要求する国(これらの方式を要求するため標準的な著作権条約であるベルヌ条約に入れません。当時のアメリカや米州諸国など)と著作権を無方式で保護するベルヌ条約加盟国とを結ぶ架橋的条約です。1899年にベルヌ条約に加入していた日本は、1956年この万国著作権条約に加入しました。95年3月末現在、95ヵ国が本条約に加入しています。万国著作権条約とベルヌ条約の双方に加入している国の国民の著作物は、ベルヌ条約のみで保護することになっています(万国著作権条約17条)。したがって、イギリス、ドイツ、フランスなどベルヌ条約加盟国76ヵ国を差し引くと、日本は19ヵ国と、万国著作権条約によって著作物を相互に保護しあっています。
 この条約では、締約国の国民の著作物には自国民のそれと同一の保護を与えるという内国民待遇の原則、著作物の複製物にcopyright の頭文字の記号と著作権者名と最初の発行年の3者を一体として表示すれば無方式主義をとる締約国の国民の著作物でも方式主義の国で保護を受けること、翻訳権に関する特例などを規定しています。さらに保護期間は著作者の生存間と死後25年(ベルヌ条約より短い)としています。新規にある国がこの条約に加入した場合、その発効時から創作された締約国の国民の著作物について保護義務を負い、発効前に創作され、保護義務を負う国において期間満了になった著作物や保護を受けたことのない著作物については適用しないという不統及の原則(ベルヌ条約は統及原則)をとっています。
 万国著作権条約は1971年パリで改正されました。これはベルヌ条約改正と同時に改正され、ともに発展途上国に対して著作権保護を緩和する条項を設け、より多くの国を加入させようとした措置でした。
 なお、WTO(World Trade Organization)協定という世界貿易機関を設立する協定が95年1月1日発効しましたが、この協定の付属書の一つの TRIPS 協定(知的所有権の貿易関連の側面に関する協定)において、著作権、特許、商標等の知的所有権の国際的保護について規範とともにそれを担保する執行についても規定しています。著作権については、コンピューター・プログラム、データベースの保護、貸与権についても規定し、ベルヌ条約、万国著作権条約とともに著作権に関する国際条約として重要です。95年3月現在、87ヵ国が WTO 協定を締結しています。

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2009年1月27日 (火)

国旗(こーじ)

 1月27日は、国旗制定記念日、求婚の日、ハワイ移民出発の日です。
 今日は『国旗制定記念日』になっていますね。最初に日の丸のデザインを明文化したのは、法律ではなく明治3年の「商船規則」でした。船の国籍が分かるように使う旗を決めていたんですね。その後、1999年8月から施行された「国旗国家法」で、「縦横の比率は2:3、日の丸の直径は縦の長さの5分の3、日の松は旗の中心の位置」というように改めて決められたようです。
 各国の国旗の由来は次のようなものだそうです。
 イギリスの国旗はユニオン・ジャック Union Jack ですね。ジャックとは、船首の旗ざお(ジャック・スタッフ jack staff)に掲げられ、国籍を示す小旗すなわち船首旗のことです。ユニオン・ジャックは、イングランド、スコットランド、およびアイルランドの守護の聖人の旗を組み合わせてできたものでイギリスの歴史を反映しています。まず、イングランドでは、白地に赤十字の旗が用いられ、聖ジョージ十字旗とよばれていました。聖ジョージはエドワード3世のころにイングランドの守護聖人となった人です。一方スコットランドでは、青地に白の X 形十字旗が用いられ、聖アンドルー(聖アンデレ)十字旗とよばれていました。聖アンドルーは十二使徒の一人で、8世紀以来スコットランドの守護聖人です。1603年イングランド女王エリザベス1世が死んだのち、スコットランド王ジェームズ6世がイングランド王を兼ねてジェームズ1世を称しました。これがスチュアート朝の開祖です。そして1606年に両国の旗を組み合わせて、最初のユニオン・フラッグができました。下って1800年に、アイルランド合同法が議会を通過、翌年〈グレート・ブリテン・アンド・アイルランド連合王国〉が成立すると、ユニオン・フラッグには、さらにアイルランドの旗である白地に赤の X 形十字が加えられ、現在のユニオン・ジャックができました。アイルランドの旗は5世紀前半に30年間にわたってアイルランドにキリスト教を布教し、のち、この地の守護聖人となった聖パトリックの十字旗とよばれていました。なおレッド・エンサイン red ensign とよばれる、赤地でカントンにユニオン・ジャックをもつ旗があり、これは1674年に商船旗として制定された旗に由来しています。また、オーストラリア、ニュージーランドなどイギリス連邦に属する国では、ユニオン・ジャックをカントンにもつ国旗を用い、イギリスの植民地では、レッド・エンサインに各自の紋章を入れた旗を使っています。
 フランスの三色旗はトリコロール Tricoloreとよばれます。この有名な旗は、1789年に始まるフランス革命の間に作られました。バスティーユが襲われて陥落した翌日の7月15日、国民軍司令官にラ・ファイエットが任命されました。彼は、パリ市の色である赤と青の間に、ブルボン家の色である白をはさんだ3色を、国民軍の帽章に採用しました。当時としては、国王と人民の結びつきを表すこの配色が、むしろ歓迎されたのです。この3色が、90年10月24日の法律によって、まず海軍旗に採用されます。すなわち、新海軍旗は白地とし、カントンの部分にこの3色の縦縞のデザインが用いられたのです。もっとも、このときは旗ざおから、赤白青の順の配色でした。このカントン部分が独立して、配色も青白赤の順となり、現在の形の三色旗が国旗として誕生したのは94年のことでした。その後1814‐30年の王政復古時代には使用が中断されましたが、30年の七月革命でルイ・フィリップが即位してから国旗として復活し、現在まで続いています。なお3色の起源については、オランダの3色旗の影響があったとも、また青はフランク王クロービス1世の用いた、聖マルタンのマントの色にちなむ幟に由来し、赤は12世紀ころからフランス王家で用いた〈オリフランム Oriflamme〉に由来し、白はジャンヌ・ダルクの旗に由来するともいわれています。後者の説は国連発行の《国旗図鑑》でも述べられています。なお、オリフランムというのは、サン・ドニ修道院に保管されている赤色旗で、出陣に際してフランス王はこれを修道院長から授かったものです。フランス革命の象徴となったこの三色旗は、全世界に深い影響を与え、多くの国々で三色旗を模範にして国旗が作られました。ベルギー、イタリアなどはその好例でしょう。
 星条旗 Stars and Stripes とよばれるアメリカ国旗は、アメリカ独立革命中に作られた大陸旗または大陸会議旗とよばれる旗に由来します。大陸旗は、1776年1月1日ボストンを包囲中の陸軍の前線に初めて掲げられましたが、これは13植民地を表す赤白13本のすじと、カントンにイギリスのユニオン・フラッグを入れたものでした。大陸旗は独立宣言(1776年7月4日)後も使われましたが、ほぼ1年のちの77年6月14日に新しい国旗が考案されました。これは、大陸旗のカントンの部分を変更して青地に13個の白星を(ふつうは環状に)置いたもので、独立十三州の団結とイギリスからの分離を表したのです。ただし当時はなんの規則もなかったので、13星の配置にもいろいろの変形があったそうです。この6月14日は現在〈旗の日 Flag Day〉として祝日となっています。星条旗はやがて、バーモントとケンタッキーの州昇格によって、15星15条に変えられましたが、1818年に至りさらに5州が増加したため、議会は、赤白13条を不変のものとし、星の数は州の増加に伴って増すことを定め、新たな星を加える期日は、新州が承認された次の年の独立記念日(7月4日)としました。こうして星条旗はアメリカの歴史とともに星の数を加え、現在は50星の旗が用いられています。
 赤旗については、旧ソビエト連邦をはじめ、中華人民共和国、ベトナムなどの社会主義国では、赤旗を国旗の基調としていることが多いですね。そして赤は革命の象徴であるといわれますが、その起源を探ってみると、元来の赤旗は反対の性質のものでした。1789年バスティーユ襲撃ののち、議会はパリ市内の暴動に備えて戒厳令をしいたのですが、この戒厳令のしるしが赤旗でした。91年7月17日、ラ・ファイエットの軍隊はシャン・ド・マルスに集まった市民を虐殺しました。これに怒った民衆は、翌92年に〈王家の反乱に対する人民の戒厳令〉と書いた赤旗を立て、人民こそ主権者である、と叫んだそうです。以後、赤旗は人民の掲げるしるしとして各国で用いられるようになったとされています。
 その他については以下の通りです。
(1)中央アメリカ連邦の旗 グアテマラ、ホンジュラス、エルサルバドル、ニカラグア、コスタリカのいわゆる中米5ヵ国の国旗には共通の配色がみられます。これらの国は、1821年にスペインの支配から脱して独立し、23年に中央アメリカ連邦を結成しました。連邦は38年に解体し、5ヵ国はそれぞれ独立の共和国となったのですが、これらの国の国旗には、中央アメリカ連邦旗(青白青の横3色旗)の明るい青と白の色がとり入れられています。またグアテマラ、エルサルバドルの紋章には〈1821年9月15日〉と独立の日付がみえ、エルサルバドルとニカラグアの紋章には、解放のしるしである〈自由の帽子〉がみえます。これは昔、解放奴隷に与えた柔らかい三角頭巾だといわれています。
(2)グラン・コロンビア共和国の旗については、南アメリカ北部のコロンビア、ベネズエラ、エクアドルの3国はいずれも黄青赤の横3色旗を基本にしています。これは、これらの国が、パナマも含めて1820年代の初頭から30年まで、グラン・コロンビア共和国を形成していたことに由来しています。グラン・コロンビア共和国旗は、独立のためスペインと戦ったフランシスコ・デ・ミランダ将軍の考案したもので、黄青赤の横3色旗でした。
(3)イスラムのしるし――三日月、星、緑 マレーシア、パキスタン、トルコ、コモロ、チュニジア、アルジェリア、モーリタニアなどの国旗は、いずれも三日月と星を採用し、また緑を使う例が多いですね。これらの国は、いずれもイスラムを信奉するので、そのしるしである三日月(新月)と星を用い、さらに聖なる色の緑を配しています。
(4)アラブ色というのは、スーダン、イラク、シリア、クウェート、ヨルダン、アラブ首長国連邦の国旗はすべて赤白黒緑の4色からなっているのを指します。この4色はアラブ色とよばれ、アラブ民族国家を通じての国旗の特色となっています。さらに色彩の意味も、ほぼ、緑はイスラム、白は平和、赤は革命・独立のための流血などを表しています。
(5)アフリカ色は独立に伴って新しく国旗が制定されたのですが、赤黄緑の3色を組み合わせたものが最も多いそうです。ガーナ、セネガル、ギニア、マリ、カメルーン、ルワンダ、トーゴなどがこれです。そして、赤黄緑の横3色旗は、アフリカで最も古い歴史を誇るエチオピアの国旗を模範にして作られ、縦3色旗はフランスの三色旗から影響を受けたと思われます。さらに、フランスやベルギーから独立した国々の国旗は、すべて憲法によって規定されていて、国民の団結を図ろうとする新興国の積極的意欲がうかがわれます。

