12月12日は、バッテリーの日、漢字の日、児童福祉法公布記念日です。
今日は「バッテリーの日」と「漢字の日」です。バッテリーというのは車などに積んであるバッテリーのことですが、この12月12日になったのは、野球の「バッテリー」が数字で1,2とあらわされることからだそうです。漢字の日は日本漢字能力検定協会というところが制定したもので、毎年この日に、「今年を表現する漢字」が発表されます。もう発表されてるでしょうか?
児童福祉の歴史は、産業革命を経ての資本主義社会の展開過程で生まれた児童・婦人の労働問題と深くかかわっています。児童を搾取や人身売買や劣悪な環境から救出しようとする児童保護活動に始まり、現代では児童の生活を健全に維持し、権利を保障する物心の援助体系として推進されるに至っています。しかしその発展やあり方は社会的背景を抜きにして考えることはできません。第1次大戦で養育者を失い、食糧も定住地さえも奪われた児童の救済問題をその重要課題の一つに掲げた国際連盟は1924年に〈ジュネーブ児童権利宣言〉を採択しました。第2次大戦下におけるナチのユダヤ人や重度心身障害児の大量殺害への反省、世界各国に見られた戦争孤児や浮浪児の惨状の回復は大人の世代の責務とされました。国際連合は48年に〈世界人権宣言〉を採択し、59年に〈児童権利宣言〉を採択しました。経済開発の差は先進工業国と開発途上国の児童の基本的ニーズの充足度に格差を生ぜしめました。〈豊かな社会〉にあって肥満に苦しむ児童を見る国の傍らに、餓死や栄養失調で死亡する児童が大量発生している国もあり、児童生存上の危機は南北問題としても大きくクローズアップされています。
このバランスを回復しようと国際連合は、79年に国際児童年のキャンペーンに乗り出しました。日本でも問題をもつ子どもだけに特別注目する〈児童保護〉という戦前の狭い見方から、基本的人権の考え方に立って、児童問題の事後処理のみならず、すべての児童の権利を予防的に守る健全育成までも含めた〈児童福祉〉の展開に至ったのです。
明治時代における救貧施策の一つとして、政府は〈捨児養育米給与方〉を定め、1873年には〈三児出産ノ貧困者ヘ養育料給与方〉を制定しました。74年の制定以来、1932年まで半世紀以上も続いた〈恤救(じゆつきゆう)規則〉は13歳以下の極貧孤児に対し、1年につき米7斗を支給するという制度を盛り込んでいました。
明治年間、少年保護施設や育児施設が設立され始めましたが、代表的な育児施設としては石井十次による岡山孤児院(1887)があり、民間感化院としては、留岡幸助による家庭学校(1899)がありました。カトリックに基づく施設としては、横浜慈仁堂(1872)、浦上養育院(1874)、函館聖保禄女学校(1878)等があります。仏教に基づく施設としては福田会養育院(1879)が著名です。明治期においては政府の法的措置の遅れをよそに民間の慈善事業が多発しましたが、とりわけ濃尾地震(1891)や北陸恐慌等の災害を機にさらに育児事業が発展しました。
明治から大正にかけて、最も発展したのは少年の感化事業です。1908年に感化法が改正され、各都道府県に感化院設立が義務づけられ、19年には国立感化院として武蔵野学院が開設されました。
1918年の米騒動から大正後期にかけては日本社会事業の成立期といわれます。法規の面では22年は少年法および矯正院法が成立し、感化法が改正されました。さらに大正デモクラシー期の労働運動の高まりの中で年少労働者の保護が、工場労働者最低年齢法(1923公布)や船員最低年齢法(1927公布)の中に現れたことも注目に値します。さらに関東大震災を機に託児所、乳児院や孤児院が多々設立されました。昭和に入って29年には救護法が制定され(1932施行)、貧困児童の施設収容も行われ、37年には貧困母子保護法が制定されました。38年に厚生省が設置され、児童の保健と体力の向上をねらいとする児童保護政策を行いましたが、軍事国家の体制の中において、その意図は児童の尊厳を見つめるよりはむしろ国家の人的資源の確保を目的とするものでした。第2次大戦突入後はいっそうこの政策が強化され、軍国主義国家の性格上、軍人遺家族、遺児の保護に重点が置かれ、障害児の問題はほとんど施策の外側に置かれました。また、食物も、住む家もなく浮浪化する戦災孤児の問題も大きな社会問題となりました。
45年第2次大戦が終わり、国民はゼロの段階からの生活作りに再出発しました。復員兵や引揚者で人口が急激に増大し、第1次ベビーブームが現れるほか、数年後には沢田美喜の養護事業に代表される混血児問題も顕在化してきました。GHQ の管理下にあった政府は、社会秩序を回復すべく45年9月20日、〈戦災孤児等保護対策要綱〉を決定し、戦災孤児、引揚孤児、戦没軍人の孤児等の収容保護を行いました。保護対策といってもきわめて強硬な取扱いで、実情は〈浮浪児狩り〉と称されるとおりでした。
46年新憲法が制定、公布されました。新憲法の〈すべての国民に健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を保障〉しようとする理念のもとで、47年には児童福祉法が公布されました。この法律は、これまでの児童政策に流れていた要保護児童のみの保護からそれを乗りこえ次の世代の担い手となる児童一般の健全な育成を図ろうとする、全児童に対する統合的な法律です。
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