2009年11月 8日 (日)

入歯(こーじ)

 11月8日は、世界都市計画の日、いい歯の日、いい歯ならびの日、いいお肌の日、刃物の日、レントゲンの日、ボイラーデー、八ヶ岳の日、たぬき休むでぇ~です。
 世界都市計画の日は、アルゼンチンの都市計画学者・パオレラ教授が、1949(昭和24)年に提唱しました。日本では都市計画協会が1965(昭和40)年から実施。しています
 いい歯の日は、日本歯科医師会(日歯)が制定しました。「いい(11)は(8)」の語呂合せ。です
 いい歯ならびの日は、日本矯正歯科学会が制定しました。「いい(11)は(8)」の語呂合せです。
 いいお肌の日は、スキンケアブランド「Dove」を発売するユニリーバ・ジャパンが制定しました。「いい(11)は(8)だ」の語呂合せです。
 刃物の日は、岐阜県関市・岐阜県関刃物産業連合会・新潟三条庖丁連・越前打破物協同組合・東京刃物工業協同組合・京都利器工具組合・高知土佐山田商工会・島根県吉田村・堺刃物商工業協同組合連合会が制定しました。「いい(11)は(8)」の語呂合せと、ふいご祭が行われる日であることからきています。
 レントゲンの日は、1895(明治28)年の今日、ドイツの物理学者・レントゲンがX線を発見したのが由来です。レントゲンは、真空管に高電圧をかけて実験をしている時に、真空管の外に置かれた蛍光紙が明るく光ることに気づきました。真空管と蛍光紙の間に1000ページもの厚さの本を置いてもこの光は透過しました。そこでレントゲンは、この光に「正体不明」という意味で「X線」と名づけました。後の研究で、X線は、波長がたいへん短い電磁波であることが判りました。波長が短いため体を通り抜けることができ、体の部位や状態によってその通り抜け方が違うことから、体の内部の様子を撮影することができます。
 ボイラーデーは、日本ボイラ協会が制定しました。
 八ヶ岳の日は、八ヶ岳を愛する人々が結成した「八ヶ岳の日制定準備委員会」が制定しました。「いい(11)やつ(8)」の語呂合せです。
 たぬき休むでぇ~(day)は、滋賀県甲賀市信楽町の信楽町観光協会が制定しました。信楽焼の狸の置き物が持つ徳利に「八」と書かれていることからだそうです。信楽焼の狸の置き物の休日です。
 入歯は前5~前4世紀ころにすでにあったようです。川上為次郎の《歯科医学史》に、古代エトルリア人の義歯の写真が載っていますが、それを見ると、上あごの中切歯2本と左側の側切歯、第2小臼歯が欠如したものを補ったもので、中切歯および側切歯はウシの歯を利用し、1個のウシの歯に溝をつけて、それぞれの歯を区別してあるようです。そのウシの歯と、左側では犬歯、第1小臼歯、第1大臼歯、右側では側切歯と犬歯とに、それぞれ駐づけした金の帯環を装着して固定してあります。エトルリア人の活動範囲から考えて、古代文化の発祥地であるエジプト、ヘブライ、ギリシア、フェニキア、アッシリア、バビロニア、インド、中国などには、この種の義歯があったと考えられます。この種の義歯は、今日でいえばブリッジに相当します。取りはずしのできる部分床義歯や全部床義歯のうち、部分床義歯は16世紀中ごろ工夫されたようです。部分床義歯といっても、その当時のものは、骨、象牙、あるいはカバの歯を彫刻したものを、金線あるいは銀線などで隣の歯に結びつけた程度のもので、前に述べた古代の義歯とほとんど差がないもののようです。全部床義歯は、外国で記録に残っているところでは、1680年オランダの外科医で解剖学者のヌック A. Nuck(1650‐92)が、1個のカバの歯を彫刻して下あごの全部床義歯を作ったのが初めてのようです。その後18世紀にはいり、フランスのフォーシャールP. Fauchard(1680‐1761)は、上下のあごの全部床義歯を、スプリングで結びつけて上あごの全部床義歯の維持に成功し、さらに1728年には、スプリングを用いることなく、単に口腔内における陰圧の利用とほおの筋への適合とによって、上あごの全部床義歯の維持に成功しました。外国では、これが現代の全部床義歯に近づいた初めのものといってよいそうです。フォーシャールは、〈近世歯科医学の父〉といわれているほど、歯科領域の学問の発展に寄与しています。日本で最古の全部床義歯として現存しているのは、柳生宗冬(1613‐75)が使用したと称せられているものですが、この義歯は、材料の点をのぞいては、まったく現代のものに近いとのことです。ツゲの木で作られたかなり精巧な上下のあごの全部床義歯で、その前歯部は、駐石を彫刻して作られ、大臼歯にあたる部位には、くぎの類が使ってあります。

