2008年10月14日 (火)

PTA(こーじ)

 10月14日は、鉄道の日、PTA結成の日、世界標準の日です。
 今日は「鉄道の日」ですね。もともと1922年に、国鉄が「鉄道記念日」として制定したものを、国鉄がJRになった1994年に「鉄道の日」に改称しました。
 もう一つ、「PTA結成の日」でもあります。PTAって、単に「生徒の親御さんの集まり」のように使われていますけど、本来は“Parent-Teacher Association”、つまり、父母と教師が協力し合うための団体という意味だそうです。
 PTAは、19世紀末アメリカで起きた児童福祉のための母親運動が始まりで、市や町の環境浄化活動や教育条件の整備向上を進める団体の集まりである〈父母と教師の全国協議会 National Congress ofParents and Teachers〉(1924結成)が最も有名です。日本でも、第2次大戦中までは父兄会、後援会、保護者会などがありましたが、おもに学校の財政面・物質面に奉仕する団体でした。戦後、教育基本法の公布、6・3・3制の学校教育制度の発足とともに、PTA が誕生しました。これは1946年3月に来日したアメリカの第1次教育使節団の報告書と翌47年3月この示唆をうけた文部省通達〈父母と先生の会――教育民主化の手引〉にのっとって全国の小・中・高の学校単位につくられました(1948年4月の文部省調査によれば、小学校85%、中学校83%、高等学校65%)。
 日本の PTA は発足当時、次の目的を実現することが期待されました。(1)児童青少年の福祉の増進、(2)市民の権利と義務の理解をうながす成人教育の振興、(3)民主教育の理解の推進、(4)家庭と学校の連携協力、(5)父母、教師、一般社会の協力による児童青少年の健全育成、(6)学校教育環境の整備、(7)児童青少年の補導、保護、福祉に関する法律の制定、(8)公立学校の教育予算の確保、(9)地域の社会教育の振興、(10)国際親善、の各項です(〈父母と先生の会参考規約〉1948)。こうして PTA は子どもの幸せを守り、増進する自主団体として、教育問題の学習、父母と教師の親睦、環境浄化の奉仕活動、教育世論の形成などを推進していくことになりました。しかし、そのほとんどが従来の後援会や父兄会などの性格をのこしたままで、くわえて全員自動加入、学校単位の組織、在籍児童・生徒の両親に限る会員制、学校後援会的な性格など、アメリカとちがって市民団体的な性格が弱いために、学校の付属機関のような存在になりやすく、一部有力者の支配する形式的行事中心の PTA が少なくありません。
 この傾向に対して、役員選出の民主化、任意加入制への切替え、地域単位の PTA づくり、成人教育活動の振興に努力する PTA 改革の動きも進んできました。とくに PTA の主体である母親会員は、生活環境の浄化、小児麻痺ワクチンの緊急輸入、高校増設の要求、公教育費の私費負担の軽減などに活躍し、広報委員会や成人教育委員会の活動を通して女性運動の活動家も生まれました。今日、主婦のパート労働への進出、受験教育の激化などで、役員・委員のなり手がなく、さらにはPTA のない学校も出てきましたが、校内暴力や非行の増加から〈地域の教育力〉の回復に努力している PTA も少なくありません。現在、PTA の全国組織として、日本 PTA 全国協議会(1952結成)や、全国PTA 問題研究会(1971結成)があります。

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2008年10月13日 (月)

さつまいも(こーじ)

