« 2008年11月 | トップページ | 2009年1月 »

2008年12月

2008年12月31日 (水)

大晦日(こーじ)

 12月31日は、そばの日、シンデレラデー、New Year's Eveです。
 いよいよ大晦日ですね。「おおみそか」は12月31日のことですけど、毎月の月末も普通の「みそか」で、江戸時代には晦日にそばを食べる慣わしがあったそうです。そのうち大晦日だけ残ったんですね。あと、大晦日といえば除夜の鐘ですが、108つの煩悩を払うといわれていますね。眼・耳・花・下・身・意のそれぞれに3種類の苦楽、2種類の浄・染、前世・今世・来世の3世を掛け合わせて、全部で108らしいです。
 大晦日の夜のことを年越しといいます。オオトシ(大年)、トシノヨ(年の夜)などともいいます。年の改まりに際しての年神祭や年重ねに関する行事があります。古くは1日の境は夕暮れどきにあったといわれていますが、年越しの行事も多くは大晦日の夕方から始まります。すでにすす払いも終わり、しめ縄をも引き回した屋内に年神を迎え、年棚に神酒、蛭、魚、野菜などを供えて、その前で家族揃って正式の食事をする所がかつては多かったそうです。元日朝にはその神饌を下げて家族一同でいただくことによって年神の霊威が各人の身につき、新しい年を一つ加えることができると考えられていたのです。大晦日夜の食膳をオセチ、トシトリなどといってハレの食事と考えているのは全国的です。年越しそばもその一つですが、サケやブリなど特別な正月魚(年取り魚)を用意することに決めている所も少なくないようです。また大晦日の夜は眠らずに過ごすべきとされ、もし禁を破れば白髪になるとかしわがふえるという伝承があるのは、この夜が、訪れた年神に侍座すべきときと考えられていたからです。これら各家の作法とは異なって、ムラ人が神社に年籠りして夜を明かす例もありますが、すでに多くは元旦の未明に参詣するように変わってしまっています。年越しには火を欠かせないとする考えもあるそうで、境内で火をたいて新年を迎える神社は多いそうです。いろりのあるころには各家庭においても大火を燃やし続ける所が少なくなかったのですが、このまきを節榾(せちほだ)、世継榾(よつぎほだ)という所があるのは、神聖な火が絶えることなく継承されることを願ったからでしょう。大晦日だけではなく、1月6日を六日年越し、14日を十四日年越しといい、節分をも年越しというのは、これらの夜から次の七日正月、十五日正月、立春にかけてが、いずれも神の来臨を仰ぐ年改まりのときと観念されていたからと思われます。これらとは別に、牛馬や道具類にもしめ飾りや供え蛭をして道具の年取りをさせ、新たな力を賦与させようとする例もあります。

| | コメント (0)

2008年12月30日 (火)

クリスマスケーキ(くみこ)

 ちょっとタイミングがずれてしまいましたが、クリスマスケーキの話です。23日に作りました。
 私は、ケーキを作るとつい食べてしまうので、普段はあまり作らないことにしています。昔20代の頃、お菓子作りを習いに行っていたこともあるのですが・・・。先生は何と先日書いたさゞなみ会のM先生なのですが!ピアノとお菓子の両方を教えておられるのです。すご~い!パンはたまに焼きますが、ケーキは特に最近さぼっていました。でもクリスマスぐらいは子供のために焼いたのでした。
 クリスマスケーキはクリスマスツリーの形にして、子供たちに好きなように飾らせます。ベルの形にしたり、いろいろやってみましたが、最近はクリスマスツリーの形が定着しています。市販のチョコレートや缶詰の果物に加えて、今年は何と星型のようかんまで乗っています。ハチャメチャなセンスですね。(^0^;
 スポンジは簡単にホットケーキミックスを使いました。昔、粘土細工のまこぴーさんに教えてもらったのですが、よつばのホットケーキミックスならおいしいですよ。コーヒー味のスポンジにしてみました。クリスマスツリーなので、生クリームに緑の色粉で色をつけようと思っていたのですが、ちょっとバタバタしていて余裕がなく、白いままになってしまいました。本当は抹茶でしっかり色をつけると風味もあってよさそうですが、まだやってみたことがありません。(^0^;来年こそ緑色のツリーにしたいと思います。(でもやっぱり白いかな?)
 あまりしゃれた飾りつけではありませんが、子供たちは楽しんだようなので、よかったなあと思います。いつまで一緒に楽しんでくれるのかしら?

Cake1

| | コメント (2)

2008年12月29日 (月)

シャンソン(こーじ)

 12月29日は、清水トンネルの日、シャンソンの日です。
 美和明宏、岸洋子、金子由香利、そしてクロード野坂(作家の野坂昭如)などが出演し、シャンソン歌手の登竜門として知られ、文化の発祥地でもあった銀座のシャンソン喫茶「銀巴里」が1990(平成2)年のこの日に閉店しました。営業40年、惜しまれながらのフィナーレでした。
 こんにちシャンソンといえばフランスの小唄または流行歌のことですが、日本のそれとはまったくちがうので、ちょうどドイツの〈リート〉のように、シャンソンはシャンソンとしてそのまま理解されるべきものといえます。シャンソンはくつろいだ気分のもので、けっして職業的声楽家のためばかりのものではありません。一般大衆も単に〈聞き手〉にまわるだけでなく、彼ら自身も気軽に〈歌う人〉になれるという点に、その本質的な特徴があり、ここにいわばシャンソンの生命があります。そのためには単純でなければならないのですが、それは単調や下品を意味せず、感情にうったえるとともに、知的にも人をたのしませるものでなければならないそうです。多くの人々のもの、ということは、まず歌詞が日常語からえらばれた親しみのある言葉で組みたてられ、直接的な言いまわしがたいせつであるということですが、そのため言葉は意味よりもむしろその色や音で人をひきつける場合のほうが多いかもしれません。シャンソン歌手にはいろいろの型がありますが、そのうち〈ディズール〉とか〈ディズーズ〉とかいうのがあります。それぞれ〈男性の語り手〉〈女性の語り手〉ということですが、シャンソンを〈シャンテ〉(歌う)というより〈ディール〉すなわち語るように表現する歌手のことで、シャンソンが一編の物語であり、ドラマであるということがわかります。
 パリでいまシャンソンが歌われている小屋は、内容によって分類すると、〈ミュージック・ホール〉〈シャンソニエ〉〈カフェー〉の三つになります。シャンソニエというのはかつてのキャバレーの系統をつぐもので、シャンソニエ詩人を中心とする小屋をいい、客は入場料をはらって入ることになります。つまりキャバレーを劇場化したものということになりますが、収容人員はせいぜい400人どまりです。キャバレーは〈コンソマシオン・オブリガトワール〉(強制的ないし義務的飲食物)をとるかわり、入場料はいりません。一方ミュージック・ホールは、レビューを上演の小屋とボードビルのものと二つに分かれ、どちらも第2次世界大戦後さらに人気を高めています。幕なしで各場面がはこばれるミュージック・ホールでは、〈トゥール・ド・シャン〉(歌手が自分の持歌を3~4番うたって出番をうめる)を中心として、10くらいのニュメロ(曲目)があります。これらパリの小屋はそれぞれに伝統をもっていて、構えにも大小、格式にも上下があります。〈ボビー〉〈ウーロペアン〉〈A・B・C(いまオペレッタ劇場)〉などは一流の小屋で、シャンソン歌手の登竜門というにひとしいそうです。一方、シャンソンの流行は戦後はとくにラジオ、レコードなどに大きく支配されるようになり、〈ディスク大賞〉などは大きい価値をもっています。最近のシャンソン界では、アメリカのポピュラー・ソングがシャンソンにアレンジされて流行する現象がかなりあります。その反対にアメリカでシャンソンがジャズ化されてもてはやされる場合も多いようです。

| | コメント (0)

2008年12月28日 (日)

映画という言葉(こーじ)

 12月28日は、ディスクジョッキーの日、身体検査の日、シネマトグラフの日、官公庁御用納めです。
「官公庁御用納め」は官庁が仕事納めの日です。サービス業などを除く多くの一般企業でも、今日が仕事納めですね。一年間お疲れ様でした。
 映画の前身である〈回転のぞき絵〉の一つ、ゾーエトロープがイギリスで1830年代に発明され、60年代に科学玩具として欧米で売り出されたときの宣伝文句が〈Spin the drum to see the picturemove(円筒を回転させると絵が動いて見えます)〉でした。ここから〈動く絵〉を意味する〈ムービング・ピクチャー moving picture〉、あるいは〈モーション・ピクチャー motion picture〉という呼称が生まれ、やがて映画を意味することばになったといわれています。アメリカでは1910年代にすでに〈ムービーmovie〉という略語が一般化し(1920年代には〈ムービー〉と名のつくファン雑誌があり、映画会社のフォックスが〈ムービートーン〉という商号登録をしています)、今日に至っています。また、〈ピクチャー〉ということばも映画作品を指すことばとして生き残っています(例えば〈サイレント映画〉はsilent picture として silent movie、silent film と同義に用いられます)。
 一方、フランスでは、1892年(1893年という説もある)にレオン・ブーリーという発明狂の技師が、シネマトグラフ(ギリシア語の kin^matos(動き)とgraphein(描く)の合成語)という名称を自分の発明した連続写真の装置に与えましたが、これが広く映画を意味することばになるのは、95年にリュミエール兄弟が〈シネマトグラフ・リュミエール〉の名で撮影機と映写機を兼ねた装置を公表し、世界で最初のスクリーンに映写する上映会を催してからです。1910年代には〈シネマ cinレma〉の略語が一般化します(フランス最初の映画会社パテー・シネマが設立されたのは18年です)。
 もう一つ映画を意味するフィルム film ということばは、中世英語の filmen(皮膚、薄い皮や膜の意)からきていて、ジャン・ジローの《フランス映画用語集》によれば元来は眼球のホシ、J. von スタンバーグの自伝《中国人の洗濯屋のドタバタ》によれば泡を意味することばだったそうです。1889年、イーストマン・コダック社が同社の開発した写真用セルロイド・リボンに〈フィルム〉の名を冠したのがこのことばと映像の結びつくきっかけとなりました。さらにトマス・エジソンが映画撮影用に50フィートという長いフィルム(ロールフィルム)をイーストマンに注文し、このときからこのことばは映画そのものに結びつくことにもなりました。なお、セルロイドということばも、英語やフランス語では映画の代名詞として使われていて、celluroid screen といえば〈銀幕 silver screen〉の意になります。

| | コメント (0)

2008年12月27日 (土)

ミニコンサートが終わりました(くみこ)

 先日クリスマスのミニコンサートをしました。今回で20回目でした。東京から20回連続出演のTさんも弾きに来てもらいましたし、あらためて20回続けてこられたことに感謝しています。夏のミニコンがわりと早く終わったので、みんなに少しずつ長めに弾いてもらおうとしたら、今度は予定より20分ぐらい遅くなってしまい、気の毒でした。あまり長くかかると疲れますよね。次はまた考えようと思います。
 東京からかけつけてくれた20回連続出演のTさんは、当日合わせただけだったのに見事な演奏でした。さすが!来年の夏もぜひ出演してもらって、連続記録をのばしていってほしいです。(^0^)/
 また親子・姉妹連弾も頑張ってもらったのですが、いつものまこぴーさんのところのパパさんが急な出張で、私が代わりに弾かせてもらいました。終わるころには駆けつけて頂いたのですが、次はぜひ弾いて頂きたいです。お子さんたちはパパさんの分も頑張って上手に弾いてくれました。
 今回初出演だったパパさんはバッチリ!でした。娘さんもうれしかったと思います。秋の発表会に出て頂けばよかった!来年の夏のミニコンでもう1度‘場慣れ’してもらって、秋には発表会にも出て頂きたいものです。もちろんお母さんと私が2台で弾いた「ダッタン人の踊り」もよかったですよ。
 全員のことが書けなくて申し訳ないのですが、他のお母さん方も上手に伴奏して下さったし、みなさんがそれぞれ頑張ってくれました。バイオリンもフルートも素敵な演奏を聴かせてもらえたし、CDに合わせたお子さんたちもよく頑張って弾けました。CDと言えば、なぜか1曲だけCDの調子がおかしくて音がとびまくり、しょうがないので私がもう1台のピアノで伴奏して2台の演奏になったお子さんがおられました。とても気の毒で申し訳なかったです。ごめんなさい。m(_ _)m
 クリスマスのミニコンでは「もろびとこぞりて」を2台のピアノとベルで演奏するのが恒例です。いつもベルは大人2人でやってもらっていましたが、今回初めて中学生2人と小学6年生4人+東京のTさんにベルを担当してもらいました。(写真)ピアノ2台は大人ですが、ベルが全員お子さんだと心配なので、Tさんに入ってもらって、別の大人の方に指をさす係もお願いしておきました。よく考えたら大人を2人も動員するなら最初から大人2人ですればいいのかもしれないけれど(^0^;、よい経験になるので挑戦してもらいました。ちょっと音が抜けたところもありますが、なかなかよかったと思います。少し下の学年のお友だちも‘ベル隊’に入るのを目標にしてもらえたらなあと思います。
 お子さんたち全員によるベル(千の風になって)も合奏(乱太郎のテーマ曲「勇気100パーセント」)も楽しかったです。うちの子供たちも何とか弾いていました。息子との2台の演奏はまあまあうまくいったのですが、ビデオのテープが切れていて映っていませんでした。残念!
 また21回目のミニコンに向けて頑張っていきたいと思います。アルバムに旅行やミニコンの写真をたくさん入れてもらっていますので、よかったらのぞいてやって下さいね。よろしくお願いします。

Beru Tsan

| | コメント (6)