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2009年11月 7日 (土)

鍋(こーじ)

 11月7日は、知恵の日、鍋の日です。
 知恵の日は、朝日新聞社が1988(昭和63)年、『朝日現代用語 知恵蔵』発刊の時に制定しました。
鍋の日は、食品メーカー・ヤマキが制定しました。この日が立冬になることが多いことからだそうです。
 現在使用されているなべは、鉄、銅、アルミニウム、アルマイト、ステンレススチール、ホウロウ引きなど金属製のものと、陶製の土なべや耐熱磁器、耐熱ガラス製などのものがあって、形状もさまざまなものがつくられています。用途別に種類をあげますと、
(1)煮る料理には、浅型、深型、中間型のすべてが調理目的によって使い分けられます。浅型のものでは湯豆腐、寄せなべ、その他のなべ料理に土なべが適しますが、すき焼には厚手の鉄なべがいいですね。魚の煮物などにはアルミニウム、アルマイトのものが使われます。深型のものは煮込み用で、ずんどうなべと通称されるシチューなべやスープなべは、容量に比して口径が小さいので長時間加熱しても水分の蒸発が少なく、温度を一定に保ちやすいのです。中間型のなべは、みそ汁その他の汁物やゆで物、野菜の煮物などに用いられます。両手つきのものが多いのですが、ミルクパンのように小型の片手なべもあります。焦げつきやすい材料を加熱するには、ダブルパンと呼ぶ二重なべを用います。これは外なべと内なべとの二重構造になっていて、外なべに水を入れて湯匙(ゆせん)しながら内なべの中の材料を煮ます。
(2)油脂を使う調理には厚手の鉄なべがよいそうです。いため物にはフライパンのような浅いもの、揚物にはてんぷらなべのようにやや深めのものがよいとのこと。中華なべはいずれにも用いられています。
(3)炊飯兼用のものには文化なべと呼ばれるものや圧力なべがあります。前者は鋳物製で落しぶたになっていますし、後者はふたを密閉して蒸気をにがさぬ構造にしたもので、いずれも豆類やかたい肉などを煮るのに便利です。
(4)その他では、西洋料理や中国料理のなべ料理に用いられるフォンデュなべや火鍋子(ホーコーズ)があり、またジンギスカン料理では兜形の鉄の焼きなべが用いられています。

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2009年11月 6日 (金)

PTA祭とフリースクールとダンス発表会(くみこ)

 10月31日(土)に娘の土曜参観とPTA祭、息子のフリースクール、11月1日(日)にすいかさんのダンスの発表会がありました。最近あまりにもバタバタしていて、3つ一緒にタイトルをつけてしまいました。(^0^;
 息子と娘が中学生と小学生に分かれたので、何か行事がある時もゆっくり参観できるようになったと喜んでいたのに、秋の一大イベントが重なってしまいました!小学校はうちから歩いて5分もかかりませんが、中学は25分ぐらい。初めての子の中学校生活が気になり、2・3時間目は中学、4時間目は小学校、そしてまた5時間目は中学へ・・・。坂道を走った走った!当然のことながら、同じ小学校内で重なる方がずっと楽です。息子の4時間目の体育が見られなかったのが残念でしたが、サッカーなので活躍するわけもなく(^0^;、あきらめました。娘の方は4時間目しかないので、パスできませんからね。
 去年も中学のフリースクールの日にランチタイムコンサートが重なっていました。できれば6年生の息子を連れて行ってやりたかったのですが・・・。どうもうちの中学のフリースクールは何かとぶつかるようです。(^0^;
 PTA祭はほんの少ししかのぞけませんでしたが、6年生が組み立て体操の時のTシャツで太鼓を披露していました。また今年は先生方による風船アートのご指導があり、娘は犬を作って大満足。すぐにこわれていましたが・・・。(^0^;
 息子の友だちがうちの小学校のPTA祭に行きたがっていたそうですが、フリースクールのため行けず、残念だったようです。息子も去年まで毎年行ってたので、行けたらよかったのですが、来年こそ!(もう興味がなくなっていくでしょうか?)