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2009年1月26日 (月)

早口言葉(くみこ)

 息子が6年生の後期は放送委員会に入っています。前期だと運動会の放送を担当したりします。5年生の時は息子も運動会でアナウンスをしたりしましたが、今年は後期に入ったので、給食時間に音楽をかけたりする仕事が主になっているようです。
 一応放送を担当するということで、委員会の時間に早口言葉を練習することがあるそうです。アナウンサーのための早口言葉初級編・中級編・上級編といろいろ書いてあり、面白かったのでご紹介しますね。練習編というのもあり、これはよく耳にする早口言葉の数々が並んでいました。
 今日は初級編です。以下の言葉を5回連続で言わないといけないそうです。
・暖かく
・パン壁
・滑舌訓練
・旅行業界
・老若男女
・土砂災害
・骨粗しょう症
・火星探査車
・詳細を調査中
・取りざたされる
・寮の入浴料
・除雪車除雪作業中
・国語熟語述語主語
・魔術師魔術修行中
・お綾や、八百屋におあやまり
 後半は結構言いにくいですね。しかし「パン壁」って何なんでしょう?訓練だから何でもいいのでしょうが、実際にこんな原稿を読むことはなさそうですが・・・。いつぞやの「ベラ顔はベツ腹」もなかなかいい訓練になるけど、実際にしゃべることはなさそう!そう言えば「八百屋におあやまり」だってあまりなさそうですね。練習だから別にいいんですよね!
 そのうち中級編・上級編もご紹介しますね。(^0^)

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2009年1月25日 (日)

菅原道真(こーじ)

 1月25日は、日本最低気温の日、中華まんの日、ホットケーキの日、左遷の日、お詫びの日です。
 「日本最低気温の日」です。1902年に旭川でマイナス41℃を記録しました。そこで、寒い日には中華まんやホットケーキを食べて暖まってもらおうということで、この日が記念日に制定されました。。ちなみにこの1902年というのは、2日前の「八甲田山の日」で兵士210名が遭難したのと同じ日です。それだけ寒かったということですね。
 ホットケーキは、パンケーキ pancake、グリドルケーキ griddlecake などとも呼ばれます。小麦粉にベーキングパウダー、卵、砂糖、牛乳などを加えた生地を、鉄板で平たく焼いたケーキですね。熱いうちにバターなどを添え、メープルシロップ(シロップ)やはちみつをかけて食べます。欧米にはこのほか、薄く焼いてジャムやクリームを挟んだり、甘みを加えずに朝食に用いたり、さまざまな種類のものがあります。
 左遷の日は、901(延喜元)年の今日、右大臣・菅原道真が醍醐天皇によって九州の大宰府に左遷されたのが由来です。彼の才能を妬む左大臣・藤原時平は、道真を罪に陥れてやろうと策略し「道真は国家の政治を私物化している」と醍醐天皇に何度も讒言しました。これにより、天皇も道真のことを逆臣と思いこむようになり、901年1月20日に菅原道真を太宰権帥に左遷、筑紫国に流罪とすることとしました。
 長年住み慣れた自宅の庭に植えられていた梅が咲いているのを見て東風吹かば匂ひ送来せよ梅の花 主無しとて春を忘るなと詠み、この日、都を旅立ちました。その梅は菅原邸から太宰府の庭まで飛んで行ってそこに根づいたという「太宰府の飛梅」の伝説があります。菅原道真は無念の思いを抱きながら、2年後の903(延喜3)年2月25日に亡くなりました。
 彼の死後、道真のたたりと称する異変が相次いで起こり、923年(延長1)罪を取り消して本官に復し、のち993年(正暦4)には正一位太政大臣を贈られました。その前から民間ではほこらを北野にたて、天満天神としてまつっていて、以後、道真は文道の神として異例の尊崇を受けてきています。彼は勅命により892年《類聚国史》を撰し、また《三代実録》の編さんにもあずかりました。ほかに《新撰万葉集》、また詩文集の《菅家文草》12巻があり、左遷後の作品を集めた《菅家後集》もあります。
 道真の亡霊は御霊(ごりよう)(御霊信仰)となってたたりをすると信じられました。《将門記(しようもんき)》(940)によれば、平将門の乱の際に、八幡大菩醍が将門を新皇にするとの託宣をくだしましたが、この八幡の神意をとりついだのが道真の霊だとされています。道真の霊は雷神となって猛威をふるい、その伝承を集成した《北野天神縁起》には、930年清涼殿に落雷して廷臣を殺傷し、醍醐天皇も地獄におちたと伝えています。荒ぶる神としての道真像は、やがて利生(りしよう)の神としての天神像へと変化します。道真は観音の化身と見られ、慈悲・正直の神と信じられ、さらに〈王城鎮護〉の神として仰がれるようにさえなりました。また道真がすぐれた学者であったことから、平安時代以来、学問・詩文の神とされ、室町時代に禅僧の間では、遣唐使廃止を建議した道真は、天満天神となって皮肉にも渡唐し、径山(きんざん)の無準(ぶしゆん)のもとに参禅したと考えられています。江戸時代には寺子屋で天神をまつり、書道の神として敬いました。《菅原伝授手習鑑(すがわらでんじゆてならいかがみ)》寺子屋の段からは、そういう事情をうかがうことができます。明治以後、学校教育を中心にして、配所にあって〈恩賜の御衣〉を毎日捧持する道真の姿が、君恩を忘れぬ〈忠臣〉として称賛されました。そこには国家をゆるがす荒ぶる神の面影は、ほとんど見られません。

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2009年1月24日 (土)

ゴールドラッシュ(こーじ)

 1月24日は、ゴールドラッシュの日、ボーイスカウト創立記念日、法律扶助の日、郵便制度施行記念日、初地蔵です。
 1848(嘉永元)年のこの日、アメリカ・カリフォルニアで農業王国の建設を夢見ていたスイス系移民ジェームズ・マーシャルが、川底に砂金を発見しました。人々が殺到するのを恐れてしばらく秘密にしていましたが、やがて一攫千金をねらう大勢の人がカリフォルニアに押しかけました。これが、ゴールドラッシュです。
[北アメリカ]  1848年、カリフォルニアのアメリカン川沿岸地帯での砂金発見以降70年代にかけて、アメリカ西部各地で金鉱が発見され、そのたびごとにゴールドラッシュが生じました。カリフォルニアの場合、金発見のニュースを知って1年間に殺到した人々〈フォーティ・ナイナーズ〉約10万人のうち、約5万人がシエラ・ネバダ山脈のマザーロード地方を中心として採金に従事しました。ブームの去った後にもカリフォルニアに残って商人、農民になった人も多く、都市の発達を促進し、カリフォルニアの州としての成長に貢献しました。このような例は金鉱が発見されるたびにネバダ、コロラド、ワシントン、アイダホ、モンタナ、ダコタなどの西部各地でも発生しました。ゴールドラッシュを中心とする人口の移動、集中は、従来の西漸運動が東から西へ向かったのと異なり、西から東へとフロンティアを推進する形をとり、鉄道の発達を促すとともに荒野を新しい準州、州へと成長させました。
 他方、アラスカでは、1880年代に金が発見され、19世紀末から20世紀初めにかけてノーム、フェアバンクスを中心にゴールドラッシュが起こり、アラスカ発展の基礎となりましたが、カナダとの境界を定めた1903年の条約締結も金鉱地帯の所有をめぐる対立の結果といえます。カナダではアラスカに接するユーコン・テリトリーのクロンダイク地方のゴールドラッシュ(1896)以前に、1857‐58年にかけてブリティッシュ・コロンビアのフレーザー川流域でゴールドラッシュが始まっていて、カナダの西辺の地域を台頭させる原因となりました。
[ブラジル]  1693年ミナス地方で金が発見されると、植民地各地とポルトガルから多くの人が殺到し、ポルトガル王室は沿岸部の荒廃を憂慮し、移動を制限しようとしました。ミナス地方では、オウロ・プレト、ピタングイなど多くの金鉱集落が開発されたので、外港リオ・デ・ジャネイロに通ずる〈新道〉が1705年に開通し、リオ・デ・ジャネイロが後に植民地の中心都市となる契機となりました。08年には、利権をめぐる騒乱(エンボアバスの戦)が起きました。1690‐1770年の期間にブラジルは、世界の産金量の半分を産出しました。
[オーストラリア]  オーストラリアではすでに1823年に金が発見されていましたが、流刑囚の反乱を恐れた為政者が発表を抑えていました。しかし40年代に流刑囚受入れがほぼ終了し、48年のカリフォルニア・ゴールドラッシュに刺激されて、ただでさえ少ない人口の流出を食い止めるために逆に金発見奨励策に転じました。51年にカリフォルニア帰りのハーグレーブズ Edward Hammond Hargraves(1816‐91)がシドニー西北西約260kmの地点で金を発見すると、それによる人口流出で市の機能が停止しかけたメルボルンは同市周辺の金鉱発見に賞金を出し、その結果、同じ年のうちにバララトをはじめとする当時世界最大の産金地帯が発見されました。国家としての基礎ができていたアメリカに比べると、まだ植民地の集合体にすぎなかったオーストラリアにとって、ゴールドラッシュは政治・経済面に広範かつ深刻な影響を与えました。1851年に40余万だった人口は10年後に120万弱に達し、第1次・2次産業、港湾、道路、鉄道などが発達しました。社会問題のうち最大のものは、金鉱夫の反乱(ユリーカ砦の反乱)と中国人鉱夫に対する暴動ですが、ここにも大牧場主(スクオッター)支配体制への反抗と、その一方で反抗者たち自身白豪主義的病理に冒されていた矛盾が露呈されました。なお、産金量のピークは1903年で、以後は下降線をたどりました。

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2009年1月23日 (金)

二中わくわくフェスタで作った湯のみ(くみこ)

 去年の10月18日にH二中でわくわくフェスタというイベントがありました。二中は4月から息子が行くことになっている中学です。
 そのわくわくフェスタで陶芸教室というのがあり、500円で作品を作らせてもらえるというので娘が参加しました。去年の記事に書きましたが、娘は湯のみを作りました。1ヶ月ぐらいでできるということでしたが、結局3ヶ月かかり、今月になってやっと受け取ることができました。ところが何かの手違いで、頼んだ色と違うものが出来上がってきて娘はがっかり・・・。「お父さんにプレゼントする!」と父親の好きな緑色でお願いしたのですが、出来てきたのは黄色(ベージュ?)でした。ピンクもあったので、どうせなら自分の好きな色にすればよかったのですが、わざわざ頼んだ緑色が来なかったのでちょっと残念に思います。
 最初は1ヶ月と聞いていたのが、「1~2ヶ月と言ったと思うので・・・」となり、結局3ヶ月かかったので、私も「大丈夫かなあ?」と心配になっていましたが、案の定でした。あまり日が経つとやっぱりこういうことがありますよね。(^0^;窯の故障などアクシデントもあったようですし・・・。でも、もともと儲けなしのボランティアでやって頂いていることだから仕方ありません。娘にとってよい経験になればいいなと思います。

Yunomi2

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2009年1月22日 (木)

カレーの日再び(こーじ)