2008年12月26日 (金)

セントラルリーグ(こーじ)

 12月26日は、プロ野球誕生の日、ジャイアンツの日です。
 日本初のプロ野球チームとして、ジャイアンツの前身である大日本野球倶楽部が創立された日です。
 ジャイアンツが属するセントラルリーグは、パシフィック・リーグとともに日本のプロ野球リーグの一つですね。正称はセントラル野球連盟です。1949年まで1リーグ8球団だった日本野球連盟が新球団参加問題で意見が一致せず分裂しました。50年、読売ジャイアンツ(巨人)、松竹ロビンス、中日ドラゴンズ、阪神タイガースの4球団に新球団として広島カープ、西日本パイレーツ、大洋ホエールズ、国鉄スワローズを加えて、8球団でセントラル・リーグがスタートしました。最初の公式戦の優勝は松竹で、この年から始まった日本シリーズでパシフィック・リーグの優勝チーム毎日オリオンズと対戦し、2勝4敗で敗れています。51年に西日本が脱退して7球団、53年には大洋と松竹が合併(洋松)して6球団となりました。さらに55年に洋松が大洋に、国鉄は65年にサンケイ、70年からヤクルトとそれぞれ変わりました。優勝回数は巨人が最も多く、とくに川上哲治監督時代の65年から73年まで〈9連覇〉を達成、いずれも日本シリーズに勝っています。78年にヤクルトが初制覇して6球団すべてが優勝を経験しました。個人記録でも巨人選手が目だち、50年に藤本英雄が対西日本戦で日本球界最初の〈完全試合〉を達成、65年には金田正一が通算400勝を記録しました。打者では王貞治が64年に1シーズン55本塁打、通算でも868本を記録しています。人気はパ・リーグをしのぎ、92年に初めてシーズン1300万人台を記録し、97年までに通算3億9500万人台に達しました。

| | コメント (0)

2008年12月25日 (木)

スケート(こーじ)

 12月25日は、クリスマスです。それと、昭和の日、スケートの日です。
 昭和の日は、1926(大正15、昭和元)年、大正天皇が崩御し、皇太子であった裕仁親王が践祚した日です。東京日日新聞(現在の毎日新聞)は、早くから「新しい元号は『光文』になるらしい」という情報を得ていたため、政府の公式発表の前に「元号は『光文』に決定」と報じました。しかし政府は元号を「昭和」と発表したため、この「大特ダネ」は「大誤報」となってしまい、編輯主幹の木戸元亮は責任をとって辞任したそうです。「光文」は新元号の候補の中にあったのですが、政府内では既に「昭和」に決定していました。しかし、東京日日新聞の報道から政府の公式発表までの時間があまりに短かったことから、「元々『光文』に決定していたものが、新聞で先に報道されてしまったため『昭和』に急遽変更した」という噂が生まれたそうです。
 スケートの日は、日本スケート場協会が1982(昭和57)年に制定しました。1861(文久元)年、函館に滞在していたイギリスの探検家トーマス・ライト・ブラキストンが、日本で初めてスケートをしたのが由来です。これとは別に、1792(寛政4)年にロシアの使節ラクスマン一行が根室で一冬を過ごした時に、結氷した根室湾内で滑ったのが日本初であるとする説もあります。
 スキーが積雪地方の踏雪具として発達したのと同様に、スケートも湖や沼の多い氷の国の踏氷具を起源としています。石器時代から北欧地方の住民は、冬季結氷した湖沼を通行するため獣骨を利用した運搬用具を使用していました。これが娯楽にも用いられ、木材を併用した滑走具となり、さらに金属の発達とともに現在のスケートに発展しました。古代スカンジナビアの住民が一種の獣骨製踏氷具をもっていたことは神話にも出ています。北方民族の踏氷技術はやがてドイツからオランダ、イギリスに伝わりました。ヨーロッパ各地から発掘される遺物の獣骨にはところどころに穴があいていますが、おそらくこの穴に紐を通して靴に結びつけて滑ったのであろうと思われます。一説には、木製、鉄製ともオランダ人の発明といわれますが、たしかにオランダでは12世紀から運河の建設が進み、冬季結氷した運河を滑走することは道路代りになるだけでなく、娯楽としても歓迎されました。鉄製スケートはしだいに改良が重ねられ、17世紀にはいると、スポーツとしてのスケートの愛好家が増えていきました。1742年(1642年ころともいわれる)には最初のスケート団体、エジンバラ・スケートクラブがスコットランドで設立され、72年にはフィギュアスケートの最初の技術書を、イギリスの砲兵士官ロバート・ジョーンズが著しています。スケートが近代化されたのは19世紀後半で、1892年には世界各国から代表が集まって世界の統轄団体、国際スケート連盟 International Skating Union(ISU)を創立、翌93年に第1回スピードスケート世界選手権大会をアムステルダムで、96年にはフィギュアスケート(男子)の第1回世界選手権大会をサンクト・ペテルブルグで開きました。スケート競技が冬季オリンピックの正式種目になったのは1924年フランスのシャモニーでの第1回大会からです。なお、1970年からは世界スプリント・スピードスケート選手権大会も開かれています。85/86年からワールドカップも開かれ、95/96年より種目別世界選手権が開かれています。

| | コメント (0)

2008年12月24日 (水)

尾道旅行~その3~(くみこ)

 もう1度だけ旅行の話にお付き合い下さいね。
 3日目は雨が降ってしまいましたが、志賀直哉旧居というのを訪ねました。歩いて10分ぐらいのところだったので、朝9時過ぎに行きました。すると雨の中朝早く一番乗りで行ったせいか、中で管理をされているおじさんがとても懇切丁寧に説明をして下さり、特別に普段入れないところまで入らせて頂き、私たちの写真も撮って下さいました。そこまでして頂けるとは思っていなかったのでびっくり!よい記念になりました。
 この日は帰る日でしたが、新幹線に乗る前に福山の広島県立歴史博物館に行きました。ここはとても見ごたえのあるところでした。歴史好きの息子も大喜び。中世の町並みが再現されており、家の中に入ると当時の食事や各職業の仕事場も再現されていました。鍛冶屋さん、塗り物屋さんなど少しずつおかずが違い、おもしろかったです。中でも鍛冶屋さんの食事が一番のご馳走でした。うちの晩御飯よりよほど豪勢なおかずです。(鯛の尾かしらつき!)もっと時間があればよかったのにと後ろ髪をひかれる思いで博物館を後にしました。
 ところでこの歴史博物館、今回は常設展だけだったので、大人290円、小中学生は無料!とてもありがたかったです。
 3回にわたって書かせて頂きましたが、尾道など縁がないと思っていたのに行くことができてラッキーでした。海が見える町はいいですね。いつか機会があればまた行ってみたいです。3回も旅行の話にお付き合い頂いて、ありがとうございました。

Chusei1 Chusei2 Chusei3 Chusei4 Siganaoya

| | コメント (4)

2008年12月23日 (火)

公衆電話(こーじ)

 12月23日は、天皇誕生日、テレホンカードの日、東京タワー完成の日です。
 「天皇の誕生を祝う」国民の祝日。天皇誕生日です。昭和8年、1933年にお生まれですね。
 あともうひとつの記念日は、「テレホンカードの日」です。1982年当時、まだ電電公社だったころのNTTが、数寄屋橋公園にカード式公衆電話の第一号を設置した日です。
 公衆電話は、不特定多数の人の利用に供するため、街頭、店頭等の公衆が利用しやすい場所に設けられた電話ですね。日本の公衆電話は、オフィスや住宅の加入電話が不足していた時代には、それを補う共同施設としての役割が大きかったのですが、加入電話の普及した現在では、それと連動して機能する便利な戸外の連絡手段として、国民生活のなかに浸透しています。また、種々の緊急連絡手段としても重要な役割を担っています。
 初めて日本に街頭用公衆電話が架設されたのは、1900年9月11日で、東京の新橋と上野駅前および熊本市内にそれぞれ1台ずつ設けられました。当時はこれを自働電話と呼びました。しかし25年、電話がダイヤル式になると、公衆電話と呼ばれることになりました。関東大震災前は、ボックスは六角形で、屋根も胴体も赤く塗られ、背面と正面以外は上部が桟の多いガラス窓で、下部が鉄格子でした。時代とともにボックスの形は変化していますが、しだいに周辺の環境との調和にも配慮されるようになっています。
 公衆電話は第2次大戦後めざましく発展しましたが、その過程においてニーズの変化や技術の進歩につれて以下に述べるような多様なものが導入され、それらが最近まで共存していました。
(1)街頭公衆電話 公衆電話ボックスに取りつけられたボックス型のものと駅頭などに見られる卓上型のものでボックス型には市外通話に便利な100円硬貨も使える黄電話と、10円硬貨用の青電話がありました。
(2)店頭公衆電話 タバコ屋や駅の売店に設置されたいわゆる赤電話です。
(3)農村公衆電話 電話の普及が遅れている農山村に設けられます。(4)特殊公衆電話 電話局や郵便局の前に設置し、夜間または休日など、窓口が閉まっている場合に電報を打つのに使われます。(5)公衆シルバーホン 耳の遠い老人などのために設置されます。(6)ピンク公衆電話 喫茶店やレストランなど公衆が多く出入りする場所に設置されている特殊簡易公衆電話です(97年3月末現在、79万5701台)。
 しかし近年、プリペード・カード(テレフォンカード)使用電話(カード式電話、1982年12月に導入)の普及が急速に進み、96年時点では赤、青、黄色の公衆電話はすべて撤去されています。また、店頭公衆電話というサービス分類もなくなりました。こうした電話機にかわって設置されているカード式電話機のなかには、1990年より導入されたディジタル公衆電話機も含まれていて(全公衆電話機の約10%)、NTT の ISDN 回線(INS ネット64)に接続できます。ただし、ポケットベル、移動体電話(携帯電話)の普及により、公衆電話の台数は90年代初頭より減少傾向にあります。97年3月末時点における NTT の公衆電話機台数は79万3870台です(ただしピンク公衆電話を除きます)。
 このほか、長距離電話系 NCC(New CommonCarrier、新電電)の日本テレコム、テレウェイも、それぞれ JR 駅頭および高速道路施設内を主な設置スペースとして公衆電話サービスを提供しています。

| | コメント (0)

2008年12月22日 (月)

労働組合法(こーじ)

 12月22日は、労働組合法制定記念日、改正民法交付記念日です。
 戦前にも労組法制定に向けた努力が存在したとはいえ、大正時代から昭和の初頭にいたるまでの間に約20の法案が登場したものの、いずれも日の目をみることはありませんでした。終戦直後の1945年12月に公布、46年に施行された旧労組法が、日本最初の労組法でした。旧労組法は、搾取と酷使から労働者を保護し、かつ生活水準の向上のため有力な発言権を得るための威信を獲得し、また児童労働のような弊害を矯正するに必要な措置を講ずるとのアメリカの方針に沿ったもので、労働組合運動を苦しめてきた治安維持法および治安警察法は1945年10月15日および11月21日に廃止されました。旧労組法は、警察官吏、消防職員および監獄において勤務する者の団結を禁止したものの、原則としてすべての労働者に団結権、団体交渉権および争議権を保障しました。前衛政党は労働組合運動を民主化運動、戦争責任追求運動へと指導しました。1946年には米ソ対立は表面化していて、中国情勢もまた緊迫していました。アメリカ占領軍は、労働組合運動が社会主義運動と一体化するのを危惧し、しだいに労働法制の改変に乗り出すこととなりました。
 (1)1946年に公布施行された労働関係調整法(労調法)38条は、警察官吏、消防職員、監獄において勤務する者および行政および司法の事務に当たる者の争議行為を禁止しました。(2)1948年の挿田均首相宛マッカーサー書簡に基づき発せられた政令201号および国家公務員法付則16条は、公務員の争議行為を国家公務員、地方公務員の別なく禁止するとともに、労働三法の国家公務員への適用を排除しました。さらに1950年、地方公務員法58条により、地方公務員に労組法および労調法が適用されないようになりました。(3)マッカーサー書簡に基づき、1948年、公共企業体労働関係法が制定され、国の経営する鉄道事業および専売事業が公社化されるとともに、国鉄および専売公社の職員の争議行為が禁止されるなどしました。この法律は、52年に改正され、前二公社と電電公社および五現業の労使関係を規律する法律となり、公共企業体等労働関係法(公労法)となりました。さらにこの法律の姉妹法として、地方公営企業労働関係法が制定され、職員は争議行為を禁止されました。いずれの法律においても、職員の団結はオープン・ショップによるものとされました。(4)旧労組法は1949年に改正され、現行の労組法となりました。
 戦後の労働運動の高揚は、現業官庁労組の戦闘的な性格に彩られていました。アメリカ占領軍はこれに危機感をもち、いわゆる間接統治の手法をもって上記の一連の措置を講じさせました。すなわち、争議行為の禁止の範囲を拡大する一方、他方において、旧労組法を改正することにより、政党から一定の距離を保つ労働組合を育成しようとしました。旧労組法の改正の要点は、労働組合の自主性(独立性)と組合民主制の確保であったといってよいそうです。自主性の要求は、御用組合を排除するために必要なことでした。組合民主制は、組合員によりコントロールを通じて組合幹部の独断専行を防止するという目的をも有していました。自主性と民主制の要件を具備する労働組合に対しては、労組法は、不当労働行為の救済、労働争議の調整のサービスを提供するほか、労働組合の法人化の道をも用意しました。旧労組法の改正当時は反動的な改正といわれましたが、労組法が労使関係の正常化に果たした役割はまことに大きかったようです。反面、長期的に組合組織率が低下しつつあります。これは、労働者の意識の変化を反映しており、労働法上の諸問題の所在は労組法から個別の契約法へと移りつつあります。
 労組法を取り巻く最も重要な変化は、中曾根康弘内閣時代の三公社の民営化です。国鉄はJR、専売公社は JT、電電公社は NTT となり、それぞれ労組法の規律の下に帰属しました。公労法の下で不当労働行為の審査および紛争のあっせん、調停および仲裁の任を担当してきた公共企業体等労働委員会(公労委)は、1988年に廃止されました。これとの関係で労組法も改正され、公労委の権原を中央労働委員会(中労委)に移し、中労委に国営企業担当委員および地方調整委員を置くこととしました。郵政三事業の民営化に関する議論が進行し、完全に民営化されたので労組法の適用を受けることとなりました。

| | コメント (0)

