2009年12月19日 (土)

飛行機(こーじ)

 12月19日は、日本初飛行の日です。
 ライト兄弟に遅れること7年と2日で、日本最初の飛行実験が行われた日、「日本初飛行の日」です。飛行時間は4分で、距離は3000メートルということでした。
 第1次大戦が始まるまでは、飛行機の性能も幼稚だったので、大戦が終わってみると世界中の空がほとんど未開拓のまま残されていました。一方、4年間の大戦の試練で飛行機の航続性能も信頼性も大幅に向上していたので、各国の飛行家たちによって、空路開拓への挑戦が盛んに行われました。これらの開拓飛行では、飛行機のもつ性能に対してかなり無理な冒険的な企画が多かったので、成功すれば無名の飛行家が一躍空の英雄とたたえられる反面、目的を果たさず挫折するものも多かったそうです。アメリカとヨーロッパの間に横たわる北大西洋横断飛行の場合は、1919年から30年までの12年間に、挑戦61回に対し成功はわずかに17回、あとは離陸に失敗するか、故障で引き返したり、不時着するか、行方不明になるかでした。
 新空路に対する挑戦は、第1次大戦と第2次大戦の間続き、地球上のほとんどすべての部分が開拓されました。このような長距離飛行を行うには、飛行機の航続性能の向上が要求されるわけですが、一方、第1次大戦直後からヨーロッパ、アメリカを中心に本格的に開始された定期航空輸送もしだいに発展してきて、輸送機の高性能化に対する要求が強くなっていきました。とくに国土の広いアメリカではこの要求は切実で、1920年代の終りころからノースロップ、ロッキードなどアメリカのメーカーによって、近代化革命ののろしが上げられたのです。これは、当時いまだに幅をきかしていた空気抵抗の大きい複葉や支柱付き高翼単葉から、低翼片持翼単葉へ、固定脚から引込脚へ、木製や金属の骨組みに羽布を張った旧式な構造から薄いアルミニウム合金の応力外皮構造へと思い切った改革をし、さらに主翼フラップ、過給機付きエンジン、可変ピッチプロペラなどの近代装備を加え、画期的な高性能化をはかろうとするものでした。1930年代半ばに就航したダグラス DC3、ロッキード・エレクトラ、ボーイング247などの輸送機はその代表的な例で、長い間200km/h前後と低迷を続けていた輸送機の巡航速度もこの近代化で一躍300km/hを突破するに至ったのです。
 1939年9月、ドイツ軍がポーランドに侵攻し、第2次大戦が始まりました。前の第1次大戦でも多数の飛行機がいろいろの目的に活躍しましたが、当時は兵器としての威力がまだまだ不足で、陸軍、海軍の行動に対して補助的な役割を果たしたにすぎませんでした。ところが第2次大戦では、飛行機の性能が飛躍的に向上していたので、空軍の優劣、勝敗が戦局の帰趨を決定するまでになりました。このため参戦国は、少しでも早く敵にまさる優秀機を開発、生産して戦場に送ることに全力をあげたので、各機種の性能は飛躍的に向上しました。各機種の中でもっとも高速を要求される戦闘機の最大速度は平均して600km/h台に達し、大戦末期には700km/hを超すものも現れました。
 プロペラ機がこのような高速で飛行すると、高速で回転しつつ高速で前進するプロペラの羽根の先端部は音速に近づき、プロペラ効率の急激な低下を招きます。この見地から、プロペラ機には最大速度の限界があるはずで、大戦末期の戦闘機はその限界に近づいてきたのです。
 この障害を突破して、より高速を求めるならば、ジェット機によるよりほかはありません。その動力となるジェットエンジンについては、すでにイギリスのW. ホイットルの1930年の特許がありますが、ドイツやイギリスのいくつかの会社が自社の企画としてジェットエンジンの開発に着手したのは30年代の後半でした。その結果、39年8月24日にはドイツのハインケル He178がジェット機として世界で初めての飛行に成功し、40年イタリアのカプロニ・カンピーニ N1、41年イギリスのグロスター E28/39と続きました。
 しかし、ちょうど大戦中で各国とも実用機の改良、生産に追われていたので、ジェット機の実用化はおくれ、大戦末期の44年ころになって、ドイツのメッサーシュミット Me262、イギリスのグロスター・ミーティアなどが戦線に現れました。これらは最大速度850~900km/hと断然プロペラ機をしのいだのですが、初期のターボジェットエンジンは燃費がきわめて悪かったため航続時間が短く、空軍で主力の座を占めるまでには至りませんでした。