 10月13日は、引っ越しの日、さつまいもの日、麻酔の日です。
 えっと、「引越しの日」です。1868年、つまり明治元年に、明治天皇が京都から江戸にお引越しされた、ということで「引越しの日」なんですね。
 さつまいもの日は、埼玉県川越市の市民グループ・川越いも友の会が制定しました。10月はさつまいもの旬で、江戸から川越までの距離が約13里なので、さつまいもが「栗(九里)より(四里)うまい十三里」と言われていたことからきています。
 サツマイモの野生種は知られていませんが、染色体数は体細胞で90本あります。大部分のヒルガオ属の野生種染色体数は30本ですので、六倍体と考えられます。サツマイモは野生六倍体種から起源したと推定されますが、そのような野生祖先種の一つとして根が肥大しないイポメア・トリフィダ I. trifida G. Don が中央アメリカ(メキシコ)で発見されています。しかし、この種はいもができないだけでなく、つる性の茎は他物に巻きつくなどの特徴があり、サツマイモとは異なっています。またサツマイモに近縁な他の野生種(I. littoralis Bl.(2n=60)、I. leucantha Jacq.(2n=30))も中央アメリカに野生しています。
 サツマイモは中央アメリカ熱帯域では古くから主食として栽培され、南アメリカ域にも前2000年ころには導入されていたようです。またポリネシアにもコロンブスの新大陸発見以前から栽培されていて、新大陸と旧世界の交流がコロンブス以前にもあった証拠とされています。ニュージーランドのマオリ族やニューギニア高地原住民にとっては重要な主食とされていました。しかし熱帯太平洋の島々で古くから栽培されていたサツマイモは、果実が海流によって伝播(でんぱ)されたもので、人間の移動とは関係がないという意見もあります。
 東アジア地域には、ヨーロッパまわりで16世紀末には中国に伝わりました。日本には1597年(慶長2)に宮古島に入ったのが最初とされ、17世紀には、琉球や長崎、醍摩などに伝わり、南九州で徐々に栽培が広がりました。1735年(享保20)に青木昆陽が江戸に導入し、その後、関東や西日本で救荒作物として普及しました。
 世界での生産量は1.2億tをこえ、ジャガイモの半分弱の生産量です。生産量の最も多い国は中国で、全体の84%を占め、ベトナムがこれに次ぎ、アジアだけで91%を生産しています。日本の生産量は世界全体の1%ほどを占めます。日本の栽培面積は、明治初期の15万haから、1949年に44万haまで増加しましたが、第2次大戦後の食糧不足が緩和するにつれ、またこの時期からデンプン原料としてコーンスターチが輸入されるようになり、作付けは徐々に減少し、現在では約5万haほどです。主産地は鹿児島県で、栽培面積、収穫量ともに全体の約1/3を占め、これに履城、千葉、宮崎など関東や九州を中心とした暖地各県が次ぎます。
 麻酔の日は、日本麻酔科学会が制定しました。1804年、華岡青州が世界で初めて全身麻酔による乳癌手術を成功させたのが由来です。

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2008年10月12日 (日)

運動会(くみこ)