 1月22日は、カレーの日、飛行船の日、ジャズの日です。
 「カレーの日」に「飛行船の日」です。
 カレーの日は、全国栄養士協議会というところで、なぜか1月22日の給食を全国的にカレーにしよう、というふうに決められ、小中学校でいっせいに給食がカレーになったことを記念しています。
 もうひとつの飛行船の日は、1916年に国産飛行船「雄飛号」が、実験飛行を行ったことから来ています。「国産」だからでもありますが、飛行船のほうが飛行機で飛んだ「日本初飛行の日」より遅いようです。
 カレーは、インドを中心として、中近東から東南アジア、さらに今日では広く世界各国で使用されている混合香辛料、またはその混合香辛料で味付けした料理のことですね。カリーと呼ぶことも多いようです。南インドのタミル語やカンナダ語で〈スープの具〉を意味するカリが、料理の名前としてポルトガル語経由で英語に入り、やがて世界中に広まったとされています。インドでは何にでもこの混合香辛料を加えて味付けをしますが、暑く湿気の多い地方では、食欲を増進し、消化を助け、殺菌効果をもち、発汗作用を高めるなど、実に自然の摂理にかなった調味料といえます。
 成分としては、黄色い色を出すサフランやターメリック(うこん)、刺激性の芳香を得るクミン、フェンネル(ういきょう)、コリアンダー(こえんどろ)、クローブ(丁子)、シナモン(肉桂)、カルダモン(しょうずく)、ナツメグ(にくずく)、辛みを出すペッパー(こしょう)、チリ(とうがらし)、マスタード(粒からし)、ジンジャー(しょうが)などのほか、さまざまな木や草の実、根、葉、樹液、香草の類を加えた100余種にものぼる香辛料の中から、料理に合わせたブレンドがなされるので、必ずしも決まった配合と配合率があるわけではありません。各家庭には石臼やカレーストーンと呼ばれる石板と石棒のセットがあって、これで調合した香辛料をごろごろすりつぶしてペースト状にして使うのですが、最近では既製品のカレー粉が、本場インドでも多く使われるようになってきました。それでも、ブレンドの仕方は地方によって微妙に異なって、各地の味、各民族の味をかもし出しているそうです。
 日本へは明治の初期に入って以来、急速に人気を得、米飯と組み合わせた独特のライスカレー(カレーライスともいう。英語では curry (and) riceまたは curried rice)として、ハイカラな一品料理の代表となりました。夏目漱石の《三四郎》にも1皿60銭で登場しますが、最近の調査では、最もひんぱんに作られる家庭料理の筆頭になりました。インドで出される甘酢っぱいチャツネ(果実などの香辛料煮)のかわりに福神漬やラッキョウをつけ合わせて、みごとに日本の味になっているといえます。カレー粉の消費量も、本場インドについで、世界第2位といわれています。西洋料理にも大幅にとり入れられて、ピラフやグラタン、サラダ、スープ、あるいは魚肉料理の風味付けにと、世界各国で広く日常的に使われています。

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2009年1月21日 (水)

料理(こーじ)

 1月21日は、料理番組の日です。
 料理番組の日は、1937(昭和12)年の今日、イギリスのBBCテレビで、料理番組の元祖と言われる番組『夕べの料理』の放送が開始されたのが由来です。第1回目は「オムレツの作り方」で、この日の担当のマルセル・ブールスタンは、世界で初めてテレビに出演した料理人となりました。また、1963(昭和38)年の同じ日に、日本テレビで「3分クッキング」がスタートしました。
 フランス料理がヨーロッパ中を席巻して久しく、おおむねどの国においても、大所帯の調理場では、19世紀末ころ大料理長オーギュスト・エスコフィエ(1846‐1935)によって確立された組織に準拠して、次のような職分を受け持ちます。肉料理全般とそのソースはソーシエ saucier、魚料理全般とそのソースはポアソニエ poissonnierの担当ですが、肉・魚・家禽(かきん)・野鳥獣などのローストやグリル、揚物はロティスールが担当します。また野菜料理、ポタージュや卵料理はアントルメティエ entremレtier、材料の購入・保管・仕込み、冷たいオードブルはガルド=マンジェ garde‐manger、菓子・デザートはパティシエ(場合によってはこれは料理人の中には数えないこともあります)で分担します。
 古代(ギリシア・ローマ)の初期には、客をもてなすのに主人がみずから牛をほふって焼いていて、職業人としての料理人の姿は認められません。社会・制度の安定に伴い、ギリシアでは自由民の身分で、ローマでは奴隷の身分で、職分を分担する料理人の存在が見られます。中世の社会情勢が不安定な時期には、料理の技術は修道院の中で守られたとされていますが、中世以降の西ヨーロッパの料理人には並行して二つの系譜が見られるようです。一つは王侯貴族(後にはブルジョアも含める)に仕えるものであり、いま一つは街中の不特定多数の顧客を対象とする料理人です。前者で後世に名を残した最初の人は14世紀にフランス王に仕えたタイユバン(1312?‐95)で、この系譜の料理人は18世紀の貴族社会、19世紀の帝政時代にその全盛期を迎えています。後者は、13世紀ころから各種の団体(組合)のあったことが認められている食品加工業者に始まり、わが国でいう仕出し業的なトレトゥールを経て、フランス革命を契機として盛んになったとされるレストランの隆盛に伴い、その職業を確かな存在とし、現在では料理業界の中心となっています。

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2009年1月20日 (火)

参観と書写展(くみこ)

 先日小学校で参観がありました。毎年この時期は校内書写展があって、父兄も体育館(例年は土日のみ)に見に行くことができるのですが、今年はそれに加えて金曜日に参観もあったのです。枚方市教育週間事業の一環なのだそうです。今回は低学年が5時間目・高学年が6時間目と分けてあり、ゆっくり参観できてありがたかったです。
 まず2年生の娘は国語で、「どこで」「だれが(何が)」「何を」「どうした」という文作りでした。文節ごとに各班が考えて発表してつなげるというもので(1班が「どこで」2班が「だれが」というやり方)、なかなか面白かったです。前もって先生から「残酷なことやひどいことはやめとこうな」と注意があり、1つ目の文は「ひげの中で いん石が よだれを おる」というもの。残酷ではないけれど、意味不明!2つ目の文は「ゾンビの世界で ひいじいちゃんが 体を あらった」となり、意味不明ながらもうまくつながっており、思わず父兄から拍手が起こりました!
 この後、主語述語を探したり、短文を作ったりしていましたが、女の子が作った例文は「夜空がきれいです」とか「アイスを食べる」とか「空がまぶしい」とかやっぱり女の子らしかったです。男の子は「ボールがはれつする」など男の子らしいもの。笑ったのは「頭が光る」という例文で、別の男の子が「それは放送禁止やで~」と突っ込んでいました。(^0^)/
 次に行った6年生の息子の授業も国語で、100年前の新聞記事で100年後の予測をしていたという話でした。新幹線や国際電話など挙げられた23項目のうち18も実現しているとのことで、興味深かったです。「自分たちも100年後の予測をしよう」と考えて発表していましたが、「月や火星に住む」など発展的な答え以外に「地球が滅亡している」とか悲観的な答えも出ました。いろいろな考えがあるものですね。(^0^;
 順番に本を読む時に「予測」を「よそう」と読み間違える子が多く(意味が同じようだからついうっかり発音してしまうみたいです)先生に直されていましたが、何人か直された後にうちの息子がまた間違えたので、「ちゃんと聞いとかんかい!」と後ろから叫びたくなりました。(+-_-;
 6年生のお隣のクラスも国語だったそうですが、こちらは俳句でした。‘お母さん’を題材に児童が作った作品は「お母さん 年をとったら シワだらけ」「お母さん 5年経ったら ニューハーフ」などなど強烈なものが飛び出したそうです。教えてくれたお母さんは「俳句じゃなくて川柳じゃないの!」とあきれていました。私は出産が遅く年女だし「お母さん うちの場合は おばあさん」と詠まれそう・・・。(^0^;うちのクラスは俳句じゃなくてよかった!(^0^)/
 さて書写展ですが、娘は普通に書いていましたが(硬筆)、息子の毛筆は過去最高にひどかったです!冬休みに書いていたものはまあまあでしたが、学校で清書したものは同じ人間が書いたとは思えないデキで、悲しかったです。今年が最後だったのに・・・。必要な時にもっと真剣に集中して力を出してほしいものです。

2009

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2009年1月19日 (月)

119番(こーじ)

 1月19日は、のど自慢の日・カラオケの日、家庭消火器点検の日です。
 のど自慢の日は、1946(昭和21)年のこの日、NHKラジオで「のど自慢素人音楽会」が開始され、それを記念してNHKが制定しました。第1回の応募者は900人で予選通過者は30人、実に競争率30倍の超難関でした。今でも12倍を超える人気長寿番組です。
 家庭消火器点検の日は、全国消防機器販売業協会が1991(平成3)年に制定しました。1と19で「119」となることから。11月9日が消防庁が定めた「119の日」であるため、1月19日を記念日としました。
 組織化された最古の消防隊はエジプトに存在したといわれていますが、その内容については明確ではありません。多少なりとも内容の知られるのは、後6年のローマ大火を契機に、皇帝アウグストゥスが組織したローマの消防隊です。これはウィギレス Vigiles と呼ばれ、消防隊であると同時に首都警護の軍隊でもあり、通常〈見張番〉と訳されます。隊員は解放奴隷のなかから選ばれ、一定期間の服務後は本人とその家族に対してローマ市民権が与えられることとなっていて、消防隊の社会的地位は高いものだったと想像されます。また近年発掘されたローマの遺跡などから、当時の消防署施設や設備面などがきわめて充実していたことが確認されています。この消防隊は1隊が1000人で7隊(コホルテス)をもって編成され、その装備はバケツ、ホース、組立てばしご、斧、ハンマー、のこぎり、車の付いた水噴出器、および脱出用の大枕などでした。そして消防隊は消火係、人命救助係、現場を照明する係などの隊員で編成され、人口100万人といわれるローマ市の各地区に配置されていました。強力な権限を有する見張番長官(プラエフェクトゥス・ウィギルム)の指揮を受けて火災の鎮圧作業に従事したほか、犯罪の面でも市民の生命、身体および財産を守ることをその任務としていました。

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2009年1月18日 (日)

明暦の大火(こーじ)