 それにしても、プロペラ機の性能が限界に近づいたとき、タイミングよくジェット機が出現し、このため飛行機の性能が、停迷期を迎えることなくどんどん発展していったことは、まことに興味深いことです。しかもジェットエンジンの研究は各国政府の先見性によって国策として始められたのではなく、個人の研究者の発想や民間企業の企画によってスタートし、ある程度成果があがったところで、政府が本腰を入れて援助を始めたのです。
 1945年8月、第2次大戦が終了するとともに、ジェット機の実用化が急速に進展しました。初めのうちはジェットエンジンの燃費が著しく悪く、航続時間が短くなるので、速度や上昇力に重点をおく戦闘機がまずジェット化され、エンジンの燃費改良につれて、爆撃機、攻撃機などの機種にもジェット化が及び始めました。さらに燃費が改善され、経済的な運航が見込まれるようになって、ジェット輸送機も登場しました。その第1号はイギリスのデハビランド・コメット1型機で52年5月に定期航空に就航しましたが、与圧胴体の外板の疲労破壊で空中爆発事故が2回続けて起こり、就航停止になってしまいました。このため、58年10月、アメリカのボーイング707、イギリスのコメット4型の大西洋横断空路就航が本格的なジェット輸送時代の幕あけとなりました。
 続いて60年ころまた一つの革新が起こります。ターボジェットにおけるターボファン方式の導入です。60年ころまず出現したターボファンはバイパス比0.5~1.0程度でしたが、70年ころからバイパス比5.0以上のいわゆる高バイパス比ターボファンが実用化されました。これは、高バイパス比の採用により推進効率が向上したうえに、エンジン本体の熱効率や要素の効率も改良されたので、ストレートジェットはもちろん、初期の低バイパス比ターボファンに比べても、著しい燃費や騒音の低減が達成されました。一方、これらの高バイパス比ターボファンは出力のうえでも目覚ましい向上を示し、離昇推力20~25tという強力なエンジンが生産されるようになりました。これに伴って、従来の輸送機より幅の広い胴体(いわゆるワイドボディ)をもったボーイング747、マクダネル・ダグラス DC10、エアバス A300などの大型輸送機が70年ころから次々と就航しました。ジェット機の出現は、飛行機のスピードアップだけでなく、大型化をも可能にしたのです。
 ジェット機の出現により、すべての機種にわたって飛行機のスピードが飛躍的に増加したのはいうまでもありません。とくに軍用機の高速化は目覚ましく、各国の第一線戦闘機はマッハ2.0~2.5の高速に到達しました。世界でいちばん速いのはロッキード SR71A 偵察機で3529.56km/h(約マッハ3.3)の記録をもっています。
 しかし民間輸送機は経済性の見地から一般に音速の少し手前の800~950km/h(マッハ0.8内外)を巡航速度としています。これは初期のボーイング707以来、今日まで変わりません。将来ともこの速度範囲は民間輸送機にもっとも適した速度として、永久に使われるでしょう。
 民間輸送機の分野でも超音速輸送機(SST)としてフランスとイギリスで共同開発したコンコルドが1976年以降就航しています。ふつうの亜音速輸送機に比べて2倍以上のマッハ2.0の巡航速度をもりますが、客席が約100内外と少なく、航続距離も6000kmともの足りないため、開発国以外からの注文がなく、わずか16機で生産を打ち切ってしまいました。しかし現代の技術をもってすれば、さらに高速で、搭載量も航続距離もコンコルドよりはるかに優れた第2世代 SST の開発は可能です。近い将来に実現する可能性があります。
 ジェット機の出現により、1950年代から60年代にかけて、目覚ましい進歩を示していますが、70年に入ると進歩の度合が鈍化し、現在では性能的にはほぼ実用上の限界に達しているように思われます。したがって飛行機の今後の進歩は、安全性、信頼性、快適性、経済性などの向上に重点がおかれるように思われます。