 さてその翌日はすいかさんのダンスの発表会を見に行きました。すいかさんの素敵なダンスを楽しませてもらい、たくさんの写真を撮らせてもらいました。すいかさんはとても上手です。体も柔らかくて、前後開脚もバッチリ!足の付け根を傷めていたそうなのに、そんなことを全く感じさせない素晴らしい動きでしたよ。私が生徒さんのピアノ発表会を控えていることもあり仕事を入れていたので、最後まで見せてもらうことができず申し訳なかったのですが・・・。すいかさんはスタイル抜群で衣装も似合っていて、普段から肉体を鍛えているのが伝わってきました。これからもさらに活躍してほしいです。

 秋は行事が多くて大変ですが、充実しているのはありがたいことですね。何とか乗り切りたいと思います。

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2009年11月 5日 (木)

データ圧縮(こーじ)

 11月5日は、電報の日、雑誌広告の日、日本ブラジル修好記念日、いいりんごの日、縁結びの日、いい5世代家族の日、Burn ALL GIFs day(全てのGIFを焼き尽くす日)、ガイフォークスデイです。
 電報の日は、電報を申しこむ時の電話番号「115」からきています。
 雑誌広告の日は、日本雑誌広告協会が1970(昭和45)年に制定しました。「読書週間」「教育文化週間」のある時期ということで、この日を記念日としました。消費者の保護と雑誌広告の信頼を高めることを目的としています。
 日本ブラジル修好記念日は、1895(明治28)年の今日、「日伯修好通商条約」が締結されたのが由来です。
 いいりんごの日は、青森県が2001(平成13)年に制定しました。「いい(11)りんご(5)」の語呂合せです。
 縁結びの日は、島根県の神話の国・縁結び観光協会が制定しました。旧暦10月(新暦11月ごろ)に出雲大社に全国の神が集まり縁結びなどの会議をするとされていることと、「いい(11)ご(5)えん」(いいご縁)の語呂合せからきています。
 いい5世代家族の日は、製薬会社・ノバルティスファーマが制定しました。「いい(11)ご(5)せだい」の語呂合せです。
 Burn ALL GIFs day(全てのGIFを焼き尽くす日)は、1999(平成11)年から実施されました。画像フォーマットとして広く使用されているGIFには、LZWという圧縮アルゴリズムが使われています。このLZWの特許を持っているアメリカのユニシスという会社は、当初はLZWを自由に使って良いという立場をとっていて、GIFフォーマットにもこの圧縮方式が採用されました。しかし、GIFを始めとしてLZWが広く普及したのを見て、ユニシスは、LZWの使用者に対し特許使用料の支払いを求めるようになり、最近では、GIF画像を張りつけているWeb ページの所有者に対しても使用料を請求するようになったそうです。これに反発する人たちが、GIFの使用をとりやめてPNG(ピング)やJPEG等への置き換えを推奨する為に、この日を制定しました。なお、LZWの特許はアメリカでは2003年6月20日に、日本でも2004年の同日に失効していて、現在はGIFは自由に使える画像フォーマットとなっています。
 ガイフォークスデイ(Guy Fawkes' Day) (イギリス)というのは、1605年、イングランド王ジェイムズのカトリック教徒弾圧に憤慨した一団が、国会開院式に出席する国王と議員たちを殺そうとして国会議事堂に爆薬を仕掛けました。しかし、この陰謀は事前に発覚し、実行寸前の11月5日未明、議事堂地下で爆薬と火つけ役のガイ・フォークスが発見され、一味は全員逮捕されました。議会は11月5日を「救助を神に感謝する日」とし、翌年から休日としました。この日は花火を打上げ、焚火をして、大人も子供も遅くまで楽しむそうです。
 画像や音声は単にディジタル化するとデータ量が非常に大きくなりますが、圧縮技術により計算機上で広く扱えるようになり、またディジタル伝送も可能となりました。そのため対象や用途に応じてさまざまな圧縮方式の標準化もなされています。JPEG は静止画像、MPEG はビデオデータ(動画像とオーディオ)圧縮方式の標準です。
 予測符号化は周囲の値によって次の値を予測し、予測値と実際の値との差分値をハフマン符号化などで符号化する方式です。自然画像や音声は値が滑らかに変化するという冗長性をもち、予測は精度良く行われることが多いです。このため差分値は0付近に集中し、頻度の偏りが大きくなるため圧縮が可能となります。JPEG の無歪み圧縮は予測符号化に基づく方法を用いていて、元の大きさの1/2程度に圧縮します。動画では前後の画面(フレーム)で変化が少ないという著しい冗長性があり、フレーム間の予測が効果的で MPEG をはじめ各種動画圧縮方式で利用されています。
 周波数領域など他の座標軸にデータを変換してから圧縮を行う方法は変換符号化と呼ばれています。高周波の情報は視覚、聴覚特性などから精度良く保存する必要がない場合が多く、こうした情報を削除したり、粗い近似(量子化)をすることで圧縮が可能となります。変換に DCT(離散コサイン変換)を用いる変換符号化は現在の画像圧縮の主流で、JPEG の歪みありの圧縮や MPEG でも使用されています。このとき JPEG は自然画像を元の大きさの1/10~1/20にすることができます。
 圧縮効果を大きくするためには情報源の高度なモデル化が必要となります。音声圧縮では声道や口の形など音声を発生する構造をフィルターの形で表し、フィルターの係数とフィルターを駆動するパルス等を圧縮データとすることで非常に高い圧縮効果が得られます。静止画像のフラクタル圧縮は画像中の自己相似性を見出し、種になる小さな画像とそれを変換して張り合わせるための情報を圧縮データとします。