 今年の運動会は10月5日に予定されていましたが、去年と同様、雨で延期になりました。でも運動会がなくてもとにかくお弁当をみんなで食べると決めていたので、迷わずに前日からかなりのおかずを作っていましたし、気分的に楽でした。普通延期になると見に行けるお父さんの数は減ります(うちもそうでした)が、今年は平日なのに男性の数が多かったような気がします。
 今年はPTAの広報委員をしており、トラックの中に入って写真を撮りました。機関紙に載せるためですが、自分の子を中心に撮れるのがうれしいです。でもビデオが撮れないので、5組の同級生‘にゃんさん’に撮ってもらいました。随分負担をかけてしまって申し訳なかったのですが、お陰でよい記録が残せました。にゃんさん、ありがとう!ところで扇子で顔を隠してる写真のお子さんはにゃんさんの息子さんです。彼はとっても楽しいんです!(^0^)/この写真はブログに載せられるように、うまく切り取って加工して送ってもらいました。大変お世話になりました。m(_ _)m
 2年生の娘は赤組で、「がけの上のポニョ」の歌をバックミュージックにおみこし(←落っこちやすい)をかつぐリレー、障害走、ダンスをしました。
 おみこしリレーはポニョの人形が乗っていたのですが、白組さんのポニョは何度も落っこちて、髪の毛(毛糸)が取れてハゲてました!(^0^;
 障害走はハシゴをくぐったりしますが、こけてしまった男の子がそのまま動かず(ギャグで)、笑いました!
 ダンスは虹を表現しており、鈴をつけたリストバンドをし、カラフルな布を持って踊ったのがなかなかよかったです。
 6年生の息子は白組で、棒倒し、クラス対抗リレー、組み立て体操をしました。
 棒倒しは運よく息子が相手の棒の先の旗を取ったのですが気づかず、せっかく中に入って写真を撮っていたのに撮りそびれて残念でした!
 リレーは第2走者で、1番手の子が速く、1位でバトンをもらいました。息子は足が遅いながらも、何とかギリギリ1位をキープして次へバトンタッチしようとしたのですが、次のお子さんがうっかり待機し忘れていました。随分遅れてやっと渡しましたが、結果は・・・。アンカーが学年で1番速いと言われているお子さんで、練習ではいつも1位だったそうですが、本番は何が起こるかわかりませんね。(^0^;
 組み立て体操は得意分野です。倒立などワザをキメるのに燃えていました。でも隊形移動があると中に入っていても見失いやすく、目の前にあらわれるよそのお子さんの方をたくさん撮ってしまいました。(^0^;
 今までPTA競技は綱引きでしたが、今年は玉入れでした。カゴを背負ったPTAの会長さんやかなりの仮装をした先生方を追いかけて玉を入れるのです。「玉は当てるのではなく、カゴに入れて下さい」とアナウンスされるほど強烈でした~!
 お弁当は娘が「去年と同じにして~」と言うのでまた‘両津まゆげ’のおにぎりにしました。「ブログに載せるのに去年と一緒ではねえ」と思っていたら、関西人さんが「向きを変える」という名案(?)を出してくれたので、顔の向きを変えてみました。(^0^)/わかりにくいでしょうか・・・。ま、自己満足です!前日から作ったものが多く、ミニオムレツや卵焼きは子供たちが作りました。それもよかったなあと思います。来年も前日から子供と一緒に作ろうと思っています。ちなみにこの写真は雨で流れた5日のものです。8日はどのおかずも半分以下の量になりましたよ!
 左下のアルバムにコメント入りの写真をたくさん入れてもらうので、よかったらご覧になってやって下さい。長くなってすみませんでした。m(_ _)mまた小学校のHPにも即日たくさんの写真が載ったので、リンクを張らせて頂きました。

Mekakushi_trim Nami Niji Obentou

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2008年10月11日 (土)

鉄道事故(こーじ)

 10月11日は、鉄道安全確認の日、ウィンクの日です。
 今日は「鉄道安全確認の日」です。理由は、「1874年、新橋で日本初の鉄道事故が発生した」ということです。新橋にとってはちょっと不名誉な理由ですけど、日本で初めて鉄道が通った場所でもありますから、しょうがないのかもしれませんね。
 鉄道の安全で正確な輸送を阻害する事象が発生した場合を鉄道事故といいます。鉄道事業法に基づく鉄道事故等報告規則においては、安全を阻害する事象と正確を阻害する事象の二つに大別し、前者を鉄道運転事故、後者を運転阻害事故と定義づけて処理しています(ほかに電気事故と災害についても規定しています)。
 鉄道運転事故とは、列車または車両の運転により、人の死傷または物の損傷を生じたもので、次のような事象をいいます。(1)列車衝突事故列車が他の列車または車両と衝突し、または接触した事故、(2)列車脱線事故列車が脱線した事故、(3)列車火災事故列車に火災が生じた事故、(4)踏切障害事故踏切道において、列車または車両が道路を通行する人または車両等と衝突し、または接触した事故、(5)道路障害事故踏切道以外の道路において、列車または車両が道路を通行する人または車両等と衝突し、または接触した事故、(6)鉄道人身事故前記以外で列車または車両の運転により人の死傷を生じた事故、(7)鉄道物損事故前記以外で列車または車両の運転により500万円以上の物損を生じた事故。鉄道運転事故は以上のように分類されますが、この種の事故が発生した場合は、再発防止の諸対策を重点的に実施することになっています。
 運転阻害事故とは、列車の運転に阻害(列車に遅延等を生じさせるもの)を及ぼしたもののうち、鉄道運転事故に該当しない事象をいい、その原因が鉄道側に起因するものを部内原因、鉄道側に起因しないものを部外原因、災害(風、雨、雪、地震等)に起因するものを災害原因と大別しています。部内原因には、車両脱線、車両破損、転てつ器破損、車両逸走、閉塞違反、信号違反、停車駅通過、車両火災、車両故障、線路故障、送電故障、保安装置故障、荷くずれ車解放、運転支障、乗務員疾病、その他があります。部外原因としては、列車妨害、車両障害、線路障害、送電障害、保安装置障害、踏切支障、列車支障、その他があります。災害原因には、車両災害、線路災害、送電災害、保安装置災害、災害支障、その他があります。
 もう一つ、「ウィンクの日」でもあります。昨日は「10 10」で「目の形」でしたけど、今日は「10 11」だから「ウィンクしている形」ということですね。