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2009年12月18日 (金)

移民(こーじ)

 12月18日は、国連加盟承認の日、東京駅の日、国際移民デーです。
 国連加盟承認の日は、1956(昭和31)年のこの日、日本の国際連合加盟案が全会一致で可決され、国連加盟が承認されたのが由来です。
 1941年のこの日に東京駅が完成したことから「東京駅の日」になりました。
 国際移民デー(International Migrants Day)は、2000年の国連総会で制定されました。1990年のこの日、国連総会で「すべての移民労働者とその家族に人権保護に関する国際条約」が採択されたのを記念しています。
 移民は、労働の目的をもって自国の国境を越え他国に移り住む人 migrant を指します。移り住む行為すなわち〈移住〉の代りに、移民という言葉を使うことも多いですね。ヨーロッパの言語では、その国の立場により〈出移民(英語 emigrant、フランス語 emigre)〉と〈入移民(英語 immigrant、フランス語 immigre)〉とに分けて使用するのが普通ですが、日本ではまだ一般的ではありません。〈植民〉〈殖民〉という言葉は、自国の統治権内の植民地や未開拓地に移り住むことに用いますが、19世紀までは移民との区別はそれほど明確ではありませんでした。移民の定義は国により時代によりまちまちで、最大の出移民国イギリスでさえ、1年以上の長期滞在者と短期旅行者とを区別したのは1912年からで、国連などの努力にもかかわらず、現在でもその用法の混乱は続いています。しかし、国際結婚などは移民とはいわないので、〈労働を目的とする〉という点では一致しているといえます。日本政府は、第2次大戦後の移民再開に当たって、明治以来の移民史につきまとう〈社会の脱落者〉という暗いイメージを払拭するため、1955年に〈移住者〉という表現を用いることにしましたが、まだ熟した言葉にはなっていないようです。
 移民の要因は一般的には、政治的・思想的迫害や国境変更などの政治的要因によるもの、英国国教会の圧迫から逃れて新大陸に渡ったピルグリム・ファーザーズに代表されるような宗教的要因によるもの、物理的・社会的稠密社会や保守的伝統からの脱出を欲する心理的要因によるものがあげられます。しかし、最も大きなものは経済的要因です。現在の貧しい生活、あるいは将来性の少ない状態から抜け出て、高所得水準の、または流動的社会で財産をつくり、社会上昇を果たそうという気持が、最も強い移民の誘因となります。しかし、これらの諸要因は複雑にからみあっていて、本人自身にさえ十分な認識のない場合が多いようです。
 移民はさまざまに分類できますが、基本的には政府によって強制された移民と自己の意志によるもの(自由移民)との二つに分けられます。自由移民はさらに、政府などの援護を受ける補助移民と、それらとまったく関係のない完全な自由移民に分けることができます。また、移住後の雇用契約の有無により、契約移民と非契約移民とに分類され、前者は労働条件が不利な場合が多く、後者は移住後不安定な要素が多いのです。移民の職種等により、自営移民と雇用移民、技術移民と非熟練移民等々にも分類できます。永住移民と短期移民(出稼ぎ移民)、家族移民と単独移民といった分け方もあります。地理的要素を考慮に入れて、ヨーロッパ各国間のような大陸内移民と、ヨーロッパ・アメリカ間のような大陸間移民とに分けることもあります。
 出移民国の政策としては、禁止・制限、放任、奨励、強制の四つの選択がありえます。禁止・制限には相手先国、職業等による制限など、その程度に強弱があります。奨励も内容的には放任に近いものから、強力な助成措置に至る段階があります。具体的には、移住先国の情報を志望者に提供すること、移住相談に応じること(移民顕在化助成)、移住後の適応のための研修訓練を施すこと(能力補充援助)、財産の整理や渡航手続を援助し、渡航費を低利融資もしくは交付し、さらに支度費を支給すること(移転援助)、渡航後の経済活動および子弟教育や生活を、通常の領事保護業務以上に行うこと(現地における援護助成)に分類できます。他方、入移民国としては、禁止・制限、放任、奨励の政策があります。禁止・制限の内容は多様で、犯罪・疾病歴等による入国禁止は一般的ですが、数量制限、国別・人種別制限、職業、能力、資金力、年齢、性別、親等などによる制限もよく行われます。奨励策としては、出移民国での宣伝、移住相談、渡航費補助、移住後の職業斡旋などがあります。入移民政策は、それぞれの国のおかれた人口・経済・外交上あるいは軍事上の条件により、引き締められたり緩和されたりするのを常とします。

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2009年12月17日 (木)

ライト兄弟(こーじ)

 12月17日は、飛行機の日です。
 今日は「飛行機の日」、有名なライト兄弟が世界初の動力飛行機での飛行に成功した日です。1903年のことでした。世界初の飛行は59秒、距離は260メートルでした。今では世界一周もそう難しくはない飛行機も、まずは260メートルからスタートしたんですね。
 ライト兄弟は、アメリカの飛行機開発者。兄はウィルバー WilburWright(1867‐1912)、弟はオービル Orville Wright(1871‐1948)。牧師の子として生まれ、もともとは自転車製造業者でしたが、ドイツの航空先駆者 O. リリエンタールなどに刺激を受け、空飛ぶ機械を構想しました。彼らの真の目的は、人類に翼を与えるというような抽象的なものではなく、またリリエンタールのように青少年の目を空へ向けるためのスポーツ志向でもなかったのでした。彼らのねらいはロマンと同時に自分たちの工場の先行的製品の開発と考えられるそうです。これは彼らがほかから資金援助を受けず、金銭の収支明細を記帳し、特許を固く防衛し、製作した飛行機をなんとかアメリカ陸軍信号兵団その他へ売り込もうとした事実から明らかです。このような意図は彼らの飛行機を実用的、かつ商品的なものに仕上げるために貢献し、最初の成功がそのまま製品へつながった珍しい技術開発の一例です。ただし、それまでに至る開発過程はきわめて系統的でしたが、辛苦に満ちていました。彼らの工場があったオハイオ州デートンから、大西洋岸のノース・カロライナ州キティホークまで4年間通い続けて実験を繰り返しましたが、これは強い恒風の吹く土地をアメリカ気象局の資料によって調べた結果です。開発はたこからグライダー(有人)へ進み、つねに固有安定よりも人間の操縦による安定を目ざした点に彼らの卓見を見ます。つまり、人間はなんのために飛行機に乗っているかを深く掘り下げ、それは操縦するためだと結論しました。このため、主翼両端の後縁を左右玄で反対にねじる、現在の補助翼の原理を発見し、応用しました。これによって、それまで昇降舵(だ)と方向舵しか考えられていなかった飛行機に、三次元の乗物として当然の3舵を与えました。これこそ兄弟の大革新でしたが、そのために各種の難問を背負いこんで苦心しました。しかし、その前すでに手製の風胴で主翼の翼型を実験的に選定するような基礎研究的態度で、補助翼と方向舵を使って横滑りのないつり合い旋回を実現し、この原理は現在に至っても変わっていません。
 兄弟は1903年12月17日キティホークで人類初の動力飛行に成功しましたが、そのためにはわずか4年半の年月を費やしたにすぎません。グライダーによる飛行で操縦の安定、さらに完全なつり合い旋回を完成すると、あとは手製のエンジン(部品は自動車産業から購入したのでしょう)を装着するだけで動力飛行への道は開けました。ただし、あまりにも個性的な設計、例えば自転車式のチェーンで1台のエンジンにより二つのプロペラを反対まわりに駆動する方式にこだわりすぎ、08年フランスで公開飛行をした後は、ライト機の全盛はたった1年にすぎなかったようです。その失望と、主翼ねじり特許の係争により心身ともに疲れた兄ウィルバーは病を得て没しました。弟オービルは長生きしましたが、以後はほとんどなにもしていないそうです。