 1月18日は、都バス記念日、振袖火事の日です。
 振袖火事の日は、1657(明暦3)年、江戸城天守閣と市街のほとんどを焼失し、死者が10万人にもおよんだ明暦の大火が起きたのが由来です。この大火は「振袖火事」とも呼ばれる。これは次のような話によるのだそうです。上野の神商大増屋十右衛門の娘おきくは、花見の時に美しい寺小姓を見初め、小姓が着ていた着物の色模様に似せた振袖をこしらえてもらい、毎日寺小姓を想い続けました。そして、恋の病に臥せったまま明暦元年1月16日、16歳で亡くなってしまいました。寺では法事が済むと、しきたり通り振袖を古着屋へ売り払いました。その振袖は本郷元町の麹屋吉兵衛の娘お花の手に渡ったのですが、それ以来お花は病気になり、明暦2年の同じ日に死亡しました。振袖は再び古着屋の手を経て、麻布の質屋伊勢屋五兵衛の娘おたつのもとに渡ったが、おたつも同じように、明暦3年の1月16日に亡くなりました。おたつの葬儀に、十右衛門夫婦と吉兵衛夫婦もたまたま来ていて、三家は相談して、因縁の振り袖を本妙寺で供養してもらうことにしました。しかし、和尚が読経しながら振袖を火の中に投げ込んだ瞬間、突如吹いたつむじ風によって振袖が舞い上がって本堂に飛び込み、それが燃え広がって江戸中が大火となりました。
 明暦の大火は、1657年(明暦3)の江戸の大火です。江戸時代最大の火災で、振袖火事、丸山火事ともいいます。前年11月以来80日も雨が降らず乾燥しきっていたうえ、北西風が激しく吹く1月18日午後2時ごろ、本郷丸山から出火、本郷・湯島・駿河台・神田・日本橋・八丁堀・霊岸島から佃島・石川島まで延焼、また駿河台から柳原・京橋・伝馬町・浅草門へひろがり、隅田川を越えて牛島まで飛火して、翌19日早朝鎮火しました。また19日午前10時ごろ、伝通院表門下の新鷹匠町より出火、北西の強風にあおられ、小石川・飯田町から田安門・竹橋門内の大名・旗本屋敷を焼き、譜代大名の懸命な防火にもかかわらず、正午過ぎ江戸城の天守閣に火が入って焼け落ち、本丸・二の丸も焼失して、将軍徳川家綱は西の丸に移りました。火は常盤橋・鍛冶橋・数寄屋橋門内の諸大名の邸宅を焼き、夕刻から変わった西風により八代洲河岸から中橋・京橋・新橋・鉄砲洲に及びました。さらに夕刻、別の火災が鵬町からおこり、急に変わった北風により桜田・愛宕下・芝に移り、増上寺も大半を焼いて、海岸にいたり、20日朝ようやく完全に鎮火しました。この火災は江戸の大半を焼き、焼失した大名屋敷160、旗本屋敷770余、寺社350余、町屋は400町余、橋60余、土蔵も9000余のうち残ったのは10分の1もなかったそうです。死者は10万人を超したといいます。20日から21日にかけては寒気と大吹雪で凍死する罹災者が続出しました。幕府は救小屋を設け、粥の施行をして救済にあたりました。また幕府は罹災した大名には参勤代で出府することを免除したり、帰国させたりするとともに、10万石以下の大名には恩貸銀、旗本・御家人には賜金を行いました。そのほか、江戸市中へも銀1万貫が下賜されました。
 大火を機に、江戸の都市計画が進められました。江戸城内にあった三家をはじめとする大名屋敷はすべて城外に替地を与えられて移転することとなり、旗本屋敷や町地も割替が行われ、寺社も外辺部の新開地に移転させられたものが多かったそうです。市街地の復興とともに広小路や火除地(ひよけち)の設定等、防災化も行われました。翌々年、隅田川には大橋(両国橋)がかけられ、本所・深川にも町地が拡大しました。大火は江戸の火消制度にとっても大きな転機となり、翌年定火消が設けられました。出火の際、由井正雪の残党の所業という流言がとび、事実、大火の際放火犯20名が捕らえられ処刑されていますが、この時期の江戸はまだかなり不安定な状況もありました。

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2009年1月17日 (土)

ペーパークラフト(くみこ)

 息子が年末にペーパークラフトにハマっていました。パソコンで展開図を作って、電車を作るのです。何かで見かけて、自分でオリジナルを作ってみたくなったようです。学校の算数の時間に展開図のことを習ったのでわかるようになったと言っていました。
 最初は京阪電車風のものを作っていましたが、そのうち新幹線風になり、色や模様もあれこれ変えて作っているうちに山ほどできてしまいました。部屋のベッドの下は車庫状態です。ちょっとお見せできないので、別のところで写真を撮って載せています。(^0^;大きさがわかるように息子の手も一緒に写してみましたが、結構小さい電車で、いわゆるNゲージの模型風です。
 娘も影響を受けて兄に展開図を作ってもらい、好きなように柄を入れて作っていましたが、ひこにゃんが大好きなので(サンタさんにも‘ひこにゃん’のペットボトルホルダーをもらった!)、ひこにゃん電車になりました。(^0^)/油断しているうちに、娘も写真を切り取って貼り付けたりできるようになっていました。ちゃんと写真の向きも考えて貼り付けてあります。字は何だか変ですが・・・。(^0^;息子が教えてるのでしょうが、私が家中で一番パソコンに弱くなるのは時間の問題のようです。
 もっと厚手のしっかりした紙でプリントアウトすれば出来上がりもよくなったでしょうが、もったいないのでメモ用の裏紙で作っていました。いつまで形が保てるか・・・。しかしよく考えたら、夏休みの作品展にこういうものを出してもよかったのではないでしょうか?まあ、あれはあれで好きなことを調べて有意義だったのですが・・・。(^0^;
 アルバムにコメント入りの写真を載せてもらうので、よかったらのぞいてやって下さいね。よろしくお願いします。

Densha Hikonyan Shako Sinkansen Tiisai

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2009年1月16日 (金)

念仏(こーじ)

 1月16日は、禁酒の日です。あと、籔入り、初閻魔・閻魔賽日・十王詣、念仏の口開けです。晴れの特異日でもあります。
 今日は「禁酒の日」です。といっても、日本の記念日というより、アメリカで有名な禁酒法が実施された日のことですね。
 念仏は、仏・菩醍の相好や功徳を心におもい浮かべたり、またその名号を口に唱えることですね。前者を観想念仏といい、後者を称名(しようみよう)念仏といいます。念仏には釈迦、薬師、弥勒、観音などの念仏もありますが、阿弥陀仏の念仏が代表的で、ふつう念仏といえば、阿弥陀仏の相好やその誓願のことを憶念したり、〈南無阿弥陀仏〉の6文字の名号を口に唱えることをいいます。阿弥陀信仰が興隆し、西方極楽浄土へ往生したいとの願望が強まるにつれ、念仏が往生のためには必須の行業であると考えられました。日本では奈良時代から平安時代中期にかけて観想念仏が盛んで、観想のために阿弥陀浄土変相図がつくられました。智光曼荼羅、当麻(たいま)曼荼羅などがそれです。平安時代初期に最澄の弟子円仁(えんにん)が、唐の法照(ほつしよう)がはじめた五会(ごえ)念仏の流れをくむ五台山念仏三昧法を比叡山に移し、常行三昧(じようぎようざんまい)を修しましたが、五会念仏は5種の音声からなる音楽的な称名念仏でした。常行三昧は不断念仏といわれ、各地に普及しましたが、比叡山の不断念仏は〈山の念仏〉として有名となりました。これは8月11日から7日間、常行堂内で阿弥陀仏のまわりを行道(ぎようどう)しつつ、念仏とともに《阿弥陀経》を誦し、つねに想いを阿弥陀仏に懸けることによって、罪障を除滅しようとする法会でした。のちに不断念仏は命終のときに修されるようになり、臨終儀礼ともなりました。平安中期に空也や源信が出るにおよんで、称名念仏はいっそう盛んとなりました。空也は民間に念仏を広め、民間仏教史上に大きな足跡を残しましたが、その念仏は鎮魂呪術的な性格と機能をもったものとして民間に受容されました。後世、一遍によって全国に広められた踊念仏の起源は空也念仏にあるとされますが、一遍の踊念仏にも死霊鎮送の性格がみられます。念仏は、源信らの二十五三昧結衆の起請文にもうかがわれるように、はやくから葬送や死者追善の儀礼と密接な関係をもっていましたが、念仏が葬送・追善と結びつく一因は、念仏には罪障消除の功徳があると考えられたからです。《観無量寿経》は臨終時の称念、十念などは五十億劫、八十億劫の生死の罪を除滅すると説き、覚超は《修善講式》で〈弥陀如来ハ(略)カノ浄土ノ化主ナリ、御名ヲ唱奉レバ、念々ニ八十億劫ノ生死ノ罪ヲ滅シテ、カノ世界ニ生ゼシメ給フ〉と、称名に滅罪生善の功徳があることを述べています。
 平安時代には阿弥陀仏を仰いでやまない浄土教が興隆しましたが、それによって独立的な宗派が成立したのではありませんでした。しかし、鎌倉時代になると、この浄土教が宗派的に独立するにいたりました。南無阿弥陀仏と弥陀の名号を唱えて、極楽浄土への往生を期する、いわば〈念仏宗〉ともいうべき新宗派があいついで出現した。法然が開いた浄土宗、その弟子親鸞が立てた浄土真宗、さらに一遍を祖とする時宗がそれです。法然は諸行を捨て念仏の一行を選んだのですが、彼はその念仏はすでに弥陀によって選択されていた本願の念仏であったとし、念仏に絶対の価値を認めました。そして〈声はこれ念なり、念はすなはちこれ声なることその意あきらけし〉(《選択(せんちやく)本願念仏集》)と念声是一の義をうち出し、念仏とは称念にほかならないとしました。親鸞は専修(せんじゆ)念仏を〈他力の宗旨〉(《陸異抄》)といい、他力の信心に生きることを勧め、一遍は平生を臨終と心得て念仏することを説き、名号絶対の立場をとりました。

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2009年1月15日 (木)

小正月(こーじ)

 1月15日は、いちごの日、いい碁の日、警視庁創設記念日、小正月です。
 いくつかの記念日になってますが、「いちごの日」は語呂からですね。「全国いちご消費拡大協議会」が制定しています。何にでも「委員会」とか「協議会」とかがあるんですね。いちごとかかいわれ大根とか。ちなみに、お年玉つき年賀葉書きの抽選が今日行われます。成人の日は変わってしまいましたが、こっちはそのままなんですね。
 小正月は、1月15日を中心とする新年の行事です。1月1日の大正月に対する呼名です。十五日正月ともいいます。前夜を十四日年越しといい、年越しの一つに数えます。小正月で、正月行事は終わると考えるのが普通です。15日の朝、粥を食べる習慣は全国に広く、小豆粥にしているところが多いそうです。15日の粥は歴史的にも古く、伊勢神宮の《皇太神宮儀式帳》(804)に〈御粥〉とあり、《土佐日記》承平5年(935)の条に小豆粥が見えます。この日に用意する粥杖で、女のしりをたたく嫁たたきの風習も、すでに《枕草子》に登場しています。15日の粥を用い、作物の作柄を占う粥占(かゆうら)も行われます。一般に豊作を祈願する行事が集中していて、餅花(稲花)、粟穂稗穂(あわぼひえぼ)、繭玉(まゆだま)など、農作物にかたどった作り物を飾りつけて祝う物作り、初田植などと呼ばれる模擬田植、果樹をなたや粥杖でたたいて豊熟を願う成木責めなどがあります。火祭も全国的に見られます。左義長(さぎちよう)とかドンド焼きとかいい、正月飾を集めて燃しますが、竹などの材料を調達して、盛大に行うところが多いようです。東日本では、道祖神祭になっています。子どもの行事で、小屋をつくって生活する場合もあります。秋田県のかまくらも子ども小屋の一種で、鳥追やモグラ打ちが行われる地方もあります。子どもや若者が、家々を祝って歩く風習も広く、なまはげのように、鬼の姿に仮装した若者が来訪する土地もあります。子どもや若者が、宗教的使者の役割を演じています。中国でも、旧1月15日は元宵節(上元)といって、はなやいだ行事の多い日で、その前後には、豊作を願う行事などがあって、小正月と共通する要素が少なくないそうです。小正月には、稲の播種(はしゆ)儀礼の前段に相当する予祝行事が多く、粥杖などもその一例です。中国の暦法の節日にともなう習俗に、播種儀礼の前段が習合して発達した行事が、小正月の中核をなしているようです。

