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2008年10月

2008年10月31日 (金)

ガス灯(こーじ)

 10月31日は、ハロウィン、ガス記念日です。
 今日は「ガス記念日」だそうです。1872年の9月29日、陽暦の10月31日に横浜の場車道で最初のガス灯が点火されました。電話とかガスとか、ライフラインといえるようなものは、東京-横浜間ということが多いですね。こういうのはある程度距離の長いところで結ばないと、意味がないからでしょうか。
 1871年(明治4)横浜駐在ドイツ領事がガス会社設立を企て神奈川県に出願しましたが、県令井関盛良はこの事業が外国人の手中に陥ることを恐れ、高島嘉右衛門ら有志に諮って別にガス製造所の設立を計画し、フランス人技師ペレゲレンの設計監督のもとに工事を起こし、翌年9月完成して外国人居留地にガス灯を点火しました。これが日本におけるガス灯の初めです。同じ年、東京でも府知事の由利公正によってガス灯を新吉原遊郭内に試用しようとする企てがなされたのですが、これは実施をみずに終わり、73年の銀座れんが街の建設に伴って、ようやくガス街灯の建設が実現しました。東京会議所は西村勝三、ペレゲレンらをして建設事業にあたらせましたが、翌74年7月から街灯建設が行われ、同年12月18日はじめて京橋と金杉橋の間に85基のガス街灯が点火されました。
 かくて76年5月には市内のガス街灯は350基を数えるにいたりましたが、屋内灯としてはまだ十分な発展をみず、77年12月にいたっても、その需要戸数は工部大学校、駅逓寮などわずかに19戸にすぎず、また市民から徴収することになっていた街灯点火料に対しても苦情が続出して、当初のガス事業の経営は容易なものでなかったそうです。しかしその後東京府庁内に瓦斯(ガス)局ができ、事業の拡張と料金の値下げを図ったので、79年には、需要者88戸、火口数1192個となり、さらに81年には街灯4000基をふやし、需要者数も222戸にふえました。そして85年には瓦斯局のはじめからガス事業の責任者としてこの発展につくした渋沢栄一を社長とする東京瓦斯(ガス)が成立し、事業は同社に引き継がれました。86年の1戸当りの灯数19灯以上が1900年には5灯以下に減っていることは、一般家庭の需要がようやくふえつつあったことを示しています。しかし大勢は、明治末期においても一般家庭でガス灯を使用するものは上流の一部に限られ、それも電灯とガス灯を混用するとか、それらと石油ランプとの混用家庭が多かったようです。この間ガス灯自体にも進歩があり、はじめはマントルがなく裸火であったから光力が安定せず能率が悪かったのですが、91年ころから白熱マントルが使われるようになりました。さらに1903年ころから下向き白熱マントルが輸入されて、光度が著しく増加し、光色もよくなったといわれています。しかし1887年、日本において電灯が初めて東京で一般需要者への送電を始め、明治末年には一応の配電体制が確立されるに及び、ガス灯はすたれていきました。
 ハロウィンは、西洋の年中行事。10月31日の夜に行われます。古代ケルト人のサムハイン Samhain 祭が起源といわれています。これは死の神サムハインをたたえ、新しい年と冬を迎える祭りで、この日の夜には死者の魂が家に帰ると信じられていました。キリスト教の伝播にともない、この祭りはキリスト教にとりこまれ、諸聖人の祝日である万聖節(11月1日)の前夜として位置づけられたそうです。hallow とはアングロ・サクソン語で〈聖徒 saint〉を意味し、All Hallows Even(万聖節前夜祭)がつづまって〈Halloween〉となったそうです。今日ではアメリカ合衆国の子どもの祭りとして有名です。アメリカでは、この夜のため、大きなカボチャをくり抜き、目鼻口をつけた提灯 jack‐o’‐lantern を作り、窓際に飾っておきます。学校では仮装パーティなどが開かれますが、夜になると怪物、魔女、海賊などに仮装した子どもたちが、隣近所の家々を回って〈ごちそうしないと、いたずらするぞ Trick or treat!〉と言いながら、チョコレートやキャンディをせびってゆきます。

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2008年10月30日 (木)

さゞ波会ピアノ発表会(くみこ)

 11月9日(日)に生徒さんたちのピアノの発表会があります。私がピアノを始めた小学3年生の時から出させて頂いている発表会で、今年は第45回です。(私は第6回から出ています。興味ある方は年を計算してみて下さいね!)昔から「さゞ波会」の名前で発表会が行われてきました。第20回の前後からは私の生徒さんたちも一緒に出して頂いており、今では先生も80歳になられて、今年で一区切りつけるとおっしゃっています。でも来年からも「さゞ波会」の名前を引き継いで発表会を続けていくつもりです。
 今年は45周年ということでキリもいいので、お祝いの意味もこめて「英雄ポロネーズ」を弾きます。他でも何度か弾きますが、こんなことでもないと有名な「英雄ポロネーズ」など弾けません。(^0^;この間も書きましたが、これだけ有名な曲を弾くのは10年早いとも思いますが、10年経ったら還暦が近づいてきます。やっぱり今しかないかと・・・。拙い演奏ではありますが、先生のために頑張るつもりです。
 今回はお友だち同士の連弾を増やしています。いつもの息子とそのお友だちTくんはもちろん(オブラディオブラダ)、あらたに娘と同じ2年生のお友だちSちゃん(エーデルワイス)、息子と裏の家のお友だちMちゃん(ビリーヴ)も挑戦です。裏のMちゃんとはカワイの2歳のリトミックから一緒に通った仲で、今の家にお互いが引っ越してきた1歳の時からのお友だちです。
 またいつもパパさんが伴奏して下さるまこぴーさんことM家の三姉妹は、上のお二人が姉妹の連弾に挑戦です。一番下の娘さんだけがパパさんに伴奏して頂きます。
 お母さん方の伴奏もいろいろお願いしていますが、みなさん和音の種類が増えたり、合いの手が入ったり、毎回レベルアップされています。とても楽しみです!
 うちの子供たちのソロ曲は、娘がギロック作曲の‘雨の日の噴水’と‘雪の日のソリのベル’、息子がワイマン作曲の‘銀波’です。息子の曲は1オクターブが多く、手の小さい息子には大変ですが、1度聴いただけで気に入ってしまい、必死で弾いています。息子は二人のお友だちとの連弾に加え、私とも弾きたいというので、スッペ作曲の‘軽騎兵序曲’も連弾します。こなせるのかどうか心配ですが・・・。
 娘は連弾の伴奏は初めてで、両手ともヘ音記号で伴奏部の印刷が小さい楽譜に四苦八苦しており、Sちゃんの足を引っ張りそうです。先に謝っておきます。ごめんなさい!娘は、いつもどうにでも合わせてくれていた息子に感謝することでしょう。
 みんなそれぞれに頑張って準備しています。力が出し切れるよう、あと少し一緒に頑張ろうと思います。でもやっぱり一番頑張る必要があるのは私なんですけれど・・・。(^0^;

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2008年10月29日 (水)

8ミリカメラ(こーじ)

 10月29日は、ホームビデオ記念日です。
 29日は「ホームビデオ記念日」です。ホームビデオ愛好家グループが制定。1969年に、ソニーと松下電器がはじめて家庭用のビデオデッキを発表したことから来ています。
 ホームムービーの原点といわれる《赤ん坊の食事》《金魚鉢》《子供の喧嘩》《骨使争ひ》(いずれも1895)を撮ったフランスのリュミエール兄弟から〈シネマトグラフ〉の権利を買い取ったシャルル・パテー(パテー社を設立)は、リュミエールの精神を継承して最初から熱心に映画の〈家庭化〉を考え、28ミリ、20ミリ、そして20年には早くも9.5ミリのパテーベビー(この規格は今日もなおヨーロッパでは使われています)の開発に成功します。日本で26年にパテーベビーの愛好会が生まれ、その機関誌《ベビー・シネマ》を発行、28年には日本最初のアマチュア映画誌《アマチュア・ムービース》が創刊されています。30年には《小型映画の研究》(北尾鐐之助・鈴木陽著、創元社)という50ページの小冊子も刊行されていて、〈映画〉の作り方からヨーロッパのアバンギャルド映画の紹介まで、アマチュア映画=実験映画として研究、紹介されています。
 映画の小型化、〈家庭化〉は映像機材およびフィルム産業の成立とともに実用化が始まりました。世界最初の家庭用映写機材は1899年(エジソンのキネトグラフ完成から11年後です)、イギリスに出現した〈ビオカム〉で、これはコダック社の35ミリ幅のフィルムを1/2に断截した17.5ミリのフィルムをアマチュア用のフィルムサイズとして採用したもので、後年(1932)16ミリ幅のフィルムを半截して8ミリフィルム(レギュラー8)を誕生させたのと同じ発想です。日本には1922年に東京京橋の飯田貿易(高島屋の前身)の玩具売場に9.5ミリフィルムを使うパテーベビーの映写機が登場しました。〈小型映画〉の映写機とフィルムはまず玩具として輸入されたわけです。
 〈小型映画〉としてのフィルムサイズは、28ミリ、20ミリ(パテースコープ、1912)の時代から世界各国で30種類以上も現れては消えるという試行錯誤が繰り返され、日本では現在16ミリ映画と8ミリ映画が定着しています。これはアメリカのコダック社の規格がフランスのパテー社をしのいで世界の小型映画市場を掌握した結果で、一方、業界の規格統一の動きの中で65年富士写真フイルムが〈シングル8〉システム(コダック社のスーパー8システムとフィルムのサイズは同じですが、いくつかの特性が加わり、より初心者向けで、より安価であった)を開発し世界市場進出を果たしたことは、日本国内により広範なアマチュア映画作家を開拓するきっかけになりました。
 1923年、コダック社がエジソンと組んで16ミリフイルムを実用化し、アメリカの若い母親たちが、遊んでいるわが子を手回しで撮影したのが〈家庭映画〉(ホームムービー)の始まりであったとすれば、このようなホーム(家庭)をターゲットとしたコダック社の企業ポリシーが、より小型でより安価な機材とフィルム(8ミリ)を開発し、アマチュアの支持を勝ち得たのは当然のなりゆきでした。
 こうしてだれにでも撮れる映画として出発した小型映画でしたが、結局、独自のメディア論を確立することもなく、あくまでも〈映画のようなもの〉にとどまった一面があり、その意味でさらに〈家庭的な〉媒体として簡易で経済的で家族全部が楽しめるホームビデオの開発によって、必然的にとって代わられる運命にあったといえます。日本では、小型映画に関する最後の専門誌であった《小型映画》も82年10月号をもって廃刊されています。

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2008年10月28日 (火)

速記(こーじ)

 今日は10月28日、速記記念日、日本のABCの日、群馬県民の日です。
 1882(明治15)年のこの日に田鎖綱紀(たくりこうき)が、自ら考案した日本初の速記法の講習会を開催しました。そして、この講習会からプロの速記者が輩出されたため、日本速記協会が記念日に制定しました。ちなみに、当時の人々は田鎖のことを「電筆将軍」と呼んでいたそうです。
 普通、文字では話す速度に追いつけないため、別に簡略な記号を用いることは古くから行われていました。これが速記方式の初めであり、前350‐前300年ころのものがギリシアのアテナイやデルフォイで発見されています。ラテン語の速記方式として有名なのは政治家キケロがその解放奴隷ティロ Tiro に考案使用させたもので、ティロはキケロの死後その演説集を公にしました。当時はローマの元老院でも用いられ、その最初はカティリナの陰謀に対するカトーの演説(前63年12月5日)だとされています。ティロ式速記は後に哲学者セネカによって増訂され、その後も長く宗教関係に用いられました。
 近代語の速記方式は1588年イギリス人ブライトTimothy Bright(1550‐1615)の案に始まるのですが、1602年ウィリス Willis 式速記が出て実用化し、宗教関係に用いられました。体系的に整ったのは72年のメーソン Mason 式速記であり、この系統のガーニー Gurney 式速記(1750)が裁判速記に用いられました。つづいてバイロム Byrom 式速記(1767)、テーラー Taylor 式速記(1786)などが現れて新聞関係に進出し、1803年からは速記による議会会議録 Hansard’s Parliamentary Debates の作成も行われました。そして、37年ピットマン Isaac Pitman(1813‐97)の方式が出てからは、広く実業界や日常生活にも普及しました。87年にはピットマン式速記の50年祭、ブライト式速記の300年祭を記念してロンドンに第1回国際速記会議 InternationalShorthand Congress が開かれ、世界各国の速記者が一堂に会しました。ピットマンには速記普及の功により、1894年ビクトリア女王からナイトの爵位が授けられています。
 1952(昭和27)年に誕生したABCというのは「新聞雑誌部数監査機構」のことで、新聞や雑誌の発行部数を調査する第三者団体のことです。正確な発行部数がわからないと、広告料の基準が作れないから、こういう団体があるんですね。
 ちなみに全然関係ないのですが、今日はビル・ゲイツの誕生日だそうです。