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2008年10月10日 (金)

缶詰(こーじ)

 10月10日は、目の愛護デー、釣りの日、缶詰の日、マグロの日、銭湯の日です。
 「目の愛護デー」です。「10 10」を横にすると目の形になるということで。
 北海道開拓使は、1877(明治10)年、札幌市の北、石狩町に、わが国初の缶詰工場、石狩缶詰所を設置し、米国から招いたケプロンの推薦で、技術者U.S.トリートと助手のW.S.スウェットを指導者として、缶詰機械を組立てて据え付け、容器の缶を作り、石狩川で獲れたサケを原料に、缶詰の製造を開始しました。この日が、同年の10月10日です。
 缶詰の製造原理は、1804年フランスのアペールによって発見されました。1795年フランス革命のさなかに、ナポレオンはヨーロッパ戦線を東奔西走していました。当時のヨーロッパは新鮮な食物が不足し、一般市民に栄養不良による病気が流行していました。その時代の食品の保存法は昔ながらの乾燥、塩蔵および薫製によってなされていましたが、長い航海をする船員は塩蔵肉や乾パンでがまんしなければならなかったため、海軍部内には壊血病がまんえんしていました。ナポレオンは軍隊の士気を高め戦闘力を維持するためには、栄養豊富で新鮮美味な食糧を大量に供給する必要性を痛感し、従来の方法によらない食品貯蔵法を懸賞金つきで募集することを政府に命じました。政府は時の最高の科学者を委員とした食糧の長期貯蔵研究委員会を設けました。1810年にこの委員会はアペールの新貯蔵法を認め賞金1万2000フランを与えました。
 アペールは最初普通の瓶を使用しコルク栓を用いましたが、後に口径4インチ(約10cm)もある広口瓶を作らせました。栓はまだゴムの輪もスクリューキャップもなかったので、上質のコルク栓を使いました。この広口瓶に調理した食品を詰め、コルク栓をゆるくはめて湯匙(ゆせん)鍋に30~60分間入れ、沸騰させて瓶内の空気を追い出し、コルク栓で密封しました。こうすれば腐敗の原因となる空気は瓶内になく、またコルク栓によって外気がさえぎられるので瓶内の食品はまったく腐敗することはないというのがアペールの理論です。この時代はまだ自然発生説の盛んな時代で、この方法が成功したのは高熱を加えることによって瓶中の空気が除かれたためであると考えられていたのです。それから約60年後フランスのパスツールによって細菌学的に加熱殺菌の理論が証明されるまでは、このような誤りが正しいものと信じられていました。1810年イギリスのデュランド Peter Durand は食品の貯蔵法およびガラス製容器、つぼ、ブリキ缶など、ふたをする容器に対して政府の特許を得ました。方法はアペールと同様ですが、目的は容器として缶を使用することにあったので、デュランドをブリキ缶使用の開祖としています。しかし最初に缶詰を企業化したのは同じイギリスのドンキン BryanDonkin とホール John Hall で、12年にデュランドの特許を使用して史上初の缶詰工場を経営しました。この缶詰を24年パリー William Edward Parry が北極探険隊に使用したことは有名です。しかしこの時代の缶は現在の缶と異なり、胴にふたと底をはんだ付けしたもので、底をはんだ付けした缶に内容物を詰めた後ふたをはんだ付けし、その後沸騰水中で加熱しふたに小穴を開けて脱気した後封駐をするものでした。1896年にニューヨークの缶詰業者アムス Charles Ams が液状ラバーコンパウンドを塗りつけてふたと底を二重巻締めする方法を完成し、サニタリー缶と名付け特許を獲得しました。これが今日の缶詰容器の初めで、缶詰の大量生産の基を築いたといえます。
 日本における缶詰製造は、1871年(明治4)長崎の松田雅典(1832‐96)がフランス人デュリーLレon Dury からイワシ油漬缶詰の製法を教えられ試作したのが始まりとされています。この日は記念日にならなかったのですね。