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2009年11月 4日 (水)

ユネスコ(こーじ)

 11月4日は、ユネスコ憲章記念日です。1946(昭和21)年、ユネスコ憲章が発効し、国連教育科学文化機関(ユネスコ)が発足しました。日本は1951(昭和26)年7月2日に加盟しました。
 ユネスコは、国際連合教育科学文化機関 United NationsEducational、Scientific and CulturalOrganization の略称です。教育、科学、および文化の面での国際協力を目的とする国際連合の専門機関です。設立の沿革は、第2次大戦中ロンドンに亡命していた諸国政府(ベルギー、チェコスロバキア、フランス、ギリシア、ルクセンブルク、オランダ、ノルウェー、ポーランド、ユーゴスラビア)の文部大臣によって開催された連合国文相会議が、戦争の破壊と荒廃によってもたらされる教育上の諸問題を検討したことに端を発し、1945年11月国際連合教育文化会議が招集され44ヵ国が出席してユネスコ憲章を起草、採択しました。憲章は46年11月に発効、本部をパリに置いて発足しました。〈戦争は人の心の中で生れるものであるから、人の心の中に平和のとりでを築かなければならない〉という言葉で始まるユネスコ憲章は、教育、科学、文化を通じて諸国民の協力を促進することにより、平和と安全に貢献することを目的とし、そのためにマス・コミュニケーション等を通じて諸国民が知識を交換し、相互理解を深め、一般教育と文化の普及、文化遺産の保存、知識人の交流、出版、芸術の交換等を促進します。そのため、これまでに教育、科学、文化面での国際協力に関する多くの条約、勧告、宣言を採択しています。国際連合の加盟国は当然ユネスコの加盟国となる資格をもちますが、国連非加盟国も執行委員会の勧告にもとづき、総会の3分の2の賛成をえて加盟を認められます。96年現在ユネスコの加盟国は185ヵ国、準加盟国3です。日本は1951年に60番目の加盟国となりましたが、第2次大戦後国際社会で孤立した日本が最初に加盟を認められた国際機関でありました。
 ユネスコの組織は、総会、執行委員会、および事務局からなります。最高機関である総会は通常2年に1回開催され、政策と重要方針の決定、予算の承認等を行います。執行委員会は総会から選出された51名の委員(日本を含む)で構成し(任期は4年)、総会が開催されていない期間に総会から委任された権限を行使します。事務局は事務局長(任期6年)と事務局長が任命する職員約2400人からなります。ユネスコの予算には、加盟国の分担金で賄われる通常予算と、予算外財源とが含まれます。後者は国連開発計画から執行機関としてのユネスコが受領する資金がおもなものですが、そのほかに加盟国の政府や民間からの拠出金があります。
 ユネスコの創設当初は、戦争によって荒廃した教育の再建に重点が置かれ、初等教育の無償義務化、東西文化価値の相互認識などを優先領域に指定しましたが、1960年代からは発展途上国の開発援助の一環としての教育、科学技術に重点を置くようになりました。のみならず、その活動には、第三世界の立場を強く反映した政治色の強いものがめだち、ユネスコ財政の最大の負担国である西側先進国からの強い不満と、改革の要求が生まれました。その結果は、まずアメリカが84年末をもってユネスコから脱退し、続いて85年にイギリスとシンガポールが脱退しました。西側諸国が改革を求める点は、(1)ユネスコの活動が本来の目的を逸脱して、〈イスラエル非難〉決議のように過度に〈政治化〉したこと、(2)1978年のマス・メディア宣言(新世界情報コミュニケーション秩序)にみられるような自由主義社会の諸原則に対する挑戦、(3)事務局の無節制ともいえる運用、などがあります。日本も、ユネスコの危機を乗り切るために、その抜本的改革を訴えていて、具体的にはユネスコ本来の分野の事業を精選し集中して実施すること、第2に予算の膨張を抑制すること、第3に人事、予算の事務局運営の合理化・効率化を図ることが急務であるとして、改革に向けての強い意向を表明しました。
 なお、加盟各国にはユネスコ国内委員会が原則として置かれ、日本では〈ユネスコ活動に関する法律〉(1952施行)がこれについて規定しています。また各国には民間ユネスコ活動を行うユネスコ協会のような団体が組織されています。

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2009年11月 3日 (火)

サンドイッチ(こーじ)