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2009年1月14日 (水)

お食事会(くみこ)

 先日、さゞなみ会のM先生が45年ピアノを教えてこられて引退されたので、助手の先生方や私をホテルのお食事会に招いて下さいました。私も昔は助手としてお手伝いさせて頂いていたのです。ホテルは京都堀川二条の全日空ホテルでした。
 日本料理の「雲海」というお店で、お昼の会席は月ごとに変わるようでした。先附・椀物・前菜・向附・焼肴・蓋物・止椀・香の物・御飯・菓子・抹茶の順に次々とご馳走が登場し、思わずメニューまで写真に撮ってしまいました。
 ご馳走の後はロビーの喫茶室に場所を移して歓談したのですが、ガラス張りの向うに滝が流れており、素晴らしい雰囲気でした。これも写真に撮りました。
 楽しくしゃべったのはいいのですが・・・。ある助手の先生がちょいと口が悪く(でもとってもいい方!私は大好きです!)、昔私がシャネルの(コピーの)ハンドバッグを持っていたら「いや~シャネルやん!誰にもらったん?」と言われ、私が「何でもらったものという前提で聞くんですか~?」と答えたことがあります。確かに伯母にもらったものでズバリ鋭い指摘だったのですが、一応「誰にもらったん?」ではなく「どうしたん?」と聞いてほしかったという話をして盛り上がってしまい、大笑いになりました。ホテルのロビーで大阪のおばちゃんが大笑いしたらちょっと場違いだったかも・・・。(^0^;あまり高級なところへ行き慣れていないもので、恥をかいてしまいました。今度からもっと場慣れしているようなフリだけでもして、上品にしなくては、と思います。(やっぱり無理かな?)
 去年11月にも嵐山でお食事会があって、素晴らしい眺めを見ながらご馳走を頂きました。M先生と一緒でないとこんな高級な場所へは行くこともないでしょうね。チャンスがあればぜひまた行きたいです。

Gotisou Taki

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2009年1月13日 (火)

たばこ税(こーじ)

 1月13日は、たばこの日・ピース記念日です。
 たばこには特別の税金があって、たばこ税といいます。これは、たばこ税法(1984年制定)により製造タバコに対して課される間接消費税です。1984年までは、旧たばこ専売法(1949年制定)によるたばこ専売制度のもとで日本専売公社がタバコの製造を独占し、その利益を専売納付金として国庫に納付していましたが、84年に、たばこ専売制度が廃止され、民営化されました。それに伴い、たばこ消費税法が制定され、日本たばこ産業株式会社に国税としてたばこ消費税が課されることになりました。さらに、88年消費税法の制定とともに、たばこ消費税法が改正されて、たばこ税法となり、たばこ消費税もたばこ税と改称されました。なお54年以来、都道府県たばこ消費税および市町村たばこ消費税が、専売公社に対して課されていたが、88年のたばこ消費税法改正に合わせて、必要な改正がなされ、名称も都道府県たばこ税および市町村たばこ税に改められました。納税義務者は、国内で製造される製造タバコについては製造者であり、輸入タバコについては、これを保税地域から引き取る者です(4条)。課税物件は製造タバコで、喫煙用・かみ用およびかぎ用の3種類をいい、喫煙用は、さらに四つに区分されています。たばこ税は従量税であり、製造タバコがその製造場から移出し、または保税地域から引き取られるときに製造タバコ1000本につき3126円の税率により課税されます。なお、タバコには国のたばこ税のほかに地方の都道府県たばこ税および市町村たばこ税が課されるので、国税、地方税を合わせると、その税率は1000本につき6252円となります。

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2009年1月12日 (月)

スキー(こーじ)

 1月12日は、スキーの日です。
 今日は「スキーの日」です。今から90年近く前に、オーストリアの野レルヒ少佐と言う方が、新潟県の陸軍昇降にスキーを教えた、というのが由来だそうです。要するに、「日本で最初にスキーが行われた日」ですね。
 スキーの起源、発生地については諸説があり一定していません。スキーの遺物はスウェーデンの石器時代の泥炭層から出土していて、花粉分析により前2500年の年代が測定されています。またコムサ文化(前8000‐前2000年のトナカイ狩猟文化)の岩壁画の中にもスキーを描いたものがあり、これも前2500‐前2000年と推定されています。このことからスキーの発生地をスカンジナビアとする説があります。スキーに関する記録としては、ビザンティン帝国の歴史家プロコピウスの著書(6世紀)に〈滑るフィン人〉とあり、当時、雪上滑走具のあったことをうかがわせますが、はっきりスキーの存在を記したのは、ウプサラの大司教オラウス・マグヌスの著書(16世紀)です。東洋ではすでに《山海(せんがい)経》(2世紀以前)にスキーらしきものの記載があり、《新唐書》(11世紀)には〈木馬突厥(とつくつ)〉と記し、〈板をもって足に藉(し)く〉と説明を加えています。これらの記録からスキーの発生地をアジア北部の山岳地帯に求める説も提出されています。
 スキーは元来は雪上でトナカイなどの野獣を狩るための交通手段として利用されていました。16~17世紀には北欧とロシアにおいて軍隊の交通手段に盛んに使われました。19世紀にはいり、とくにノルウェーでは楽しみのためのスキーが非常な人気を集めて近代スキー発祥の地となります。首都クリスティアニア(オスロの古名)から西へ約270km、テレマーク地方のモルゲダールに住むノルトハイム Sがndre Nordheim は、1840年ころ、斜面に着地するジャンプを試みるとともに、締具を改良して体重の移動によるターンを可能にし、急斜面でも深い雪でも自由に滑り降りました。68年には仲間らとクリスティアニアでその技術を披露し、片足を前に出して両膝を曲げた大半径のターンはテレマークの名で普及、1930年代まで使われました。最初のレースは1866年、ジャンプ競技会は77年に開催されています。これは、のちに有名なホルメンコーレン大会(ノルウェー選手権大会)として受け継がれていきます。北ヨーロッパの丘陵で発達した技術は、距離競技とジャンプに大別できますが、合わせてノルディック種目 Nordic と呼ばれる。
 北ヨーロッパのスキー術はついでアルプス地方に伝えられました。おりからグリーンランドをスキーで横断した F. ナンセンの手記も出版され(英語訳1890、ドイツ語訳1891)、これに刺激されたオーストリアのズダルスキー Mattias Zdarsky(1856‐1940)は、リリエンフェルトの山小屋にこもって実験をかさね、アルプスの急峻な斜面に適応できるスキー術を開発し、軍人に教えました。リリエンフェルト派といわれるもので、長い1本づえを用い、シュテムボーゲン(スキーのテールを開く制動による回転)を基本にしています。ノルウェー派とリリエンフェルト派の優劣をめぐる論争も起きましたが、やがて両派は長所をとり入れ合い、オーストリアのアールベルクのスキー教師 H. シュナイダーがアールベルク派といわれるアルプス・スキー術にまとめました。これがアルペン競技 Alpine の基本技術で、アレー ⊇mile Allais を中心とするフランス派なども現れて、アルペン競技はドイツ、スイスを含め発展していきます。
 1924年には国際スキー連盟 Fレdレrationinternationale de ski(FIS)が結成され、同年の第1回オリンピック冬季大会(シャモニー)にスキーも登場しましたが、男子ノルディック種目のみでした。アルペン種目は36年の第4回大会(ガルミッシュ・パルテンキルヘン)から行われるようになりました。1926年から連盟主催の世界選手権大会(31年からアルペン種目開設)が開かれ、67年からは民間のスポンサーによるワールドカップが始まりました。これはシーズン中に各地を転戦する方式で、初めはアルペン競技でしたが、のちにノルディック競技、さらにフリースタイルも登場しました。

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2009年1月11日 (日)

子供みくじ(くみこ)

 今年も近くのさだ神社で子供みくじを引きました。去年も引いて親は大笑いしたのですが・・・。
 まずは息子のおみくじ。
★大吉★
「てんのうさまの おたんじょう、ばんざい、ばんざい、おいわいしましょう」
おねがい:おとしよりを たいせつにすれば かなう
おべんきょう:きらいな がっかも おさらい わすれないで
おともだち:けんかなど しないで なかよしに なろう
びょうき:かぜを ひかないように きたえましょう
うせもの:みちに おとしたのです でにくい

 娘のおみくじ。
★小吉★
「よろこんで てつだい べんきょう いたします、かみさま おまもり くださいね」
おねがい:とてもかないません すなおにしましょう
おべんきょう:あそんだら すぐに べんきょうしなさい
おともだち:わるいことするこに さそわれないように
びょうき:ておくれになる いそいだほうがよい なおる
うせもの:おもわないところに おちています

 というわけで、今年も「うん、その通り!おりこうにしとかなね~」と子供たちに言いました。(^0^)/
 ところで今年はコナミの体操やスイミングでもコナミおみくじというのを引かせてもらいました。娘は何と‘凶’を引いてきました!息子はおみくじの週に行かなかったので引いてませんが・・・。娘の‘凶’の内容は『ガーン!でも大丈夫。毎日、おかあさんやコーチのいうことをよく聞けば良いことがあります』というもの。そうそう、これまたその通りです!
 でも‘凶’に落ち込む娘のため、息子がおみくじを作ってやっていました。もちろん‘大吉’。でもその内容はやはり「人の言うことを聞きましょう」というもの。よく言ってくれました、息子!来年もおみくじでは笑わせてもらえそうです。しかし子供みくじって何歳までなのでしょう?自分で決めるのかしら。中学生になる息子は来年はもういやがるかも・・・。

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2009年1月10日 (土)

明太子(こーじ)