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2008年10月 9日 (木)

コナミ藤井拓郎選手のイベント(くみこ)

 今年の北京オリンピックのメドレーリレーで、バタフライを泳いで銅メダルを獲得された藤井拓郎選手が、ついに10月5日香里園のコナミに来て下さいました。8月24日の予定だったのが、忙しくなられて延期になっていました。やっぱり引っぱりダコなんでしょうね。実は10月5日は運動会の予定が、雨で延期に・・・。残念でしたが、両方は疲れるなあと思っていたので、その点はよかったです。
 実物の藤井選手はテレビや写真よりもずっとハンサムでした。(^0^)/お母さん方が結構ざわついていたような気がします。(^0^;
 まずは模範泳法。4泳法を一通り見せて頂きました。やっぱりかなりゆっくり泳いでおられましたが、見た目の動きと違って進むのはとても速かったです。ギャラリー席からガラス越しにビデオを撮っていましたが、もぐっている時間が長いので「いつどこで浮上するのかな?」と撮りにくいぐらいでした。
 今回は先日夏休みの作品の写真を送ってくれた、HP委員Tさんの息子さんYくんも一緒に参加していました。藤井選手に指導して頂く時もちょうど同じコースだったので、楽しかったようです。相変わらずお稚児さんのようにミヤビなお子さまのYくんは、水着を着てゴーグルをしていても、色白で雰囲気が違うのですぐに見つかります。(^0^)泳ぎ始めると男の子だし、力強いんですけどね。
 藤井選手に指導して頂くときは、「藤井選手にさわってもらってる~!」などと喜んでしまいました。先日のオリンピックの銅メダリストに腕を持って教えて頂けたなんて感動です!(娘はちっともうまくなってはいませんが・・・)
 例によってまた25mクロールのリレーがありました。今回は選手コースのお子さんが多く、下手な娘はまた恥をかくのでは?とひやひやしていましたが、一応まともに泳げました。本人は「今日は速かったでしょ?」と言っていましたが、決して速かったわけではありません!でもよい経験ができました。
 最後に銅メダルをかけてもらって、藤井選手とツーショットで写真を撮って頂きました。これは本当に貴重なことです。ガラス越しに必死で撮影風景をビデオやカメラで撮りました。(中での写真は後日もらえますが)たまたま娘の次がYくんだったので、娘が撮っている時にYくんも一緒に写っています。了解を得て、ペイントなしで写真を載せました。
 プールに浸かってみんなで記念撮影をした時には体操のコーチも入っておられました。お手伝いに来られていたのかもしれませんが、ドサクサに紛れて一緒に入っただけかも・・・。(?)
 またこのような企画があればぜひ参加させたいものです。「体操でもこんな企画があるといいのになあ」とぜいたくなことを考える今日この頃です。(^0^;

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2008年10月 8日 (水)

入れ歯(こーじ)