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2008年10月27日 (月)

大阪第2ビルのランチタイムコンサート(くみこ)

 10月25日に大阪第2ビルの大阪市生涯学習センター情報ロビーでのランチタイムコンサートがありました。先日ご紹介させて頂きましたhttp://neyahs31-5.cocolog-nifty.com/blog/2008/10/post-0561.htmlが、私は連弾で「レイダースマーチ」、ソロで「英雄ポロネーズ」を弾きました。その時にひまわりさんがコメントして下さいましたが、「英雄ポロネーズ」と言えば、昔「赤い激流」という水谷豊さん主演のドラマの中で弾かれていた有名な曲です。石立鉄男さん(指揮者役でした)のファンサイトに当時のドラマの映像写真がたくさん載っていました。(^0^)/こんな有名な曲を人前で弾くなんて10年早いのですが、10年経ったら還暦が近くなるので(^0^;思い切った次第です。
 会場はもういっぱいのようだと書いていましたが、お客さんは乳幼児連れの方が多く、最前列にじゅうたんを敷いて座り込んで聴いて頂くという形だったので、椅子席はまだ余裕がありました。もう少しご案内しても大丈夫だったかもしれません。大変失礼しました。お子さんたちがうるさくしても構わないという趣旨のコンサートだったので、ずっと誰かが泣いたりしゃべったりという状況でしたが、自宅でのミニコンサートのようで気楽に弾けました。(^0^)
 出演者のIさんのお子さん・Sちゃん(小学5年生)が連弾と歌で参加してくれたのですが、「ミッキーマウスマーチ」で自然に手拍子が起こり、楽しくていい雰囲気になりました。Sちゃんは歌も得意ですが、響かない上にざわついた会場だったので、マイクを使った方が歌いやすかったかもしれません。頑張って歌ってくれたのですが、肉声はちょっとしんどかったかも・・・。でもとてもよかったよ、Sちゃん!
 問題の「英雄ポロネーズ」は何とか無事弾けてホッとしています。ただCDに合わせてお客さんも一緒に歌って頂くはずだった「今日の日はさようなら」の伴奏を当日急にピアノで弾くように頼まれたのですが、繰り返しの打ち合わせが不充分で終わりがちょっと不細工になってしまいました。これがとても残念です。‘前奏は間奏部分を使って、後奏は別の楽譜のコピーを貼り付けた部分に飛ぶ’とややこしく、最後に2度繰り返して歌う箇所が、開演間際の打ち合わせではすぐに把握できず、「ここに戻るんでしたか?」と確認して「そうです」と言われた箇所が実は4小節も前だったので大変!すぐに気付いて合わせたつもりでしたが、ビデオを見ると落ち込みました。でも私が本番前なら他の誰もが本番前。普通の時ならお互いに「あれ?」と違和感を感じて気付いたかもしれませんが・・・。急に決まったことはなおさら徹底的に確認しないと!と肝に銘じた次第です。まだまだ甘くて他の出演者にも迷惑をかけてしまい、反省しきりです。よい教訓になりました。
 でも家に帰ると、大学時代の友人から先日会った時の写真が送られて来ており、心がなごみました。とてもうれしかったです。疲れて帰ったところへいつぞやの智積院での写真。何だか救われました。感謝です!
 アルバムにコメント入りで写真を載せてもらうので、よかったらご覧になってやって下さいね。

Gakuya Okyakusan Program

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2008年10月26日 (日)

サーカス(こーじ)

 10月26日は、原子力の日、反原子力の日、サーカスの日です。
 原子力の日は、科学技術庁(現在の文部科学省)が1964(昭和39)年に制定しました。1963(昭和38)年、茨城県東海村の日本原子力研究所で、日本初の原子力発電が行われました。また、1956(昭和31)年のこの日には日本が国際原子力機関(IAEA)に加盟しました。
 サーカスの日は、1871(明治4)年、東京・九段でフランスの「スリエサーカス」による日本初のサーカス興業が行われました。
 日本に初めて来た外国のサーカスは、1864年(元治1)横浜で興行した通称〈中天竺舶来軽業〉(アメリカ・リズリー・サーカス)一座でした。続いて71年(明治4)フランスのスリエ、86年イタリアのチャリネ曲馬師のサーカスが渡来し、西洋曲馬、西洋軽業や、象とトラの演芸、空中ぶらんこなどを演じました。それまでの日本の軽業、足芸、曲馬などの見世物は、それぞれが芸種別の一座を組み個々の興行形態であったのに比べ、外国のサーカスは規模も大きく、芸種も豊富であったので大評判を呼ぼましだ。とりわけ在来の日本曲馬は、曲乗りも演じていたものの、歌舞伎芝居を馬上で演じるおうような曲馬芝居(馬芝居)が主演目であったので、そのスピード、スリルのある軽業的曲乗りに圧倒されました。86年9月東京秋葉原のチャリネ公演は5代目尾上菊五郎に刺激をあたえ、11月の千歳(ちとせ)座で彼はみずからチャリネ曲馬師、猛獣使いに扮し、《鳴響茶利音曲馬(なりひびくちやりねのきよくば)》と銘打って上演したほどです。やがて洋風曲馬を習得した外国帰りの曲馬師や、軽業、足芸の芸人たちが合流して多くの曲馬団が創立され、サーカスの形態が整いはじめました。
 最初に曲馬団を組織し全国巡業を実現した益井商会と並ぶ、興行師山本政七は、99年にチャリネ仕込みの曲馬師山本精太郎一行、イギリス帰りの軽業師富士川広三郎と日本チャリネ一座を創立しました。一座は演馬15頭、象2頭、座員70名の曲馬団で、その演目は馬上火炎抜け、馬1頭大勢乗り・2頭4人乗り・3頭5人乗り、身体組上げ大運動、大1丁ぶらんこ2人曲芸、針金渡り、椅子(いす)の曲芸、4本バー運動(空中器械体操)、西洋道化6人曲芸、大象2頭の曲芸、熊の曲芸、などで形成されていました。さらに外国の芸を積極的に取り入れ、〈米国バーナム式大軽業〉〈英国式大曲馬〉〈ロシア・バロスキー氏空中飛行〉などの呼称で演目を広げ、自転車曲乗り、サイカホール(サイクルホール cycle hall のなまり)の曲芸も加わり、明治末には今日につながる日本のサーカス芸の演目基本が出そろいました。大正末期から昭和にかけて、曲馬団、曲芸団(曲馬の芸のないもの)は全盛期で三十数団体にものぼりました。そして、有田(1906)、木下(1908)、シバタ(1922)などの大サーカスも創立されました。また1933年にドイツのハーゲンベック・サーカスが来日し人気を得たことから、曲馬・曲芸団はすべて〈サーカス〉を名のるようになりました。サーカスの曲として知られる《天然の美》は海軍軍楽長の田中穂積の作曲ですが、これも大正期に流行、定着していきました。
 一方、動物の芸の流れをみると、日本に猛獣が渡来した記録では、ヒョウが1830年(天保1)名古屋清寿院境内の興行で庶民を驚かしたとあり、トラは61年(文久1)オランダ船が横浜にもたらしたのが最初で、ライオンは66年(慶応2)江戸芝白金で見世物になったそうです。象の初渡来は1408年(応永15)足利義持が将軍のときでした。単なる見世物ではなく曲芸を演じた興行では、1889年東京浅草公園の山本一座が古いですね。演目は小人(こびと)3人の相撲・手踊、象の乱杭渡り・三宝乗り・碁盤乗り・礼式・らっぱ吹分け・あおむけの休息などでした。また明治初期から洋犬芝居がはやりだし、当時これをカメ芝居といいました。外国人が飼犬を呼ぶのに〈カム・ヒア come here〉といったのを、〈カメや〉と聞いて、洋犬=カメと誤解したことによるものらしいそうです。珍しい動物が輸入されはじめて、明治末には全国を巡回する移動動物園ができ、サーカス団でも曲芸を演ずる動物ばかりではなく、付属の動物園をもって巡業するものもあった。1920年代の大きな移動動物園では、白猿、オランウータン、ラクダ、ダチョウ、ライオン、シロクマ、トラ、ワニ、ハイエナ、ヒョウ、ヒクイドリ、インドゾウなどをそろえて教育参考動物大会と銘打っていました。これらの移動動物園やサーカスも、太平洋戦争の末期には禁止となり、猛獣殺害の命令が出され動物は殺害されました。戦後になり、サーカスは復興し、1956年には日本仮設興行協同組合が結成され、サーカス(20余団体)から小見世物まで約90団体が加盟しました。しかし娯楽の多様化、テレビの普及などによりサーカスは経営難に陥り、84年現在で木下、キグレ、矢野、ホリディイン(旧、関根サーカス)、柿沼、サーカス東京の6団体が興行を続けているだけです。
 日本のサーカスは常設の劇場を持っていないため、すべてがテントによる興行です。以前はテント小屋の木戸のところで、ちらっと幕をあげ場内を見せる〈あおり幕〉という興行手法がとられていましたが、今ではそれもなくなり、大きなものでは1900m2(2500人収容)もの鉄パイプ構造のテント(通称、丸テント)がつくられています。丸テントの裏に団員の宿舎、楽屋などの小テントがおかれています。

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2008年10月25日 (土)

パスタ(こーじ)

 10月25日は、民間航空記念日、リクエストの日、世界パスタデーです。
 今日は、「民間航空記念日」と「リクエストの日」だそうですね。国内最初の民航として設立されたのは日本航空で、1951年、昭和で言うと26年です。東京~大阪~福岡間での運行から始まっています。
 世界パスタデーは、1995(平成7)年、イタリアで世界パスタ会議が開催されたのが由来です。EUやイタリアパスタ製造業者連合会などが合同でパスタの販売促進キャンペーンを行っています。
 パスタは、イタリア語でめん類のことです。広義には、小麦、豆、米など穀類の粉に、水、牛乳、卵などの液体とバター、油、塩、酵母、その他ピュレー状にしたホウレンソウなどの諸材料を、用途に応じて混入してこねあげた練り粉一般を指します。狭義には、パスタ食品のことで、スパゲッティ、マカロニ、ラザーニャ、フェットゥチーネなどを作るための、小麦粉と卵を基本材料とする練り粉とその製品の総称です。パスタの起源については定かでありませんが、現在残る記録から13~14世紀にはすでにあったと推定されています。これはパスタの主原料である硬質小麦が、中世前半に生産が普及してきたといわれていることと関連しているようです。
 パスタ食品は、工業生産によって作られる乾燥パスタと、おもに家庭やレストランで作られる手打ちパスタに大別されます。乾燥パスタは、硬質小麦(デューラム)をひいた精製粉であるセモリナ粉に、卵、水、塩などを加えて混ぜ合わせ、射出成型機に通し、残留水分が12~13%になるまで乾燥させて作られます。硬質小麦はグルテンの含有量が多く、パスタ製造の過程およびゆでる過程で小麦粉のデンプンを固める作用をもっています。したがって、乾燥パスタの完成品は半透明の琥珀色に硬結し、長期間の保存にたえます。乾燥パスタは、形状によっていろいろな名前がつけられています。細長い棒状タイプは、直径2mm前後のスパゲッティを標準に、それより細いものがベルミチェッリ(バーミセリ)、スパゲッティより太いものはほとんどが内部に穴があいており、ブカティーニ、マカロニ、リガトーニの順に太くなっていきます。このほか、蝶の形をしたファルファッラ、貝の形をしたコンキーリエ、車輪の形をしたルオーテなど数多くあります。
 手打ちパスタは、通常の小麦粉100gに卵1個の割合でこね合わせ、めん棒またはパスタ・マシンを使って薄い板状にのし、いろいろな形に切り分けます。手打ちパスタは、そば状に細長く切ったタリオリーニ、きしめん状に5~6mmの幅をもたせて切ったフェットゥチーネのようにゆでてソースであえるものと、ペースト状にした肉、生ハム、ソーセージ、チーズ、卵などを詰める詰物用のパスタに分けられます。詰物をしたパスタには、方形状のラビオリ、半円形状のアニョロッティ、帽子状のカッペレッティ、円筒状のカネロニなどがあります。このほか、いろいろなソースであえてオーブンで焼く長方形のラザーニャもあります。
 パスタ食品は大部分が、トマトソース、ミートソース、ナポリタンソース、ベシャメルソースであえたり、ソースに乳製品、加工肉類、魚介類などの具を入れたりします。さらに、オーブンで焼きあげるなど、料理の種類はきわめて多いですね。