2008年12月21日 (日)

クロスワード(こーじ)

 12月21日は、クロスワードの日、遠距離恋愛の日です。
 「遠距離恋愛の日」なんだそうです。「1221」の両側が一人を、中の2が近づいた二人を表すそうですが・・・。
 クロスワードパズルは、与えられた縦、横の〈カギ〉をヒントにして、碁盤目に引いたます目のうちの空白の個所に言葉を入れていく遊び。基本形は縦横15のます目をもつ四角で、文字を入れない黒塗りの個所が左右対称に配列されたものである。1913年12月21日付の《ニューヨーク・ワールド》紙日曜版に載ったのが最初で、考案者はアーサー・ウィン ArthurWynne。この遊びは古くからある〈ワード・スクエア word square〉(四角連語)から派生したものと考えることができます。これは縦、横どちらに読んでも同じになるように単語を並べる遊びで、
 ROME
 OPAL  ローマのねこ目石をエラが
 MAUL  壊す
 ELLA
はその一例です。24年にクロスワードパズルの最初の本が出版されたのをきっかけにアメリカでブームとなり、イギリス、フランスその他各国に広まりました。日本で、日本語による問題が最初に作られたのは1924年といわれています。現在でもアメリカやイギリスでは何種類もの専門誌が出ていて、問題を解くための辞典や問題作成のとらの巻まで刊行されています。

| | コメント (0)

2008年12月20日 (土)

尾道旅行~その2~(くみこ)

 前の記事で因島水軍城に行ったことを書きましたが、その日の午後には千光寺に行って文学のこみちを歩きました。尾道は多くの文学者にゆかりのある土地らしいです。この日はよい天気で暑かったのですが、よく歩きました。何しろ尾道は坂の町。景色はよいのですが、自分の足でのぼらないといけません。(^0^;
 千光寺へはロープウェイを利用したのですが、文学のこみちを歩くだけでかなりのアップダウンでした。高所恐怖症の息子はロープウェイに乗るのをいやがっていましたが、一人で山登りをするのもいやだし、もとが乗り物好きなので勇気を出して乗ってみました。でも定員31人で(中途半端!)結構満員だったので、人ごみに埋もれて外が見えず助かったようです。山頂の展望台でも息子はこわがっていましたが、多少は慣れてきたような気もします。(^0^)/
 尾道とすぐ目の前の向島の間には渡し舟があり、車や二輪車もそのまま乗れるようになっています。地元の方は横断歩道を渡るように渡し舟で向島へ渡るようです。1回の乗車賃は大人100円・子供(小学生)50円です。私たちにとっては珍しいので、夕方渡し舟に乗りに行き、10分ぐらい向島にいてすぐに戻って来ました。ホントに乗りに行っただけ!でも向島の船着場のそばに大林宣彦監督の映画で使った待合室というのがあり、写真を撮りました。大林監督の地元らしいです。
 この日はちょうど中秋の名月の日。幸い尾道は晴れていて月が見えたので、お月見団子を買って来て、ぬれ縁にすわってお月見をしました。(^0^)多分大阪にいたらバタバタ過ごしていたと思うので、ゆっくり月を見ることができてよかったです
 まだ続きがあるので、またお付き合い下さいね。

Bungakuhi Matiaisitu Ropeway_3WatasibuneZekkei

| | コメント (4)

2008年12月19日 (金)

ライト兄弟(こーじ)

 12月19日は、日本初飛行の日です。
 ライト兄弟に遅れること7年と2日で、日本最初の飛行実験が行われた日、「日本初飛行の日」です。飛行時間は4分で、距離は3000メートルということでした。
 ライト兄弟は、アメリカの飛行機開発者です。兄はウィルバー WilburWright(1867‐1912)、弟はオービル Orville Wright(1871‐1948)。牧師の子として生まれ、もともとは自転車製造業者でしたが、ドイツの航空先駆者 O. リリエンタールなどに刺激を受け、空飛ぶ機械を構想しました。彼らの真の目的は、人類に翼を与えるというような抽象的なものではなく、またリリエンタールのように青少年の目を空へ向けるためのスポーツ志向でもありませんでした。彼らのねらいはロマンと同時に自分たちの工場の先行的製品の開発と考えられます。これは彼らがほかから資金援助を受けず、金銭の収支明細を記帳し、特許を固く防衛し、製作した飛行機をなんとかアメリカ陸軍信号兵団その他へ売り込もうとした事実から明らかです。このような意図は彼らの飛行機を実用的、かつ商品的なものに仕上げるために貢献し、最初の成功がそのまま製品へつながった珍しい技術開発の一例です。ただし、それまでに至る開発過程はきわめて系統的でしたが、辛苦に満ちていました。彼らの工場があったオハイオ州デートンから、大西洋岸のノース・カロライナ州キティホークまで4年間通い続けて実験を繰り返しましたが、これは強い恒風の吹く土地をアメリカ気象局の資料によって調べた結果です。開発はたこからグライダー(有人)へ進み、つねに固有安定よりも人間の操縦による安定を目ざした点に彼らの卓見が見られます。つまり、人間はなんのために飛行機に乗っているかを深く掘り下げ、それは操縦するためだと結論したのです。このため、主翼両端の後縁を左右玄で反対にねじる、現在の補助翼の原理を発見し、応用しました。これによって、それまで昇降舵(だ)と方向舵しか考えられていなかった飛行機に、三次元の乗物として当然の3舵を与えました。これこそ兄弟の大革新でしたが、そのために各種の難問を背負いこんで苦心しました。しかし、その前すでに手製の風胴で主翼の翼型を実験的に選定するような基礎研究的態度で、補助翼と方向舵を使って横滑りのないつり合い旋回を実現し、この原理は現在に至っても変わっていません。
 兄弟は1903年12月17日キティホークで人類初の動力飛行に成功しましたが、そのためにはわずか4年半の年月を費やしたにすぎません。グライダーによる飛行で操縦の安定、さらに完全なつり合い旋回を完成すると、あとは手製のエンジン(部品は自動車産業から購入したでしょう)を装着するだけで動力飛行への道は開けました。ただし、あまりにも個性的な設計、例えば自転車式のチェーンで1台のエンジンにより二つのプロペラを反対まわりに駆動する方式にこだわりすぎ、08年フランスで公開飛行をした後は、ライト機の全盛はたった1年にすぎませんでした。その失望と、主翼ねじり特許の係争により心身ともに疲れた兄ウィルバーは病を得て没ましした。弟オービルは長生きしたが、以後はほとんどなにもしていないそうです。

| | コメント (0)

2008年12月18日 (木)

国連(こーじ)

 12月18日は、国連加盟承認の日、東京駅の日です。
 1941年のこの日に東京駅が完成したことから「東京駅の日」になりました。
 国際連盟(以下連盟と略記)が第1次大戦後パリの講和会議において戦後処理の一環として設立されたのに対して、国際連合(以下国連と略記)の創設の歴史は第2次大戦中にさかのぼります。1942年1月、日独伊の枢軸国と交戦した米、英、ソを中心とする26ヵ国が、アメリカの首都ワシントンで〈連合国共同宣言〉に署名し、枢軸国に対する戦争遂行の決意を新たにし、団結を誓いました。今日国連を意味する〈United Nations〉という言葉は、第2次大戦中の一方の交戦者である反枢軸国陣営、すなわち〈連合国〉を指す名称として、このとき初めて用いられたのです。しかし連合国宣言当時の戦況は、枢軸国側が優勢で、連合国には戦後の平和機構の問題を取り上げる余裕はありませんでした。連合国の側でこの点についての最初の意思表示がなされたのは、戦況が連合国側に有利に展開するにいたった43年の10月、米、英、ソ、中の4ヵ国によってなされた〈モスクワ宣言〉においてです。この〈一般的安全保障に関するモスクワ4ヵ国宣言〉の中で、〈戦後できるだけ早い機会に、すべての平和愛好国の主権平等の原則にもとづく、国際平和と安全の維持のための一般的国際機構を設立する必要〉が認められました。この宣言にもとづいて、44年の8月から9月にかけ、米、英、ソ、中の四大国代表会議がアメリカの首都ワシントンのダンバートン・オークス Dumbarton Oaks で開かれ、ここで一般的国際機構の具体案が審議されて、その結果は、〈ダンバートン・オークス提案〉として公表されました。この提案は、のちの国連憲章の原案であり、大国間に合意をみた第2次大戦後の平和機構の青写真でした。さらに、45年2月に米、英、ソ3国の首脳会談がソ連のクリミア半島のヤルタで開かれ、ここでダンバートン・オークス会談では未解決のまま残された若干の問題、すなわち安全保障理事会における投票手続や、加盟資格の問題などについて大国間の意見が調整され、同年4月25日から、連合国全体の国際会議がサンフランシスコで開催され、新機構の憲章の起草が行われました。サンフランシスコ会議に招請された国は、それまでに前記の連合国宣言に署名していた46ヵ国、および会議の途中で出席を認められた4ヵ国(ウクライナ、白ロシア(現ベラルーシ)、アルゼンチン、およびデンマーク)でした。50ヵ国の参加を得て憲章の起草を行ったサンフランシスコ会議は、2ヵ月にわたる審議ののち、6月25日に国連憲章を採択し、翌日署名を行いました。憲章は10月24日、所定の手続を経て発効し、ここに国連は正式に発足したのです。国連憲章が、戦争のたけなわのときに、交戦当事者の一方である連合国の側のみによって審議され採択されたことは、新機構の性格に影響を与えずにはおきませんでした。憲章中に見られる若干の戦時色を帯びた規定(たとえば〈旧敵国条項〉)や第2次大戦中に指導的役割を果たした大国に優越的な地位(たとえば安全保障理事会の常任理事国の拒否権)が認められているのは、こうした憲章成立事情の反映とみられます。

| | コメント (0)

2008年12月17日 (水)

尾道旅行~その1~(くみこ)

 随分日が経ってしまいましたが、9月の連休に尾道へ行きました。ちょっとしたつてがあって、泊まるところがあったのです。尾道に2泊もするなんてことは滅多にないと思ったので、思い切って行って来ました。秋は行事が多く、書きそびれているうちに日が経ってしまいました。(^0^;
 新幹線で福山まで行き、乗り換えて尾道まで在来線に乗りました。福山駅前の天満屋に大学の同級生が勤めており、勤務中でしたが15分だけ時間を取ってもらって話をしました。8月の同窓会で25年ぶりに会えた友だちです。同窓会がなかったら福山で乗り換えても会いに行ったりできなかったでしょう。あらためて幹事さんに感謝です。
 土曜の夕方から行ったので、日曜に主な観光をしました。ちょうど因島水軍城のお祭りの日に当たり、行って来ました。簡単に考えていましたが、尾道のすぐ目の前の向島のもう1つ向こうが因島で、バスとタクシーを乗り継ぎ、4人で7000円ぐらい交通費を使いました。(>o<)橋を2回も渡るため、バス代も高いらしいです。水軍城は大人310円程度の入場料でしたが・・・。お祭りをやってなかったら、ちょっと空振りに感じたかもしれません。
 陣太鼓の演奏を聴いたり、獅子舞を見たり、なかなかよかったです。また無料の武者体験というのをやっており、子供たちは鎧兜を着せてもらいました。これはよい経験でした。大人も体験できたのですが、一家全員が着ると写真を撮る人がいなくなるので・・・。相当重かったようです。特に娘は歩くのも大変そうでした。
 うれしかったのはお昼にカレーを振舞ってもらったことです。先着400名ということでドキドキしましたが、しっかり頂きました。でも心配しなくても大丈夫だったのです。何しろ尾道ではみんなこのお祭りのことを知らず、タクシーの運転手さんまで知らないので、不安に思いながら行ったぐらいですから。結構にぎわってはいましたが、カレーは充分足りるぐらいの数でした。(^0^)/
 尾道旅行は短い期間に詰め詰めでアチコチ行きました。たくさん書きたいことがあるので、何回かに分けて書かせて頂きます。またお付き合い下さいませ。よろしくお願いします。

Jindaiko Musya Sisimai Suigunjyou Yurukyara

| | コメント (4)

2008年12月16日 (火)

携帯電話(こーじ)