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2009年12月16日 (水)

クリスマスのミニコンサート(くみこ)

 この冬もミニコンサートが近づいてきました。12月23日にうちで生徒さんたちとミニコンサートをします。今回で22回目になります。(^0^)/
 ミニコンは2台のピアノで弾いたり、CDのオーケストラに合わせてピアノを弾いたり、発表会ではできないことを中心にするのですが、今年の発表会は体調・その他の理由でお休みされた方が多いので、発表会で弾くはずだった曲をミニコンで弾いてもらうことにしています。ミニコンのためにさらに別の曲も練習したり、合奏のピアノ伴奏をしてもらったり、発表会に出られなかったみんなはたくさん準備しないといけないのでちょっと大変かもしれません。(^0^;
 今回は都合が悪くて出られないお父さんもおられますが、大体いつものお父さん・お母さん方に伴奏して頂きます。出演者名を消したプログラムを写真に撮って載せてもらいましたが(読めるかどうか不安ですが・・・)、この中で私の名前は22回あります。以前は全体数がもっと少なかったのに25回も名前が登場したこともあるのですが、最近はお父さん・お母さん方のおかげで私の出番が減ってきました。私はたくさん弾いても苦にならないのですが、私の独演会みたいになってもヒンシュクかな?ということで・・・。
 合奏は「あわてんぼうのサンタクロース」ですが、実は8年か9年前に1度やっています。その頃からいるのはうちの息子ぐらいで、みんな入れ替わってしまったので、また取り上げてみました。(^0^;‘リンリンリン’、‘チャチャチャ’などの歌詞のところをすずやカスタネットで分担して鳴らしてもらいます。
 ベルは「今日の日はさようなら」です。今年10月に寝屋高31期の同窓会があって、BGMを担当したのですが(実質は当日スイッチのオン・オフをしただけですが・・・)、7組のブログを書いているターカさんの推薦で、一次会の終わりにかかったのがこの曲でした。とてもいい曲で気に入り、思わずミニコンでも使うことにしてしまいました。(^0^;ベルによく合うんですよ。
 なるべく耳慣れた曲を選ぶようにしているのですが、今回の有名どころ(?)は「オブラディ・オブラダ」「エリーゼのために」「世界に一つだけの花」「「主よ人の望みの喜びよ」「自由(女子十二楽坊)」「情熱大陸」などでしょうか。この他にヴァイオリンで「いつも何度でも」、フルートで「雪の華」を演奏して頂きます。どれもとても楽しみです!
 さてうちの子供たちですが、息子は「ラデッキー行進曲」を私と2台で、娘は「チェルニー30番の26番」をCDに合わせて弾きます。楽しい一日になるように、ちゃんと準備をしなくては・・・!

Minikon

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2009年12月15日 (火)

観光(こーじ)