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2008年10月24日 (金)

バーベキュー大会(くみこ)

 10月19日にHP委員会のバーベキュー大会がありました。場所はいつもの交野くろんど園地です。今回はTさんの息子さんYくんが来れなくて、おまけにうちの息子が前日のコナミの体操の練習で首を痛めて急に欠席。結局子供はうちの娘だけでした。息子はコナミの練習のあとも二中のwaku wakuフェスタで楽しそうにしていましたが、「鉄棒でちょっと首が痛くなった」と言っていたと思うと、翌朝かなりひどくなってしまったのです。首が回らなくて休むなんて!でもその後はすぐによくなってきていますので、ご心配なく・・・。
 今回はいつも高級なお肉を調達してくれるのんべ~さんが欠席で、くみ友さんとTさんと私の3人で関西スーパーでお肉と野菜の買出しをしました。私は普段バーベキューをすることがないし、その上自分が小食なので、どの程度用意すればいいかわからず、いつも悩みながら買います。ちょっとお肉が多くて余ってしまいましたね。すみませんでした。m(_ _)m
 お天気もよく、7組のブログのターカさんが仕込んでくれた焼き芋もおいしく、楽しい1日でした。でも最後の焼きそばを一人で焼いてくれたFさんは暑くて、熱くて大変だったと思います。交代すればよかったのに気がきかず、悪いことをしました。ごめんなさい。
 ターカさんちのワンちゃん・リョーマくんはとてもおとなしくておりこうさんで、うちの娘がよく遊んでもらっていました。うちは生き物を飼ったことがないので、バーベキューに行くとよい経験をさせてもらえます。
 ところで今回はいつもカメラ係(?)をする息子がいなかったので、うっかり1枚しか写真を撮っていませんでした。雰囲気だけでも・・・。(^0^;
 また次の集まりが楽しみです。これからもよろしくお願いします。

Bbqaki

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2008年10月23日 (木)

電話(こーじ)

 10月23日は、電信電話記念日、津軽弁の日です。
 日本電信電話公社、今のNTTが制定した、「電信電話記念日」です。明治2年に東京~横浜間で公衆電話の電柱と電線を張る工事が始まりました。
 電話は、1876年に A. G. ベルによって発明されました。もっとも、ベルの基本特許をめぐって多くの紛争があり、その事業化に当たっては当初より幾多の紆余曲折がありました。電話事業を軌道に乗せるうえで大きな貢献をしたのはベール TheodoreNewton Vail(1845‐1920)でした。彼はアメリカ各地の電話会社のシステム化をはかり、研究開発部門のベル電話研究所、機器製造部門のウェスタン・エレクトリック会社を含むベル・システムの基礎をなすこととなりました。
 日本で初めて電話が開通したのは、ベルが電話を発明してからわずか13年後の1889年のことで、逓信省が東京~熱海間で公衆用市外電話の取扱いを開始しています。当時、すでに電信事業が国家安全保障上の理由もあって国営によって行われていたことから、電話事業も同様に国の手によって経営されることになりました。第2次大戦前における電話の普及は限定された水準にとどまり、主たる用途は事務用で、家庭での普及はごく一部の富裕層にとどまっていました。戦後日本の電話事業は、逓信省(1949年まで)、電気通信省(52年まで)の所管をへて、52年日本電信電話公社に移管され、電信事業とともに独占事業として遂行されることになりました。この間、戦後の復興とともに、事務用、家庭用電話サービスの需要が高まり、加入申込みをしてもなかなか敷設してもらえない、いわゆる積滞状況が長年にわたり続いたのですが、78年に至り積滞解消が実現しました(ただし沖縄を除く)。また1960年代に入るとともに、国鉄(当時)の座席予約システム等をさきがけとするデータ通信サービスが導入され、非音声系電気通信サービスの基礎が築かれています。

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2008年10月22日 (水)

パラシュート(こーじ)

 10月22日は、パラシュートの日、平安遷都の日です。
 今日の記念日は「パラシュートの日」と「平安遷都の日」です。世界最初にパラシュートでの降下が行われたのはフランスで、江戸時代だったようですね。
 もうひとつの平安遷都の日は、ご存知のように平安時代の西暦794年に、長岡京から平安京に都が移された日です。「鳴くよ(794)ウグイス平安京」ですね。
 パラシュートは、落下傘ともいいます。パラシュートは、飛行中の航空機から投下される物資や降下する乗員などの降下速度あるいは前進速度をゆるやかにするため、空気抵抗を発生させる装備です。パラシュートの主要な用途としては、(1)航空機乗員の脱出降下、(2)物資の投下、(3)兵員の降下、(4)ミサイル、宇宙船、小型航空機の回収、(5)航空機の着陸時における制動、(6)爆弾、機雷などの降下率調整などがあり、パラシュートを使用したスポーツとしてスカイダイビングがあります。パラシュートに類するものを最初に使用したのは、フランス人のルノルマン Louis‐Sレbastien Lenormand であるといわれていて、1783年にモンペリエ天文台の塔から4.3mの降下を行っています。本格的に実用化されたのは、20世紀に入ってからで、飛行機からの降下は、1912年にアメリカのベリー大尉 AlbertBerry が初めて行いました。第1次世界大戦においては、イギリスが艦船からあげた係留気球の乗員の保安用として使用し、第1次大戦末期には、ドイツが航空機乗員の保安用に用いています。28年には物資の投下や兵員の降下についての研究が始まり、40年に米軍が空挺部隊の編成を行いました。第2次大戦ころからはパラシュートの用途の拡大に伴い、理論的な研究も進み、リボン傘や滑空式パラシュートが考案されています。第2次大戦後は航空機のジェット化に従い、超音速飛行中および高高度での使用を可能とするための努力が行われ、これらの成果は、アポロ宇宙船の回収などに使用されています。
 パラシュートの材料は、通常、木綿、絹、レーヨン、ナイロンなどで、宇宙船回収時のように高温に対処する場合は複合材料などを用います。基本的な構成は、主傘、補助傘、吊索、吊索を物資などに装着するための装帯、収納袋などから成っています。人体用のパラシュートの場合、直径約10mの主傘を使用します。物資投下用パラシュートは、投下する物資の重量に応じて各種のものがありますが、大型輸送機で使われるものでは、直径約30mのパラシュートを6個結合し、20数tの物資を投下できるものがあります。航空機の着陸時に減速のため使用される制動傘(ドラグシュート)は、機体重量などにより、直径5~14mのリボン傘などを用います。パラシュートは、半球状をした主傘に吊索を取り付けた構造となっているのが一般的ですが、目標地点への正確な降下を容易にするため、スカイダイビングなどで使用するパラシュートでは、滑空角度などを制御できる滑空式のものがあります。また、リボン傘では幅が5cm程度のリボンを組み合わせて傘体を構成します。

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2008年10月21日 (火)

waku wakuフェスタ(くみこ)

 10月18日にH二中でwaku wakuフェスタというお祭りがありました。H二中は息子が来年行くつもりの中学です。本当はS中の校区なのですが、若干近いのと体操部があるという理由で、H二中に行きたいと思っています。数年前から枚方市では公立中学を選べるようになっているのです。
 HP委員のTさんのお子さんのYくんも一緒で、コナミの体操の帰りにTさんに車で送ってもらって、二中まで行きました。(Tさん、ありがとうございました!)いろいろなゲームに食べ物、イベントがあり、金券を買った子供たちは好きなように回って楽しそうでした。たこ焼き、から揚げなどは人気が高く、私が代理で並んだりしましたが・・・。(^0^;
 昔ながらのポン菓子のコーナーもあったのですが、「ドカ~ン!」というものすごい音がしていました。最初に聞いた時は事故が起きたのかと思うほどでしたよ。プロパンガスを使っていますからね。でもポン菓子を作る音とわかって一安心。子供の頃聞いた音はもっと高い「パーン!」というような音だったように思いますが・・・。(うちのあたりではポンポン菓子と言ってました)
 それから500円で湯のみやコーヒーカップなどを作らせてもらえる陶芸コーナーがあり、娘が挑戦しました。娘は湯のみに決め、指導の方に教えて頂きながら、湯のみ(のようなもの?)を作りましたよ。土を丸くこねて平らにし、細長くのばした別の粘土でふちを作っていくのです。段を指で消して、なめらかな表面の湯のみに仕上げていきます。私もやってみたくなりました。色を選んで預けて焼いてもらい、約1ヶ月後に出来上がってくるそうです。すぐにできると思っていた娘はちょっとショックだったようですが、1ヶ月後を楽しみに待っています。多分またブログで出来上がった湯のみを紹介させて頂くと思いますので、よろしくお願いします。(^0^)/
 去年は体がしんどくて行けなかった息子も、今年は楽しむことができました。去年あった体操部の演技披露が今年はなかったのが残念ですが、参加できただけでもうれしいです。肝心な男子体操部が来年はなくなるかもと言われていますが、体操はコナミでも続けられるのでとにかく二中に行くと言っています。有意義な中学生活を送ってほしいものです。
 またアルバムにコメント入りの写真を入れてもらうので、ご覧になってやって下さい。よろしくお願いします。

Hurisubi1 Pongasi Tougei Yunomi

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2008年10月20日 (月)

リサイクル(こーじ)

 10月20日は、新聞広告の日、リサイクルの日、頭髪の日です。
 今日は「新聞広告の日」になっています。5日から21日までは「新聞週間」になっているので、その中で分かりやすい20日を記念日にしたとか。制定したのは日本新聞協会です。新聞広告って、単なるチラシといえばそれまでですけど、地域の暮らしに密着しているというか、生活感がありますね。卵パックがいくらとか。
 リサイクルの日は、日本リサイクルネットワーク会議が1990(平成2)年に制定しました。「ひとまわり(10)、ふたまわり(20)」の語呂合せです。この記念日が発展して、通商産業省(現在の経済産業省)ほか8省庁が10月を「リサイクル推進月間」としました。
 リサイクルとは本来、一般に循環処理、循環利用、あるいは廃物の再生処理、再生利用を意味します。化学工学では、化学プロセスで製品の側に出てきた物質を再び原料側に戻すことをリサイクルといいます。これは、原料の利用効率を上げるため、あるいは製品の純度を上げるために必須な手段で、化学プロセスの中ではいたるところで使われています。リサイクルを初めて意識的に利用したのは、アンモニア合成法の創始者 F. ハーバーであるといわれています。水素と窒素からアンモニアを合成するのは化学的にはむずかしい反応で、300気圧のもとでも原料の10%程度しかアンモニアになりません。このため工業化は不利と思われたのですが、ハーバーは反応器を出たガスの中からアンモニアを分離したのち、これを原料側に戻してやれば結局原料を100%アンモニアに転化できることに気づき、この方法で成功しました。分離装置でも、製品の純度を上げるために製品の一部をもとに戻すリサイクルは広く行われています。こうすると一つの分子が何回も精製装置の中を通ることになるため、分離の精度、製品の純度が上がります。この方法は還流あるいはリフラックスと呼ばれ、蒸留装置、ウランの同位元素分離装置などで必ず使われています。

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2008年10月19日 (日)

ブラックマンデー(こーじ)