 11月3日は文化の日です。それと文具の日、まんがの日、レコードの日、ハンカチーフの日、いいお産の日、ゴジラの日、みかんの日、サンドウィッチの日、アロマの日、いいレザーの日、晴れの特異日です。
 今日は「文化の日」、祝日ですね。「晴れの特異日」なので、どこかに出かけるのもいいと思いますよ。ちなみに、「文化の日」の由来は、1946年に公布された日本国憲法が「平和と文化を重視した」ものだったので、それを記念した祝日として制定されたようです。
 文具の日は、東京都文具事務用品商業組合等が1987(昭和62)年に制定しました。「文具と文化は歴史的に同じ意味」ということから、文化の日を記念日としたそうです。
 まんがの日は、日本漫画家協会と出版社5社が2002(平成14)年8月に制定しました。「漫画を文化として認知してもらいたい」ということから、文化の日を記念日としたそうです。
 レコードの日は、日本レコード協会(RIAJ)が1957(昭和32)年に制定しました。「レコードは文化財」ということから、文化の日を記念日としたそうです。
 ハンカチーフの日は、日本ハンカチーフ連合会が1983(昭和58)年に制定しました。フランスのルイ16世の王妃マリー・アントワネットが、国内のハンカチはすべて正方形にするようにという布告をルイ16世に出させたことから、マリー・アントワネットの誕生日11月2日に近い祝日を記念日としたそうです。
 いいお産の日は、「いいお産の日実行委員会」が1994(平成6)年から実施しています。「いい(11)おさん(03)」の語呂合せです。出産の現状をもっと多くの人たちに知ってもらい、今のお産の状況を少しでもより良いものにして行く日です。
 ゴジラの日は、1954(昭和29)年の今日、東宝の怪獣映画「ゴジラ」の第1作目が封切られたのが由来です。
 みかんの日は、全国果実生産出荷安定協議会と農林水産省が制定しました。
「いいみっか(3日)ん」の語呂合せで、11月3日と12月3日を「みかんの日」としています。
 サンドウィッチの日は、サンドウィッチ店チェーンの神戸サンド屋が制定しました。サンドウィッチの生みの親とされるイギリスのサンドウィッチ伯爵の誕生日であり、また「いい(11)サン(3)ド」の語呂合せからきているそうです。
 アロマの日は、日本アロマ環境協会が制定しました。「文化の日」を記念日としたそうです。
 いいレザーの日は、日本皮革産業連合会が制定しました。「いい(11)れざー(03)」の語呂合せです。レザー(皮革製品)の似合う人に贈られる「ベストレザーニスト」の受賞式などが行われます。
 サンドイッチは、薄く切ったパンの間に肉、野菜などをはさんだ料理です。こうした食べ方は古くから行われ、フランスでは昔から農夫が黒パンに肉をはさんで仕事にもって出たり、地方によっては、旅に出る人に肉をはさんだパンをもたせる風習もありました。サンドイッチの名は、カードに熱中したイギリスのサンドイッチ伯爵 John Montagu、4th Earl of Sandwich(1718‐92)が食卓につく暇を惜しみ、トーストしたパンにコールドビーフをはさんで食べたことから起こったといいます。
 サンドイッチには食パンのほか、ライムギパン、フランスパン、種々の形のロールパンなども用いられます。食パンは焼きたてよりも半日くらいたったものが、切るにもバターなどを塗るにも扱いやすいそうです。そのまま、あるいはトーストにし、ふつうはバターを塗ります。中にはさむ具をパンに密着させ、かつ、その水分がパンにしみこむのを防ぐためで、クリーム状に練ると塗りやすいそうです。肉、魚、野菜をはさむ場合は、1/4量の溶きガラシを混ぜたカラシバターを使うことが多いです。レモン汁、チーズ、コショウ、ニンニクなどを加えて変化をつけることもあります。具をはさみ終えたら、何組か重ねて固く絞ったぬれぶきんで包み、軽い押しをしてしばらく置き、なじんだころを見はからって適宜の大きさに切り分けます。
 サンドイッチは、パン2枚に具をはさんだクローズドサンドイッチが基本になります。この方式で、パン3枚で2層の具をはさめばダブルデッカーサンドイッチ、4枚で3層ならばスリーデッカーサンドイッチといいます。チーズとハムをはさんだクローズドサンドイッチの両面をバターで焼いたものが、フランスのクロックムッシューです。3~4枚のパンをトーストにし、ローストチキン(またはシチメンチョウ)、ベーコン、トマト、レタスなどをはさんだ温かいサンドイッチは、クラブサンドイッチと呼ばれています。以上に対して、1枚のパンの上に種々の材料をのせたものをオープンサンドイッチと呼びます。デンマークのスミュアブローズ(バターを塗ったパンの意)と呼ばれるオープンサンドイッチは、のせる材料が多彩なことで有名です。
 そのほか変わった形のものとしては、薄切りのパンに材料を巻き込んだロールサンドイッチ、黒パンと白パンを市松模様に組み合わせたチェッカーボードサンドイッチ、大型のバゲットや食パンをそのまま使い、上部を薄く切って蓋(ふた)にし、中身をくずさないようにそっくり取り出してサンドイッチにつくり、外側をケースにしてもとどおりに詰めるローフサンドイッチ、さらにはホットドッグやハンバーガーのようなものもあります。