 10月8日は、国立公園制定記念日、木の日、入れ歯の日、骨と関節の日、足袋の日です。
 今日は「国立公園制定記念日」になっています。「国立公園法」という法律がちゃんと決まっていて、それを元に12ヶ所の国立公園が選定されました。ちなみに12ヵ所というのは、大雪山・阿寒・十和田・日光・富士、日本アルプス・吉野熊野・瀬戸内海・伯耆大山、阿蘇・雲仙・霧島の12ヵ所です。
 入れ歯は前5~前4世紀ころにすでにあったようです。川上為次郎の《歯科医学史》に、古代エトルリア人の義歯の写真が載っていますが、それを見ると、上あごの中切歯2本と左側の側切歯、第2小臼歯が欠如したものを補ったもので、中切歯および側切歯はウシの歯を利用し、1個のウシの歯に溝をつけて、それぞれの歯を区別してあるようです。そのウシの歯と、左側では犬歯、第1小臼歯、第1大臼歯、右側では側切歯と犬歯とに、それぞれ蝋づけした金の帯環を装着して固定してあります。エトルリア人の活動範囲から考えて、古代文化の発祥地であるエジプト、ヘブライ、ギリシア、フェニキア、アッシリア、バビロニア、インド、中国などには、この種の義歯があったと考えられます。この種の義歯は、今日でいえばブリッジに相当します。取りはずしのできる部分床義歯や全部床義歯のうち、部分床義歯は16世紀中ごろくふうされたようです。部分床義歯といっても、その当時のものは、骨、象牙、あるいはカバの歯を彫刻したものを、金線あるいは銀線などで隣の歯に結びつけた程度のもので、前に述べた古代の義歯とほとんど差がないもののようです。全部床義歯は、外国で記録に残っているところでは、1680年オランダの外科医で解剖学者のヌック A. Nuck(1650‐92)が、1個のカバの歯を彫刻して下あごの全部床義歯を作ったのが初めてのようです。その後18世紀にはいり、フランスのフォーシャールP. Fauchard(1680‐1761)は、上下のあごの全部床義歯を、スプリングで結びつけて上あごの全部床義歯の維持に成功し、さらに1728年には、スプリングを用いることなく、単に口腔内における陰圧の利用とほおの筋への適合とによって、上あごの全部床義歯の維持に成功しました。外国では、これが現代の全部床義歯に近づいた初めのものといってよいようです。フォーシャールは、〈近世歯科医学の父〉といわれているほど、歯科領域の学問の発展に寄与しています。日本で最古の全部床義歯として現存しているのは、柳生宗冬(1613‐75)が使用したと称せられているものですが、この義歯は、材料の点をのぞいては、まったく現代のものに近いそうです。ツゲの木で作られたかなり精巧な上下のあごの全部床義歯で、その前歯部は、蝋石を彫刻して作られ、大臼歯にあたる部位には、くぎの類が使ってあります。

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2008年10月 7日 (火)

水道(こーじ)