 12月16日は、電話の日、電話創業の日、紙の記念日です。
 今日は「電話の日」です。1890年に東京-横浜間で電話の事業が始まりました。電話って、その頃の人にはとても不思議だったでしょうね。電線の真ん中に穴が開いていて、それで音が伝わっていくなんて思っていた人がいたそうです。その頃の人が今の携帯電話を見たらどう思うのでしょうか。
 電話網と電話機の間を無線で接続することにより、電話機を自由に持ち運べるようにした電話サービスを携帯電話といいます。携帯電話には住宅内や事業所構内などの一定の範囲内で使用されるコードレス電話、屋外に無線基地局を設置してコードレス電話を屋外でも使用可能にした簡易型携帯電話 PHS(personal handyphone system)、自動車電話網を利用して自動車電話と共用に使用される自動車・携帯電話などがあります。
 コードレス電話には送信電力が10mW以下、使用周波数帯が250MHz帯と380MHz帯、89チャンネルの電波を使って半径50~100mの比較的遠距離でも使用可能な小電力型コードレス電話と、3m離れたところの電界強度が500μV/m以下に規定され半径10~20m範囲で使用される微弱電波型コードレス電話があります。家庭用コードレス電話は親機と子機が1対1に対応していますが、比較的広いオフィスに複数の親機を設置し、子機がどの親機にもアクセス可能にしたものが事業所用コードレス電話です。コードレス電話は1980年にサービスが開始されましたが、通信端末の自由化によりメーカー各社が競って新製品を開発して低価格化が進み、一般家庭にも急速に普及しました。
 一般に移動通信網は各所に多数の無線基地局を配置して移動通信端末と無線基地局間を電波でアクセスし、無線基地局を経由して通信網に接続しています。一つの無線基地局がカバーする無線アクセス範囲を無線ゾーンといいます。無線ゾーンを比較的に狭い範囲に限定すれば同じ周波数の電波を少し離れた他の無線ゾーンでも繰り返して使用することができ、限られた資源である電波が有効利用できます。無線ゾーンを小さくすればするほど電波の有効利用度が高まり、通信トラフィック処理容量が大きくなります。また、無線ゾーンを小さくすれば送信電力が少なくてすむので移動端末を小型化することもできます。ただし、小ゾーンにすると多数の無線基地局が必要になること、通信端末の位置登録や移動を追跡するための追跡交換などの通信網制御が複雑化します。従って無線ゾーンの大きさは使用目的やこれらの諸条件を総合的に判断して決定されます。
 PHS は1995年からサービスが開始された簡易型携帯電話で、半径100~300m程度の小ゾーン方式が採用されています。無線周波数は1.9GHz帯を使用し、アクセス方式には信号を時間的に多重化して同じ周波数の電波を複数のユーザーに使用できるようにした時分割マルチプルアクセス TDMA(time division multiple access)方式を採用しています。ユーザーは32kbpsの情報速度が割り当てられ、会話音声は ADPCM と呼ばれるディジタル符号変調されて伝送されます。
 自動車・携帯電話は当初は自動車電話として開発され、日本では1979年からサービスが開始されました。これは自動車電話と携帯電話の共用システムですが、移動端末の小型軽量化がすすみ、現在では自動車電話よりも携帯電話としての利用のほうが多くなっています。無線ゾーンには半径1.5~10km程度の中ゾーン方式が採用されています。最初は周波数分割マルチプルアクセスによるアナログ方式が使われていましたが、電話網のディジタル化や ISDN サービスの普及にともなってディジタル化がすすみ、1993年からディジタル方式のサービスが開始されました。ディジタル化により秘話性が高まり、通話特性が向上し、移動端末コストも低減され、音声のみならずファクシミリやデータ情報の伝達も容易になるなどの特長が発揮できるようになりました。無線周波数には800MHz帯および1.5GHz帯の電波が使用され、アクセス方式には TDMA 方式が採用されています。
 紙の記念日は、1875(明治8)年の今日、東京・王子の抄紙会社の工場で営業運転を開始したのが由来です。抄紙会社は実業家・澁澤榮一が大蔵省紙幣寮から民間企業として独立させたもので、(旧)王子製紙の前身となりました。

| | コメント (0)

2008年12月15日 (月)

バス(こーじ)

 12月15日は、観光バス記念日、年賀郵便特別扱い開始日です。
 今日は観光バス記念日、だそうです。日本で初めての観光バスは「遊覧乗合自動車」といわれていて、皇居前~銀座~上野というコースを走ったそうです。
 バスは、大量の人員を輸送することを目的とした乗合自動車ですね。語源は乗合馬車を意味するオムニバスomnibus に由来します。道路交通法では、乗合自動車は、乗車定員11人以上の旅客運送用の普通自動車と規定していて、一般乗合バスと特定旅客バスに分けています。
 蒸気動力の通称〈馬なし馬車〉と呼ばれた蒸気バスは1825年イギリスに登場し、ほぼ40年間にわたって馬車と競い合いますが、65年の赤旗法によって姿を消していきました。内燃機関を動力に用いたバスが出現したのは95年ドイツのネットフェンで、5馬力のガソリンエンジンを搭載した8人乗りのダイムラーベンツが使用されました。日本最初のバスは広島市横川~可部町間14.5kmを運行した12人乗りで、1903年1月に開業しましたが馬車組合の反対によりその秋には廃業におい込まれています。同年、大阪では天王寺公園で開催された博覧会のために梅田~天王寺間に乗合バスが運転され、京都でも七条~梢園間に均一運賃5銭で運行されました。東京では13年京王電気軌道が電車運転開始と同時に電車との連絡に乗合バスを開業しました。本格的な市内バスの営業は19年の東京市街自動車によるものです。
 バスの分類は、形態、用途、エンジン位置によるものが一般的ですが、より専門的なものとしてフレーム構造、構体構造による分類があります。ボンネット型バスは、エンジンをおおっているボンネットの後方に運転席が位置しているもので、初期のバスに採用されていましたが、客室空間の利用効率が優れている箱型バスにとって代わられています。キャブオーバー型バスは、エンジン全体またはその大部分が運転席の下に入り込んでいるものをいいます。2階バスはダブルデッカー double‐decker とも呼ばれ、路線バスとしてはロンドンをはじめイギリス連邦諸国で多く用いられています。観光用バスとしてはヨーロッパ諸国を中心に普及し、日本でも最近用いられるようになりました。床を高くして乗客の視界向上や床下荷物室の拡大をはかり、さらに天井を高くして車内の解放感をもたせ、外観上の豪華さを強調しています。
 バスの車体構造は、路線バスの場合には乗降がしやすいように低床化や乗降口幅の拡大化、乗客の移動容易化がたいせつですが、観光バスは高床化、窓の大型化に特徴があります。性能は、動力性能や運動性能など走る性能もさることながら、車内騒音、車外騒音、空気調和、居住性、乗降性などが重視されます。
 新しい機能をもつバスとしてはニーリングバス、ディマンドバス、デュアルモードバスなどがあります。ニーリングバスは乗合バスの乗降容易化のために前ドア部のステップが15cm程度下がるようになっているバス、ディマンドバスは無線通信装置を備えて路線や運行スケジュールに自由度をもたせ乗客の呼出しに応じて所定地域の公共輸送にあたる乗合バス、デュアルモードバスは専用軌道内では無人運転、一般道路では人が運転して走るバスです。なお、レールバスは鉄道車両(分類上は気動車)ですが、動力に自動車用エンジンを使い、車体や内装にバス用部材を使っていることからこのような名まえがついています。最近では主として赤字ローカル線用として開発された軽量で経済的なレールバスが注目されています。

| | コメント (0)

2008年12月14日 (日)

もうすぐミニコンサートです(くみこ)

 12月20日(土)にミニコンサートをします。今回で20回目。早いものですね。第1回目からずっと参加してくれているTさんが今回も連続記録を伸ばしてくれそうです。実はお仕事で東京へ行かれたのですが、ミニコンのために新幹線でかけつけて下さるそうです。本当にありがたいことです。
 Tさんは彼女が小学2年生の時から知っているので、もう長いお付き合いです。いつも通りオープニングで「ジングルベル」、後半のプログラムで「愛の挨拶」(エルガー)を弾いてもらいます。東京にはピアノがないのですが、当日の朝ご実家で練習して、直前にうちで合わせて本番に突入です。でもTさんならうまく乗り切ってくれることでしょう。
 またお父さん・お母さん方にも弾いて頂きますが、今回初出演のお父さんがおられます。昔ピアノをされていたまこぴーパパさんはもちろん弾いて下さるのですが、未経験のパパさんも立候補して下さいました!とってもうれしいです。そのご家庭はお母さんが昔かなりピアノをされていたので、お母さんの伴奏を1曲減らして、お母さんと私の2台の演奏もして頂くことになりました。(「ダッタン人の踊り」です)まさに一家総出!これからが楽しみですね。(^0^)/
 お子さんたちの進度が進むにつれて、ピアノ未経験のお母さん方は伴奏が大変になっていくため、だんだん参加して頂けなくなる場合もあります。親子連弾をずっと続けるのは難しいことなのです。お子さんに「もういいわ」と言われることもよくありますし・・・。(^0^;でもなるべく親子で弾きたいというおうちもあり、今回も何組かの親子連弾が予定されていて楽しみです!
 普段弾いている練習曲に加えてなるべく耳慣れた曲でプログラムを、と心がけているのですが、「崖の上のポニョ」(ピアノ2台)、「トゥナイト」(ピアノ2台)、「ラプソディインブルー」(ピアノ2台)、「アイネクライネナハトムジーク」(ピアノ2台←息子と私)、「キセキ」(ピアノソロ←息子)、「星に願いを」(バイオリンのお子さん)、「人生のメリーゴーランド」(フルート)などなど、全部はご紹介しきれませんが、盛りだくさんです。最後の合奏は「勇気100パーセント」(乱太郎のテーマ)、ベルは「千の風になって」です。一人でピアノを弾くだけでなく、アンサンブルを経験してほしいというのがミニコンの趣旨なのです。
 ところで夏のミニコンの後に判明したことですが、いつもフルートを吹いて下さるKさんは寝屋川高校40期の後輩でした~!びっくり!しかも娘が発表会で連弾してもらったSちゃんのお父さんも40期で同級生だったそうです。どこかでつながっているものですね。
 ともあれ、いつものようにミニコンがとても楽しみな毎日です。(^0^)

| | コメント (8)

2008年12月13日 (土)

双子(こーじ)

 12月13日は、正月事始め、双子の日、ビタミンの日です。
 正月事始め(煤払い、松迎え)は、年神様を迎える準備を始める日です。むかしはこの日に、門松やお雑煮を炊くための薪等、お正月に必要な木を山へ取りに行きました。江戸時代中期まで使われていた宣明暦では、旧暦の12月13日の二十八宿は必ず「鬼」になっていて、鬼の日は婚礼以外は全てのことに吉とされているので、正月の年神様を向かえるのに良いとして、この日が選ばれました。その後の暦では日付と二十八宿とは一致しなくなりましたが、正月事始めの日附は12月13日のままとなりました。
 ビタミンの日は、「ビタミンの日」制定委員会が2000(平成12)年9月に制定しました。1910(明治43)年の今日、鈴木梅太郎博士が、米糠から抽出した脚気を予防する成分に「オリザニン」と命名したことを東京化学会で発表しました。オリザニンは後に、この1年後に発見されたビタミンB1と同じ物質であることが判明しました。
 双子の日は、1874(明治7)年、「双子の場合は、先に産まれた方を兄・姉とする」という太政官布告が出されたのが由来です。それまでは、後に産まれた子を兄・姉とする地方もありました。
 双子は世界の諸民族において、異常な存在として神話や民話の主題になっているばかりでなく、出生時の処理や儀礼などでその特殊性を強調されています。また、双子の両親や次に生まれた子どもにも特別の意味が与えられていることもあります。三つ子以上の多生児は双子と同様に扱われることもあれば別の扱いを受けることもあります。双子の発生率は日本人で約1%、ヨーロッパ人ではその1.5倍前後、アフリカ人ではさらに高いといわれています。ちなみに、双子の文化複合が最も発達しているのはアフリカの諸民族の間です。
 双子は不吉だとみなす民族と、歓迎すべきものとする民族があります。不吉とされる理由は、一度に複数の子どもが生まれるのは動物と同じだから(日本では畜生腹といわれた)、悪霊や邪術師のしわざだから(西アフリカのコンコンバ族)、母親の姦通の結果だから(南米のチャコ族)、男女の双子は母の胎内で近親相姦を犯すから(サモア)、親を殺す(スーダンのディンカ族)、あるいは親が死ぬから(ラオスのラメート族)など、動物性、邪性と結びつけられた場合です。このような社会では、双子はその双方か一方が殺されるか、社会的に排除され、あたかも双子が存在しなかったかのような処置を取ることが多いそうです。
 双子が歓迎されるのは、神の贈物、多産の象徴とされる場合で、スーダンやウガンダでは双子は鳥で、鳥は神のものであるという論理で祝福されます(ヌエル、マンダリ、テソなど)。この場合も双子は神性を帯びているために危険でもあり、また双子の怒りは非常に恐れられます。双子の儀礼は多くの場合、たいへん複雑で、性的冗談を伴ったり、両性具有、秩序逆転といった象徴性の高いものです。
 実際に生まれた子どもは1人なのに、出産時に目に見えぬ動物がいっしょに生まれ、その動物がまつられることを求めてたたるという観念もあります(スーダンのディンカ、ウガンダの諸族)。また王権が双子の権威に支えられていることも多いそうです。ブガンダ王国では王のへそ(臍)の緒は王の双子として神殿にまつられ、ガーナのアシャンティ王国では、平民の双子は王の召使となりました。
 社会的に双子は、兄弟の序列という秩序を混乱させるパラドックスを生み、そのため双子を一人の人格として扱う民族もあります(ヌエル、ザンビアのヌデンブ)。また、双子は特殊な能力があるとされ、占師やシャーマンになる民族もあります(北米のクリーク族、チョクトー族)。
 双子を〈2〉という数字で表し、上述のような対応の形態を整理すると次のようになります。(1)2→0 殺してしまう。(2)2→1 1人を殺すか追放する。(3)2=1×p(p は神秘力) 神秘力をもった単一人格とみなす。(4)2=(1+1)×p 神秘力をもった2人の人格とする。(5)2=(1+x)×p(x は目に見えない存在) 一人の人間を実は双子の一方とみなす。
 西洋でも、ギリシア神話のディオスクロイ(カストルとポリュデウケス)、ローマ伝説のロムルスとレムス、旧約聖書のエサウとヤコブの物語など、双子が登場する多くの伝承が伝えられています。そして上記の後2者の場合のように、しばしば兄弟間の対立と抗争ののち、一方による他方の殺害や権力の奪取という結果を迎えますが、このような筋立ては双子に限らなければさらにその例は多くなります。これは、兄弟ないし双子という表象が、光と闇、天と地、右と左などと同様、あらゆる二元的対立をもって世界の創造や発展・変化を説く神話的思考になじみやすいということでしょう。ただし、ディオスクロイのように対立ではなく協調に向かい、両者ともに守護神として崇敬されるようになることもあります。
 そのディオスクロイはゼウスによって天界に挙げられ星座となりました。これがいわゆる双子座(ジェミニ)で、さらに占星術における黄道十二宮の第3番目の宮である双子宮も彼らに由来します。双子宮には5月22日から6月21日までの期間が当てられ、惑星では水星、金属では水銀、色ではだいだい、宝石ではメノウ、身体部位では両腕に結びつけられて複雑な象徴体系を形成しています。またこの宮は、協調的で多血質の性格、芸術的才能などを人間に賦与するとされます。錬金術では、王と王妃の婚姻とならんで、しばしば双子の男女の抱擁が、対立物(硫黄と水銀)の結合による〈賢者の石〉の造成過程の寓意として描かれます。
 特殊な双子であるシャム双生児にも、古くからプラトンによる両性具有の神話、オウィディウスによるヘルマフロディトスの物語、中世の旅行記に出てくる辺境民族のイメージなどと結びついた虚実定めがたい多くのエピソードが伝えられているほか、動物や人間が背中あわせで上下逆に配された図像が中世からルネサンスにかけて多くみられます。ほぼ実在が想定される例としては、1490年にグラスゴーで生まれてスコットランド王ジェームズ4世に仕え、巧みな楽器演奏と2部合唱、数ヵ国語による当意即妙な会話で大いにもてはやされた兄弟が知られています。しかしフランスの外科医 A. パレ《怪物誌》(1573)に挿絵入りで載せられているおびただしい例には架空のものも少なくないと思われます。18世紀のビュフォン《自然誌》には姉妹の例がみえ、当時にあって彼女たちは果たして結婚できるか否か、〈復活の日〉において一つの体かそれとも二つの体でよみがえるのか、などの論争をひき起こしたといいます。19世紀から20世紀にかけては、ヒルトン姉妹 Violet & Daisy Hilton など、とくにアメリカの興行界で盛名をはせたシャム双生児も多いようです。
 日本では昭和初期ころまで、双子は常態でない異例なものとされ、育てるのも大変なため一般に喜ばれませんでした。双子に関する俗信は多く、双子栗、ミカンの双子などを食べたり、ハチの巣をまたぐと双子ができるといったり、また男女の双子はメオトゴといってとくに嫌われました。双子は先に生まれたほうが兄姉で後のほうが弟妹とされます。東北地方などには、双子が生まれると、父親はすぐに屋根にのぼって妻が双子を産んだとか双子の父はここにいるなどと叫ぶ風習がありました。こうすれば双子を再び産まないそうです。