 12月15日は、観光バス記念日、年賀郵便特別扱い開始日です。
 今日は観光バス記念日、だそうです。日本で初めての観光バスは「遊覧乗合自動車」といわれていて、皇居前~銀座~上野というコースを走ったそうです。
 ところで、観光という言葉が一般に広く用いられるようになったのは、大正時代に英語のツーリズムの訳語とされるようになってからだといわれています。実際、現在では観光とツーリズムは、とくに研究調査や国際的な統計の分野で同義語として扱われることが多く、そのことも一因となって現在における観光という言葉の意味は、上述のような語源としての意味よりはもっと広義なものとなっています。語源から見ると、ツーリズムはツアー tour という語に、行動、状態、主義などを表す接尾辞‐ism のついた語ですが、ツアーは〈ろくろ〉を意味するラテン語の tornus から出た語で、〈巡回〉〈周遊〉を意味します。つまりツーリズムは、人びとが巡回旅行をすること、それを社会現象としてとらえた語といえます。ツーリズムという言葉がイギリスで使われるようになったのは19世紀の初めで、その後世界的に使われるようになりました。ドイツ語では、〈外客の往来〉を意味する Fremdenverkehr という語があるものの、現在では Tourismus が同義語として普及しています。
 このように観光とツーリズムは語源的に意味合いが異なり、厳密にいえば、観光に対応する英語はサイトシーイング sightseeing だとする考え方もあります。サイトとは〈ながめ〉、シーイングとは〈見ること〉であり、したがってサイトシーイングとは〈名所見物〉を意味し、観光の語源的な意味に近くなります。ツーリズムといえば、サイトシーイングより広範囲の旅行を含み、例えばベルネッカー P.Bernecker は、ツーリズムを行動の動機によって分類し、〈保養〉、〈文化的〉(例えば教養を深めるための旅行)、〈社会的〉(例えば新婚旅行)、〈スポーツ〉、〈経済的〉(例えば商用旅行)、〈政治的〉(例えば外交のための旅行)に整理できるとしています。このようにツーリズムの概念では、いわゆる商用旅行もそれが会議への参加等が目的で、目的地を継続的な職業の場としない限りツーリズムに含まれます。この点日本では、観光といえば商用旅行は含まれず、商用旅行といえども楽しみの要素が含まれるという場合には、専門用語として〈兼観光〉という語が使われます。

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2009年12月14日 (月)

赤穂浪士(こーじ)

 2月14日は、麺の日、四十七士討ち入りの日、南極の日です。
 赤穂浪士47人が吉良邸に討ち入りした「四十七士討ち入りの日」、または「忠臣蔵の日」です。
 1701年(元禄14)3月14日に、江戸城本丸松之廊下で播磨赤穂城主(5万3500石)浅野内匠頭長矩(ながのり)が高家肝匙(きもいり)(旗本)であった吉良上野介義央(よしなか)に突然斬りかかって傷を負わせた事件がありました。この日は幕府の年賀に対する答礼のため京都から遣わされた勅使・院使に対して、将軍徳川綱吉の挨拶が白書院で行われるはずでしたが、事件は勅使らの到着直前に起こりました。浅野長矩は勅使の御馳走役でしたが職務を放擲(ほうてき)して事を起こしたのです。これらの条件が浅野の罪を重くし、彼は即日切腹の処分をうけ、浅野家は取りつぶされました。吉良義央は儀礼担当の職にありながら浅野に十分な指示を与えず、浅野が恥をかくなどのことがあり、それを遺恨として吉良を殺そうとしたといわれ、浅野家中をはじめ忌間ではそのうわさを信じていましたが、その実否は不明で、幕府は浅野側の正当性はいっさい認めず一方的な犯罪として処理しました。それにしてもこの処分は過酷であると世に受け取られました。浅野側ではこの事件をけんかとみ、幕府の処分を片手落ちとする一方、吉良はみずから手は下さなかったが結果的には浅野を破滅に追い込んだ仇敵とみなし、亡君の遺志を継いで吉良を殺し、両成敗を完成させることで、切腹・改易の処分によって失われた浅野家の名誉を回復しようとする者がありました。いわゆる急進派です。それに対して家老であった大石良雄は長矩の弟大学によって浅野家の再興を図るとともに、吉良へもなんらかの処分がなされることで浅野家の名誉回復を期待し、幕府に嘆願しましたが、02年7月に大学が広島浅野家に御預けとなってその望みを断たれた後は急進派に合流しました。そのときまで浅野家の再興を望んで盟約を結んできた家臣の多くはここで離散しました。そして12月14日に大石以下の浅野家遺臣が本所の吉良邸に乱入し、吉良義央を殺害してその首を泉岳寺の長矩の墓前に献じたのです。この事件は有名になったために、後になって作られた史料が多く、事件の経過や浪士の動静、その処分をめぐっての幕府内部の議論までが伝えられていますが、正確な情報は《堀部武庸筆記》や《江赤見聞記》(5巻まで)などわずかな史料から得られるにすぎず、ほとんどは十分な根拠のない虚構に近いものです。幕府では大石以下の行為は〈公儀を恐れざるの段、重々不届〉であるとして切腹を命じ、03年2月4日全員が死につきました。吉良邸に討ち入ったのは47人といわれていますが、このとき切腹したのは46人です。彼らは世に赤穂浪士、赤穂四十七士または四十六士などと呼ばれており、この事件は全体として赤穂事件とよびならわされています。
 もうひとつ大きな記念日がありまして、「南極の日」です。ノルウェーのアムンゼンが1911年に初めて南極点に到達した日です。南極点に行くには磁石は使えないので、天測といって星の位置を測ることで、自分の位置を把握するのだそうです。