 10月19日は、バーゲンの日、海外旅行の日、、ブラックマンデーです。
 10月19日は「バーゲンの日」だそうです。日本で初めてバーゲンを行ったお店は東京の大丸で、1895年、明治29年に冬物の大売出しをしたのが最初というお話です。
 1987年10月19日(月)、ニューヨーク証券取引所で平均株価が508ドルも下がる(22.6%)という史上最大の大暴落があり、世界恐慌の引き金になった1929年10月29日(木)の「ブラックサーズデイ」を上回る下げ幅ということで、世界中が戦争でも起きるのではないかと騒然としました。
 この暴落の背景には、当時アメリカの財政赤字や貿易赤字が拡大傾向にあり更にはドル安でインフレ懸念があった事などがあります。アメリカはインフレ対策で9月5日に公定歩合を0.5%引き上げ6%にしましたが、10月14日に発表された貿易収支が予想を大きく上回る赤字額であったことから、企業成績に対する不安感が募りました。
 しかしそれにしてもここまでのとんでもない下げ幅になるほどの要素は無かったといえます。このブラックマンデーが起きた最大の原因は、大口投資家の「プログラム売り」でした。
 大口投資家は投資している株式の銘柄をコンピュータで管理していますが、万一どれかの銘柄が一定の幅を超えて価格が下落した場合、損失を最小限に抑える(損切りする)ため、その銘柄を売りに出すというシステムを組んでいるのが普通です。ところが、みんながそういうシステムを使っていると、いったん株価が下がり出すと、全員が一斉に自動的に全ての株を売り始めることになり、売りが殺到して株価の下げ圧力が強まり、一気に大暴落を起こしてしまうのです。
 また他にも株価が下がり出した場合、投機筋がまだ株価が高い内に空売りをして、下がりきった所で買い戻して利益を得ようとするので、このような暴落に拍車を掛けてしまう面もありました。
 人間が介入して株の売買をおこなう場合は、ある程度下がっても本来実力のある企業ならすぐに回復するだろうと判断して売らない人たちもいるので、あそこまでの暴落を起こすことはそうないのですが、当時は株式管理をしているプログラムのロジックが、まだ未熟だったといえます。また更にはこのようなプログラム売りというものが普及しているということを政府や取引所などがまだ充分認識していなかったことなどもありました。
 しかしこの時のアメリカ政府の対応は立派でした。FRB(米連邦準備制度理事会)のグリーンスパン議長が講演先から、FRBの強い姿勢を発表して信用不安の打ち消しに務め、また大企業や証券会社などへの個別折衝が実り、幾つかの大企業や証券会社が積極的に株を買うという発表をしてくれます。このため翌日20日のニューヨークの株価は一転して102ドルの上昇をします。
 更に翌日はこの大暴落のおかげでいきなり経営危機に陥ったコンチネンタルイリノイ銀行の子会社に対して、超法規的な救済策をFRBが指示したことから市場に安心感が広がり、21日は今度は史上最高の上げ幅となる186ドルもの平均株価上昇が起きて世界的な危機は回避されました。もっともこのニューヨーク史上の株価が完全に元の水準に戻るには、その後2年ほどかかっています。
 ブラックマンデーの影響は当然世界各地の株式市場にも現れ、日本でも東京証券取引所は株価が3836.48円(14.9%)下がる暴落を起こしましたが、翌日には2037.32円(13.24%)上昇してあっさり回復。その後半年ほどで元の水準まで戻しました。そしてこの株価の変動でおいしい目にあった人たちの影響で、バブル経済の「財テク」時代がやってきます。しかし当時、日本ほどすばやく株価が回復した国はほかになかったようで他国は結構後遺症に苦しんでいます。

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2008年10月18日 (土)

大阪第2ビルでのランチタイムコンサート(くみこ)

 10月25日(土)12:15~13:00に、大阪第2ビル5・6階の大阪市生涯学習センター情報ロビー(5階)でのランチタイムコンサートに出演しますので、そのことを書かせて頂きます。ピアノの4人とそのお子さん1人の5人で歌・ピアノ連弾・ピアノ独奏をします。
プログラムは・・・

連弾 ミッキーマウスマーチ
連弾 レイダースマーチ
CD 小さな世界
連弾 スラブ舞曲
連弾 剣の舞
歌  この星に生まれて
独奏 英雄ポロネーズ
独奏 森のささやき
独奏 ソナタ「告別」
CD 愛の夢
CD 今日の日はさようなら

 ご覧の通り、小さなお子さんでも知っているような曲も入っています。歌を歌うのはピアノのIさんの娘さんで、小学5年生です。私は連弾で「レイダースマーチ」・独奏で「英雄ポロネーズ」を弾きます。とても有名な曲でこわいのですが、一生懸命頑張ります。
 会場は公民館の図書スペースに椅子を並べただけの気楽な空間で、入場は無料です。ただ申し訳ないことにもうかなりたくさんのお客さんが予定されているそうで、いっぱいのようです。お越し下さいとは書けないのですが、思い出したら応援していて頂けますでしょうか。どうぞよろしくお願い致します。

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2008年10月17日 (金)

貯蓄(こーじ)

 10月17日は、貯蓄の日、カラオケ文化の日、上水道の日です。
 皆さんはカラオケは好きなほうですか? 今日は全国カラオケ事業者協会というところが制定した、「カラオケ文化の日」だそうです。同協会の設立記念日を由来としています。
 貯蓄の日は、日本銀行貯蓄増強中央委員会(現在の金融広報中央委員会)が1952(昭和27)年の同委員会発足の際に制定し、翌年から実施されています。戦前まで実施されていた神嘗祭に因んでのことです。勤労の収穫であるお金を大切にする日だそうです。
 日本の家計の貯蓄率(平均貯蓄性向)は高度成長期を通じて上昇し、1970年代中ごろに25%程度に達した後、ゆるやかに低下し最近では20%程度です。1960‐70年代を平均して約20%という貯蓄率は国際的にみて非常に高いものです。この高貯蓄率が高度成長期に投資を支え、日本経済の高度経済成長の一つの重要な原因となったことは、よく知られています。また70年代中ごろには、投資が減退したのに加えて貯蓄率の高かったことが、有効需要の減少幅を拡大し、不況を深刻化させたのです。ここには、上で述べたような貯蓄のマクロ経済的効果の二面性が典型的な形で現れているといえます。
 日本の貯蓄率に関する実証研究はおもに二つの点を明らかにしようとしてきました。一つは日本の貯蓄率の時間的変動を解明することで、もう一つは外国の貯蓄率との差を説明することです。日本の貯蓄率の時間的変動については、第2次大戦前まで貯蓄率はそれほど高くはなく、戦後の高度成長とともに上昇したことに注意が必要です。したがって貯蓄率に関する実証分析は所得水準、あるいはその伸び率に着目してきました。ケインズ型消費関数で定数項が正であるとすれば、所得の上昇は貯蓄率の上昇をもたらします。これが絶対所得仮説ですが、この仮説は1970年代の貯蓄率の低下を説明できません。所得の成長率が急激に上昇すると、消費慣習が遅れて変化したり(習慣仮説)、あるいは所得の上昇が一時的と考えられてしまう可能性がある(恒常所得仮説)ため、貯蓄率が上昇するかもしれません。しかし、これらの仮説は高度成長期を通じる貯蓄率の上昇の説明にはなっていません。今のところは、これらの仮説に加えて、ボーナスの労働所得に占める割合の変動、インフレによる実質資産残高の変動の影響を重視する仮説等が有力です。とくにボーナスの所得に占める比率は高度成長期を通じて上昇し、70年代中ごろから低下をみせ、貯蓄率と高い相関を示しています。この相関はボーナスを臨時所得と考える恒常所得仮説によっても、あるいはボーナスから多く貯蓄するという習慣が存在するという仮説によっても説明可能です。
 貯蓄率の国際的差異に関する分析では、所得水準あるいはその成長率はあまり注目されません。なぜなら国際的にみて、所得の高い国の貯蓄率が高いとはいえないからです。〈貯蓄に関する世論調査〉(日本銀行)によれば、日本の家計の貯蓄目的の第1位を占めるのは、病気や不時の災害の備えとしての予備的動機です。これは日本の高貯蓄率の一つの重要な要因として文化的・社会的背景がしばしば指摘されることに対応しています。同じ調査でその他の重要な貯蓄目的を調べてみると、住宅、教育、老後動機などが高い順位を占めています。とくに住宅動機については、住宅取得計画のある世帯の貯蓄率が高いことから重要と考えられます。その他の要因については、今後社会保障制度が人口構造の変化とともにどう変わっていくかに依存して、重要性の度合も変動するでしょう。低成長経済下において高い貯蓄率がしばらく続くとすれば、この高貯蓄をどのように利用すべきかが日本経済にとって一つの重要な問題となるでしょう。

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2008年10月16日 (木)

世界食料デー(こーじ)

 10月16日は、世界食料デー、ボスの日です。
 「世界食料デー」と「ボスの日」です。世界食料デーは国連食糧農業機関というところが制定した国際デーで、「すべての人に食料を」がスローガンだそうです。
 国連食糧農業機関は、Food and Agriculture Organization of theUnited Nations の略称。ファオとも発音します。国連食糧農業機関と訳されます。1905年国際連盟のもとに、政府間協力を通じて農民の生活状態を改善する目的で、ローマに設立された万国農事協会 International Institute of Agriculture(略称IIA)が前身。第2次大戦中、すでに戦後の世界の食糧・農業事情の改善をはかるべく新たな国際機関を設立する必要が論じられていました。43年アメリカのホット・スプリングズで連合国食糧農業会議が開かれ FAO 憲章が起草され、45年10月16日カナダのケベックでの連合国代表会議で34ヵ国が憲章に署名し、ここに FAO は発足しました。同時にIIA は解散した。設立の目的は、加盟各国が協力して世界の食糧の生産・流通の改善に努め、栄養と生活の水準を向上させ、農村住民の生活条件を改善し、人類を飢餓から解放しようとするものです。本部はローマにあり、最高議決機関である総会(隔年)および理事会により運営される。約7000人の専門職員、一般職員がいて、世界各地で活動しています。97年現在の加盟国は174およびヨーロッパ連合(EU)、日本は1951年11月に加盟。
 FAO の事業としては、経常事業予算の資金による〈技術協力計画〉をはじめ、各種の資金による世界百数十ヵ国における各国の現地開発プロジェクトの推進や、開発途上国の農業および農村開発のための投資プロジェクト作成の援助があげられます。こうした事業と同時に、食糧、農林水産業、貿易などに関する問題について会議の場を提供し、また世界各地の農業の技術問題に関するものを主とする情報を収集して加盟国に提供するとともに、各種の統計を発表しています。74年には、FAO の主導のもとに、世界食糧会議が開催され、国際レベルでの基本的な食糧の強化と栄養の改善がうたわれた。さらに96年11月には、ローマにおいて、185ヵ国と EU 首脳らが出席して〈世界食料サミット〉が開催されました。そこでは、2015年までに栄養不足人口を半分に減らすことを目標に努力することをうたった〈食糧安全保障のためのローマ宣言〉と〈行動計画〉とが採択されました。主要な定期刊行物としては、機関誌《Monthly Bulletin of Statistics》のほか、《The State of Food and Agriculture》(日本では《世界農業白書》として刊行)、《AgriculturalProduction Yearbook》(同《FAO 農業生産年報》)、《Commodity Review and Outlook》(同《世界の食糧、農林水産物情勢と見通し》)などがあり、広く利用されています。また世界的規模で10年ごとに行われる世界農業センサスも FAO の提案によるものです。なお、日本は FAO の年経費をアメリカに次いで多く負担しています。
 もうひとつのボスの日は、アメリカ人のパトリシア・ベイ・ハロキスさんが個人で提唱した記念日です。「上司と部下の関係を円滑にする」ために、ボスに昼食をご馳走したりするそうです。夕食じゃなくて昼食というところがボスの日らしいですね。

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2008年10月15日 (水)

土曜参観とPTAまつり(くみこ)