| | コメント (0)

2008年12月12日 (金)

児童福祉(こーじ)

 12月12日は、バッテリーの日、漢字の日、児童福祉法公布記念日です。
 今日は「バッテリーの日」と「漢字の日」です。バッテリーというのは車などに積んであるバッテリーのことですが、この12月12日になったのは、野球の「バッテリー」が数字で1,2とあらわされることからだそうです。漢字の日は日本漢字能力検定協会というところが制定したもので、毎年この日に、「今年を表現する漢字」が発表されます。もう発表されてるでしょうか?
 児童福祉の歴史は、産業革命を経ての資本主義社会の展開過程で生まれた児童・婦人の労働問題と深くかかわっています。児童を搾取や人身売買や劣悪な環境から救出しようとする児童保護活動に始まり、現代では児童の生活を健全に維持し、権利を保障する物心の援助体系として推進されるに至っています。しかしその発展やあり方は社会的背景を抜きにして考えることはできません。第1次大戦で養育者を失い、食糧も定住地さえも奪われた児童の救済問題をその重要課題の一つに掲げた国際連盟は1924年に〈ジュネーブ児童権利宣言〉を採択しました。第2次大戦下におけるナチのユダヤ人や重度心身障害児の大量殺害への反省、世界各国に見られた戦争孤児や浮浪児の惨状の回復は大人の世代の責務とされました。国際連合は48年に〈世界人権宣言〉を採択し、59年に〈児童権利宣言〉を採択しました。経済開発の差は先進工業国と開発途上国の児童の基本的ニーズの充足度に格差を生ぜしめました。〈豊かな社会〉にあって肥満に苦しむ児童を見る国の傍らに、餓死や栄養失調で死亡する児童が大量発生している国もあり、児童生存上の危機は南北問題としても大きくクローズアップされています。
 このバランスを回復しようと国際連合は、79年に国際児童年のキャンペーンに乗り出しました。日本でも問題をもつ子どもだけに特別注目する〈児童保護〉という戦前の狭い見方から、基本的人権の考え方に立って、児童問題の事後処理のみならず、すべての児童の権利を予防的に守る健全育成までも含めた〈児童福祉〉の展開に至ったのです。
 明治時代における救貧施策の一つとして、政府は〈捨児養育米給与方〉を定め、1873年には〈三児出産ノ貧困者ヘ養育料給与方〉を制定しました。74年の制定以来、1932年まで半世紀以上も続いた〈恤救(じゆつきゆう)規則〉は13歳以下の極貧孤児に対し、1年につき米7斗を支給するという制度を盛り込んでいました。
 明治年間、少年保護施設や育児施設が設立され始めましたが、代表的な育児施設としては石井十次による岡山孤児院(1887)があり、民間感化院としては、留岡幸助による家庭学校(1899)がありました。カトリックに基づく施設としては、横浜慈仁堂(1872)、浦上養育院(1874)、函館聖保禄女学校(1878)等があります。仏教に基づく施設としては福田会養育院(1879)が著名です。明治期においては政府の法的措置の遅れをよそに民間の慈善事業が多発しましたが、とりわけ濃尾地震(1891)や北陸恐慌等の災害を機にさらに育児事業が発展しました。
 明治から大正にかけて、最も発展したのは少年の感化事業です。1908年に感化法が改正され、各都道府県に感化院設立が義務づけられ、19年には国立感化院として武蔵野学院が開設されました。
 1918年の米騒動から大正後期にかけては日本社会事業の成立期といわれます。法規の面では22年は少年法および矯正院法が成立し、感化法が改正されました。さらに大正デモクラシー期の労働運動の高まりの中で年少労働者の保護が、工場労働者最低年齢法(1923公布)や船員最低年齢法(1927公布)の中に現れたことも注目に値します。さらに関東大震災を機に託児所、乳児院や孤児院が多々設立されました。昭和に入って29年には救護法が制定され(1932施行)、貧困児童の施設収容も行われ、37年には貧困母子保護法が制定されました。38年に厚生省が設置され、児童の保健と体力の向上をねらいとする児童保護政策を行いましたが、軍事国家の体制の中において、その意図は児童の尊厳を見つめるよりはむしろ国家の人的資源の確保を目的とするものでした。第2次大戦突入後はいっそうこの政策が強化され、軍国主義国家の性格上、軍人遺家族、遺児の保護に重点が置かれ、障害児の問題はほとんど施策の外側に置かれました。また、食物も、住む家もなく浮浪化する戦災孤児の問題も大きな社会問題となりました。
 45年第2次大戦が終わり、国民はゼロの段階からの生活作りに再出発しました。復員兵や引揚者で人口が急激に増大し、第1次ベビーブームが現れるほか、数年後には沢田美喜の養護事業に代表される混血児問題も顕在化してきました。GHQ の管理下にあった政府は、社会秩序を回復すべく45年9月20日、〈戦災孤児等保護対策要綱〉を決定し、戦災孤児、引揚孤児、戦没軍人の孤児等の収容保護を行いました。保護対策といってもきわめて強硬な取扱いで、実情は〈浮浪児狩り〉と称されるとおりでした。
 46年新憲法が制定、公布されました。新憲法の〈すべての国民に健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を保障〉しようとする理念のもとで、47年には児童福祉法が公布されました。この法律は、これまでの児童政策に流れていた要保護児童のみの保護からそれを乗りこえ次の世代の担い手となる児童一般の健全な育成を図ろうとする、全児童に対する統合的な法律です。

| | コメント (0)

2008年12月11日 (木)

子供会のもちつき大会(くみこ)

 先日、子供会の行事でもちつき大会がありました。本格的に石臼と杵でつくのです。準備も当日も役員さんたちはさぞかし大変だったと思います。貴重な体験をさせて頂き、とても感謝しています。m(_ _)m
 もちつき大会は小学校の体育館にシートを敷き、外にコンロを用意してもち米を蒸して、中でお餅をつき、つきたてのお餅をすぐに食べるという素晴らしい企画でした。さらに実際に杵を持ってつかせてもらったそうです。滅多にない貴重な体験です!うちは二人とも参加させてもらう予定でしたが、インフルエンザの予防接種をして体調がイマイチだった息子は、直前になって休んでしまいました。「学校を休むことになったらあかんから、子供会の方を休んどくわ~」と言っていましたが、私としては学校を休んでもいいから、この貴重な体験をさせたかったです。今も田舎に帰ってお餅をつくことが出来る子も少しはいるでしょうが、大半の子はできません。私も小学校の頃、田舎で見て以来の光景でした。来年はまた違う企画になるでしょうし、何と言っても来年は小学校の子供会には所属していませんから、今回参加できなくてとても残念でした!
 ところでお餅を食べるのに、砂糖じょうゆ・あんこ・きなこが用意されており、好きなものをつけて食べるようになっていたようです。うちの娘はあんこをつけて食べたと言っていましたが、娘のクラスのお友達(男の子)は「ぜ~んぶ混ぜたら味噌の味になっておいしかった~!」と言っていました。え~?そ、それはちょっとすごい味なのでは・・・?私は試す自信がありませんが、どなたか興味(勇気?)のある方は実験してみて下さい。「砂糖+しょうゆ+あんこ+きなこ=味噌」になるのかどうか・・・。ガムとチョコレートを一緒に食べる実験以来の人体実験ですね。(^0^)/よろしくお願いします。

Isiusu Musume2

| | コメント (6)

2008年12月10日 (水)

ボーナス(こーじ)

 12月10日は、世界人権デー、ノーベル賞授賞式の日、三億円事件の日です。
 今日は12月10日、ノーベル賞の授賞式がある日です。毎年、ノーベルの出身地であるスウェーデンの首都、ストックホルムで授賞式が行われます。
 世界人権デー(Human Rights day)は、1950(昭和25)年の今日、国連総会で制定されたのが由来です。国際デーの一つになっています。1948(昭和23)年、パリで行われた第3回国連総会で「世界人権宣言」が採択されました。これは「すべての人間は、生まれながらにして自由であり、かつ、尊厳と権利とについて平等である。」で始る全30条と前文からなっています。日本では、この日までの一週間を「人権週間」としています。
 三億円事件の日は、1968(昭和43)年、東京・府中市の東芝工場の従業員に支給されるボーナスを積んだ乗用車が、白バイ警官に扮した犯人に強奪される「三億円事件」が起きた日です。多くの物証がありながら捜査は迷宮入りし、1975(昭和50)年に時効を迎えました。この事件以降、多くの会社が給料の支給を手渡しから口座振込に切替えるようになりました。
 この事件の元となったボーナスですが、欧米には〈良い〉という意味のラテン語ボヌスを語源とするボーナス bonus があります。これは会社の特別配当を意味しています。通常、賃金についていわれるときは、特別に支払われる配当を意味し、一般に一定水準以上の生産能率をあげた場合に支給されます。一方、日本には盆暮、期末などに毎月の賃金とは別に一時金が支給される賃金慣行があり、これを賞与、ボーナス、一時金、夏季手当、年末手当、期末手当などと呼んでいますが、その性格は欧米のボーナスとは著しく異なります。沿革的には、封建時代に商人社会や職人社会で盆暮に支給されていた〈お仕着(しきせ)〉の慣習が起源といわれていますが、直接の始まりは1876年の三菱商事の賞与制度で、以後大企業を中心に普及したとされています。第2次大戦前の賞与は原則として職員を支給対象とするもので、その額はときに毎月の賃金の1年分にものぼりましたが、職員はこれを期末における利潤分配として、しかも使用者の考課による一方的恣意(しい)のもとに功労報奨〈賞与〉として支払われていました。ところが敗戦後、急速に組織された労働組合がインフレによる生活困難を充足する追加的賃金としてこれを要求・獲得したことから、賞与はその性格をかえ、さらにその後の労働組合の一時金闘争を通して、今日では利潤分配的、功労報奨的な性格が薄れて生活保障的な性格が強くなり、名称も〈一時金〉と呼ばれることが多くなるとともに、決定方法も使用者の一方的、恣意的なものから原則として労使の団体交渉によるものとなり、個人的配分においても考課査定分のウェイトが20%程度に縮小し、また、支給対象も工員層や中小企業労働者にまで拡大したのです。そこで労働省調査によって支給率と支給事業所の割合をみると、産業間・規模間格差はありますが、全産業計では1980年時点でそれぞれ夏季の場合1.56ヵ月、96.1%、年末の場合1.85ヵ月、98.5%となっています。13ヵ月目の賃金と呼ばれる年間1ヵ月分の賃金程度のヨーロッパ諸国のボーナスや、年間賃金の5%以下のアメリカのクリスマス・ボーナスと比較すると、日本の一時金支給率は例外的に高いのですが、このことは、日本の生活における盆暮の特別な支出を含め、今日の労働者生活を支えるうえで毎月の賃金のみでは低賃金で不十分ということに起因するといってよいようです。なお、1960年代に年1回の交渉で年間の一時金を決める〈年間臨給協定〉方式が普及しましたが、73年の石油危機による狂乱インフレの影響で実施率が急減しました。しかし、低成長下の穏やかなインフレのなかで近年再び復活してきています。

| | コメント (0)