 10月7日は、ミステリー記念日、水道の日です。
 今日は「ミステリー記念日」になっています。先駆者であるエドガー・アラン・ポーが亡くなった日、とのことです。
 1887年のこの日、横浜市に日本初の近代時な上水道が完成しました。水量の豊富な相模川から鉄管で水をひき、野毛山にある貯水池から横浜市街に給水が開始されたとのこと。この作業の中心人物は、イギリス人の工兵中佐パーマーだったといいます。
 新石器時代、人が農耕を始め定着するころから、集落、とくに乾燥地域の集落では生活用水の継続的確保が重要な課題となりました。最初の集落はおそらく泉など水のあるところにできたでしょうが、集落が大きくなり水が不足するようになるとよそから水を運ぶ必要が生じました。集落の起源と灌漑の起源はともに前3000年ころと考えられていますが、灌漑施設は同時に家畜と人への飲用水供給や運河も兼ねる多目的施設でした。みずから農業を営まない職種が現れて都市に集住し、彼らへの給水を目的とする水利施設が灌漑・運河施設から分化するに至ったのは前1000年ころと考えられています。古代オリエントからギリシア時代にかけての都市遺跡に残る集落内の井戸、くみ井戸へ補水する地下水路、貯水ダム、灌漑水路から分水した導水路や市内地下の配水池などは水道の起源といえます。中近東や北アフリカの乾燥地域で、現在も用いられているカナート(地下水路で導水する横井戸)の歴史もこの時代までさかのぼりうると考えられています。これらはいずれも技術的には灌漑技術の応用ですが、都市が富を獲得するに従って大規模な水道専用施設が建造されるようになり、都市生活を支えるうえで不可欠の施設となっていきました。
 ギリシア時代にはすでに導水路の一部に伏越(ふせこし)(有圧の鉛管で谷を横断する逆サイフォン)や水路橋を用いた水道がつくられていました。続くローマ時代には水道はローマ帝国内の都市の標準施設として整備され、その遺構はイタリアのほかフランス、北アフリカ、ドイツなどに残存しています。これらは汚染の少ない遠方に良質の水源を求めて都市まで開水路で導水し、そのまま市内に給水するものでした。その最大のものは首都ローマ市の水道です。ローマ市では市内水源の汚染に悩まされたあげく、前312年に最初の水道をつくっています。市民はその利便に酔い、もっと大量の水を要求するようになり、市では戦利品を財源に226年までの間に11系統もの長大水路(延べ400km)を建設せざるを得ませんでした。これらは郊外(16~90km遠方)の水源(泉6、河川2、湖1ヵ所)から合計1日約100万m3もの清水を取水し、貯水池を経由して自然のこう配に沿わせた水路でローマ市まで導水し、市内240ヵ所の配水池で水位と流量を調節したのち、公共施設(広場の噴水、浴場)、邸宅、水くみ場(市民はそこから運ぶ)などに給水するシステムで、流末の余剰水は水車動力や街路清掃用水へと多段階に用いられました。ローマ市までの導水路は大半が等高線沿いに地中埋設した開水路で、地形上やむをえない場所にのみトンネルと水路橋が用いられています。
 これらローマ帝国内の都市に設けられた水道施設も、帝国の衰微に伴い水路の補修や浚渫(しゆんせつ)が行き届かなくなって、3世紀末には往時のようには機能しなくなり、一部の水路が中世を通じて細々と利用されていたにすぎません。中世の集落は一般に小規模でしたので、飲料水は市内の湧泉や井戸で賄われていましたが、城壁内に高密度居住した都市では、水不足と屎尿(しによう)の始末は深刻な衛生問題となっていました。13世紀に入ると、パリ、次いでロンドンに郊外の丘陵地の湧泉から市壁内まで導水するごく小規模な水道がつくられるようになりましたが、大半の市民は水売の運んできた河水を買うしかありませんでした。悪い水が病気をもたらすことは紀元前から知られていて、古代エジプト人は日光気曝(きばく)、沈殿、布や砂でのろ過、煮沸によって水が浄化されることをすでに知っていました。15世紀以降になると砂と木炭を互層に充てんしたろ過タンクがくふうされてはいましたが、個人邸宅や水売業者に用いられていたにすぎません。
 中世末期からヨーロッパ大陸の河川沿いや河口部の交通・輸送の要地に都市が勃興しますが、これらの都市では、舟航路である河川の水は汚染の危険をつねに内包しているものとみて警戒して用いず、飲料水源としてはもっぱら地下水や周辺高地の泉水を導水して用いていました。この考え方はライン川沿いの都市などヨーロッパ各地に現在でも継承されています。
 それに対し、16世紀に入って人口の急増したロンドンやパリでは、良質な泉水はすでに不足していて、やむなくテムズ川やセーヌ川の河水を水車で大量に揚水して配る水道が、ロンドンでは1581年に、パリでは1608年に設けられました。これによって都市生活の不便さと不潔さはかなり改められましたが、直接飲める水ではありませんでした。その後数十km遠方の湧泉から導水する工事に成功した会社が現れました(ロンドンでは1613年、パリでは23年のことで、これは江戸時代初頭に日本の城下町に整備された水道と年代も技術内容も似通っています)。ロンドン市内には高価ですが良質の水を配る会社3社と、市内のテムズ川から揚水しただけの低質でも廉価で豊富な水を配る会社5社が、地域によって併存していました。しかし、産業革命を迎えて急増した都市人口の吐き出す下水の放流口と、生活用水を満たす河水の揚水所が河岸に無秩序に設けられた結果、河水水道の水質は18世紀後半になると薄めた下水並みでした。その清濁各社競合状況の中で、チェルシー水道会社が実用に耐える砂ろ過技術を開発し、揚水した河水を大量にまとめてろ過してから配る水道を完成したのは1829年でしたが、これにならう会社は少なかったそうです。
 30年代からコレラが頻繁に流行しました。50年ころから、コレラは汚染された飲水により感染すること、河水でもろ過水の供給を受けている地域では患者数と死亡率がともに低いことが経験的に知られ出しました。これは L. パスツールと R. コッホにより病原細菌学の確立する80年代以前のことでした。河水の水道会社では取水点を少しずつ上流へ移設しましたが、それだけでは対処しえませんでした。1852年にロンドンで〈首都水道法〉が公布され、その要点は、テムズ川からの取水はロンドンの30km以上の上流に限る、河川水はろ過してから給水すべし、5年以内に常時給水を達成すべし(それまでは時間給水)というものでしたが、市内の水道が実質的にこの法律のようになったのは70年以降です。産業革命による都市への集住と都市河川の汚染が新しい水道の必要を生み、同時に産業革命が技術開発力、新しい手段(蒸気動ポンプ、鋳鉄管)と資金力を生み出したといえます。日本が開国直後から襲われたコレラなど消化器系伝染病を克服するため、西洋、とくにロンドンに学んだ新式水道(いわゆる近代水道)はまさにこの水道システムでした。
 一方、パリではナポレオン1世のとき、市内のセーヌ川の汚染河水に依存せずにすむように、103km遠方のウルク川からの導水路を完成(1811)しましたが、水源河川や導水途中での汚染がひどく雑用にしか使えませんでした。そこでさらに良質の水源を探し、1865年になって130km遠方の湧泉から導水して直接飲用しうる水道の完成を迎え、以後、今日まで市内の古くからの市街地部分には飲用上質水道と雑用水道が併存することとなりました。