 10月11日に小学校で土曜参観とPTAまつりがありました。今年はPTAの広報委員なので、かなり関わりました。4時間目が土曜参観で午後からPTAまつりになります。
 広報委員会は焼きそばとチューペットが当たっており、私はチューペットの担当でしたが、チューペットはお昼まですることがなかったので、午前中は焼きそばチームのお手伝いをしました。役員をするとこういう準備があるので参観にはなかなか行けませんが、交代で少しはのぞくことができました。
 2年生の娘の授業は図工で、柿の絵を描いていました。10分足らずしか参観できませんでしたが、色の使い方など詳しく教えてもらっていたようです。そして何と1人1個ずつ柿をもらって帰って来ました!(^0^)/娘は大喜び!
 6年生の息子の授業は保健で、たばこの害についてでした。5年生か6年生の参観ではたばこの害についての授業が恒例のようになっており、1度は参観で取り上げられます。ビデオをみてから、いろいろお話を聞いたようでした。こちらも短い時間しかのぞいていないのですが・・・。
 お天気がはっきりせず、当日も準備中は小雨がパラついたり心配でしたが、午後からは晴れてさわやかな1日でした。ちょっと暑いぐらいだったかな?お天気次第でテントの場所も変わってくるので、当日朝に決定してから所定の場所にテントを設置するのが大変でした。実は運動会でずっとしゃがんで広報の写真を撮ったり、中腰で移動したため、太ももがひどい筋肉痛になって志村けんのような歩き方になっていたので、重いテントを運ぶのはかなり大騒ぎ!でした。(^^ゞ
 イベントではお子さんのバトントワリングチームが来られ、演技を披露してくれてかわいかったです。またシャボン玉のプロの方が来られて、人間をシャボン玉の中に入れる大技を見せて下さいました。息子は並んでシャボン玉の中に入ったそうです。(^0^)/娘はゲームに並んでいて入りそびれました。来年も来てもらえたらうれしいんですけど・・・。
 ところで広報委員長さんの旦那さまが1日手伝って下さって、すっかりなじんでしまい、他のお母さんにも「パパ」と呼ばれてはりました~!最後は体育館入口の階段に広報委員が並び、「パパ」に記念写真を撮ってもらったりして、とても楽しいPTAまつりになりましたよ。大人の学園祭のようです!
 5組のにゃんさんの娘さんもお母さんと一緒にゲームなどを楽しんでいました。写真を撮らせてもらったので、了承を得て載せさせてもらいます。たこせんを食べているところです。とっても楽しそうでした。お兄ちゃんのHくんはずっとストラックアウトのボール拾いを手伝っていたそうです。(もちろん趣味で!)奇特な方です・・・!
 役員をすると大変なこともありますが、お友達が増えてとても楽しいです。広報委員会はチームワークもよく、仕事もはかどり、とてもありがたかったです。
 また左下のアルバムにコメント入りの写真を入れてもらうので、ご覧になってやって下さい。学校のHPにもすぐに土曜参観PTAまつりの写真が載ったので、リンクを張らせて頂きました。

Gest Syabondama1 Takosen

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2008年10月14日 (火)

PTA(こーじ)

 10月14日は、鉄道の日、PTA結成の日、世界標準の日です。
 今日は「鉄道の日」ですね。もともと1922年に、国鉄が「鉄道記念日」として制定したものを、国鉄がJRになった1994年に「鉄道の日」に改称しました。
 もう一つ、「PTA結成の日」でもあります。PTAって、単に「生徒の親御さんの集まり」のように使われていますけど、本来は“Parent-Teacher Association”、つまり、父母と教師が協力し合うための団体という意味だそうです。
 PTAは、19世紀末アメリカで起きた児童福祉のための母親運動が始まりで、市や町の環境浄化活動や教育条件の整備向上を進める団体の集まりである〈父母と教師の全国協議会 National Congress ofParents and Teachers〉(1924結成)が最も有名です。日本でも、第2次大戦中までは父兄会、後援会、保護者会などがありましたが、おもに学校の財政面・物質面に奉仕する団体でした。戦後、教育基本法の公布、6・3・3制の学校教育制度の発足とともに、PTA が誕生しました。これは1946年3月に来日したアメリカの第1次教育使節団の報告書と翌47年3月この示唆をうけた文部省通達〈父母と先生の会――教育民主化の手引〉にのっとって全国の小・中・高の学校単位につくられました(1948年4月の文部省調査によれば、小学校85%、中学校83%、高等学校65%)。
 日本の PTA は発足当時、次の目的を実現することが期待されました。(1)児童青少年の福祉の増進、(2)市民の権利と義務の理解をうながす成人教育の振興、(3)民主教育の理解の推進、(4)家庭と学校の連携協力、(5)父母、教師、一般社会の協力による児童青少年の健全育成、(6)学校教育環境の整備、(7)児童青少年の補導、保護、福祉に関する法律の制定、(8)公立学校の教育予算の確保、(9)地域の社会教育の振興、(10)国際親善、の各項です(〈父母と先生の会参考規約〉1948)。こうして PTA は子どもの幸せを守り、増進する自主団体として、教育問題の学習、父母と教師の親睦、環境浄化の奉仕活動、教育世論の形成などを推進していくことになりました。しかし、そのほとんどが従来の後援会や父兄会などの性格をのこしたままで、くわえて全員自動加入、学校単位の組織、在籍児童・生徒の両親に限る会員制、学校後援会的な性格など、アメリカとちがって市民団体的な性格が弱いために、学校の付属機関のような存在になりやすく、一部有力者の支配する形式的行事中心の PTA が少なくありません。
 この傾向に対して、役員選出の民主化、任意加入制への切替え、地域単位の PTA づくり、成人教育活動の振興に努力する PTA 改革の動きも進んできました。とくに PTA の主体である母親会員は、生活環境の浄化、小児麻痺ワクチンの緊急輸入、高校増設の要求、公教育費の私費負担の軽減などに活躍し、広報委員会や成人教育委員会の活動を通して女性運動の活動家も生まれました。今日、主婦のパート労働への進出、受験教育の激化などで、役員・委員のなり手がなく、さらにはPTA のない学校も出てきましたが、校内暴力や非行の増加から〈地域の教育力〉の回復に努力している PTA も少なくありません。現在、PTA の全国組織として、日本 PTA 全国協議会(1952結成)や、全国PTA 問題研究会(1971結成)があります。

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2008年10月13日 (月)

さつまいも(こーじ)

 10月13日は、引っ越しの日、さつまいもの日、麻酔の日です。
 えっと、「引越しの日」です。1868年、つまり明治元年に、明治天皇が京都から江戸にお引越しされた、ということで「引越しの日」なんですね。
 さつまいもの日は、埼玉県川越市の市民グループ・川越いも友の会が制定しました。10月はさつまいもの旬で、江戸から川越までの距離が約13里なので、さつまいもが「栗(九里)より(四里)うまい十三里」と言われていたことからきています。
 サツマイモの野生種は知られていませんが、染色体数は体細胞で90本あります。大部分のヒルガオ属の野生種染色体数は30本ですので、六倍体と考えられます。サツマイモは野生六倍体種から起源したと推定されますが、そのような野生祖先種の一つとして根が肥大しないイポメア・トリフィダ I. trifida G. Don が中央アメリカ(メキシコ)で発見されています。しかし、この種はいもができないだけでなく、つる性の茎は他物に巻きつくなどの特徴があり、サツマイモとは異なっています。またサツマイモに近縁な他の野生種(I. littoralis Bl.(2n=60)、I. leucantha Jacq.(2n=30))も中央アメリカに野生しています。
 サツマイモは中央アメリカ熱帯域では古くから主食として栽培され、南アメリカ域にも前2000年ころには導入されていたようです。またポリネシアにもコロンブスの新大陸発見以前から栽培されていて、新大陸と旧世界の交流がコロンブス以前にもあった証拠とされています。ニュージーランドのマオリ族やニューギニア高地原住民にとっては重要な主食とされていました。しかし熱帯太平洋の島々で古くから栽培されていたサツマイモは、果実が海流によって伝播(でんぱ)されたもので、人間の移動とは関係がないという意見もあります。
 東アジア地域には、ヨーロッパまわりで16世紀末には中国に伝わりました。日本には1597年(慶長2)に宮古島に入ったのが最初とされ、17世紀には、琉球や長崎、醍摩などに伝わり、南九州で徐々に栽培が広がりました。1735年(享保20)に青木昆陽が江戸に導入し、その後、関東や西日本で救荒作物として普及しました。
 世界での生産量は1.2億tをこえ、ジャガイモの半分弱の生産量です。生産量の最も多い国は中国で、全体の84%を占め、ベトナムがこれに次ぎ、アジアだけで91%を生産しています。日本の生産量は世界全体の1%ほどを占めます。日本の栽培面積は、明治初期の15万haから、1949年に44万haまで増加しましたが、第2次大戦後の食糧不足が緩和するにつれ、またこの時期からデンプン原料としてコーンスターチが輸入されるようになり、作付けは徐々に減少し、現在では約5万haほどです。主産地は鹿児島県で、栽培面積、収穫量ともに全体の約1/3を占め、これに履城、千葉、宮崎など関東や九州を中心とした暖地各県が次ぎます。
 麻酔の日は、日本麻酔科学会が制定しました。1804年、華岡青州が世界で初めて全身麻酔による乳癌手術を成功させたのが由来です。

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2008年10月12日 (日)

運動会(くみこ)

 今年の運動会は10月5日に予定されていましたが、去年と同様、雨で延期になりました。でも運動会がなくてもとにかくお弁当をみんなで食べると決めていたので、迷わずに前日からかなりのおかずを作っていましたし、気分的に楽でした。普通延期になると見に行けるお父さんの数は減ります(うちもそうでした)が、今年は平日なのに男性の数が多かったような気がします。
 今年はPTAの広報委員をしており、トラックの中に入って写真を撮りました。機関紙に載せるためですが、自分の子を中心に撮れるのがうれしいです。でもビデオが撮れないので、5組の同級生‘にゃんさん’に撮ってもらいました。随分負担をかけてしまって申し訳なかったのですが、お陰でよい記録が残せました。にゃんさん、ありがとう!ところで扇子で顔を隠してる写真のお子さんはにゃんさんの息子さんです。彼はとっても楽しいんです!(^0^)/この写真はブログに載せられるように、うまく切り取って加工して送ってもらいました。大変お世話になりました。m(_ _)m
 2年生の娘は赤組で、「がけの上のポニョ」の歌をバックミュージックにおみこし(←落っこちやすい)をかつぐリレー、障害走、ダンスをしました。
 おみこしリレーはポニョの人形が乗っていたのですが、白組さんのポニョは何度も落っこちて、髪の毛(毛糸)が取れてハゲてました!(^0^;
 障害走はハシゴをくぐったりしますが、こけてしまった男の子がそのまま動かず(ギャグで)、笑いました!
 ダンスは虹を表現しており、鈴をつけたリストバンドをし、カラフルな布を持って踊ったのがなかなかよかったです。
 6年生の息子は白組で、棒倒し、クラス対抗リレー、組み立て体操をしました。
 棒倒しは運よく息子が相手の棒の先の旗を取ったのですが気づかず、せっかく中に入って写真を撮っていたのに撮りそびれて残念でした!
 リレーは第2走者で、1番手の子が速く、1位でバトンをもらいました。息子は足が遅いながらも、何とかギリギリ1位をキープして次へバトンタッチしようとしたのですが、次のお子さんがうっかり待機し忘れていました。随分遅れてやっと渡しましたが、結果は・・・。アンカーが学年で1番速いと言われているお子さんで、練習ではいつも1位だったそうですが、本番は何が起こるかわかりませんね。(^0^;
 組み立て体操は得意分野です。倒立などワザをキメるのに燃えていました。でも隊形移動があると中に入っていても見失いやすく、目の前にあらわれるよそのお子さんの方をたくさん撮ってしまいました。(^0^;
 今までPTA競技は綱引きでしたが、今年は玉入れでした。カゴを背負ったPTAの会長さんやかなりの仮装をした先生方を追いかけて玉を入れるのです。「玉は当てるのではなく、カゴに入れて下さい」とアナウンスされるほど強烈でした~!
 お弁当は娘が「去年と同じにして~」と言うのでまた‘両津まゆげ’のおにぎりにしました。「ブログに載せるのに去年と一緒ではねえ」と思っていたら、関西人さんが「向きを変える」という名案(?)を出してくれたので、顔の向きを変えてみました。(^0^)/わかりにくいでしょうか・・・。ま、自己満足です!前日から作ったものが多く、ミニオムレツや卵焼きは子供たちが作りました。それもよかったなあと思います。来年も前日から子供と一緒に作ろうと思っています。ちなみにこの写真は雨で流れた5日のものです。8日はどのおかずも半分以下の量になりましたよ!
 左下のアルバムにコメント入りの写真をたくさん入れてもらうので、よかったらご覧になってやって下さい。長くなってすみませんでした。m(_ _)mまた小学校のHPにも即日たくさんの写真が載ったので、リンクを張らせて頂きました。

Mekakushi_trim Nami Niji Obentou

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2008年10月11日 (土)

鉄道事故(こーじ)