 1月10日は、110番の日、明太子の日です。
 1・10の語呂で「110番の日0です。昭和23年に始まった「110番」ですが、初めは関東や関西など、地域ごとに番号が違っていて、それが統一されたのはしばらく後になってからだそうです。
 明太子の日は、福岡の食品会社ふくやが制定しました。1949(昭和24)年の今日、前の年のふくやの創業以来研究を重ねてきた「明太子」を初めて店頭に並べ、福岡名産「からし明太子」が誕生しました。
 明太子のメンタイは朝鮮語の明太の日本語化したものです。メンタイの意味は、スケトウダラです。スケトウダラは、タラ目タラ科の海産魚ですね。本州では日本海側は山口県以北、太平洋側は宮城県以北に分布しています。オホーツク海、ベーリング海に多く、北アメリカ西海岸に及びます。朝鮮半島の日本海側にも多いそうです。近縁のマダラに比べ体は細く、やや延長しています。下あごは上あごより突出し、下あごのひげはごく短くなっています。体の背面から側面にかけて濃褐色不定形の斑紋があり、腹面は白いです。背びれは3基、しりびれは2基あります。全長約50cmに達し、まれに90cm程度に及ぶものもあります。水深50~500mの中層ないし底層を遊泳し、ときに表層まで浮上します。稚魚期にはケイ藻類、微小な動物プランクトンを捕食し、成長すると橈脚(じようきやく)類(コペポーダ)、オキアミ、小魚などをおもな品料とします。害敵としてはオットセイ、マダラ、クジラ類などがあります。高齢魚になると共食いも少なくないそうです。
 産卵期は12月から4月にわたりますが、北洋ではさらに遅れます。卵は分離浮性卵で、直径およそ1.5mmです。淡橙色を帯び、卵黄内に数個の油球をもちます。産卵数は親魚の体の大きさによって異なりますが20万~150万粒です。稚魚は岸近くの表層に集まって成育し、半年ほどたつとしだいに深みに移行します。成熟する年齢は雄が3~5歳、雌は4~6歳で、寿命は12~13年です。漁獲は機船底引網、トロールによるものが多いのですが、刺網、はえなわによる場合もあります。日本では1977年まで本種が魚種別漁獲量の最高位を占め、とくに1972、73年には年間漁獲量が300万tを超えましたが、乱獲のためその後しだいに減少し、さらに北洋漁場その他での国際的漁業規制の強化がいっそうその減少傾向を助長するに至りました。しゅんは1~2月で、鮮度の高いものは刺身にもでき、煮魚、かす漬などとして食膳にも供されますが、大部分は冷凍すり身として、かまぼこ、その他の練製品原料とされます。また、魚粉として家畜、養殖魚の飼料製造の原料とされます。卵巣の塩蔵品は〈たらこ〉、または〈紅葉子(もみじこ)〉の名で賞味されます。もちろん明太子もですね。

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2009年1月 9日 (金)

一休さん(こーじ)

 1月9日は、風邪の日、クイズの日・とんちの日です。
 クイズの日・とんちの日は、とんちで有名な一休さん(一休宗純)から、「いっ(1)きゅう(9)」の語呂合せです。
 一休の洒脱な性格とユーモラスな行状に関する伝承が近世に入ってから多くの逸話を作りあげました。その話は、実話もあるでしょうが創作もあり、他の人の奇行やとんちに関する話を一休の行跡に仮託したものが多いそうです。万人周知の多彩な一休像が世に伝えられる基本になったものは、1668年(寛文8)に刊行された編著者不明の《一休咄》4巻です。この本は刊行後たちまち評判となり、翌年に再版となりました。1700年(元禄13)には5冊本があらわれ、さらに版を重ねました。《一休咄》では、高僧としての一休禅師よりも頓智頓才の持主としての一休の〈おどけばなし〉が主体となっています。小僧時代の一休さんのとんち話は巻一の〈一休和尚いとけなき時旦那と戯れ問答の事〉に記され、有名な一休和尚の奇行譚は各巻に見えます。軽口問答や狂歌咄もあります。地蔵開眼のときに小便をかけたり、魚に引導をわたしたりする話などは、近世以降広く人々に知られました。こうして一休は問答を得意とする風狂的な禅僧としてのイメージを強くし、江戸時代における人気は絶大なものとなりました。《一休咄》以後、《一休関東咄》《二休咄》《続一休咄》《一休諸国ばなし》などが生まれ、ついに60余点にものぼる一休の逸話に関する本が出版されるに至りました。一休の人気は近代に入っても衰えず、子ども向けの絵本や童話にも採用され、現代のテレビでも一休さんのアニメーションが人気番組となりました。

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2009年1月 8日 (木)

お墓参り(くみこ)

 去年の暮れ12月30日にお墓詣りで京都に行きました。五条辺りの興正寺別院です。この近くに京都霊山護国神社というのがあり、坂本龍馬のお墓があるというので、今回初めて行ってみました。今までに何度となく近くを通っていましたが、1度も行ったことがなかったのでした。
 歴史好きの息子がぜひ行きたいと言うので行ってみたのですが、お墓はかなり急な坂を上った所にありました。(^0^;坂本龍馬と中岡慎太郎のお墓が並んでおり、最期の様子を書いた立て札があったので、写真に撮ってみました。(覚えられないので・・・)
 お墓の前には平板のような石にいろいろ願い事を書いたものがたくさん並べられていました。神社の絵馬のような感じでしょうか。(差しさわりがあるといけないので、写真の個人名は消してあります)桂小五郎と妻の幾松のお墓もありました。
 坂本龍馬や中岡慎太郎・桂小五郎のお墓は本当に急な坂や石段を上ったところにあるので、見晴らしは最高でした!京都の街が一望できるのです。暖かくてよいお天気だったのでラッキーでしたよ。
 またこの近くには大きな観音さまもあるので、写真を撮りました。露座ですが、大きさは奈良の大仏さまぐらいではないかと思います。そばまでは行っていないので、詳しいことはわかりません。すみません。
 年末の忙しい時に、お墓詣りだけではなくいろいろ寄り道したので、余計にバタバタしてしまいましたが、いつも通る所にこんな名所があったのかとあらためて気付かされました。京都は本当に魅力的な町ですね。またいろいろな発見をしてみたいです。

Douzou Kannon Ohaka Setumei2

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2009年1月 7日 (水)

爪(こーじ)

 1月7日は、七草粥の日、爪切りの日です。
 今日は1月7日「春の七草」の七草粥の日だったりします。今日、七草粥を食べると、万病を除くおまじないになるといわれているんですね。七草は、せり、なずな、ごぎょう、はこべら、ほとけのざ、すずな、すずしろの7種類です。「春の七草」が有名なんですけれども、「秋の七草」もありますね。
 爪切りの日は、今日が新年になって初めて爪を切る日だからです。七草を浸した水に爪をつけ、柔かくして切ると、その年は風邪をひかないと言われています。
 古代英語詩《ベーオウルフ》には、怪物グレンデルの腕をベーオウルフが切り落として高い屋根に掲げておくくだりで、その爪は鋼鉄のようだったと述べています。腕を切られて死んだグレンデルの復讐(ふくしゆう)のために母親が城館を襲う筋書は、《太平記》や能《羅生門》の渡辺綱(わたなべのつな)による鬼退治の話に通ずるものがありますが、渡辺綱は名刀鬼切を用いて〈毛ノ黒ク生(おい)タル手ノ、指三(みつ)有テ爪ノ鉤(かがまり)タルヲ、二ノ腕ヨリカケズ切テゾ落シケル〉といいます(《太平記》巻三十二)。鬼、怪物、悪魔がかぎ爪をもつと考えるのは、食肉獣の印象と霊長類の体形とを重ね合わせた結果です。大プリニウスは、犬の頭をもち、つめを武器として、吠えながら狩猟をする人種のことを伝えたメガステネスの話を引用しています(《博物誌》第7巻)。
 爪はかつて腱が延長したものと考えられましたが、皮膚の一部で、黒人では皮膚と同様につめもやや多量のメラニン色素を含むので黒みを帯びます。アリストテレスは、エチオピア人などの黒人の歯や骨は白いが、つめは皮膚と同じく黒いことを指摘しました(《動物誌》第3巻)。黒人の爪半月は爪母基のメラニン色素が多いため青黒く、かつては混血を繰り返しても残る印とみなされました。これをT. シュトルムは《海の彼方より》に取り入れています。楊貴妃の手足のつめは生まれつき桃色だったといいますが(《古今事物考》)、爪甲の色はその透明度、爪床との結合度、爪床の血流状態などによって決まり、健康な白人や黄色人種では一般に光沢ある薄桃色を呈しています。占星術的には、金星(ウェヌス)の下に生まれた人は美爪をもち、火星(マルス)の下に生まれた人のつめは強卑で自己防衛に適し、土星(サトゥルヌス)の下に生まれた人のは生命力に欠けて砕けやすく形も醜いが、水星(メルクリウス)の下に生まれた人のつめは薄くて長く、筋やひびができやすいとし、おのおのの星が人に与える資質を反映すると見ます(H. L. コーネル《医学的占星術辞典》)。爪甲に気泡を含んで白斑や白線を生ずることがあります。とくに成人女性に見られ、〈花が咲く〉などといわれて、幸福をもたらすと喜ぶ人々もいます。
 《涅槃経(ねはんぎよう)》に〈爪長破戒之相〉とありますが、かつてインド、中国、インドネシアその他、日本の一部にも長爪の風習があり、数cmはざらで、なかには40cm以上も爪を伸ばしている例もあったといいます。爪を切るのに曜日に注意する伝承がヨーロッパにはあり、〈月曜日に爪を切れば健康が守れて、火曜日に切れば裕福になれる。水曜日に切れば新しい知らせがあり、木曜日に切れば靴を新調できる。金曜日に切れば悲しいことが起こり、土曜日に切れば翌日に真実の愛が得られる。日曜日に切ったら用心を、次の月曜日から土曜日までの間に悪魔があなたをさらう〉とか、〈金曜日に切れば歯が痛くなり、水曜日に切ればねたみをかう〉などといいます。日曜日の爪切りはとくに忌み嫌われて、〈日曜日に爪を切るくらいなら、生まれてこないほうがよかったぐらい〉とまでいう歌もあり、〈娘が日曜日に爪を切ると結婚できない〉という伝えもあり、これらは神々の祭りのときは爪切りを禁止した古代ギリシアの習慣の名残りだとされています。日本の一部にはかつて乳児の爪を母親が歯でかみ切る習俗があったのですが、ヨーロッパにも手癖が悪くならぬようにと母親の歯で爪を切るならわしの地方がありました。
 爪を立てて相手をかくのは、憎悪や怒りの場合だけとは限りません。インドには爪のかき傷によって性愛の深さを表現する習慣が古くからあり、その種の記述は《ラティラハスヤ》《アナンガランガ》にもありますが、とくに《カーマスートラ》に詳しいそうです。愛のかき傷をつくるため左手の爪を長くとがらせておけと勧め、かき方、かく部位、かき傷の形の分類まで述べている。
 指の主要な支柱としての指骨は細くて指頭の幅を支えきれず、扁平な爪が添木のように後ろだてとなって、人の指頭の微細な動作を可能にしました。爪を抜けば指先に力をこめた作業を満足に行えず、足指ではつま先立ちや疾走が困難になります。また、指をしゃぶりつめをかむ動作(爪かみ)は、無意識のうちに行われるとき、充足されない欲求があることを示唆し、人だけでなく、生後まもなく母親から引き離して育てた子猿にもよく見られます。意識的に行われるのは、甘えやてれや恥じらいのしぐさです。〈あまえて爪くふべき事にもあらぬを、と思ひて、をさをさ心にも入らず〉(《源氏物語》竹河)。
 箏(そう)は3指の指腹に象牙のつめをはめて弾きますが、弦楽器はこれに準じたものが少なくありません。三味線や琵琶を弾くばちも、爪の代用と考えられます。《徒然草》に〈“古きひさくの柄ありや”などいふを見れば、爪をおほしたり。琵琶など弾くにこそ〉とあり、かつては琵琶を弾くのに爪も用いたことがうかがえます。