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2009年12月13日 (日)

ビタミン(こーじ)

 12月13日は、正月事始め、双子の日、ビタミンの日です。
 正月事始め(煤払い、松迎え)は、年神様を迎える準備を始める日です。むかしはこの日に、門松やお雑煮を炊くための薪等、お正月に必要な木を山へ取りに行きました。江戸時代中期まで使われていた宣明暦では、旧暦の12月13日の二十八宿は必ず「鬼」になっていて、鬼の日は婚礼以外は全てのことに吉とされているので、正月の年神様を向かえるのに良いとして、この日が選ばれました。その後の暦では日付と二十八宿とは一致しなくなりましたが、正月事始めの日附は12月13日のままとなりました。
 ビタミンの日は、「ビタミンの日」制定委員会が2000(平成12)年9月に制定しました。1910(明治43)年の今日、鈴木梅太郎博士が、米糠から抽出した脚気を予防する成分に「オリザニン」と命名したことを東京化学会で発表しました。オリザニンは後に、この1年後に発見されたビタミンB1と同じ物質であることが判明しました。
 双子の日は、1874(明治7)年、「双子の場合は、先に産まれた方を兄・姉とする」という太政官布告が出されたのが由来です。それまでは、後に産まれた子を兄・姉とする地方もありました。
 ビタミンは、生体内では合成することができず、またそれ自体は生体の主要構成成分やエネルギー源とはならないのですが、微量(mgあるいは μg の単位)で生理機能を調節して、代謝を円滑にさせる物質群で、食物などの形で摂取しなければならない有機化合物をいいます。ビタミンのなかには体内で生合成されるものもあります。たとえばビタミン B 複合体であるニコチン酸は、肝臓でトリプトファンから生成されます。しかしその量は生体が必要とする量に及びません。またビタミン C(アスコルビン酸)は多くの動物では体内でグルコースから生成されますが、ヒト、サル、モルモット、ゾウなどは生合成することができません。前者は必要量までを食物として摂取しなければならないし、後者も生成できない動物では外部から摂取しなければならなりません。そこでこれらの物質もビタミンとして取り扱われています。一方、近縁の物質が摂取され、体内でビタミンに変化するものもあります。これをプロビタミン provitamin といいます。ビタミンのなかには補酵素として作用するものもあります。どのビタミンについても、それが欠乏すると欠乏症が起こり、生体は正常な成長発育ができず、健康を維持することもできなくなります。
 壊血病の予防には野菜や果物の摂取が必要であることは、17~18世紀には経験的に明らかになっていました。しかし、生理学、栄養学的にビタミンの研究が進んだのは、19世紀後半になってからでした。
 日本海軍の軍医であった高木兼寛は1882‐84年、軍艦乗組員の大規模な栄養調査を行った。82年、東京からニュージーランドに向かった軍艦〈竜驤(りゆうじよう)〉は、272日の航海中、169人の脚気患者と25人の脚気による死者を出しました。そこで彼は84年、同一航海についた軍艦〈筑波〉に対し、食事を変えタンパク質と野菜の多い洋食に近いものにしたところ、287日の航海で死者0、脚気患者14人という成果を得た。そこで、この実験的事実に基づき、海軍の兵食改革をして脚気患者を激減させることに成功しました。一方、陸軍では軍医の森鴎外が病原体説を主張し、兵食改善を拒否したため、以降も悲惨な状態が続きました。
 一方、バタビア(ジャカルタ)の病理研究所長であったオランダの C. エイクマンは、96年白米で飼育したニワトリが脚気様症状を呈し、米ぬかを加えると症状が改善することを発見しました。このような現象は他の鳥類にもみられるところから〈鳥類白米病〉と呼ばれ、彼は原因は白米中の毒素によるものと考えたのですが、弟子のグリーンス G. Grijnsは、米ぬかに未知の必須栄養素を含んでいるためと主張、1906年にエイクマンはこれを認め、白米がこの必須栄養素を欠くためだと推定しました。
 同じころ、イギリスの F. G. ホプキンズもラットの飼育実験で、純粋な糖質、脂肪、タンパク質および塩類からなる飼料だけではその成長に不十分で、全乳を添加すると完全になることを見いだし、全乳中に微量の〈副栄養素〉が含まれると発表しました(1906)。
 こうしたなかで、はじめて詳しい化学実験をしたのは鈴木梅太郎でした。1910年、彼は米ぬかから有効成分の単離に成功し、12年これにイネの学名 Oryza sativa にちなんでオリザニンOrizanin と名づけました。一方、11年、ポーランドのフンク Casimir Funk(1884‐1967)もロンドンのリスター研究所で米ぬかから鳥類白米病に有効な物質を発見したと発表し、これに生命 vita に必要なアミン amine という意味からビタミン vitamine と名づけた。
 その後、各地でビタミンの研究が行われ、〈脂溶性 A〉〈水溶性 B〉などいくつかのビタミンが発見されました。そこで19年、イギリスのドラモンド J. C.Drummond はこれらをビタミン vitamin(アミンでない化合物もあるので、フンクの vitamine から e を除いた)と総称し、それに A、B、C、……と付号をつけることを提唱しました。
 現在、ビタミンは15種ほどが知られ、一般に脂溶性ビタミンと水溶性ビタミンに大別されています。前者にはビタミン A、D、E、K などがあり、脂肪に含まれる必須脂肪酸をビタミン F ということもあります。後者にはビタミン B1、B2、B6、B12、C、ニコチン酸、パントテン酸、ビオチン、葉酸などがあります。