 10月11日は、鉄道安全確認の日、ウィンクの日です。
 今日は「鉄道安全確認の日」です。理由は、「1874年、新橋で日本初の鉄道事故が発生した」ということです。新橋にとってはちょっと不名誉な理由ですけど、日本で初めて鉄道が通った場所でもありますから、しょうがないのかもしれませんね。
 鉄道の安全で正確な輸送を阻害する事象が発生した場合を鉄道事故といいます。鉄道事業法に基づく鉄道事故等報告規則においては、安全を阻害する事象と正確を阻害する事象の二つに大別し、前者を鉄道運転事故、後者を運転阻害事故と定義づけて処理しています(ほかに電気事故と災害についても規定しています)。
 鉄道運転事故とは、列車または車両の運転により、人の死傷または物の損傷を生じたもので、次のような事象をいいます。(1)列車衝突事故列車が他の列車または車両と衝突し、または接触した事故、(2)列車脱線事故列車が脱線した事故、(3)列車火災事故列車に火災が生じた事故、(4)踏切障害事故踏切道において、列車または車両が道路を通行する人または車両等と衝突し、または接触した事故、(5)道路障害事故踏切道以外の道路において、列車または車両が道路を通行する人または車両等と衝突し、または接触した事故、(6)鉄道人身事故前記以外で列車または車両の運転により人の死傷を生じた事故、(7)鉄道物損事故前記以外で列車または車両の運転により500万円以上の物損を生じた事故。鉄道運転事故は以上のように分類されますが、この種の事故が発生した場合は、再発防止の諸対策を重点的に実施することになっています。
 運転阻害事故とは、列車の運転に阻害(列車に遅延等を生じさせるもの)を及ぼしたもののうち、鉄道運転事故に該当しない事象をいい、その原因が鉄道側に起因するものを部内原因、鉄道側に起因しないものを部外原因、災害(風、雨、雪、地震等)に起因するものを災害原因と大別しています。部内原因には、車両脱線、車両破損、転てつ器破損、車両逸走、閉塞違反、信号違反、停車駅通過、車両火災、車両故障、線路故障、送電故障、保安装置故障、荷くずれ車解放、運転支障、乗務員疾病、その他があります。部外原因としては、列車妨害、車両障害、線路障害、送電障害、保安装置障害、踏切支障、列車支障、その他があります。災害原因には、車両災害、線路災害、送電災害、保安装置災害、災害支障、その他があります。
 もう一つ、「ウィンクの日」でもあります。昨日は「10 10」で「目の形」でしたけど、今日は「10 11」だから「ウィンクしている形」ということですね。

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2008年10月10日 (金)

缶詰(こーじ)

 10月10日は、目の愛護デー、釣りの日、缶詰の日、マグロの日、銭湯の日です。
 「目の愛護デー」です。「10 10」を横にすると目の形になるということで。
 北海道開拓使は、1877(明治10)年、札幌市の北、石狩町に、わが国初の缶詰工場、石狩缶詰所を設置し、米国から招いたケプロンの推薦で、技術者U.S.トリートと助手のW.S.スウェットを指導者として、缶詰機械を組立てて据え付け、容器の缶を作り、石狩川で獲れたサケを原料に、缶詰の製造を開始しました。この日が、同年の10月10日です。
 缶詰の製造原理は、1804年フランスのアペールによって発見されました。1795年フランス革命のさなかに、ナポレオンはヨーロッパ戦線を東奔西走していました。当時のヨーロッパは新鮮な食物が不足し、一般市民に栄養不良による病気が流行していました。その時代の食品の保存法は昔ながらの乾燥、塩蔵および薫製によってなされていましたが、長い航海をする船員は塩蔵肉や乾パンでがまんしなければならなかったため、海軍部内には壊血病がまんえんしていました。ナポレオンは軍隊の士気を高め戦闘力を維持するためには、栄養豊富で新鮮美味な食糧を大量に供給する必要性を痛感し、従来の方法によらない食品貯蔵法を懸賞金つきで募集することを政府に命じました。政府は時の最高の科学者を委員とした食糧の長期貯蔵研究委員会を設けました。1810年にこの委員会はアペールの新貯蔵法を認め賞金1万2000フランを与えました。
 アペールは最初普通の瓶を使用しコルク栓を用いましたが、後に口径4インチ(約10cm)もある広口瓶を作らせました。栓はまだゴムの輪もスクリューキャップもなかったので、上質のコルク栓を使いました。この広口瓶に調理した食品を詰め、コルク栓をゆるくはめて湯匙(ゆせん)鍋に30~60分間入れ、沸騰させて瓶内の空気を追い出し、コルク栓で密封しました。こうすれば腐敗の原因となる空気は瓶内になく、またコルク栓によって外気がさえぎられるので瓶内の食品はまったく腐敗することはないというのがアペールの理論です。この時代はまだ自然発生説の盛んな時代で、この方法が成功したのは高熱を加えることによって瓶中の空気が除かれたためであると考えられていたのです。それから約60年後フランスのパスツールによって細菌学的に加熱殺菌の理論が証明されるまでは、このような誤りが正しいものと信じられていました。1810年イギリスのデュランド Peter Durand は食品の貯蔵法およびガラス製容器、つぼ、ブリキ缶など、ふたをする容器に対して政府の特許を得ました。方法はアペールと同様ですが、目的は容器として缶を使用することにあったので、デュランドをブリキ缶使用の開祖としています。しかし最初に缶詰を企業化したのは同じイギリスのドンキン BryanDonkin とホール John Hall で、12年にデュランドの特許を使用して史上初の缶詰工場を経営しました。この缶詰を24年パリー William Edward Parry が北極探険隊に使用したことは有名です。しかしこの時代の缶は現在の缶と異なり、胴にふたと底をはんだ付けしたもので、底をはんだ付けした缶に内容物を詰めた後ふたをはんだ付けし、その後沸騰水中で加熱しふたに小穴を開けて脱気した後封駐をするものでした。1896年にニューヨークの缶詰業者アムス Charles Ams が液状ラバーコンパウンドを塗りつけてふたと底を二重巻締めする方法を完成し、サニタリー缶と名付け特許を獲得しました。これが今日の缶詰容器の初めで、缶詰の大量生産の基を築いたといえます。
 日本における缶詰製造は、1871年(明治4)長崎の松田雅典(1832‐96)がフランス人デュリーLレon Dury からイワシ油漬缶詰の製法を教えられ試作したのが始まりとされています。この日は記念日にならなかったのですね。

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2008年10月 9日 (木)

コナミ藤井拓郎選手のイベント(くみこ)

 今年の北京オリンピックのメドレーリレーで、バタフライを泳いで銅メダルを獲得された藤井拓郎選手が、ついに10月5日香里園のコナミに来て下さいました。8月24日の予定だったのが、忙しくなられて延期になっていました。やっぱり引っぱりダコなんでしょうね。実は10月5日は運動会の予定が、雨で延期に・・・。残念でしたが、両方は疲れるなあと思っていたので、その点はよかったです。
 実物の藤井選手はテレビや写真よりもずっとハンサムでした。(^0^)/お母さん方が結構ざわついていたような気がします。(^0^;
 まずは模範泳法。4泳法を一通り見せて頂きました。やっぱりかなりゆっくり泳いでおられましたが、見た目の動きと違って進むのはとても速かったです。ギャラリー席からガラス越しにビデオを撮っていましたが、もぐっている時間が長いので「いつどこで浮上するのかな?」と撮りにくいぐらいでした。
 今回は先日夏休みの作品の写真を送ってくれた、HP委員Tさんの息子さんYくんも一緒に参加していました。藤井選手に指導して頂く時もちょうど同じコースだったので、楽しかったようです。相変わらずお稚児さんのようにミヤビなお子さまのYくんは、水着を着てゴーグルをしていても、色白で雰囲気が違うのですぐに見つかります。(^0^)泳ぎ始めると男の子だし、力強いんですけどね。
 藤井選手に指導して頂くときは、「藤井選手にさわってもらってる~!」などと喜んでしまいました。先日のオリンピックの銅メダリストに腕を持って教えて頂けたなんて感動です!(娘はちっともうまくなってはいませんが・・・)
 例によってまた25mクロールのリレーがありました。今回は選手コースのお子さんが多く、下手な娘はまた恥をかくのでは?とひやひやしていましたが、一応まともに泳げました。本人は「今日は速かったでしょ?」と言っていましたが、決して速かったわけではありません!でもよい経験ができました。
 最後に銅メダルをかけてもらって、藤井選手とツーショットで写真を撮って頂きました。これは本当に貴重なことです。ガラス越しに必死で撮影風景をビデオやカメラで撮りました。(中での写真は後日もらえますが)たまたま娘の次がYくんだったので、娘が撮っている時にYくんも一緒に写っています。了解を得て、ペイントなしで写真を載せました。
 プールに浸かってみんなで記念撮影をした時には体操のコーチも入っておられました。お手伝いに来られていたのかもしれませんが、ドサクサに紛れて一緒に入っただけかも・・・。(?)
 またこのような企画があればぜひ参加させたいものです。「体操でもこんな企画があるといいのになあ」とぜいたくなことを考える今日この頃です。(^0^;

Hujiisensyu Musume2 Ykun2

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2008年10月 8日 (水)

入れ歯(こーじ)

 10月8日は、国立公園制定記念日、木の日、入れ歯の日、骨と関節の日、足袋の日です。
 今日は「国立公園制定記念日」になっています。「国立公園法」という法律がちゃんと決まっていて、それを元に12ヶ所の国立公園が選定されました。ちなみに12ヵ所というのは、大雪山・阿寒・十和田・日光・富士、日本アルプス・吉野熊野・瀬戸内海・伯耆大山、阿蘇・雲仙・霧島の12ヵ所です。
 入れ歯は前5~前4世紀ころにすでにあったようです。川上為次郎の《歯科医学史》に、古代エトルリア人の義歯の写真が載っていますが、それを見ると、上あごの中切歯2本と左側の側切歯、第2小臼歯が欠如したものを補ったもので、中切歯および側切歯はウシの歯を利用し、1個のウシの歯に溝をつけて、それぞれの歯を区別してあるようです。そのウシの歯と、左側では犬歯、第1小臼歯、第1大臼歯、右側では側切歯と犬歯とに、それぞれ蝋づけした金の帯環を装着して固定してあります。エトルリア人の活動範囲から考えて、古代文化の発祥地であるエジプト、ヘブライ、ギリシア、フェニキア、アッシリア、バビロニア、インド、中国などには、この種の義歯があったと考えられます。この種の義歯は、今日でいえばブリッジに相当します。取りはずしのできる部分床義歯や全部床義歯のうち、部分床義歯は16世紀中ごろくふうされたようです。部分床義歯といっても、その当時のものは、骨、象牙、あるいはカバの歯を彫刻したものを、金線あるいは銀線などで隣の歯に結びつけた程度のもので、前に述べた古代の義歯とほとんど差がないもののようです。全部床義歯は、外国で記録に残っているところでは、1680年オランダの外科医で解剖学者のヌック A. Nuck(1650‐92)が、1個のカバの歯を彫刻して下あごの全部床義歯を作ったのが初めてのようです。その後18世紀にはいり、フランスのフォーシャールP. Fauchard(1680‐1761)は、上下のあごの全部床義歯を、スプリングで結びつけて上あごの全部床義歯の維持に成功し、さらに1728年には、スプリングを用いることなく、単に口腔内における陰圧の利用とほおの筋への適合とによって、上あごの全部床義歯の維持に成功しました。外国では、これが現代の全部床義歯に近づいた初めのものといってよいようです。フォーシャールは、〈近世歯科医学の父〉といわれているほど、歯科領域の学問の発展に寄与しています。日本で最古の全部床義歯として現存しているのは、柳生宗冬(1613‐75)が使用したと称せられているものですが、この義歯は、材料の点をのぞいては、まったく現代のものに近いそうです。ツゲの木で作られたかなり精巧な上下のあごの全部床義歯で、その前歯部は、蝋石を彫刻して作られ、大臼歯にあたる部位には、くぎの類が使ってあります。

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2008年10月 7日 (火)

水道(こーじ)