2008年12月 9日 (火)

障害者(こーじ)

 12月9日は、障害者の日、漱石忌です。
 障害者の日は、国際障害者年の1981(昭和56)年のこの日に開催された総理府(現在の内閣府)主催の中心記念事業「広がる希望の集い」で制定されました。厚生省(現在の厚生労働省)が実施しています。もともとは1975(昭和50)年、国連総会で「障害者の権利宣言」が採択されたのが由来です。
 障害者が長い人類の歴史のなかでどのように生き、社会や国家からどのように遇されてきたのか、現在においてもよく知られていませんが、断片的な知識から推量すれば、人類社会の生産力が極度に低い時期においては障害者はほとんどその生命を全うする機会も与えられず、遺棄や殺害によって共同体から排除されていたようです。中世社会になってもこのような態度は基本的に継承され、発作や妄想をもつ一部の障害者が神仏の使徒等としてあがめられたり慈善事業による救済の対象になることがあったとはいえ、障害に起因する言動、容貌、姿態のゆえに過酷な迫害の対象とされるのが一般的でした。
 その後、社会が近代化され資本主義社会が到来すると障害者は労働能力に欠ける無能貧民の一部として遇されるようになります。障害者は身体や精神に障害のある者としてではなく、生活能力に欠ける貧民として扱われました。このような障害者に対する処遇のあり方は、資本主義の生成期から発展期にかけての資本主義社会に共通する現象です。貧民あるいは貧困者としてではなく、彼らのかかえる〈障害〉に留意した社会的処遇が登場するのは19世紀末から20世紀初頭にかけてのことですが、それは多かれ少なかれ能力主義的な社会進化論や優生思想と結びついていました。欧米に典型的にみられるように、障害者、なかでも知的発達障害者や精神障害者に対する関心の方向は否定的なもので、民族の純粋性や優秀性を維持するという観点から彼らは人為的に淘汰されるべき対象とみなされたのです。こうした障害者処遇は、ナチス・ドイツの断種法や日本の国民優生法にみられるように、第2次大戦の時期にはいっそう極端なものとなりました。
 しかしながら、こうした障害者に対する社会的関心のあり方も、第2次大戦後多くの資本主義国が福祉国家政策を導入する過程で少しずつ肯定的積極的なものに転換されます。相次ぐ戦争、産業の発展にともなう労働災害や交通事故の増加によって、各国とも身体障害者が急激に増加し、その生活維持や社会復帰の問題が社会問題化することになりました。労働力の販売による雇用や自営による稼得(収入)を生活の基盤とする資本主義社会においては、ほとんどの場合、障害者は深刻な生活の危機に直面させられることになります。しかも、他方において、資本主義経済の発展はかつて障害者たちがその生活を依存してきた家族の私的扶養能力や地域社会の相互扶助能力を縮小させていきました。こうした要因を背景としながら、障害者についても、健常者と同様に、国民の一員として等しく健康で文化的な最低限度の生活を維持する権利、すなわち社会権的生存権(生活権)をもつ存在であり、国はこれを保障する義務を負うという考え方が徐々に成熟します。今日、世界各国における障害者福祉はこのような背景をもちながら発展してきています。
 しかし、第2次大戦後になっても障害者福祉の発展は必ずしも順調なものではありえなかったようです。世界的にみても障害者に対する偏見や差別意識には根強いものがあり、障害者に対する社会的な援助は遅々として進展せず、彼らの社会的な地位もなかなか向上しませんでした。このため、国際連合は1972年に〈精神遅滞者の人権宣言〉を、75年には〈障害者の権利宣言〉を公にすることによって、国際社会に対して障害者に対する差別と不平等の是正を訴えました。さらに、76年12月、国際連合はそれまでの活動が十分に効果をあげていないという認識に基づき、第31回の総会において1981年を〈国際障害者年〉とすることを決議しました。〈国際障害者年〉は世界的規模の啓蒙活動で、〈完全参加と平等〉というスローガンにみられるように、肢体不自由、視覚障害、聴覚言語障害、内部障害、精神発達遅滞、精神病などに起因する障害のあるすべての障害者が、社会一般の人々と対等に同等の権利と機会を享有し、生活をともにしうる社会を実現することを目的に掲げていました。もとより、このような目的は81年の1年間だけでよく達成しうるものではありません。このため、日本では国際連合による〈国際障害者年行動計画〉に応えるかたちで設立された国際障害者年日本推進協議会が81年11月に〈国際障害者年長期行動計画〉を策定し、以後〈国際障害者年〉の目的を達成する施策を展開してきました。
 他方、〈国際障害者年〉を契機に、それまでの身体障害者福祉施策のあり方に大きな反省を促す新たな理念が浸透しはじめました。〈ノーマライゼーション normalization〉と〈インテグレーションintegration〉の思想である。ノーマライゼーションやインテグレーションの理念はもともとは国際障害者年に先行して1950年代後半のデンマークにおける知的発達障害児をかかえる親たちの運動に端を発するもので、北欧やアメリカで発展してきた理念ですが、日本においては国際障害者年を契機として一般に定着することになりました。ノーマライゼーションは〈平常化〉あるいは〈常態化〉とも訳されますが、障害者と健常者との区別や障害者に対する偏見や差別を取り除き、両者が生活をともにする社会を実現しようとする理念を意味しています。人間の社会はもともと、性、年齢、健康、人種、民族、宗教、職業などさまざまの異なる属性をもつ人々がともに対等の立場で生活する社会で、障害の有無もまた多様に存在する属性のひとつであるにすぎないとする思想です。インテグレーションとはそのような理念を実現するために、障害者を差別し排除してきた伝統的な施策・制度や施設のあり方を改め、社会から分離されてきた障害者を社会の一員として再び〈統合〉していく過程とそのための方策を意味しています。

| | コメント (0)

2008年12月 8日 (月)

双子座流星群の情報です(くみこ)

 前にも書きましたが、阿倍野区民センターのスタッフの方がよく天体情報を知らせて下さいます。今年最後の流星群情報を頂いたので、ご紹介します。
 12月5日から20日頃まで双子座流星群が見られるそうです。ピークは13日夜中から14日の夜中だそうで、特に14日の午前8時頃がいいそうです。朝でも見えると聞いてびっくりしています。
 この頃は月が明るくて見えにくいので、月が視界に入らないよう建物で遮ったり、月を背にして観察するといいらしいですよ。今月は月が35万kmに近づくそうで、13日に最大の満月が見られるのだそうです。それは魅力的ですが、星の観察には明るすぎて観察条件を悪くしているようです。(^0^;満月と言えば、遅い時間に出て来て夜中じゅう見られます。大きな満月と流れ星を別々の日に楽しめたらよかったですね。
 1時間に20~30個、ピーク頃は80個も見えることがあるそうです。14日と言えば日曜日。日曜の朝なら観察しやすいですね。朝になっても見えるのかどうか、私もよくわからないのですが・・・。確実に見える流星群ということなので、よかったら観察してみて下さいね。寒い時期ですし、防寒対策はしっかりして下さい。
 またお気づきかもしれませんが、最近夕方の空で月の上に明るい金星と少し小さい木星が見えます。こちらは見やすいので、ぜひご覧下さい!(^0^)/

| | コメント (6)

2008年12月 7日 (日)

クリスマスツリー(こーじ)

 12月7日は、国際民間航空デー、神戸開港記念日、クリスマスツリーの日です。
 横浜で外国人船員のために初めてクリスマスツリーが飾られたことから、「クリスマスツリーの日」になりました。
 クリスマスツリーは、モミの木などの針葉樹に、灯や金銀の飾りをつけたものですね。クリスマスの風習として、キリスト教世界をはじめ世界中に広がっていますが、その起源はヨーロッパでもけっして古いものではないそうです。ドイツ文化圏からおこったといわれ、現在知られる最も古い例は、16世紀初めの L. クラーナハ(父)の銅版画に描かれたものです。また1605年のアルザス地方の旅行記には、シュトラスブルク(現、ストラスブール)ではクリスマスに色紙で作ったバラの花やリンゴや砂糖などを飾った木を立てると記されています。クリスマスツリーは、元来クリスマスの日から公顕祭(1月6日)まで飾られ、公顕祭の日に初めて菓子や飾りをとるという慣習からみて、新年を迎える行事であったと考えられます。ドイツ各地では古くから冬至や新年に生命力の象徴である常緑樹の枝を窓や天井に飾りつける風習があり、またツリーに飾られる食物や灯にも豊饒の願いや悪魔ばらいの意味があります。すなわち、キリスト教とゲルマン古来の新年や収穫祭(ユール)の行事とが結びついて生まれたものといえます。17世紀中ごろにはドイツの宮廷の習慣としてとり入れられ、19世紀に入ると富裕な市民の家庭からやがて一般にも広まっていきました。イギリスにはハノーバー家を通じて伝えられ、ビクトリア朝時代に一般化したといわれています。日本でも明治以降、クリスマスの風習とともに急速に一般家庭にも広まっていきました。

| | コメント (0)

2008年12月 6日 (土)

交響曲(こーじ)