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2009年11月 2日 (月)

博物館(こーじ)

 11月2日は、博物館デー、キッチン・バスの日、死者の日、白秋忌、阪神タイガース記念日だそうです。
 1985年の今日は、阪神タイガースが西部ライオンズを破って、2リーグ化以降、初めて日本一になった日です。それを記念して「阪神タイガース記念日」になっています。
 キッチン・バスの日(家庭文化の日)は、キッチン・バス工業会が制定しました。11月3日の「文化の日」の前日に家庭文化のあり方を考える日にと制定したそうです。また、Kitchen-BathのK・Bがアルファベットの11番目・2番目でもあることにも由来しています。
 死者の日(万霊節)は、キリスト教で、全ての死者のために祈りを捧げる日です。
 白秋忌は、詩人・北原白秋の1942(昭和17)年の忌日です。
 日本の博物館の原型としては、古くから神社仏閣における宝物殿、絵馬堂がありました。江戸時代に田村藍水、平賀源内らによって、各地の物産を集めて展示する〈物産会〉が開かれ、動物、植物、鉱物などを分類整理して記録することも行われ、後の博物館創設運動をすすめた本草家などが育っていきました。幕末、蘭書などを通じ、欧米の博物館施設が紹介されていましたが、実際に日本人が博物館を見たのは、幕末に日米修好通商条約の批准書を交換するために派遣された遣米使節団の人々で、その報告には、アメリカの博物館見学のことが記されています。その後、遣欧使節団や技術研修のために派遣された人々が博物館を見学し、その効用を説くようになっていきました。1871年(明治4)文部省が設置され、翌72年〈文部省博物館〉の名称で、東京湯島の聖堂で博覧会が開催されました。すでに明治維新とともに伊藤圭介、田中芳男らによって、欧米における博物館と同様の施設の必要性が述べられ、彼らは、物産学の調査にあたっていました。また一方で、古来の歴史的遺物を保護するために、集古館の建設を準備、古器旧物の調査が行われました。これらの調査によって収集された鉱物、化石、動物、植物、各地の特産品などを湯島の聖堂に展示したのが、〈文部省博物館〉の名で行われた博覧会でした。この博覧会終了後〈博物局博物園博物館書籍館建設之案〉が提案され、本格的な博物館建設が進められることになりました。この博物局の案は、ウィーン万国博覧会に参加するために〈博覧会事務局〉に引きつがれ、やがて内務省博物館(現、東京国立博物館)へと発展していきました。また文部省博物館はいったん博覧会事務局に併合されたあと、75年再び文部省博物館として分離独立しさらに77年教育博物館として上野公園内に、物理、化学、動物、植物、地学などの標本を集めて公開されました。これが現在の国立科学博物館の前身です。1875年、博覧会事務局は〈博物館〉と改称し、内務省所管となりましたが、82年に上野公園に移転し、86年には宮内省の所管となって歴史美術を主とした中央博物館の基礎を確立していきました。1877年当時、すでに、秋田、新潟、金沢、京都、大阪、広島の各地に博物館、博物場と称する施設が設けられ、各種の博物館資料を収集、展示することが盛んに行われ始めました。また、北海道開拓使、勧業寮などの政府機関が陳列場などを設けることも始まりました。なお、1900年ころになると、農商務省商品陳列館(1897)、特許品陳列館(1905)、郵便博物館(1902)など国立の専門博物館のいくつかが誕生しています。11年文部省に通俗教育調査委員会が設けられ、通俗教育(社会教育)を推進するための施策が検討されました。その一方策として教育博物館に通俗教育館が設けられ、さらに22年には、第45回帝国議会に〈理化学博物館建設に関する建議案〉が上提されるなど、ようやく博物館創設運動も高まっていきました。このような機運の中で、各地に特色のある博物館が設立されました。大倉集古館(1917)、赤十字参考館(1926)、恩賜上野動物園(1924)、名和昆虫博物館(1919)などがその代表的なものです。しかし、関東大震災、日中戦争、第2次大戦などのため、日本の博物館活動は45年まで停滞期が続きました。戦後の混乱が治まった50年代の後半よりようやく博物館の復興が進み、戦前からの施設も新たな構想のもとに展示の更新が進み、60年ころよりは、科学技術の振興が叫ばれ、それらの要請をうけ科学技術館、科学館などの建設が盛んに行われるようになりました。70年代には国立民族学博物館のほか県立および市立の歴史博物館、美術館などの施設が相ついで建設され、70年代後半には各地の発掘調査の進行に伴って、民俗資料館、郷土資料館が全国の市町村に創設され、ほとんどの町や村に資料館が見られるという盛況になるとともに、国立歴史民俗博物館も設立されました。80年代に入ると、経営に余裕を生じた企業が、協会や各企業独自に企業博物館を設け始めています。

