愛妻家(こーじ)
1月31日は、生命保険の日、愛妻家の日、晦日正月・晦日節です。
生命保険の商品ができた日ではなくて、「受け取り人第一号」が現れた日だそうです。1月30日に亡くなられた方で、30円の保険料で1000円の保険料が降りたとか。
古代における妻の他の時代と異なる大きな特徴は、夫とは別に自己の特有の財産を所有し、かつそれを自分の意志で自由に処分、運営できた点でした。女性による土地の売却や買集めを示す当時の文書がそのことを有力に物語っています。そして、このような自己の所有を基礎とする当時の妻の地位は夫と対等で、妻は夫と同等に農業経営にかかわり、みずからの意志で離婚でき、娘の婚姻の決定にも夫より強く関与していました。なお当時の婚姻はいまだ単婚以前の段階で、男にとって妻は必ずしも1人ではなかったのですが、これら複数の妻たちの間には妻妾の別が未成立でした。ただし五位以上の官人は嫡子決定の必要上、形式的に嫡妻を治部省に登録させられていました。対等であった妻の地位も10世紀初めころを境にまず支配層から低下していきます。
《御成敗式目》の11条には、妻がその里方から相伝した所領について、次のような規定が見えています。その夫になんらかの罪科があって所領の没収を受けるとき、妻妾の所領も同様な扱いを受けるかどうかという問題について、もし夫の起こした犯罪が、〈謀反殺害山賊海賊夜討強盗等〉の重科であるときには、夫と同罪に扱われますが、夫の犯罪が軽罪のときには、妻の所領は没収されることはない、というものでした。とするならば、この規定から、妻の所領が夫からある程度独立した存在であったことが知られます。事実その当時、妻の所領は、その大半がその里方一族の惣領の統制下にあり、夫の支配からは一定程度自立した存在としてあったのです。このことは、妻の身柄そのものに関しても同様で、妻はつねに里方惣領の強い統制下にある存在でした。
鎌倉時代は、後世に比べて夫に対する妻の立場が比較的強かったといわれていますが、これは、まったくこのように里方一族の権威、実力を背景としての事柄であったということのようです。こうしたことは、子どもに対する親としての教令権についても同じでした。つまり《御成敗式目》の18条が、〈男女の号異なりといえども、父母の恩惟(これ)同じ〉と記したように、当時においては、子どもに対して親権(教令権)を行使しうる立場にあったのは、父と母との両名でした。これは、きわめて平凡なことのように思えるかもしれませんが、中世後期から江戸時代になると、親権といえば父の権限のことに限られるようになるので、それと比較すると、鎌倉時代における上記の事実は、やはりこの時代の特色を示すものとして、はっきり確認されなければならないでしょう。これは、妻がその里方から伝領した所領を夫とは別に持っていた事実とともに、その所領を子どもに対して独自に処分しうる権限を持っていたことに基づいていたといわねばなりません。中世前期の女性の中に、たとえば北条政子のように、夫の没後、夫に代わる強い権限を行使する人物が存在していたことも、まったくこうした里方所領に対する権限によって裏づけられていたとみてよいようです。しかも、この時代は同母兄弟姉妹の結合力は想像以上に強力でしたから、妻が上記のような社会的活動を行ううえで、その里方の兄弟姉妹の強い援助のあったことにも、注意しておく必要があります。
だが、こうした妻の自立的立場も、室町時代以降になると低下し始めます。それは、女子の所領相続権がこのころになるとしだいに廃され、その結果、妻がその子どもたちに所領を処分するという物質的権威を背景に、〈母〉として臨む資格を喪失していったからにほかなりませんでした。こうして、戦国時代に作成された《世鏡抄》が記したように、妻は夫の子ども(後継者)を生むための道具としてしか観念されなくなっていくわけです。























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