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2009年1月 6日 (火)

ケーキ(こーじ)

 1月6日は、色の日、ケーキの日、消防出初め式の日です。そろそろ寒中見舞いを出す頃ですね。
 1879年に、上野にある「風月堂」が日本初のケーキの宣伝をしたということで、「ケーキの日」だそうです。
 ケーキはその土台に用いる生地によって次のように分けられます。(1)スポンジ生地のもの 泡立てた卵と小麦粉、砂糖などを軽く合わせて型に流し入れるか、絞り出してオーブンで焼きます。焼上がりが卵の起泡性によって海綿状に軽くふくらむのが特徴です。形や大きさ、デコレーションの方法で変化がつけやすく、利用範囲が広いため、ケーキの代表的な生地とされています。溶かしバターを加えたジェノワーズ生地と、加えないビスキュイ生地の2種があり、ともに全卵を泡立てる〈共立て法(温製法)〉か、卵黄と卵白を分けて泡立てる〈別立て法(冷製法)〉が用いられます。スポンジ生地を土台にしたケーキには、泡立てた生クリームとイチゴなどで飾ったショートケーキ、ココア入りの生地をチョコレートや生クリームで飾ったチョコレートケーキ、クリスマス、誕生日、結婚式用のデコレーションケーキなどがあります。ロールケーキは、スポンジ生地をオーブン・プレートに流して薄く焼き、ジャムやクリームを塗って渦巻状に巻いたものです。フランスではクリスマスに、ロールケーキをココアやコーヒー風味のバタークリームなどで飾った、薪形のビュッシュ・ド・ノエルを作ります。(2)バターケーキの生地のもの スポンジ生地と似ていますが、バターの量を多くし、卵を泡立てません。きめ細かくどっしりと重い仕上がりで日もちのよいのが特徴です。あまりデコレーションを加えず、生地の材料の配合比を変えたり、果物の砂糖漬、干しブドウ、ナッツ類、洋酒、香料などを混ぜ入れて変化をつけることが多いようです。この生地の代表的なケーキには、卵、小麦粉、砂糖、バターを1ポンドずつの同割で作ることから名付けられたパウンドケーキ(キャトル・カールともいいます)、果物、ナッツ類を加えたフルーツケーキ、木の年輪に似せて作られたバウムクーヘン、溶かしたチョコレートを加えた生地にチョコレートをかけて仕上げたウィーンの銘菓ザッヒャートルテなどがあります。また、マドレーヌはバターケーキの生地を貝殻形などの小さな型で焼いたものです。(3)パイ生地のもの。(4)シュー生地のもの 生地の段階で火を通す唯一のものです。水、バター、塩をなべに入れて沸騰させ、小麦粉を加えて練り、火からおろして卵を加えます。この生地を絞り出して焼くと、ふくれて中が空洞になるのが特徴で、そこにクリーム類を詰めてシュークリーム、エクレアその他を作ります。(5)発酵生地のもの イーストの発酵を利用して作る生地で、製法はパンと同じですが、バター、卵、砂糖、牛乳を多く用いるのが特徴です。洋酒入りシロップをたっぷり含ませたサバラン、王冠形の型に入れて焼くウィーンの伝統的なクグロフなどがよく知られています。(6)ビスケット生地のもの 小麦粉、バター、砂糖、卵を主材料とする生地を、絞り出したり薄くのばして型で抜いてオーブンで焼きます。一般に、ビスケット、クッキー、サブレなどと呼ばれるもので、材料の配合を変えたり、ナッツ類、果物の砂糖漬、ココア、香料を加えたりして変化をつけます。ほかに粉末のアーモンドに卵白を混ぜた生地を焼いたマカロンもあります。プティ・フールと呼ばれる一口菓子には、パイ生地、シュー生地、スポンジ生地などを使うものと、ビスケット生地を使うものとがあり、前者は糖衣をかけたものの意でプティ・フール・グラッセ、後者は乾いたものの意でプティ・フール・セックと呼びます。

・・・どうでもいいけど、大槻先生、あまりTVで無茶言わんでください。アポロは月に行ってますって。

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2009年1月 5日 (月)

ひらパーカウントダウン!・・・ではなくて石清水八幡宮(くみこ)

 去年枚方パークのカウントダウンに行って楽しかったので、今年も行こうと大晦日の夜10時半頃出かけました。ところが切符を買って改札を入ったところに張り紙があって、何と今年はカウントダウンがないと書いてありました!え~~~~?HPを見て調べたつもりだったのに・・・。でもよくよく見るとHPに2005年と書いてあります。確かに曜日も違っています。でも一番上には「MBSからおめでとう2009・・・」などと書いてあるので、今年の宣伝と思い込んでいました。うかつ・・・。私らしい・・・。
 切符を買っていなかったら家に帰って寝たでしょうが、改札内に入ってから気付いたので帰るのも悲しく、予定を変更して八幡市の石清水八幡宮さんに行きました。夜中に行くのは初めてでした。京阪で八幡市まで行き、ケーブルカーに乗り換えて男山山上へ。深夜0時になるまで山門は閉まっており、ズラ~ッと並んで待って、新年とともに中に入ります。でもすごい人で、入場制限されていました。中に入っても本殿に進むのに時間がかかります。30分ほど待ちましたが、1時間以上かかりそうだったので、列をはずれて端っこの方で手を合わせて帰って来ました。(^0^;それでも家に帰り着いたのは午前1時半ごろ。元日はかなり朝寝坊してしまいました。
 八幡と言えばエジソンの電球に八幡の竹が使われたのが有名ですが、ケーブルカーの中の手すりが電球をイメージした形になっていました。(写真)なかなかおもしろい発想ですね。
 来年は突然の思いつきではなく、もっと調べてから出かけようと思います。(^^ゞ

Cable Tesuri Yumiya2

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2009年1月 4日 (日)

ミャンマー(こーじ)

 1月4日は、官公庁御用始め、証券取引所大発会、石の日、ミャンマー独立記念日です。
 1月4日ということで、「官公庁御用始め」などなど、お仕事が始まったりする日になります。官公庁の場合、「12月29日から1月3日まで休暇」というのが、法律でしっかり決まっているそうですね。
 1・4の語呂で、「石の日」という記念日でもあります。よく石には何かのパワーがあるといいまして、お守りにしたりしますけど、今日は特にそういう意味合いが強い日なのかもしれません。
 ミャンマーの旧国名はビルマですね。第2次世界大戦終戦とともにビルマにはイギリスの民政が復活しました。ビルマ軍、ビルマ共産党、ビルマ社会党の統一組織〈反ファシスト人民自由連盟〉は、イギリスのアトリー内閣を相手にビルマ独立の交渉を行いました。47年7月にアウンサン以下7名の行政参事会員が暗殺されるという悲運に見舞われたものの、ビルマは48年1月4日連邦共和国として独立しました。
 独立と同時に、ビルマは国家崩壊の危機に直面しました。その第1は、コミンフォルムの闘争路線を反映して行われた48年3月のビルマ共産党の武装蜂起です。同年8月には左派の人民義勇軍が反政府活動に転じました。49年1月にはテナッセリムやイラワジ・デルタでカレン族が蜂起しました。正規軍からもカレン族3個大隊が反徒側に寝返りました。カレン族の臨時政府がタウングーに樹立され、カレン国〈コートゥーレー〉の独立が宣言されました。ビルマ軍はネーウィン司令官の下に兵員を強化して事態収拾に努め、反政府組織の活動は52年を境に衰退しました。このころ国民は、長びく内戦と万年与党の座に安住して腐敗した反ファシスト人民自由連盟に不満を抱いていました。56年の総選挙では、弱小10政党が合同結成した民族統一戦線が250議席中47議席を獲得して与党をあわてさせました。与党内部では、指導者のウー・ヌとウー・バスウェ、ウー・チョーニエインとの間に亀裂が入りました。両派の対立が激化し、58年6月には分裂したため、ネーウィン参謀総長が担ぎ出され、選挙管理内閣が組織されました。60年2月の総選挙ではウー・ヌの率いる連邦党が圧勝、反ファシスト人民自由連盟は大敗し、ウー・バスウェもウー・チョーニエインも落選しました。ウー・ヌ内閣が再登場しましたが、政情は不安定でした。シャン族の間からは連邦離脱の声が出始めました。カチン族の過激派も独立を求めて蜂起しました。ネーウィン将軍は62年3月クーデタを決行、政治家を逮捕するとともに憲法を停止、国会を解散しました。高級将校16名から成る革命評議会が結成され、議長のネーウィンが全権を掌握しました。革命評議会は議会制民主主義を否定、社会民主主義国家の建設を目ざして生産資本を国有化しました。既成政党はすべて解散され、〈ビルマの社会主義への道〉と題する綱領を実現する組織として、ビルマ社会主義計画党が結成されました。中央から地方の末端にいたるまで、すべての行政機構に軍人が配置されました。
 革命評議会は、治安回復を目標に63年6月反政府諸組織と和平交渉に乗り出しましたが、カレン族右派勢力との交渉を除いて不成功に終わりました。しかし農民評議会、労働者評議会など国民の組織化は着実に進められました。71年新憲法起草委員会が設置されて各地で公聴会が開催され、3回にわたって練り直された憲法草案は73年12月の国民投票で90%強の支持を得て承認されました。74年1月人民議会の選挙が行われ、選出議員450名による第1回人民議会が3月に開かれました。革命評議会は解散され、12年間にわたって続いた軍政は廃止されました。軍籍を離れたネーウィンが大統領に選出されて民政移管は完了し、国名もビルマ連邦社会主義共和国と改められました。革命政権時代のビルマは、国連外交を進めるほかは東南アジア条約機構にも東南アジア諸国連合(ASEAN(アセアン))にも加盟せず、鎖国に近い独自の路線を推進しました。民政移管に前後して73年アジア開発銀行に加盟、東南アジア開発閣僚会議にも代表を派遣するなど、いくらか開放的姿勢を示しはしましたが、中立・非同盟という基本方針だけは堅持しました。超大国に対しては等距離姿勢をとり、79年には左傾化した非同盟諸国会議を非難して脱退しました。
 1988年6月から起こった反政府運動は、しだいに全国的な運動に発展し、アウンサン将軍(独立運動の指導者)の長女アウンサン・スーチーAung San Suu Kyi をリーダーとする民主化要求運動に集約されていきました。9月には政治運動に乗じて、各地で暴動、掠奪、放火などが横行し、無政府状態となりました。9月18日、国軍は治安回復を理由に政権を奪取、同時に全土を戒厳令下に置きました。国軍は最高司令官ソウマウン Saw Maung 大将(後に上級大将)を議長に21名の国軍幹部をメンバーとする国家法律秩序回復評議会(SLORC)を設置し、最高議決機関としました。ここに26年間続いたネーウィン独裁による〈ビルマ式社会主義〉体制が崩壊しました。軍政は武力による治安の回復を図るとともに、国民の強い要望であった複数政党制による議会制民主主義の復活と経済改革を約束しました。経済については、〈ビルマ式社会主義〉経済政策を放棄して、対外開放と市場経済の導入、民間外資の進出を26年ぶりに許可し、国内民間投資の規制緩和を実施しました。89年、国名がミャンマーと改称されました。