 12月6日は、シンフォニー記念日、姉の日、音の日、ラジオアイソトープの日です。
「シンフォニー記念日」です。日本語で言うと「交響曲」ですね。山田耕筰が日本で最初に交響曲を発表したのが1914年の今日で、それを記念しています。
 交響曲は18世紀後半からヨーロッパ、それも主としてドイツ語圏を中心にとぎれることなく発展してきましたが、特にベートーベン以後の19世紀には、オペラと並んで作曲家の芸術性と技量が最高度に発揮されるジャンルとなりました。
 交響曲の成立と発展の過程は、前古典派・古典派の管弦楽、合奏器楽、ソナタ等におけるあらゆる成果を理解する基準となります。このジャンルは当時のヨーロッパのほぼ全域の音楽都市と北アメリカの一部で培われました。J. ラ・リューの統計によれば、前古典派が始まろうとする1720年ころから古典派末期の1810年ころにかけてのレパートリーは1万2350曲にも達します。またこのジャンルの発展と広範な普及は、18世紀ヨーロッパ社会における音楽のあり方の変化と密接にかかわっています。啓蒙思想は芸術を愛好し保護する啓蒙君主を生み出すと同時に、〈神の栄光のために〉という前提を離れた、人間の理性と感性に訴える自然で簡潔な音楽様式を成立させました。また産業革命とそれに伴う経済機構の変化、人物交流の活発化は、中産階級の台頭、音楽の需要・供給の構造的変化をもたらしました。市民革命に至るこうした趨勢の中で、芸術音楽は宮廷や教会から解放され、新しい市場を獲得しつつありました。パリやロンドンなどの国際都市における公開演奏会の定着、愛好家向けの楽譜や音楽雑誌の出版、これら新しい音楽産業の発達を通して行われた音楽の大衆化は、交響曲発展の土壌ともなったのです。
 18世紀における交響曲の概念は今日のそれと必ずしも一致しません。交響曲と他の諸ジャンルとの様式的差異はかなり明らかになりつつはありましたが、〈シンフォニー〉〈シンフォニア〉〈序曲〉という名称はしばしば混用され、これら3者の境界はときとしてかなりあいまいなままでした。交響曲という不可侵の威厳が確立されていたわけでもなかったようです。交響曲は特定の聴衆の趣味や、演奏の目的・機会等のもろもろの現実的制約に従って構想された(例えばハイドンはエステルハージ侯家宮廷楽団のそのときどきの楽員構成に応じて作曲しなければならなかったそうです)。同一作品ないし楽章が、別の機会のために換骨奪胎されて他の作品に転用されたり、セレナーデなど他のジャンルからの寄集めにすぎないものもありました。演奏の実態もさまざまで、異なる編成で、あるいは全曲でなく特定の楽章だけ演奏されることもまれではありませんでした。オーケストラの規模は場所や目的、調達しうる人数に応じて、室内楽的規模の十数名から総勢100人に及ぶこともありました。なお、バロック以来の通奏低音の習慣は、実質的に本来の和声充浬の意義を失いつつはあったものの、演奏に際しては18世紀末(ジャンルや地域によっては19世紀)まで保たれていました。
 交響曲の前身はイタリア・オペラの序曲です。これは〈シンフォニア〉〈イタリア風序曲〉と呼ばれ、〈フランス風序曲〉とともに17~18世紀の二大序曲形式となりました。シンフォニアの歴史はナポリ楽派の1680年代のコメディ風オペラ(A. スカルラッティ)に始まります。全体は急(アレグロ)―緩(アンダンテ)―急(舞曲風のアレグロないしプレスト)の3楽章構成で、荘重な対位法様式のフランス風序曲と対照的に、概してホモフォニックな様式で書かれました。18世紀にはしだいに自由で簡潔な声部書法、規則性と歌謡性に富む旋律法、明快な和声構造など、前古典派風の様式を獲得していきました。第1楽章はソナタ形式、フィナーレはロンド形式の発展にそれぞれ関係しています。編成は当初は概して弦4部と通奏低音でしたが、やがて管が加わって、1730年以降はオーボエ、ホルン各2と弦という、古典派管弦楽の標準編成が定着していきました。シンフォニアはやがて一方ではオペラ等から独立して演奏会用のレパートリーとなり(演奏会用シンフォニア)、演奏会の開始と終了を告げるなどの機能を担い始めました。また本来のオペラ序曲も演奏会に転用されていきました。このジャンルの発展に寄与したのは、前古典派の主要都市で活躍した作曲家たち、すなわちナポリの A. スカルラッティ、ミラノのG. B. サンマルティーニ、ウィーンの M. G. モンとワーゲンザイル、マンハイムのシュターミツ、ベルリンまたはハンブルクのエマヌエル・バッハ、パリのゴセック、そしてロンドンのクリスティアン・バッハらです。これらの楽派はそれぞれ独自の楽風を培いましたが、ソナタ形式の発展に関しては特にサンマルティーニやモン、ワーゲンザイル、シュターミツ、2人のバッハが、またメヌエットを含む4楽章制の定着についてはモン、ワーゲンザイル、シュターミツの3人が注目されます。とりわけマンハイムの宮廷には楽長シュターミツの指導下で厳格に訓練されたカペレ(楽団)があり、シンフォニア語法の発展と管弦楽の整然かつ効果的な演奏法に多大の貢献をなしたことで知られます(マンハイム楽派)。シンフォニア(今日でもイタリア語では交響曲をさす)とシンフォニーの区別があいまいである以上、前者から後者への移行期を確定することはいささか困難ですが、交響曲が名実ともに一つの独立したジャンルとして完成されたのは、18世紀後半、とりわけ古典派の巨匠たちの力に負うところが大きいようです。
 ハイドンは1757年ころ‐95年の約38年間に、現存するものだけでも106ないし107に及ぶ交響曲を書いていますが、それらはあらゆる可能性の探索とさまざまな音楽的、技法的実験の足跡を示していて、それ自体このジャンルの成熟の歴史と言ってよいそうです。すなわち協奏交響曲風の標題音楽的三部作《朝》《昼》《晩》(1761)や、ハイドンの〈疾風怒濤〉期と言われる1766‐73年の短調作品群(《告別》など)、外国の演奏会のために書かれた《パリ交響曲集》6曲(1785‐86)と二つの《ロンドン交響曲集》12曲(1791‐95。《驚愕》《奇跡》《軍隊》《時計》《太鼓連打》《ロンドン》など。第2集6曲のほとんどはクラリネットを含む古典派最大標準編成)などが有名です。完成されたハイドン様式は、動機労作による統一的形式、集中的展開を特徴としますが、そうした知的造形ばかりでなく、ユーモアあふれる親しみやすさも同時に兼ね備えています。
 円熟期に向かうハイドンと相互影響の関係にあったモーツァルトは、8、9歳(1764、65)ころから1788年にかけて、セレナーデなど他ジャンルからの転用やオペラ序曲、断片楽章等を含めると54曲ほどの交響曲を残しています(1980年には最初期の曲(K6.19a)の全曲が発見されました)。彼の様式は、ソナタ形式をはじめ古典的諸形式の完成に寄与する一方、概してハイドン的な動機労作の徹底よりは多くの魅力的な楽想の並列、精妙な和声的色彩と管・弦が有機的に絡み合う管弦楽法を特徴としています。パリの聴衆の趣味を意識した大編成(ハイドンの最後期と同じ)の《パリ》(1778)は、直前に訪れたマンハイムの様式の影響が顕著です。ウィーン時代(1781‐96)には《ハフナー》(1782)、《リンツ》(1783)、《プラハ》(1786)、そしていわゆる最後の三大交響曲(1788。《変ホ長調》《ト短調》《ジュピター》)など、その規模と風格、技術的完成度、親しみやすさにおいて、交響曲史上まれにみる作品群があります。
 交響曲の発展は19世紀に新たな局面を迎えます。18世紀の成果はベートーベンという強力な個性を介してロマン主義の時代に受け継がれ、さまざまな形象を生み出しました(ロマン派音楽)。一方、作曲家1人あたりの作品数の減少と規模の拡大化傾向、作品ごとの多様な書法などが、創作態度の変化を物語っています。交響曲は宮廷を離れもろもろの現実的制約から解放され、機会音楽的性格を払拭し、時代の音楽的語彙の単なる集成たることをやめて、1曲ごとに芸術家が彼の全人格を笛けて挑戦する対象となったのです。また19世紀には、楽器の発明と改良、指揮法の確立、職業指揮者の出現など、管弦楽法や演奏様式、演奏解釈の点でも注目すべき進展がみられます。さらに、資本主義経済の発展は聴衆の大量動員とそれに伴う大ホールの建設を促しましたが、大規模な管弦楽への志向はそうした社会背景と無縁ではありません。19世紀の交響曲は、大きくベートーベンと、初期および後期のドイツ・ロマン派、標題交響曲、国民楽派、フランス楽派、そして20世紀への過渡期といういくつかの系列においてとらえることができます。
 ベートーベンの9曲(1800‐24)はいずれもそれぞれに特有の問題意識をはらんでいます。スケルツォを導入した《第2番》(1802)、特に展開部やコーダにおける形式的規模の飛躍的拡大、多種多様な動機による展開労作と変奏技法、そして雄大な構想、これらが曲に記念碑的な風格を与えている第3番《英雄》(1804)、冒頭動機による全楽章の統一、楽章間の有機的な連係と頂点を終楽章に置いた設計、本来教会や劇場専用の楽器であったトロンボーンの導入等々、革新的な要素の多い第5番《運命》(1808)、あるいは標題性をはらんだ全5楽章(3~5は連続)の第6番《田園》(1808)、そして終楽章で独唱と合唱を登場させて時代の精神的理想をうたいあげ、さらに打楽器群を効果的に使用した《第9番(合唱付)》(1824)など、革命期の新しい市民層の意識を背景とした作品群があります。特に絶対音楽的性格と標題音楽的性格、単一動機による全曲の統一、新しい楽器と声部の導入などは、以後の交響的作品に決定的な影響を及ぼしました。
 ほぼ同時期にウィーンで活躍したシューベルト(完成7曲。未完、断片、スケッチ数曲。1811ころ‐28)は、本領のリート(歌曲)の曲想を生かしつつ、断片動機の集中的展開よりもむしろそれ自体で充足した旋律をのびのびと歌わせ、和声的色彩で陰影を施しながら反復させるという独特な形式感を打ち出しています。第7番(従来の番号付では第8番)《未完成》(1822)と第8番(同じく第7番ないし第9番)《ザ・グレート》(1828)では、トロンボーンが定着し、規模も拡大されて、後のブルックナーを思わせるような息の長い呼吸が認められます。
 その他、初期ロマン派交響曲では、メンデルスゾーン(初期の弦合奏主体の13曲と、1824‐42の5曲)とシューマン(未完とスケッチのほか、1841‐51の4曲)が重要です。メンデルスゾーンは第3番《スコットランド》(1842)、第4番《イタリア》(1833)をはじめ、標題音楽的な雰囲気と色彩豊かな管弦楽法を特徴とします。シューマンは第1番《春》(1841)や第3番《ライン》(1850)、第4番(1841、改作1851)などで、ピアノ的な発想と語法を背景として、文学的契機を暗示しながらも純音楽的な動機による統一的造形を打ち出しています。
 一方、19世紀における標題音楽の概念にとって画期的存在となったのは、フランスのベルリオーズの《幻想交響曲》(1830)です。この革命的な作品では、特定の人物を表し物語の筋に従って全5楽章に頻出する同一の旋律(固定楽想)が形式上・内容上の統一性を保証し、また和声法や管弦楽法においても大胆な実験が試みられています。その成果を踏襲したリストは2曲の標題交響曲を残したほか、1848年から交響詩のジャンルを開拓しています。
 楽劇の運動にも関連するこうした〈進歩的〉な一派に対して、19世紀後半のドイツ、オーストリアにおいてなお純粋な絶対音楽の堡塁を堅持したのが、ブラームスとブルックナーです。ブラームス(全4曲。1876‐85)は古典的な形式と技法(例えばパッサカリア)を用いて伝統的な交響曲の風格を保つ一方、重厚で緻密な和声法・管弦楽法を駆使しながら内省的な世界に沈潜するなど、個性的な様式を示しています。ブルックナー(習作と未完の第9番を含め11曲。1863‐96)は一見ブラームスと対照的ですが、やはり伝統的な書法から出発しました。しかしオルガン演奏の大家としてオルガン的音響像を土台に、また古典対位法と近代的な半音階和声法の完ぺきな技術を裏づけとして、しだいにエネルギーの巨大な生成を思わせるような独特な造形感を打ち出していきました。特に最後の第7~9番(1883‐96)の3曲は広く知られています。
 19世紀後半から20世紀初頭にかけてのフランスでは管弦楽再興の兆しが著しいそうです。交響曲では、古典主義的傾向のビゼー、グノー、サン・サーンス(《第3番(オルガン付)》1886など)、循環形式で有名な C. A. フランク(《ニ短調》1888)、ダンディ、ショーソンらが挙げられます。当時はまたヨーロッパ各国の民族主義の高まりを反映して、東欧・北欧諸国が独自の民族的音楽語法を涵養していった時期でもあります。交響曲に関しては概してドイツ・ロマン派様式の影響が根強いのですが、ボヘミアのドボルジャーク、ロシアの A. P. ボロジン、チャイコフスキー、グラズノフらが挙げられます。
 世紀の変り目には、ブルックナーの弟子のマーラーが、交響曲を〈世界のようなもの〉としてとらえる独特な音楽観に立脚して、従来の枠を越えた一連の問題作を書きました(未完を含め11曲。1888‐1911)。長大で個性的な造形と大編成(3~5管と多彩な打楽器群。曲により独唱ないし大合唱、あるいは両者を伴う)による多彩かつ精緻な室内楽的密度の実現を背景に、自作のリートなどさまざまな旋律素材が一見雑多にコラージュされて、まさにありとあらゆるものを包含する〈世界〉が現出します。新ウィーン楽派をはじめ当時の若い音楽家たちに与えた影響は大きいようです。

| | コメント (0)

2008年12月 5日 (金)

遊びの会(くみこ)

 今年も小学校で「遊びの会」という催しがありました。小さな文化祭のようなもので、3年生以上がクラスごとにゲーム・お化け屋敷・スポーツテストなどの出し物を企画・準備して、交代で遊んで回ります。ちゃんと1クラス1500円の予算が組まれています。1・2年生は遊びに行くだけですが、3年生からのことを考えていろいろ見ているのでしょうね。
 朝一番に体育館でのオープニングで6年生有志による「三宅太鼓」の披露があり、息子も参加しました。オープニングから見に行ったことはなかったのですが、今年は広報委員の取材もあったので朝早くから行きました。せっかく持って行ったビデオカメラの調子が悪く、ビデオは撮れませんでしたが、写真は何とか・・・。お友だちのお母さんがビデオを撮っていたので、思わずダビングをお願いしてしまいました!ホッと一安心!でも壊れたビデオカメラと三脚は取材中とても重かったです・・・。
 息子は今年初めてお化け屋敷をしました。去年までも希望は出していたようですが、出来るクラス数が決まっているため、当たらなかったそうです。6年生は希望すれば優先的にできるとのこと。6年生3クラス中、2クラスがお化け屋敷でした。
 お化け屋敷はお客さんの人気も高く、一番に行ったつもりが結構並んでいて時間がかかりました。広報の撮影とは言え、順番は守らないといけません。(^0^;息子はせっせと学校にダンボールを運んでいましたが、トンネルがあったり、お化けが隠れていたり、テレビが突然ついて砂嵐の画面が出たり、なかなかの力作でした。お化けはマスクをかぶった子がいれば、古典的におでこに白い三角をつけた子もいました。(^0^)人懐っこい子がいて、広報の取材と言ったら、「ここで~す!」「今度はこっちで~す!」と次々にお化けが隠れているところを教えてくれました!せっかく隠れてる子は、バラされた上にフラッシュをたかれてビックリしたかも。お化けを驚かすなんて、やっぱり私は妖怪人間ベラでしょうか・・・。(^^ゞ
 ところで6年生の1クラスは校庭でスポーツテストをしていました。私も握力だけ挑戦してみましたが、予想外に少なく、両手とも20キロ台でした。中学生ぐらいの10代前半の頃でも結構強かったので、もしかするともっと増えてるかも、と思いましたが、ちょっとショック・・・。一緒に試した広報の副委員長さんは両手とも40キロ台で「Aさん、なんやの~。やる気ないんちゃう?」と怒られてしまいました。いえ、やる気は充分だったんですが・・・。もう1度測ってみたかったけれど、ムキになって手を傷めるのもこわいのでやめました。(^0^;
 娘は一番に兄のお化け屋敷に行き(一番に来るよう強く言われていた!)、楽しんでいました。でも低学年の子はこわがってお化け屋敷に入らない子もいるんですよ。かわいいです。(^0^)ともあれ親子そろって楽しんだ一日でした。またコメント入りの写真をアルバムに入れてもらうので、よかったらのぞいてやって下さい。

Ninjya Sakebi Taiko Tonneru

| | コメント (8)

2008年12月 4日 (木)

E・T(こーじ)