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2009年11月 1日 (日)

自治会の運動会(くみこ)

 今年も小学校で自治会の運動会がありました。たいてい小学校の運動会の翌週に同じところで行われます。秋は行事が多いので、毎年は参加できませんが、今年は午前中だけ参加させてもらいました。私は少しだけ仕事を入れていたので、途中まで見て、娘だけおいて帰りましたが・・・。(息子は疲れていたのか、ダラダラしてパス!でした)
 最初のラジオ体操ですが、体が柔らかい娘は異常にそっくり返り、1人だけ顔が見えています。(^0^;ふにゃふにゃなので、走るのが遅いのでしょうか・・・?
 あとは低学年競技の50m走(個人競技)、風船割りレース(チーム競技)、ザル引きリレー(チーム競技)に出ました。ザル引きリレーは私がいない時に出たため、写真がありません。(^0^;
 自治会の運動会は参加すると必ず何かがもらえます。(^0^)/だから(?)みんなが楽しみにしていて、参加人数も結構多いです。しかも1等・2等・3等とそれぞれもらえるものが違うので、娘は必死。チーム競技2つは他のみんなのおかげで1等になり、焼肉のタレや大きな袋のお菓子をもらいました!個人競技の50m走も先日の小学校の運動会と違って2等に食い込み、しっかりお菓子をもらっていました。もっとも2等と言っても3人で走った2等ですけど・・・。でも景品がかかっていると、何とかビリは免れたという次第です。(^0^;
 本当は午前も午後もコナミの体操の練習があったのですが、午前中の分をサボって運動会に参加しました。午後からも運動会に参加できたら楽しかったのですが、全部サボるわけにもいかず(とっても練習が遅れていてコーチに怒られているので・・・)、午後からはコナミに行きました。来年こそ一日のんびり自治会の運動会が楽しめたらいいのですが、秋は行事が多いのでやっぱり難しいかも・・・。

Husen Kao Start

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2009年10月31日 (土)

ガス(こーじ)

 10月31日は、ハロウィン、ガス記念日です。
 今日は「ガス記念日」だそうです。1872年の9月29日、陽暦の10月31日に横浜の場車道で最初のガス灯が点火されました。電話とかガスとか、ライフラインといえるようなものは、東京-横浜間ということが多いですね。こういうのはある程度距離の長いところで結ばないと、意味がないからでしょうか。
 1871年(明治4)横浜駐在ドイツ領事がガス会社設立を企て神奈川県に出願しましたが、県令井関盛良はこの事業が外国人の手中に陥ることを恐れ、高島嘉右衛門ら有志に諮って別にガス製造所の設立を計画し、フランス人技師ペレゲレンの設計監督のもとに工事を起こし、翌年9月完成して外国人居留地にガス灯を点火しました。これが日本におけるガス灯の初めです。同じ年、東京でも府知事の由利公正によってガス灯を新吉原遊郭内に試用しようとする企てがなされたのですが、これは実施をみずに終わり、73年の銀座れんが街の建設に伴って、ようやくガス街灯の建設が実現しました。東京会議所は西村勝三、ペレゲレンらをして建設事業にあたらせましたが、翌74年7月から街灯建設が行われ、同年12月18日はじめて京橋と金杉橋の間に85基のガス街灯が点火されました。
 かくて76年5月には市内のガス街灯は350基を数えるにいたりましたが、屋内灯としてはまだ十分な発展をみず、77年12月にいたっても、その需要戸数は工部大学校、駅逓寮などわずかに19戸にすぎず、また市民から徴収することになっていた街灯点火料に対しても苦情が続出して、当初のガス事業の経営は容易なものでなかったそうです。しかしその後東京府庁内に瓦斯(ガス)局ができ、事業の拡張と料金の値下げを図ったので、79年には、需要者88戸、火口数1192個となり、さらに81年には街灯4000基をふやし、需要者数も222戸にふえました。そして85年には瓦斯局のはじめからガス事業の責任者としてこの発展につくした渋沢栄一を社長とする東京瓦斯(ガス)が成立し、事業は同社に引き継がれました。86年の1戸当りの灯数19灯以上が1900年には5灯以下に減っていることは、一般家庭の需要がようやくふえつつあったことを示しています。しかし大勢は、明治末期においても一般家庭でガス灯を使用するものは上流の一部に限られ、それも電灯とガス灯を混用するとか、それらと石油ランプとの混用家庭が多かったようです。この間ガス灯自体にも進歩があり、はじめはマントルがなく裸火であったから光力が安定せず能率が悪かったのですが、91年ころから白熱マントルが使われるようになりました。さらに1903年ころから下向き白熱マントルが輸入されて、光度が著しく増加し、光色もよくなったといわれています。しかし1887年、日本において電灯が初めて東京で一般需要者への送電を始め、明治末年には一応の配電体制が確立されるに及び、ガス灯はすたれていきました。
 ハロウィンは、西洋の年中行事。10月31日の夜に行われます。古代ケルト人のサムハイン Samhain 祭が起源といわれています。これは死の神サムハインをたたえ、新しい年と冬を迎える祭りで、この日の夜には死者の魂が家に帰ると信じられていました。キリスト教の伝播にともない、この祭りはキリスト教にとりこまれ、諸聖人の祝日である万聖節(11月1日)の前夜として位置づけられたそうです。hallow とはアングロ・サクソン語で〈聖徒 saint〉を意味し、All Hallows Even(万聖節前夜祭)がつづまって〈Halloween〉となったそうです。今日ではアメリカ合衆国の子どもの祭りとして有名です。アメリカでは、この夜のため、大きなカボチャをくり抜き、目鼻口をつけた提灯 jack‐o’‐lantern を作り、窓際に飾っておきます。学校では仮装パーティなどが開かれますが、夜になると怪物、魔女、海賊などに仮装した子どもたちが、隣近所の家々を回って〈ごちそうしないと、いたずらするぞ Trick or treat!〉と言いながら、チョコレートやキャンディをせびってゆきます。