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2009年1月 3日 (土)

駆け落ち(こーじ)

 1月3日は、瞳の日、かけおちの日、戊辰戦争開戦の日です。
 1月3日、今日までが「三が日」といいます。明日は官庁御用始めだったりして、正月の気分もかなり薄れてきますね。
 今日の記念日は「かけおちの日」だそうです。1938年に、女優の岡田嘉子さんと杉本良吉さんが駆け落ちして、当時の樺太からソ連に亡命した事件から来ているそうです。わざわざこんな季節に駆け落ちなんて、寒そうですね。
 駆け落ちとは、無断で住所を去り、行く先をくらますことで失踪、出奔、家出などともいいます。一般には婚姻に関して相思の男女が相伴ってひそかに他所へ逃げることをいいます。演劇の用語をかりて江戸時代には道行(みちゆき)ともいいました。婚姻の成立には、当事者の合意だけでなく当該社会の承認が必要で、そのまず第一は双方の親、親族などの承認を得るのが一般です。この承認が得られないとき、当事者の意志が強固であれば種々交渉の末、駆け落ちしてその意志を全うしようとします。寝宿のある地域では婚姻は若者と宿親の自治的統制のもとにおかれることが多く、配偶者の選択も当事者の自主性が尊重されました。この場合親の反対はほとんどないのですがときとして反対することがあります。そこで行く先をくらますことがあったのですが、若者や宿親はこれに協力するのが普通でした。若者たちによっておこなわれたいわゆる〈嫁盗み〉の習俗の中には、婚姻に対して親は反対するが当事者の合意があり、娘は盗まれることを予期している場合が多く、駆落の一種とみなされるようです。事後、親の承認が得られるのが普通で再びその社会に復帰することもできました。親の反対理由には個人的理由のほかに、当該社会の一般通念に反すると考えられる場合があります。一般に日本の村では婚姻に際し家格のつりあいが重要で〈提灯につり鐘〉といわれるように、ふつりあいのため婚姻成立が困難なことがあります。また当事者が近親者であったり既婚者である場合などのようなときに、なお夫婦生活の実現のため駆落することがあります。こうした駆け落ちの結果の処置は一様ではないのですが、概して再びその社会に戻り婚姻生活を継続することは容易でなく、ことに当事者が近親者や既婚者である場合については困難だったようです。

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初荷(こーじ)

 1月2日は、初夢、初荷、書初めなどの日です。
 初夢、初荷など、「初」がつくものは大概この2日に行います。年が明けてから初めての夜が来るから、ということみたいです。
 初荷とは、商家の仕事始めです。正月2日に行われる儀礼的な初商いで、江戸時代からはじまりました。新調したはっぴや手拭を着用し、卸商人は小売店へ、小売商人は有力な得意先へそれぞれ商品を送り込むのですが、祝歌を歌ったりしてにぎやかに行われ、祝酒なども用意されます。この日、野菜の初出荷をする農家もあったそうです。車には初荷の幟(のぼり)旗が立てられますが、かつて馬を用いていたころには、馬を美しい鞍や綱で飾りたて、華やかな気分を盛りあげたとのことです。
 ちなみに、仕事始めとは、年初に行われる生業開始の儀礼ですね。年間最初の労働がその年の生業全体に影響を及ぼすという考えに基づき、多分に予祝の意味をこめて行われます。田畑の仕事始めは鍬入れ、作始め、打ちぞめなどといわれ、正月2、4、11日などの早朝にその年の恵方(えほう)に当たる田畑へ出て数鍬うない、持って行った正月飾りや神酒、洗米などを供えてきますが、その際洗米やオソナエ(餅)の砕片を並べて烏呼びをし、どの洗米や砕片を食うかによって作占(さくうら)をする風もあります。堆肥を田畑に散らしたりする所もあるそうです。山仕事の場合は初山入り、若木迎えなどといわれ、山に入って少し木を切り、正月飾り、神酒、洗米などを供えて山の神をまつりますが、切った木は持ち帰って門口に立てたり、まきにして小正月の小豆粥や田植のときの昼飯を炊くのに用いる所が多いそうです。農家ではこれらと並行して屋内で縄の綯(な)いぞめ、女性による縫いぞめなどをしてその縄や袋などを年神に供えたり、臼を起こして米の搗(つ)きぞめをしてその米の飯を年神に供え家族も食べる等のことを行っていました。また主として小正月に、繭玉や粟穂剰穂などを作って作物の豊穣を祈ったり、農作業の諸段階を演技的に行って一年の順調であることを願う予祝儀礼も、広い意味では仕事始めに入るといえます。漁業の場合には乗りぞめ、船祝いなどといわれ、2日などに、船を出して湾内を一周ぐらいして海中に神酒を注いだり、簡単に漁をしたりし、戻ったあと集まった人々に船上から餅や蜜柑をまいたり、船主、網主宅で祝いをします。商家では2日に盛大に初荷を送り、初売りを行って商売繁昌を願います。鍛冶屋は農具の模型を作って金屋子神に供え、大工は道具の手入れをしたり墨差しを作るなど、諸職人もそれぞれの仕事始めを行っています。その他、書初め、謡いぞめや官庁、会社の御用始め、消防の出初式などもあります。このように年頭最初の労働を予祝的に行い、新たな気持でよい年を過ごしたいとする心意は、日本人の生活の中に広く行きわたっています。

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2009年1月 2日 (金)

おせち料理(くみこ)

 あけましておめでとうございます。今年もどうぞよろしくお願いします。
 おせち料理は毎年同じものを作っているので、写真は去年までのものを載せています。今年は諸般の事情により全部は作らなかったのですが、結局「もみじ麩の信太巻き」以外は作ったので、そこそこの手間がかかりました。(^0^;
 今回は梅花ソーセージだけ作り方をご紹介させて頂きます。

~梅花ソーセージ~
材料:かまぼこのすり身200g・ウィンナーソーセージ10本・スティックチーズ4本
1.巻きすの上にラップを敷いて、ウィンナーソーセージを半分に切って5本並べます。
2.すき間を埋めるようにすり身を薄く塗りこみ、チーズ1本を置いてウィンナーで巻きます。
3.梅の花の形に整えながら、回りにもすり身を塗りつけていきます。この時、両端の面にもすり身をよく塗っておくと、チーズが溶け出てきません。
4.形ができたらラップで包み、巻きすで巻いてさらに整えます。(巻きすのカタがついてかまぼこらしくなります)
5.蒸し器で10分ぐらい蒸した後、ラップをはずして油で揚げて出来上がりです。

 私は2~3日前に蒸すところまですませて冷蔵庫に入れておき、大晦日に油で揚げます。蒸して揚げるので日持ちもしますよ。
 かまぼこのすり身はかまぼこ屋さんで分けてもらいます。私は香里園のアートタウンというスーパーの中のかまぼこ屋さんに買いに行きます。今のお店は予約しなくてもその場ですぐに分けてもらえるので助かっています。すり身は塗り方によって量が変わってくるので、お好みに合わせて下さい。
 それにしてもおせち料理のレシピなら、もっと早く年内に書かないと役に立ちませんよね。すみません。来年は考えます。タイミングをはずしながらも、今年も頑張りますので、どうぞよろしくお願い致します。m(_ _)m

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2009年1月 1日 (木)

アニメ(こーじ)

 1月1日は元日です。あけましておめでとうございます。それと少年法施行の日、神戸港記念日、鉄腕アトムの日です。
 今日はもちろん元日ですが、20歳未満の少年の健全な育成を目的とした「少年法」の施行の日でもあります。
 国産漫画映画の誕生は、活動写真〉の輸入から18年後の1916年、北沢楽天を中心にした漫画雑誌《東京パック》の同人下川凹天、幸内純一と、洋画家の集りフュウザン会の企画経営者北山清太郎の3人から始まります。当時《凸坊新画帖》という肩書で公開された E. コールらの作品の現物を分析して、手探りでそのトリックを解明するところからスタートしました。次いで幸内純一門下の大藤信郎の〈千代紙映画〉(《馬具田城の盗賊》1926)が生まれ、やがて洋画、日本画を学びマキノ・プロを経てきた政岡憲三が登場し、《森の妖精》(1935)、《べんけいとウシワカ》(1939)などの意欲作を発表するとともに、家内工業スタイルだったこの世界に、近代的な製作スタイルを導入して合理化を進めました。瀬尾光世をチーフ・アニメーターとする政岡映画の製作スタッフが、今日の日本のアニメ製作者の源流を形成したといえます。大部分のアニメは教育映画、国策 PR 映画の一端として製作され、作品として一人前扱いされないというのが当時の状況でした。戦時中に作られたアニメの中では、政岡憲三の珍しく時局色のない《くもとちゅうりっぷ》(1943)、瀬尾光世の長編《桃太郎の海鷲》(1943)が出色で、それぞれ平和と戦争のシンボルとして今日なお命脈を保つ名作とされています。
 戦後は、次の三つの事件を経て日本のアニメーションは大きく転換しました。(1)藪下泰司の《白蛇伝》(1958)を最初とする〈東映動画〉による長編漫画がコンスタントに(年1回、夏休み用に)製作され、上映され始めたこと。(2)60年、久里洋二、柳原良平、真鍋博が〈三人のアニメーションの会〉を設立して、積極的な実験アニメの製作に乗り出したこと。(3)63年、漫画家の手塚治虫の虫プロが、毎週、国産テレビアニメの30分番組(《鉄腕アトム》)をスタートさせたこと。とくに虫プロ作品はテレビアニメの隆盛を促し、しだいに30分のテレビアニメはギャグからストーリー中心に移行し、やがて《アルプスの少女ハイジ》など、一年連続の児童文学ものが登場。この名作児童文学のアニメ化と並んで、同じ74年に SF 宇宙戦争もの《宇宙戦艦ヤマト》が半年連続シリーズとして作られ、その後の連続テレビアニメの二大路線を築きました。《ヤマト》の総集編が77年に劇場公開されて大ヒット、これが劇場用長編アニメ競作の口火となり、松本零士原作、りんたろう演出の《銀河鉄道999》(1979)のような劇場の大画面を生かした映像美をたんのうさせる作品や、宮崎駿演出、大塚康生作画監督の《ルパン三世・カリオストロの城》(1979)のような緩急自在の作劇、痛快なアニメート、奇想天外なギャグなど、おとなも満足させる内容と技術をそなえた冒険アニメの快作も生まれました。製作本数だけは世界一という日本の商業アニメの濫作状況の中で、実験的な自主アニメも活発に製作され、久里洋二の一連のナンセンス・ギャグ・アニメ(《人間動物園》1962、《殺人狂時代》1967など)がまず海外で注目され、次いで古川タク(《Head Spoon》1970、《驚き盤》1975など)、J. トルンカに師事した〈人形アニメ〉の川本喜八郎(《鬼》1972、《火宅》1979、など)、岡本忠成(《ふしぎなくすり》1965、《虹に向って》1977、など)らが、各地の国際映画祭で受賞して世界的な名声を得ました。

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