 10月7日は、ミステリー記念日、水道の日です。
 今日は「ミステリー記念日」になっています。先駆者であるエドガー・アラン・ポーが亡くなった日、とのことです。
 1887年のこの日、横浜市に日本初の近代時な上水道が完成しました。水量の豊富な相模川から鉄管で水をひき、野毛山にある貯水池から横浜市街に給水が開始されたとのこと。この作業の中心人物は、イギリス人の工兵中佐パーマーだったといいます。
 新石器時代、人が農耕を始め定着するころから、集落、とくに乾燥地域の集落では生活用水の継続的確保が重要な課題となりました。最初の集落はおそらく泉など水のあるところにできたでしょうが、集落が大きくなり水が不足するようになるとよそから水を運ぶ必要が生じました。集落の起源と灌漑の起源はともに前3000年ころと考えられていますが、灌漑施設は同時に家畜と人への飲用水供給や運河も兼ねる多目的施設でした。みずから農業を営まない職種が現れて都市に集住し、彼らへの給水を目的とする水利施設が灌漑・運河施設から分化するに至ったのは前1000年ころと考えられています。古代オリエントからギリシア時代にかけての都市遺跡に残る集落内の井戸、くみ井戸へ補水する地下水路、貯水ダム、灌漑水路から分水した導水路や市内地下の配水池などは水道の起源といえます。中近東や北アフリカの乾燥地域で、現在も用いられているカナート(地下水路で導水する横井戸)の歴史もこの時代までさかのぼりうると考えられています。これらはいずれも技術的には灌漑技術の応用ですが、都市が富を獲得するに従って大規模な水道専用施設が建造されるようになり、都市生活を支えるうえで不可欠の施設となっていきました。
 ギリシア時代にはすでに導水路の一部に伏越(ふせこし)(有圧の鉛管で谷を横断する逆サイフォン)や水路橋を用いた水道がつくられていました。続くローマ時代には水道はローマ帝国内の都市の標準施設として整備され、その遺構はイタリアのほかフランス、北アフリカ、ドイツなどに残存しています。これらは汚染の少ない遠方に良質の水源を求めて都市まで開水路で導水し、そのまま市内に給水するものでした。その最大のものは首都ローマ市の水道です。ローマ市では市内水源の汚染に悩まされたあげく、前312年に最初の水道をつくっています。市民はその利便に酔い、もっと大量の水を要求するようになり、市では戦利品を財源に226年までの間に11系統もの長大水路(延べ400km)を建設せざるを得ませんでした。これらは郊外(16~90km遠方)の水源(泉6、河川2、湖1ヵ所)から合計1日約100万m3もの清水を取水し、貯水池を経由して自然のこう配に沿わせた水路でローマ市まで導水し、市内240ヵ所の配水池で水位と流量を調節したのち、公共施設(広場の噴水、浴場)、邸宅、水くみ場(市民はそこから運ぶ)などに給水するシステムで、流末の余剰水は水車動力や街路清掃用水へと多段階に用いられました。ローマ市までの導水路は大半が等高線沿いに地中埋設した開水路で、地形上やむをえない場所にのみトンネルと水路橋が用いられています。
 これらローマ帝国内の都市に設けられた水道施設も、帝国の衰微に伴い水路の補修や浚渫(しゆんせつ)が行き届かなくなって、3世紀末には往時のようには機能しなくなり、一部の水路が中世を通じて細々と利用されていたにすぎません。中世の集落は一般に小規模でしたので、飲料水は市内の湧泉や井戸で賄われていましたが、城壁内に高密度居住した都市では、水不足と屎尿(しによう)の始末は深刻な衛生問題となっていました。13世紀に入ると、パリ、次いでロンドンに郊外の丘陵地の湧泉から市壁内まで導水するごく小規模な水道がつくられるようになりましたが、大半の市民は水売の運んできた河水を買うしかありませんでした。悪い水が病気をもたらすことは紀元前から知られていて、古代エジプト人は日光気曝(きばく)、沈殿、布や砂でのろ過、煮沸によって水が浄化されることをすでに知っていました。15世紀以降になると砂と木炭を互層に充てんしたろ過タンクがくふうされてはいましたが、個人邸宅や水売業者に用いられていたにすぎません。
 中世末期からヨーロッパ大陸の河川沿いや河口部の交通・輸送の要地に都市が勃興しますが、これらの都市では、舟航路である河川の水は汚染の危険をつねに内包しているものとみて警戒して用いず、飲料水源としてはもっぱら地下水や周辺高地の泉水を導水して用いていました。この考え方はライン川沿いの都市などヨーロッパ各地に現在でも継承されています。
 それに対し、16世紀に入って人口の急増したロンドンやパリでは、良質な泉水はすでに不足していて、やむなくテムズ川やセーヌ川の河水を水車で大量に揚水して配る水道が、ロンドンでは1581年に、パリでは1608年に設けられました。これによって都市生活の不便さと不潔さはかなり改められましたが、直接飲める水ではありませんでした。その後数十km遠方の湧泉から導水する工事に成功した会社が現れました(ロンドンでは1613年、パリでは23年のことで、これは江戸時代初頭に日本の城下町に整備された水道と年代も技術内容も似通っています)。ロンドン市内には高価ですが良質の水を配る会社3社と、市内のテムズ川から揚水しただけの低質でも廉価で豊富な水を配る会社5社が、地域によって併存していました。しかし、産業革命を迎えて急増した都市人口の吐き出す下水の放流口と、生活用水を満たす河水の揚水所が河岸に無秩序に設けられた結果、河水水道の水質は18世紀後半になると薄めた下水並みでした。その清濁各社競合状況の中で、チェルシー水道会社が実用に耐える砂ろ過技術を開発し、揚水した河水を大量にまとめてろ過してから配る水道を完成したのは1829年でしたが、これにならう会社は少なかったそうです。
 30年代からコレラが頻繁に流行しました。50年ころから、コレラは汚染された飲水により感染すること、河水でもろ過水の供給を受けている地域では患者数と死亡率がともに低いことが経験的に知られ出しました。これは L. パスツールと R. コッホにより病原細菌学の確立する80年代以前のことでした。河水の水道会社では取水点を少しずつ上流へ移設しましたが、それだけでは対処しえませんでした。1852年にロンドンで〈首都水道法〉が公布され、その要点は、テムズ川からの取水はロンドンの30km以上の上流に限る、河川水はろ過してから給水すべし、5年以内に常時給水を達成すべし(それまでは時間給水)というものでしたが、市内の水道が実質的にこの法律のようになったのは70年以降です。産業革命による都市への集住と都市河川の汚染が新しい水道の必要を生み、同時に産業革命が技術開発力、新しい手段(蒸気動ポンプ、鋳鉄管)と資金力を生み出したといえます。日本が開国直後から襲われたコレラなど消化器系伝染病を克服するため、西洋、とくにロンドンに学んだ新式水道(いわゆる近代水道)はまさにこの水道システムでした。
 一方、パリではナポレオン1世のとき、市内のセーヌ川の汚染河水に依存せずにすむように、103km遠方のウルク川からの導水路を完成(1811)しましたが、水源河川や導水途中での汚染がひどく雑用にしか使えませんでした。そこでさらに良質の水源を探し、1865年になって130km遠方の湧泉から導水して直接飲用しうる水道の完成を迎え、以後、今日まで市内の古くからの市街地部分には飲用上質水道と雑用水道が併存することとなりました。

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2008年10月 6日 (月)

そうめんウリ(くみこ)

 今日はあやとりのことを書いて載せてもらっていたのですが、写真をクリックしても説明の文字が読めませんでした。大変申しわけありません。ココログの都合でこれ以上は大きくならないらしいのです。本当にすみませんでした。
 そこで別のことを書いて載せてもらうことにしました。「そうめんウリ」をご存知でしょうか。滅多に見かけなかったのですが、先日母が枚方市駅近くのお店で見つけたと言って買って来てくれました。珍しいのでご紹介しますね。
 私も16~7年ぶりに見ました。見かけはきんしょうメロンみたいな普通のウリですが、茹でると繊維のようにポロポロとはずれてきます。手やスプーンでかき出すと本当に黄色いそうめんのようになります。これを甘酢やドレッシングなどお好みのものをかけて食べます。くせがなくてシャキシャキしていますよ。
 どこにでも売っているものではないので、簡単に「お試し下さい」というわけにもいかないかもしれませんが、もし見かけることがあれば1度お試し下さいね。(^0^)

Uri1 Uri2

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あやとり(くみこ)

 少し前に私の母が子供たちにあやとりの本をくれました。娘に、というつもりだったのですが、息子もハマりました。息子は小学1年生の時、教室で女の子とあやとりばかりしていた時期があるもので・・・。(^0^;
 いろいろなやり方が載っているのですが、息子が気に入ったのは「山の上の月」、娘が気に入ったのは「こうもり」です。
 本に載っているやり方を写真に撮ってみました。ちょっと字が小さくて読みづらいでしょうが、絵が描いてあるとわかりやすいと思いますので・・・。
 昔は私も少しぐらいあやとりをしたものですが、すっかり忘れてしまいました。本を見て挑戦しようかなと思いながらも、見ると案外難しくて・・・。(^0^;
 今日は写真ばかりになってしまいました。すみません。興味のある方は挑戦してみて下さいね。

Koumori1 Koumori2

Koumori3 Koumori

Tuki1 Tuki2 Tuki

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2008年10月 5日 (日)

時刻表(こーじ)

 10月5日は、時刻表記念日、レモンの日、折り紙供養の日です。
時刻表記念日は、1894(明治27)年、庚寅新誌社から日本初の本格的な時刻表『汽車汽船旅行案内』が出版された日です。福沢諭吉の勧めにより手塚猛昌が発行したもので、イギリスの時刻表を参考に、発車時刻や運賃のほか、紀行文等も掲載されていました。
 全国の鉄道の時刻を1冊の本にまとめて公刊した時刻表の創始者は、イギリスの印刷業者ブラッドショー George Bradshaw(1801‐53)で、1839年10月19日発行の《ブラッドショーの鉄道時刻表》第1号から始まりました。これは41年12月から月刊となり、鉄道のほかに汽船の時刻も加え、1961年6月まで続いたので、〈ブラッドショー〉は〈鉄道時刻表〉を意味する語として、一般に認められました。一方、イギリスで世界最初の旅行代行社を創立したトマス・クックは、1873年に《クックのヨーロッパ大陸時刻表》を創刊、以後海外旅行者に多く利用され、今日ではヨーロッパ版と、ヨーロッパ以外の全世界を収録する海外版の2種類を発行しています。
 日本では東海道本線の新橋~神戸間が全通した1889年の8月に、大阪の忠雅堂が刊行した《日本全国汽車時間表》が、冊子式全国鉄道時刻表の最初です。月刊としての最初は、94年10月に東京の庚寅(こういん)新誌社が刊行した《汽車汽船旅行案内》でした。これらは駅名、時刻とも漢字縦書きで、右から左へ横に進む体裁でした。以後いくつかの社から競争で刊行されました。現在の時刻表の体裁が確立されたのは、1925年4月、日本旅行文化協会創刊の《汽車時間表》で、これは鉄道省運輸局が部内用に編集、配布していたものを、一般に発売したもので、のち42年に《時刻表》と改題、現在は日本交通公社等が刊行しています。

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2008年10月 4日 (土)

里親(こーじ)

 10月4日は、イワシの日、陶器の日、投資の日、里親デー、宇宙開発記念日です。
 今日もいろいろな記念日になっていますが、「宇宙開発記念日」が比較的メジャーですね。これは、旧ソ連で最初に打ちあがったスプートニク1号打ち上げのことをさしています。スプートニク1号は大きなパチンコ玉から棒が生えたような形で、直径58センチメートル、重さが83.6キログラムの球でした。ちなみにノストラダムスの大予言騒動で、地球に落ちてくるんじゃないかと疑われたNASAの「カッシーニ」は、「スクールバスくらいの大きさ」らしいですから、それだけ技術が進歩したということなんでしょうね。
 里親制度は、子を養育するべき責務がある者の死亡、行方不明、長期にわたる疾病、収監あるいは子への虐待などの理由によって、子が保護されない状況が見られる場合に、子を家庭に引き取ってその養育を目的とする制度です(児童福祉法27条1項3号)。子の保護を目的とする制度のなかで、施設へ通う型、施設養育型とならぶものですね。子を家庭で養護する点は養子制度と似ていますが、里親里子間に法的親子関係は発生しません。
 明治初年より捨子、孤児など保護を必要とする子は、行政機関により家庭に委託養育されていました。東京では、市訓令(1895)によって、東京養育院など保護施設で生活している子を里子として委託養育する手続がありました。しかし、救護法(1932)は施設で養育されている子を里子とすることを禁じたので、里親制度は活用されませんでした。この禁止は37年に解かれましたが、里親制度の本格的な展開は児童福祉法(1947)の制定まで待たなければならなかったのです。48年厚生事務次官通知〈里親等家庭養育の運営に関して(家庭養育運営要綱)〉によって、里親制度は児童相談所を中心として運用されることになりました。そして、里子の委託は、自治体および〈家庭養護促進協会〉などの民間団体の協力を得た自治体によってなされてきています。ただし、当事者が合意によって行う子の委託養育もあって、公的機関がまったく関与しないため子の利益を損なう危険があるといわれています。
 現行制度は、1987年厚生事務次官通知〈里親等家庭養育の運営について(里親等家庭養育運営要綱)〉にもとづいて運用されています。その基本原則は、篤志家だけでなく普通の人でも里親になれるように制度を整備していくというもので、里親の認定事務の簡素化、認定基準と現代社会の実態との整合、里親里子の支援の拡大や保護の充実、などが強調されています。新たな原理にもとづいた里親は、以下の型に大別することができます。
(1)養子縁組を目的とする里親 未成年養子縁組をする場合、縁組前に養親子の適合可能性を判断する手続は現行法にありません。そこで、縁組前の試験期間として里親制度が利用されています。また、特別養子の場合、養育能力を判断するために必要であるとして養親希望者は里親になるよう奨励されています。(2)養育を目的とする里親 保護を必要とする子を家庭に引き取って養育するもので、長期ならびに短期のものがあります。前者は、養子縁組はとれませんが長期にわたる子の養育を目ざし、後者は子が養育能力を回復した実親のもとに帰るまでの比較的短期の養育を目的とするものです。里親制度を一層活用するために、自治体のなかには独自の制度を用意するところがあり、例えば、東京における〈養育家庭制度〉では、養子縁組をしないことを明らかにした上で、長期の養護をする里親の認定手続を整備し、里子収養に必要な経済的支援を用意するなど、里親制度の活性化が図られています。また、神戸や大阪の〈家庭養護寮〉は、子の養育について専門知識をもつ里親夫婦のもとに少人数の里子が生活することによって子の福祉を実現しようというものです。さらに、短期の里親制度として、〈3日里親〉〈家庭保育制度〉〈家庭福祉員制度〉を挙げることができます。(3)同居児童届出・保護受託者(職親) 前者では、子の保護の観点から、18歳未満の子(4親等内の子を除く)を、親権を行う者もしくは後見人から離して、自己の家庭に3ヵ月(乳児の場合は1ヵ月)以上同居させる者は、自治体の長へ届出をしなければならなりません。また、後者は、義務教育を終了した子に保護者がいない場合、社会生活への適用と自立能力を育成する目的で子の養育を委託する制度です(児童福祉法27条、30条、精神薄弱者福祉法16条1項3号)。

