« 遊びの会(くみこ) | トップページ | クリスマスツリー(こーじ) »

2008年12月 6日 (土)

交響曲(こーじ)

 12月6日は、シンフォニー記念日、姉の日、音の日、ラジオアイソトープの日です。
「シンフォニー記念日」です。日本語で言うと「交響曲」ですね。山田耕筰が日本で最初に交響曲を発表したのが1914年の今日で、それを記念しています。
 交響曲は18世紀後半からヨーロッパ、それも主としてドイツ語圏を中心にとぎれることなく発展してきましたが、特にベートーベン以後の19世紀には、オペラと並んで作曲家の芸術性と技量が最高度に発揮されるジャンルとなりました。
 交響曲の成立と発展の過程は、前古典派・古典派の管弦楽、合奏器楽、ソナタ等におけるあらゆる成果を理解する基準となります。このジャンルは当時のヨーロッパのほぼ全域の音楽都市と北アメリカの一部で培われました。J. ラ・リューの統計によれば、前古典派が始まろうとする1720年ころから古典派末期の1810年ころにかけてのレパートリーは1万2350曲にも達します。またこのジャンルの発展と広範な普及は、18世紀ヨーロッパ社会における音楽のあり方の変化と密接にかかわっています。啓蒙思想は芸術を愛好し保護する啓蒙君主を生み出すと同時に、〈神の栄光のために〉という前提を離れた、人間の理性と感性に訴える自然で簡潔な音楽様式を成立させました。また産業革命とそれに伴う経済機構の変化、人物交流の活発化は、中産階級の台頭、音楽の需要・供給の構造的変化をもたらしました。市民革命に至るこうした趨勢の中で、芸術音楽は宮廷や教会から解放され、新しい市場を獲得しつつありました。パリやロンドンなどの国際都市における公開演奏会の定着、愛好家向けの楽譜や音楽雑誌の出版、これら新しい音楽産業の発達を通して行われた音楽の大衆化は、交響曲発展の土壌ともなったのです。
 18世紀における交響曲の概念は今日のそれと必ずしも一致しません。交響曲と他の諸ジャンルとの様式的差異はかなり明らかになりつつはありましたが、〈シンフォニー〉〈シンフォニア〉〈序曲〉という名称はしばしば混用され、これら3者の境界はときとしてかなりあいまいなままでした。交響曲という不可侵の威厳が確立されていたわけでもなかったようです。交響曲は特定の聴衆の趣味や、演奏の目的・機会等のもろもろの現実的制約に従って構想された(例えばハイドンはエステルハージ侯家宮廷楽団のそのときどきの楽員構成に応じて作曲しなければならなかったそうです)。同一作品ないし楽章が、別の機会のために換骨奪胎されて他の作品に転用されたり、セレナーデなど他のジャンルからの寄集めにすぎないものもありました。演奏の実態もさまざまで、異なる編成で、あるいは全曲でなく特定の楽章だけ演奏されることもまれではありませんでした。オーケストラの規模は場所や目的、調達しうる人数に応じて、室内楽的規模の十数名から総勢100人に及ぶこともありました。なお、バロック以来の通奏低音の習慣は、実質的に本来の和声充浬の意義を失いつつはあったものの、演奏に際しては18世紀末(ジャンルや地域によっては19世紀)まで保たれていました。
 交響曲の前身はイタリア・オペラの序曲です。これは〈シンフォニア〉〈イタリア風序曲〉と呼ばれ、〈フランス風序曲〉とともに17~18世紀の二大序曲形式となりました。シンフォニアの歴史はナポリ楽派の1680年代のコメディ風オペラ(A. スカルラッティ)に始まります。全体は急(アレグロ)―緩(アンダンテ)―急(舞曲風のアレグロないしプレスト)の3楽章構成で、荘重な対位法様式のフランス風序曲と対照的に、概してホモフォニックな様式で書かれました。18世紀にはしだいに自由で簡潔な声部書法、規則性と歌謡性に富む旋律法、明快な和声構造など、前古典派風の様式を獲得していきました。第1楽章はソナタ形式、フィナーレはロンド形式の発展にそれぞれ関係しています。編成は当初は概して弦4部と通奏低音でしたが、やがて管が加わって、1730年以降はオーボエ、ホルン各2と弦という、古典派管弦楽の標準編成が定着していきました。シンフォニアはやがて一方ではオペラ等から独立して演奏会用のレパートリーとなり(演奏会用シンフォニア)、演奏会の開始と終了を告げるなどの機能を担い始めました。また本来のオペラ序曲も演奏会に転用されていきました。このジャンルの発展に寄与したのは、前古典派の主要都市で活躍した作曲家たち、すなわちナポリの A. スカルラッティ、ミラノのG. B. サンマルティーニ、ウィーンの M. G. モンとワーゲンザイル、マンハイムのシュターミツ、ベルリンまたはハンブルクのエマヌエル・バッハ、パリのゴセック、そしてロンドンのクリスティアン・バッハらです。