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2009年12月12日 (土)

蓄電池(こーじ)

 12月12日は、バッテリーの日、漢字の日、児童福祉法公布記念日です。
 今日は「バッテリーの日」と「漢字の日」です。バッテリーというのは車などに積んであるバッテリー、つまり蓄電池のことですが、この12月12日になったのは、野球の「バッテリー」が数字で1,2とあらわされることからだそうです。漢字の日は日本漢字能力検定協会というところが制定したもので、毎年この日に、「今年を表現する漢字」が発表されます。もう発表されてるでしょうか?
 蓄電池は、充放電を繰り返し行うことができる電池です。二次電池、バッテリーともいいます。実用蓄電池のうちで最も代表的なものは鉛蓄電池で、硫酸を電解液、過酸化鉛を陽極活物質、鉛を陰極活物質に用い、陽極板と陰極板をセパレーターを中間において対置させ、合成樹脂製の電槽に収めた構造になっています。鉛蓄電池が電解液に酸を用いているのに対し、電解液にアルカリを用いたものをアルカリ蓄電池といいます。ニッケル‐カドミウム電池は陽極活物質に酸化水酸化ニッケル NiO(OH)、陰極活物質にカドミウム Cd を用いたアルカリ蓄電池で、電極の製造法の違いにより、ユングナー電池と焼結式蓄電池に分けられます。陰極活物質として Cd の代りに鉄 Fe を用いたものがエジソン電池で、そのほか酸化銀‐亜鉛蓄電池、酸化銀‐カドミウム蓄電池、アルカリマンガン蓄電池などがあります。充電した状態から起電力が終止電圧(鉛蓄電池では1.8V程度)に達するまでに放電された総電気量、すなわち電流と時間の積の総和を蓄電池の容量といい、単位は Ah で示します。
 鉛蓄電池は、最も広く実用に供されている二次電池で、陽極活物質は二酸化鉛 PbO2、陰極活物質は鉛 Pb、電解液は比重1.2の希硫酸 H2SO4で構成されています。1860年フランスのプランテ G. Plantレ の考案によるもので、実用化できるよう改造されたのは1879年です。100年余の歴史がありますが、新素材の開発により、コンパクト化、高性能化、保守の簡素化が図られています。起電力は常温で比重1.2の希硫酸で約2.05Vです。放電とともに硫酸濃度は低下します。放電しすぎたり、充電しないで放置しておくと、電気不導体の硫酸鉛 PbSO4の大結晶が極板上に析出して、充電不可能となります。この現象をサルフェーション sulfation といいます。充放電を繰り返しながら使用する注意が必要です。
 鉛蓄電池の極板にはペースト式とクラッド式の二つがあります。ペースト式極板は、活物質の微粉を希硫酸で練ってつくったペーストを、硬鉛の格子に塗りこんで乾燥した後、化成(電解酸化あるいは還元)と呼ぶ処理によって活物質を Pb あるいはPbO2の形に仕上げたもので、軽量小型で大きな容量が得られ、高率放電特性にすぐれていて、陽極板、陰極板の両方に用いられます。クラッド式極板は、ガラス繊維あるいは合成繊維を編んでつくったチューブの中に鉛合金の芯金を入れ、すき間を活物質で充てんしたものを多数並列して、化成してつくられます。クラッド式極板は、じょうぶで深い充放電に対し長寿命で、陽極板としてだけ用いられます。電池は陽極板と陰極板の間にガラス繊維製あるいは合成樹脂製のセパレーターを挟んで多数重ね、合成樹脂製の容器に入れてつくられます。自動車や船舶などのエンジン始動用電源や非常時の電源などに多用されていて、さらに電気自動車駆動源や電力貯蔵用電池などへの改良が進められています。小型密閉式のものも携帯用として実用化されています。

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2009年12月11日 (金)

南海電車(くみこ)