 12月4日は、E・Tの日、血清療法の日です。
 今日は「E・Tの日」です。1982年に映画「E・T」が日本で公開されて、当時の観客動員数の記録を塗り替えたそうですね。
 E・Tは、アメリカ映画です。1982年製作ですね。E. T. は The Extra‐Terrestrialの略です。人食いザメのパニック映画《ジョーズ》(1975)で映画史上最高の興収、配収の記録を作り、さらにみずからその記録を破って大ヒットしたアメリカ最高の〈エンターテインメント作家〉スティーブン・スピルバーグ監督の作品です。10歳の少年と、エクストラ・テレストリアル(地球外生物(宇宙人))の友愛物語で、現代の〈母子家庭に贈る〉おとぎ話ともいえます。出世作《激突!》(1972)から《レイダース・失われた聖櫃(アーク)》(1980)まで、ほぼ一貫して“闘い”を描いてきたスピルバーグの作品歴の中で、《未知との遭遇》(1977)、《E. T.》の2作が“友好”をテーマとし、作者の感性が2本のSF にナイーブかつ感動的に表現されています。スピルバーグの W. ディズニー志向、とりわけ《ピーター・パン》(1953)への思い入れも、自転車で宙を飛ぶ飛翔(ひしよう)のイメージなどに色濃く表れていて、E. T. が超能力を発揮するときに指先から放つ光輝は、ティンカー・ベルを連想させます。

| | コメント (0)

2008年12月 3日 (水)

タクシー(こーじ)

 12月3日は、、カレンダーの日、個人タクシーの日、奇術の日、自動車電話の日・コードレス電話の日、妻の日、国際障害者デーです。
 今日もいろいろな記念日になっています12月3日で、1・2・3になるからでしょうか?
 「個人タクシーの日」は初めて個人タクシーの営業許可が下りたことを記念して、「カレンダーの日」は旧暦の12月3日が太陽暦の元日になることから、「自動車電話・コードレス電話の日」は、かつての電電公社がそのサービスを開始したことを記念しています。
 タクシー運送はその前身ともいえる17世紀イギリスの嶋馬車に起源をさかのぼりますが、馬車交通の発達していた欧米では古くからみられ、自動車交通の発達にともなって便利な都市交通機関として広く普及しました。日本ではじめて自動車によるタクシーが誕生したのは1912年東京においてでした。現在大都市でみられる流しタクシーという営業形態が始まったのは21年で、それまではいまのハイヤー(法律上はハイヤーとタクシーの区別はない)のように車庫待ち営業でした。日本の大都市でタクシーが急増したのは23年の関東大震災以後で、27年にはいわゆる〈円タク〉時代を迎えました。当時の東京市内全域の運賃が1円均一であったところから円タクと呼ばれたのです。運賃がはじめてメーター制になったのは38年です。第2次世界大戦中、東京のタクシー事業は戦時統合によって4社に統合(1945)され、その台数はわずかに1628台でした。
 戦後新規免許が認められるとタクシー台数は急増しました。57‐58年ころには運賃改訂を抑制したことを発端に、東京など大都市で無暴運転が横行して神風タクシーと呼ばれ、交通事故の多発、運転サービスの低下などから社会問題にまで発展しました。このような背景から法人(会社)タクシーの評判が低下し、個人タクシー制度が導入されたのです。個人タクシーの免許がはじめておりたのは59年12月で、当初173台が認可されました。これを契機に法人タクシーと個人タクシーという二つの経営形態が併存することとなり、それは順次地方都市にも波及しました。昭和30年代の終りごろから大都市において交通事故が多発するとともに、自家用自動車の普及から道路混雑も年々激化しました。とくに昭和40年代に入ると道路交通環境はますます悪化しました。このような交通環境に対応するため、70年には時間・距離併用メーターによる運賃制度が導入されました。
 以上のように日本のタクシーは大都市を中心に発展し、地方都市の都市化に応じて全国的に普及するようになりました。現在では地方都市にとどまらず町村にまで普及しています。自家用自動車が普及する一方、それを運転することができない老人や身障者にとってタクシーは不可欠の交通機関とみられるまでになっています。大都市においてはタクシーのもつ利便性、あるいは戸口から戸口へdoor‐to‐door の輸送機能などから都心部を中心としたビジネス客に広く利用されたり、バスや鉄道の輸送が終了した後もほとんど24時間をカバーする交通機関として活用されています。

| | コメント (0)

2008年12月 2日 (火)

妖怪人間ベラに関する一考察(くみこ)

 私は昔から妖怪人間ベラに似ていると言われます。「妖怪人間ベム」に出てくる「ベム・ベラ・ベロ」の中の‘ベラ’です。確かに・・・。(^0^;あるところでベラに似てる似てないで盛り上がったので、ちょっとベラについて書いてみたいと思います。
 「妖怪人間ベム」は最初昭和43年から44年にかけて放映されたようです。その後昭和57年に復活しています。最初の頃のベラはこわい顔で、新しい方のベラは結構きれいに描かれています。もちろん私は最初の頃の世代なので、よりこわい方のベラに似ているということでしょうね。(-_-)
 最近アニマックスで「妖怪人間ベム」にハマっている娘は「お母さんが髪を洗ったら、変身した時のベラにも似てる~」とヌカシました。ひどい!それなら今度髪の毛を赤く染めてみようかな。
 7組のブログのターカさんがベラに関して面白いことを書いていました。元祖ベラである私とは別の、顔がベラ系のあるお方(ベラ2と呼ばれています)が、ご飯を食べた後にスイーツをしこたま食べたため、「ベラ顔はベツバラ、ベツバラはベラ顔」という早口言葉を思いついたそうです。笑いました。でも思わず練習してしまいました!3回言えるようになりましたよ。(^0^)/ブログのコメントには妖怪人間ベラについて解説までされているので、ぜひ読んでみて下さいね。
 懐かしい初期の「妖怪人間ベム」のオープニングの動画があったのでリンクを張ってもらいます。31期でない方はまだ生まれていないかもしれませんが・・・。
 昔、国語の教科書に「よだかの星」というお話が載っていましたが、その中の‘口は耳まで裂け’という一節から‘よだか’と呼ばれた時期もあります。ベラに似ていると言われるのも結局は口の大きさからきたものなのでしょうか。でも口が大きいと、鏡なしで口紅を塗ってもハミ出ないので便利なんですよ!(^0^)/
 ベラに関しては奥が深くて1度に書き切れないので、また時々書かせて頂くかもしれません。よろしくお願いします。

| | コメント (19)

2008年12月 1日 (月)

エイズ(こーじ)

 12月1日は、映画の日、鉄の記念日、世界エイズデー、冬の省エネ総点検の日、防災用品点検の日です。
 今日から12月、「師走」ですね。ご存知の通り、和尚さんが走り回っているくらい忙しい月、という意味です。春待月(はるまちづき)とか極月(ごくづき)という呼び方もあるそうです。
 映画の日は、映画産業団体連合会が1956(昭和31)年に制定しました。1896(明治29)年11月25日、神戸で日本で初めての映画の一般公開が開始されました。この会期中のきりの良い日を記念日としたそうです。この日は入場料の割引等が行われるそうですよ。
 鉄の記念日は、日本鉄鋼連盟が1958(昭和33)年に制定しました。1857(安政4)年、岩手県の釜石高炉(現在の新日鉄釜石製鉄所)が操業を開始し、日本の近代製鉄の幕開けとなりました。
 世界エイズデー(World AIDS Day)は、世界保健機関(WHO)が1988(昭和63)年に制定。国際デーの一つです。エイズ問題への人々の意識を高めることを目的として制定されました。
 冬の省エネ総点検の日は資源エネルギー庁の実施です。1980(昭和55)年10月24日の総合エネルギー対策推進閣僚会議で制定が決定されました。ちなみに、毎月1日が「省エネの日」、2月が「省エネ月間」になっています。
 防災用品点検の日は、防災アドバイザーの山村武彦氏が提唱したものだそうです。今日以外に、関東大震災の起きた9月1日のほか、3月1日・6月1日・12月1日の年4回だそうです。
 エイズは、ヒト免疫不全ウイルス(HIV)の感染によって発症する疾患です。1981年6月、アメリカのロサンゼルス地区で5例の成人男子に日和見感染 opportunisticinfection の一種であるカリニ原虫による肺炎が発生したことが報告され、7月にはニューヨーク、カリフォルニアで26例のカポジ肉腫 Kaposisarcoma が日和見感染を伴って発生していたことが報告され、調査の結果、1976年から81年7月のあいだに108例のこのような症例の通報がありました。このうち男性同性愛者が96例、症状の頭文字をとって KSOI と呼ばれました。
 82年になってアメリカ防疫センターの丹念な調査により、この病気が伝染するものであり、また同年9月には593例の通報例数を分析して、これらの症状の根底には患者の免疫状態の著しい低下があると判断し、acquired immuno deficiencysyndorome(後天性免疫不全症候群)と定義、その頭文字から AIDS とした。この時点ですでに41%の患者が死亡していました。ラテン諸国では SIDA、ロシアでは SPID、中国では愛滋病とされています。
 伝染病で、高い死亡率を示すこの疾患の病原追求を目指すウイルス学者は、1960年代以降急速に進歩した分子生物学的・免疫学的手法を駆使して、試行錯誤を繰り返しつつ懸命の努力を重ねました。パスツール研究所の L. Montagnier らは、エイズの前駆症状を起こしている4例の患者から新しい型のレトロウイルス(その遺伝子である RNAを逆転写酵素(RT)で DNA に変換して増殖するウイルス)を分離、リンパ腺病変ウイルス(LAV)と命名、83年に報告しました。84年には免疫学的にもLAV が病因であることが示され、アメリカ国立癌研究所の R. C. Gallo らは HTLV‐IIIの分離を報告しました。両グループによってウイルス抗原を用いたエイズ病原体の免疫学的判定法が樹立され、その後の研究・臨床・予防対策の基礎が確立されました。8月には J. Levy らが3番目に名のりをあげてエイズ関連レトロウイルス(ARV)の分離を報告しました。84年後半、これらの分離されたウイルス遺伝子の解析の結果相同性が証明され、ウイルス分類国際委員会は86年、human immunodeficiensyvirus(HIV)と統一命名し、それまでの LAV、HTLV‐III、ARV の名前は HIV の一分離株として使用されることとなりました。
 その年、西アフリカに由来する比較的病原性の弱いウイルス LAV‐2が報告されましたが、遺伝子解析の結果、従来の HIV とは異なるため HIV‐2と命名、これまでの HIV を HIV‐1とし、HIV のタイプは HIV‐1と HIV‐2に分離されます。
 HIV‐1は今までの分離株の核酸の塩基配列をもとに系統関係が解析され、グループ M(major)とグループ O(outlier)に分かれます。グループ O は西アフリカ、フランスに見られます。グループ M は世界中に分布していて、さらに、サブタイプ A、B、C、D、E、F、G、H に分類されます。アフリカ大陸にはすべてのサブタイプが存在しますが、ほかの地域では、ヨーロッパやアメリカには圧倒的に B が多く、インド、ブラジルには C が、東南アジアにはE が多く、日本では B と E というように特徴的な分布を示しています。
 HIV‐2はおもに西アフリカに限局した流行で、インドの一部にも見られますが、日本では確認例はありません。
 1981年の最初の報告以来、HIV の感染者総数は96年末現在、全世界で約2800万人、540万人の人命が失われたと推定されています。96年には310万人の新規感染者があり、サハラ以南のアフリカ、南アジア、東南アジアの地域で世界の85%を占めています。97年の時点で毎日8500人が新しく感染し、そのうち15歳未満の小児が1000人、女性が3000人と推定されています。
 日本では1997年10月末、3543人の HIV 感染者と1705人のエイズ発病者が報告されています。
 感染経路は、HIV 感染者との性行為、HIV 感染者の血液を介して、さらに HIV 感染の母よりの母子間感染です。1980年代前半は先進国における男性間性的接触として報じられることの多かったのが、80年代後半以降は異性間性行為によって、燎原の火のごとく途上国を襲っているのが世界の現状です。
 血液を介しての経路では薬物注射濫用者の注射針の共用による感染が全世界で当初から今までの未解決の課題となっています。汚染された血漿製剤による感染は大きな社会問題となり、アメリカで8000名以上、日本で1800名以上の感染がありました。また HIV 検査のできなかった状況での輸血による感染も医療事故としての重大問題でしたが、HIV 抗体のスクリーニングによりその事故はほとんど制圧され、またウイルス不活化法の導入と相まって、血漿製剤による新しい感染は86年以降見られていません。しかし HIV スクリーニングの行われていない途上国ではなお大きな課題となっており、また感染のきわめて初期の血液からの危険性をも絶滅しなければならないそうです。
 HIV 感染母体から子への周産期感染は約30%と報告され、全世界で約170万人、日本で97年10月までで28例報告され、人類の将来にとって重大な危機となっています。
 HIV 感染予防のワクチンの開発は HIV が高度に変異するためきわめて困難な状態で、DNA ワクチンなどの最新の技術導入による開発が続けられていますが、予防の第一義は以上述べた感染経路の遮断です。
 エイズ発症の目印となっている日和見感染、特にカリニ肺炎などの予防、治療の進歩、医療体制の整備の進んでいる状況では、エイズ患者の生存率は著しく改善されました。根本的治療は HIV に対する直接の抗ウイルス薬を主とします。HIV に関する分子生物学、宿主反応の免疫学的研究の成果に基づき、抗ウイルス薬は著しく進歩しました。1987年、逆転写酵素阻害剤である AZT が登場してから、同列の ddI、ddC、d4T、3TC とよばれている抗 HIV 剤、プロテアーゼ阻害剤である SQV、IDV、RTV、NFV がアメリカにおいて治療薬として承諾され、日本でも、承認、あるいはその準備中である。HIV の感染者の体内での増殖動態を明らかにしたうえで進められたこれら薬剤の多剤併用療法は、アメリカで96年に見られたエイズ患者死亡数の顕著な減少に貢献している。薬剤耐性ウイルスの発現、治療時期、経済的問題などの課題をかかえてはいますが、病原体発見後14年で、かつて〈死の病〉であったエイズ、HIV‐1感染病を、〈治療可能な慢性感染性疾患〉へと変貌させました。病原を追求し続けてきた現代医学の成果です。

| | コメント (0)

« 2008年11月 | トップページ | 2009年1月 »