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2009年10月30日 (金)

オーソン・ウエルズ(こーじ)

 10月30日は、香りの記念日、初恋の日、ニュースパニックデーです。
 1938(昭和13)年、アメリカ・CBCラジオでオーソン・ウェルズ演出のSFドラマ『火星人来襲』が放送されました。その中で、演出として「火星人が攻めてきた」という臨時ニュースを流した所、本物のニュースと勘違いされ、アメリカ中で120万人以上が大パニックになりました。
 オーソン・ウェルズは、アメリカの映画監督、俳優。弱冠26歳にして自作自演による《市民ケーン》(1941)で衝撃のデビュー。天才監督の名をほしいままにしますが、ハリウッドの商業主義と折り合わず、第2作《偉大なるアンバーソン》(1942)は2時間11分を1時間22分に短縮され、《恐怖の旅路》(1943)は途中で監督を降ろされます。さらに、〈赤毛のリタ〉の愛称で人気絶頂の女優リタ・ヘイワースを金髪の悪女に仕立てた《上海から来た女》(1946)は無残な興行成績に終わり、B 級映画会社リパブリックで得意のシェークスピア物《マクベス》(1948)を手がけるがこれもふるわず、ついにハリウッドから追い出されたかっこうでヨーロッパ各地を流浪することになります。《オセロ》(1949‐52)はイタリアとモロッコで、《アーカディン氏》(1955)はフランスとスペインとドイツとイタリアで、《審判》(1962)はフランスとユーゴスラビアで、《真夜中の鐘》(1966)はスペインで、それぞれ撮って、ほとんど国籍不明の映画作家となりました。その間に撮った唯一のアメリカ映画《黒い罠》(1958)も製作会社ユニバーサルによって手を入れられ、ウェルズ自身は自分の作品と認めていないそうです。その他の作品はフランスのテレビ映画《不滅の物語》(1968)、フランスとイランの合作映画《オーソン・ウェルズのフェイク》(1975)など。資金不足のために未完の作品も数多くあります。
 ウィスコンシン州生れ。演劇にとりつかれ、ニューヨークで、J. ハウズマン、J. コットンらの演劇人と親交を結び、黒人版《マクベス》の演出(1936)、劇団〈マーキュリー劇団〉の結成(1937)を経て、1938年10月30日、アメリカ中をパニック状態に陥れた史上名高いラジオドラマ《火星人襲来》(CBS ラジオの音楽放送が突然中断し、宇宙船の着陸を伝える臨時ニュースから始まるというショッキングな形式でした)によって、23歳のウェルズは一躍脚光を浴び、〈神童〉とうたわれ、劇団ごとハリウッドに迎えられることになります。《市民ケーン》における類例のない〈パンフォーカス〉撮影、《上海から来た女》の〈鏡の間〉のモンタージュ、《偉大なるアンバーソン》《黒い罠》における息の長い〈ワンシーン・ワンカット〉撮影等々、革新的な映画技法を駆使する一方、チャップリンの《殺人狂時代》の原案も彼の手になるもので、また性格俳優として自作以外にも数々の映画に出演、C. リード監督《第三の男》(1949)のハリー・ライムを頂点とする彼ならではの強烈な〈怪物的〉キャラクターを演じています。詩人 J. コクトーは〈子どもの目つきをした巨人〉とも呼んでいるそうです。

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