これらの楽派はそれぞれ独自の楽風を培いましたが、ソナタ形式の発展に関しては特にサンマルティーニやモン、ワーゲンザイル、シュターミツ、2人のバッハが、またメヌエットを含む4楽章制の定着についてはモン、ワーゲンザイル、シュターミツの3人が注目されます。とりわけマンハイムの宮廷には楽長シュターミツの指導下で厳格に訓練されたカペレ(楽団)があり、シンフォニア語法の発展と管弦楽の整然かつ効果的な演奏法に多大の貢献をなしたことで知られます(マンハイム楽派)。シンフォニア(今日でもイタリア語では交響曲をさす)とシンフォニーの区別があいまいである以上、前者から後者への移行期を確定することはいささか困難ですが、交響曲が名実ともに一つの独立したジャンルとして完成されたのは、18世紀後半、とりわけ古典派の巨匠たちの力に負うところが大きいようです。
 ハイドンは1757年ころ‐95年の約38年間に、現存するものだけでも106ないし107に及ぶ交響曲を書いていますが、それらはあらゆる可能性の探索とさまざまな音楽的、技法的実験の足跡を示していて、それ自体このジャンルの成熟の歴史と言ってよいそうです。すなわち協奏交響曲風の標題音楽的三部作《朝》《昼》《晩》(1761)や、ハイドンの〈疾風怒濤〉期と言われる1766‐73年の短調作品群(《告別》など)、外国の演奏会のために書かれた《パリ交響曲集》6曲(1785‐86)と二つの《ロンドン交響曲集》12曲(1791‐95。《驚愕》《奇跡》《軍隊》《時計》《太鼓連打》《ロンドン》など。第2集6曲のほとんどはクラリネットを含む古典派最大標準編成)などが有名です。完成されたハイドン様式は、動機労作による統一的形式、集中的展開を特徴としますが、そうした知的造形ばかりでなく、ユーモアあふれる親しみやすさも同時に兼ね備えています。
 円熟期に向かうハイドンと相互影響の関係にあったモーツァルトは、8、9歳(1764、65)ころから1788年にかけて、セレナーデなど他ジャンルからの転用やオペラ序曲、断片楽章等を含めると54曲ほどの交響曲を残しています(1980年には最初期の曲(K6.19a)の全曲が発見されました)。彼の様式は、ソナタ形式をはじめ古典的諸形式の完成に寄与する一方、概してハイドン的な動機労作の徹底よりは多くの魅力的な楽想の並列、精妙な和声的色彩と管・弦が有機的に絡み合う管弦楽法を特徴としています。パリの聴衆の趣味を意識した大編成(ハイドンの最後期と同じ)の《パリ》(1778)は、直前に訪れたマンハイムの様式の影響が顕著です。ウィーン時代(1781‐96)には《ハフナー》(1782)、《リンツ》(1783)、《プラハ》(1786)、そしていわゆる最後の三大交響曲(1788。《変ホ長調》《ト短調》《ジュピター》)など、その規模と風格、技術的完成度、親しみやすさにおいて、交響曲史上まれにみる作品群があります。
 交響曲の発展は19世紀に新たな局面を迎えます。18世紀の成果はベートーベンという強力な個性を介してロマン主義の時代に受け継がれ、さまざまな形象を生み出しました(ロマン派音楽)。一方、作曲家1人あたりの作品数の減少と規模の拡大化傾向、作品ごとの多様な書法などが、創作態度の変化を物語っています。交響曲は宮廷を離れもろもろの現実的制約から解放され、機会音楽的性格を払拭し、時代の音楽的語彙の単なる集成たることをやめて、1曲ごとに芸術家が彼の全人格を笛けて挑戦する対象となったのです。また19世紀には、楽器の発明と改良、指揮法の確立、職業指揮者の出現など、管弦楽法や演奏様式、演奏解釈の点でも注目すべき進展がみられます。さらに、資本主義経済の発展は聴衆の大量動員とそれに伴う大ホールの建設を促しましたが、大規模な管弦楽への志向はそうした社会背景と無縁ではありません。19世紀の交響曲は、大きくベートーベンと、初期および後期のドイツ・ロマン派、標題交響曲、国民楽派、フランス楽派、そして20世紀への過渡期といういくつかの系列においてとらえることができます。
 ベートーベンの9曲(1800‐24)はいずれもそれぞれに特有の問題意識をはらんでいます。スケルツォを導入した《第2番》(1802)、特に展開部やコーダにおける形式的規模の飛躍的拡大、多種多様な動機による展開労作と変奏技法、そして雄大な構想、これらが曲に記念碑的な風格を与えている第3番《英雄》(1804)、冒頭動機による全楽章の統一、楽章間の有機的な連係と頂点を終楽章に置いた設計、本来教会や劇場専用の楽器であったトロンボーンの導入等々、革新的な要素の多い第5番《運命》(1808)、あるいは標題性をはらんだ全5楽章(3~5は連続)の第6番《田園》(1808)、そして終楽章で独唱と合唱を登場させて時代の精神的理想をうたいあげ、さらに打楽器群を効果的に使用した《第9番(合唱付)》(1824)など、革命期の新しい市民層の意識を背景とした作品群があります。特に絶対音楽的性格と標題音楽的性格、単一動機による全曲の統一、新しい楽器と声部の導入などは、以後の交響的作品に決定的な影響を及ぼしました。