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2008年10月 6日 (月)

そうめんウリ(くみこ)

 今日はあやとりのことを書いて載せてもらっていたのですが、写真をクリックしても説明の文字が読めませんでした。大変申しわけありません。ココログの都合でこれ以上は大きくならないらしいのです。本当にすみませんでした。
 そこで別のことを書いて載せてもらうことにしました。「そうめんウリ」をご存知でしょうか。滅多に見かけなかったのですが、先日母が枚方市駅近くのお店で見つけたと言って買って来てくれました。珍しいのでご紹介しますね。
 私も16~7年ぶりに見ました。見かけはきんしょうメロンみたいな普通のウリですが、茹でると繊維のようにポロポロとはずれてきます。手やスプーンでかき出すと本当に黄色いそうめんのようになります。これを甘酢やドレッシングなどお好みのものをかけて食べます。くせがなくてシャキシャキしていますよ。
 どこにでも売っているものではないので、簡単に「お試し下さい」というわけにもいかないかもしれませんが、もし見かけることがあれば1度お試し下さいね。(^0^)

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あやとり(くみこ)

 少し前に私の母が子供たちにあやとりの本をくれました。娘に、というつもりだったのですが、息子もハマりました。息子は小学1年生の時、教室で女の子とあやとりばかりしていた時期があるもので・・・。(^0^;
 いろいろなやり方が載っているのですが、息子が気に入ったのは「山の上の月」、娘が気に入ったのは「こうもり」です。
 本に載っているやり方を写真に撮ってみました。ちょっと字が小さくて読みづらいでしょうが、絵が描いてあるとわかりやすいと思いますので・・・。
 昔は私も少しぐらいあやとりをしたものですが、すっかり忘れてしまいました。本を見て挑戦しようかなと思いながらも、見ると案外難しくて・・・。(^0^;
 今日は写真ばかりになってしまいました。すみません。興味のある方は挑戦してみて下さいね。

Koumori1 Koumori2

Koumori3 Koumori

Tuki1 Tuki2 Tuki

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