 書きそびれているうちに随分日が経ってしまいましたが、息子が9月の連休に友だちと南海電車に乗りに行って来ました。10月の京阪電車のイベントの時と同じメンバーです。(←ここまで電車好きな子はそうたくさんいません!)
 まずは京阪と地下鉄御堂筋線で難波へ。そこから南海電車でみさき公園まで行きました。南海電車やJRに乗るのと南海ラピート(関西空港へ行く特急)の写真を撮るのが目的でした。ラピートに乗れたら一番よかったのですが、全席指定だし、連休ともなると満席でちょっと難しかったですね。(^0^;
 みさき公園からはJRの関空快速で関西空港へ。せっかくみさき公園まで行っても、電車に乗るのが目的の息子たちは、遊園地で遊ぼうなんてことは考えません。(^0^;しばらく関西空港駅のホームにいて、またひたすら電車に乗って帰って来ました。入園券と乗車券がセット割引になって乗り物券もついているお得な切符もあったのに・・・。
 息子はビデオカメラを持って行って、南海電車の一番前でずっと録画したようです。手すりみたいなところで固定して撮っているので、案外きれいに撮れており、いろいろな電車とすれ違うのがなかなか面白かったです。ずっと立ちっ放しで疲れたようですが・・・。(^0^;ひたすら先頭車両からの景色を見るのも案外楽しいものですね。
 こんなに遅くなったらもう書かなくてもよいようなものですが、南海ラピートの写真を載せたくて今更ながら記事にしてしまいました。すみません。写真はハレーションをおこしてますが・・・。それでもラピートってカッコいいですよね。(^0^)/

Kouya Rapito

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2009年12月10日 (木)

ボーナス(こーじ)

 12月10日は、世界人権デー、ノーベル賞授賞式の日、三億円事件の日です。
 今日は12月10日、ノーベル賞の授賞式がある日です。毎年、ノーベルの出身地であるスウェーデンの首都、ストックホルムで授賞式が行われます。
 世界人権デー(Human Rights day)は、1950(昭和25)年の今日、国連総会で制定されたのが由来です。国際デーの一つになっています。1948(昭和23)年、パリで行われた第3回国連総会で「世界人権宣言」が採択されました。これは「すべての人間は、生まれながらにして自由であり、かつ、尊厳と権利とについて平等である。」で始る全30条と前文からなっています。日本では、この日までの一週間を「人権週間」としています。
 三億円事件の日は、1968(昭和43)年、東京・府中市の東芝工場の従業員に支給されるボーナスを積んだ乗用車が、白バイ警官に扮した犯人に強奪される「三億円事件」が起きた日です。多くの物証がありながら捜査は迷宮入りし、1975(昭和50)年に時効を迎えました。この事件以降、多くの会社が給料の支給を手渡しから口座振込に切替えるようになりました。
 この事件の元となったボーナスですが、欧米には〈良い〉という意味のラテン語ボヌスを語源とするボーナス bonus があります。これは会社の特別配当を意味しています。通常、賃金についていわれるときは、特別に支払われる配当を意味し、一般に一定水準以上の生産能率をあげた場合に支給されます。一方、日本には盆暮、期末などに毎月の賃金とは別に一時金が支給される賃金慣行があり、これを賞与、ボーナス、一時金、夏季手当、年末手当、期末手当などと呼んでいますが、その性格は欧米のボーナスとは著しく異なります。沿革的には、封建時代に商人社会や職人社会で盆暮に支給されていた〈お仕着(しきせ)〉の慣習が起源といわれていますが、直接の始まりは1876年の三菱商事の賞与制度で、以後大企業を中心に普及したとされています。第2次大戦前の賞与は原則として職員を支給対象とするもので、その額はときに毎月の賃金の1年分にものぼりましたが、職員はこれを期末における利潤分配として、しかも使用者の考課による一方的恣意(しい)のもとに功労報奨〈賞与〉として支払われていました。ところが敗戦後、急速に組織された労働組合がインフレによる生活困難を充足する追加的賃金としてこれを要求・獲得したことから、賞与はその性格をかえ、さらにその後の労働組合の一時金闘争を通して、今日では利潤分配的、功労報奨的な性格が薄れて生活保障的な性格が強くなり、名称も〈一時金〉と呼ばれることが多くなるとともに、決定方法も使用者の一方的、恣意的なものから原則として労使の団体交渉によるものとなり、個人的配分においても考課査定分のウェイトが20%程度に縮小し、また、支給対象も工員層や中小企業労働者にまで拡大したのです。そこで労働省調査によって支給率と支給事業所の割合をみると、産業間・規模間格差はありますが、全産業計では1980年時点でそれぞれ夏季の場合1.56ヵ月、96.1%、年末の場合1.85ヵ月、98.5%となっています。13ヵ月目の賃金と呼ばれる年間1ヵ月分の賃金程度のヨーロッパ諸国のボーナスや、年間賃金の5%以下のアメリカのクリスマス・ボーナスと比較すると、日本の一時金支給率は例外的に高いのですが、このことは、日本の生活における盆暮の特別な支出を含め、今日の労働者生活を支えるうえで毎月の賃金のみでは低賃金で不十分ということに起因するといってよいようです。なお、1960年代に年1回の交渉で年間の一時金を決める〈年間臨給協定〉方式が普及しましたが、73年の石油危機による狂乱インフレの影響で実施率が急減しました。しかし、低成長下の穏やかなインフレのなかで近年再び復活してきています。

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