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2008年10月 3日 (金)

今年のきゅうり(くみこ)

 にも書きましたが、今年はきゅうりがよく育ちました。結局2階のベランダまで伸びてきて、しばらくの間きゅうりに占領されていました。「朝顔に つるべとられて もらい水」という句を思い出しましたよ。(^0^)
 ベランダまで伸びてきたので写真を撮りましたが、写っている小さなきゅうりは大きくなれませんでした。さすがにあまり上までは養分が上がらなかったのでしょうか。2階からも何本かは収穫しましたが、高い部分での収穫は少なかったです。今年は肥料もろくにやらなかったので、ここまで育ったのは奇跡的かもしれません。来年もまた大きく育ってほしいものです。
 さてきゅうりの話が出たので、我が家で人気の浅漬けをご紹介しますね。
~材料~
きゅうり・酢・しょうゆ・ゴマ油
~作り方~
①きゅうりは5mm厚さぐらい(適当です)に切って、塩をふってしばらくおいておきます。
②酢:しょうゆ:ゴマ油を5:5:1ぐらいに合わせます。(かなり適当です)とにかく酢としょうゆは同量ぐらいです。
③①のきゅうりの塩を軽く洗い流し、ギュ~っときつく絞って②の調味料に入れて、冷蔵庫にしばらく入れておきます。
以上!簡単ですよ。レシピとは言えないぐらいのいい加減さですみません!
 私は③の調味料をビニール袋で合わせ、きゅうりを入れてから空気を抜いて口を閉じます。そうするときゅうりがよく調味料に漬かりますよ。また余裕があれば時々ビニール袋の向きを変えると、均等に味が浸み込みます。
 甘みは全然入りませんが、子供たちは大好きで、アッと言う間になくなります。でも息子はよくきゅうりを食べ過ぎてお腹をこわすので、食べ過ぎにはご注意を・・・。(^0^;みなさんもよかったらお試し下さいね。

Asazuke Kyuri1 Kyuri2

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2008年10月 2日 (木)

望遠鏡(こーじ)

 10月2日は、関越自動車道全通記念日、望遠鏡の日、豆腐の日です。
 今日は「望遠鏡の日」です。望遠鏡が発明されたのは江戸時代の頃で、オランダの眼鏡屋さんが作ったんだそうです。ところが、特許をオランダの国会に提出したところ、「原理が簡単で誰でも作れそう」という理由で却下されてしまったそうです。
 望遠鏡は、対物レンズと接眼レンズ、あるいは凹面鏡(対物鏡という)と接眼鏡の組合せによって遠方の物体を光学的に近づけ、拡大して観察するための装置ですね。取り扱う電磁波の波長領域の拡大とともに X線望遠鏡、電波望遠鏡なども開発されましたが、単に望遠鏡という場合は可視光の領域を対象とする光学望遠鏡を指します。
 歴史的には17世紀初頭、オランダのミデルブルフにイタリアから技術導入されたガラス工場があり、クリスタルガラスが生産され、レンズ研磨から眼鏡の生産まで行われていたのですが、レンズ研磨師のリッペルスハイ Hans Lippershey(?‐1619)が1608年に望遠鏡の特許を申請したことが記録に残っています。当時の望遠鏡は用途としてまず軍事目的が考えられていました。このオランダにおける望遠鏡の成功を聞いたガリレイは翌09年、理論的解析を行い、みずから望遠鏡を試作しました。リッペルスハイからガリレイに至る望遠鏡は、凸の対物レンズと凹の接眼レンズの組合せで、オランダ望遠鏡あるいはガリレイ望遠鏡と呼ばれています。像は正立しますが視野の狭い欠点があり、現在ではオペラグラスに用いられる程度です。J. ケプラーは11年《屈折光学》を著し、その中で対物レンズ、接眼レンズともに凸レンズを用いた天体望遠鏡について述べています。これは今日ケプラー望遠鏡と呼ばれるもので C. シャイナーによって15年に作られました。得られるのは倒立像ですが、倍率を高くしても視野を広くとれる長所があります。天体の観測では倒立像であっても差しつかえはないのですが、地上望遠鏡として利用する場合には対物レンズと接眼レンズの間に像を正立させる光学系(正立系)を入れる必要があります。これにはレンズとプリズムを利用する方法があり、後者は本格的な双眼鏡に用いられています。ガリレイ式、ケプラー式のように、レンズを用いた望遠鏡(屈折望遠鏡という)では、色収差を完全になくすことはできません。この欠点を除くために、天体の実像をつくるのに凹面鏡を利用したものが反射望遠鏡です。スコットランドのグレゴリー James Gregory(1638‐75)が初めて実用的なものを設計した(1663発表)とされています。
 日本への望遠鏡の伝来についてはいくつかの説があるそうですが、1613年(慶長18)イギリスの使節が献上したのが最初らしいです。遠眼鏡、千里鏡、星眼鏡などの名で呼ばれていましたが、江戸初期には地上用のものの製作は幕府により禁止されていました。1830年代には国友藤兵衛一貫斎(1778‐1840)が反射式の優れた望遠鏡をつくっており、月の表面や太陽黒点のスケッチを残しています。
 天体望遠鏡の一部を除けば、一般の望遠鏡はそのほとんどが屈折望遠鏡です。屈折望遠鏡は、焦点距離の長い対物レンズの後側焦点と、焦点距離の短い接眼レンズの前側焦点とを一致させたものです。対物レンズに入った平行光線は接眼レンズから平行光線として出ていき、全体として一種の無焦点(アフォーカル)系ですが、対物レンズから物体を見た小さな光線の開き角は、接眼レンズから出るときは大きく拡大されます。したがって望遠鏡を通して見ると遠方の物体は拡大されて見えます。この物体を見込む開き角の拡大比率を望遠鏡の倍率と呼び、対物レンズの焦点距離を接眼レンズの焦点距離で割ったものに等しいです。なお望遠鏡の分解能は、接眼レンズの倍率が十分高い場合に識別できるもっとも接近した2点の間隔を角度で表したもので示されます。理想的な場合この分解能は光の回折現象で決まり、光の波長に比例し、対物レンズの口径に反比例します。
 望遠鏡は天体観測用のほか、地上用にも多く用いられ、双眼鏡、オペラグラスなどもその一種です。また各種照準望遠鏡、潜望鏡といった軍用にも非常に多く用いられます。測量器械、ボアスコープ、芯出し望遠鏡といった産業用にも多くのバリエーションがあります。

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2008年10月 1日 (水)

ネクタイ(こーじ)

 10月1日は、法の日、ハンコの日、土地の日、ネクタイの日、デザインの日、コーヒーの日、日本酒の日、さらに都民の日、赤い羽根の日、国際高齢者の日です。月の初めはたくさんありますね。
 今日から10月ですね。運動会の季節です。記念日も「なになに月間」としては、身体や食べ物、福祉に関係するものが多いみたいです。
 今日も記念日がたくさんあるんですが、「法の日」というのが一番メジャーかもしれません。1950年の10月1日に、日本の最高裁判所http://www.courts.go.jp/が開設された日です。
 ネクタイは、単にタイ tie ともいい、首やシャツの衿の回りに巻いて結ぶ帯状、ひも状の布のことで、おもに男子服の装飾のために用いますね。古くは古代ローマ時代の兵士の巻いていた、フォカレ focale と呼ぶ帯状のウールの首巻にさかのぼるといわれますが、直接の起源は17世紀のイギリスとフランスに登場したクラバット cravate でした。クラバットはクロアチアの人々が首に巻いていた布 kravata に由来するもので、それ以前の衿飾がシャツの衿元に縫いつけられていたのに対し、取りはずしのできるスカーフ状のものでした。クラバットの流行は19世紀初期まで続きました。18世紀初期にはストックstock と呼ばれる衿飾が現れました。これはあらかじめ結び目や蝶結びがつくられていて、帯状の布をシャツの衿に回し、後ろで結ぶかバックル留めにするものでした。クラバットとストックは上質の麻でつくられ、ほとんど白でしたが黒も用いられました。現在でも燕尾服には白の麻か綿の蝶タイ、タキシードには黒の蝶タイが必ず合わされているのは、この時代のなごりです。現在のような多彩な色物や柄物が使われはじめたのは、19世紀半ばころからで、当時の男子服のほとんどが黒または黒ずんだ色調のものだったため、色物がとり入れられ、名称もそれまでのネッククロス neckclothに代わってネクタイが徐々に使われるようになりました。1870年代から80年代にかけてシャツの衿が小型になり、上着やベストの衿明きが小さくなったために、ネクタイの結び目が急激に小型化して、現在のネクタイとほぼ同じ形態になりました。ネクタイの結び目が小さくなればなるほど、その視覚的な効果を強めるためにより強烈な色や柄がとり入れられて、染色の容易な絹が基本的な素材になりました。今日では絹とともにアセテート、レーヨン、ポリエステルなどの化学繊維やウール、またニットのネクタイも使われています。
 日本にネクタイがもたらされたのは幕末の洋服移入に伴うもので、《西洋衣食住》(片山淳之助、1867)に〈襟締 子(ね)ッキタイ〉として紹介され、〈首巻ハ麻ナリ又ハ紙ニテ製シタルモアリ〉と記されている。
 現在用いられているネクタイの種類には以下のものがあります。(1)アスコット・タイ Ascot tie 19世紀の後半、イギリスのアスコット競馬場に初めて登場したことに由来。形はクラバットに近似し、二重結びにして結び目の下を飾りピンで留めるのが特徴で、現在でも黒白の縞模様のものは、この結び方でモーニングコートに合わせることがあります。色物、柄物の柔らかいウールや絹のものはスカーフと同様に使われています。(2)幅(はば)タイ 最も代表的な結び下げにするネクタイ。結び目(ノット)の下から大剣の先まで、こぶし四つ分の長さがあるところから、フォア・イン・ハンド four‐in‐hand と呼ばれます。(3)角(かく)タイ スクエア・エンド・タイsquare end tie のこと。先端が水平にカットされたもの。(4)蝶タイ ボー・タイ bow tie のこと。蝶結びにしたネクタイで日本では蝶ネクタイとも。(5)ひもタイ ストリング・タイ string tie、コード・タイcord tie、ボヘミアン・タイ Bohemian tie とも。細いひもになっており衿元で蝶結びにします。衿元の金具を使うウェスタン・タイ western tie もこの一種。
 ネクタイの流行は色や柄に出ることが多いのですが、幅の変化も重要な特徴で、1930年代と、60年代の終りから70年代初めにかけてその幅が10cm以上と極端に広くなりました。また40年代から50年代にかけては6cm以下と細くなりましたが、これは背広上着の衿幅の変化と関係しています。また結び方にもさまざまな流行が見られるそうです。

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