 ほぼ同時期にウィーンで活躍したシューベルト(完成7曲。未完、断片、スケッチ数曲。1811ころ‐28)は、本領のリート(歌曲)の曲想を生かしつつ、断片動機の集中的展開よりもむしろそれ自体で充足した旋律をのびのびと歌わせ、和声的色彩で陰影を施しながら反復させるという独特な形式感を打ち出しています。第7番(従来の番号付では第8番)《未完成》(1822)と第8番(同じく第7番ないし第9番)《ザ・グレート》(1828)では、トロンボーンが定着し、規模も拡大されて、後のブルックナーを思わせるような息の長い呼吸が認められます。
 その他、初期ロマン派交響曲では、メンデルスゾーン(初期の弦合奏主体の13曲と、1824‐42の5曲)とシューマン(未完とスケッチのほか、1841‐51の4曲)が重要です。メンデルスゾーンは第3番《スコットランド》(1842)、第4番《イタリア》(1833)をはじめ、標題音楽的な雰囲気と色彩豊かな管弦楽法を特徴とします。シューマンは第1番《春》(1841)や第3番《ライン》(1850)、第4番(1841、改作1851)などで、ピアノ的な発想と語法を背景として、文学的契機を暗示しながらも純音楽的な動機による統一的造形を打ち出しています。
 一方、19世紀における標題音楽の概念にとって画期的存在となったのは、フランスのベルリオーズの《幻想交響曲》(1830)です。この革命的な作品では、特定の人物を表し物語の筋に従って全5楽章に頻出する同一の旋律(固定楽想)が形式上・内容上の統一性を保証し、また和声法や管弦楽法においても大胆な実験が試みられています。その成果を踏襲したリストは2曲の標題交響曲を残したほか、1848年から交響詩のジャンルを開拓しています。
 楽劇の運動にも関連するこうした〈進歩的〉な一派に対して、19世紀後半のドイツ、オーストリアにおいてなお純粋な絶対音楽の堡塁を堅持したのが、ブラームスとブルックナーです。ブラームス(全4曲。1876‐85)は古典的な形式と技法(例えばパッサカリア)を用いて伝統的な交響曲の風格を保つ一方、重厚で緻密な和声法・管弦楽法を駆使しながら内省的な世界に沈潜するなど、個性的な様式を示しています。ブルックナー(習作と未完の第9番を含め11曲。1863‐96)は一見ブラームスと対照的ですが、やはり伝統的な書法から出発しました。しかしオルガン演奏の大家としてオルガン的音響像を土台に、また古典対位法と近代的な半音階和声法の完ぺきな技術を裏づけとして、しだいにエネルギーの巨大な生成を思わせるような独特な造形感を打ち出していきました。特に最後の第7~9番(1883‐96)の3曲は広く知られています。
 19世紀後半から20世紀初頭にかけてのフランスでは管弦楽再興の兆しが著しいそうです。交響曲では、古典主義的傾向のビゼー、グノー、サン・サーンス(《第3番(オルガン付)》1886など)、循環形式で有名な C. A. フランク(《ニ短調》1888)、ダンディ、ショーソンらが挙げられます。当時はまたヨーロッパ各国の民族主義の高まりを反映して、東欧・北欧諸国が独自の民族的音楽語法を涵養していった時期でもあります。交響曲に関しては概してドイツ・ロマン派様式の影響が根強いのですが、ボヘミアのドボルジャーク、ロシアの A. P. ボロジン、チャイコフスキー、グラズノフらが挙げられます。
 世紀の変り目には、ブルックナーの弟子のマーラーが、交響曲を〈世界のようなもの〉としてとらえる独特な音楽観に立脚して、従来の枠を越えた一連の問題作を書きました(未完を含め11曲。1888‐1911)。長大で個性的な造形と大編成(3~5管と多彩な打楽器群。曲により独唱ないし大合唱、あるいは両者を伴う)による多彩かつ精緻な室内楽的密度の実現を背景に、自作のリートなどさまざまな旋律素材が一見雑多にコラージュされて、まさにありとあらゆるものを包含する〈世界〉が現出します。新ウィーン楽派をはじめ当時の若い音楽家たちに与えた影響は大きいようです。

|

« 遊びの会(くみこ) | トップページ | クリスマスツリー(こーじ) »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




« 遊びの会(くみこ) | トップページ | クリスマスツリー(こーじ) »